遼一は、幼なじみの女子高生・真希から「記憶屋」の噂が再び流行しているという話を聞き……。
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◆ ◆ ◆
杏子は何かしようとしていて、そのために今、自分と距離を置こうとしている。遼一はそう感じていた。その「何か」についても、予想はついていた。
悩んだ末、杏子の携帯電話に電話をかけてみたが、電源を切っているのか電波の届かない場所にいるのか、なかなか連絡がつかない。
時間をあけてもう一度、もう一度を繰り返して、六度目でやっとつながった。
はい、という杏子の声に、安堵する。
「先輩、記憶屋……本気で探してるんですか」
挨拶も何もなしに、切り出した。
杏子は黙っている。
「先輩、俺、協力しますから。ちょっとずつ慣らしていけばいいじゃないですか、前は失敗したけど、今度はうまくいくかもしれないじゃないですか」
電話の向こうで、杏子の息を吸う音が聞こえて焦った。
何かをつなぎとめようとするかのように、自然と早口になった。
「俺が後ろから離れてついていくから、怖くなったらすぐ振り向いて確認できるように、そしたらもしかしたら」
『吉森』
静かな声で呼ばれたけれど、止めないで続ける。何焦ってんだ俺、と、頭のどこかで思いながら、根拠もない切実な気持ちで。
「それでもやっぱり怖いなら、そういう練習、始めてみてもいいかなって先輩が思うまで、ずっと俺が送りますから」
『だめだよ、吉森』
名前を呼んだ二度目の声が、泣きそうな色で思わず黙った。
ひゅ、と喉の奥で空気が鳴る。言うはずだった言葉が消えてしまう。
だめだよ、と、杏子の声がまた言った。
だめだよ。
『だってあたし、吉森と一緒にいても怖いんだよ』
電話ごしの杏子の声が、冷たいものになって背中を撫でる。
準備ができていなかった。思いがけず胸に刺さることを言われたときの、背筋が冷える感覚。
ごめん、と、空気を震わせる声は、ほとんど泣き声になっていた。
『吉森がいい奴だってわかってるけど、わかってるのに、二人でいると変に緊張してる。どっかで、……警戒、してる。ごめんね吉森、本当にごめん』
携帯電話を強く押し当てすぎて耳が痛い。
言葉が出てこなかった。
『送ってもらって嬉しかった。心配してくれて優しくしてくれて嬉しいのに、どうしようもないんだよ。反射みたいに体が竦むの。吉森でも、竦むんだよ。あたしがどう思ってたって、関係ないんだよ』
いいんだとか、先輩のせいじゃないとか、謝らないでとか、泣かないでとか、次々と浮かんでも一つも声にはならない。
ショックを受けている場合ではない、今は、それよりも、杏子に。
『でもあたし、吉森と、ちゃんとつきあえるようになりたい』
言わなければいけないことが、ある、あった、はずなのに。
彼女が最後に言ったその一言で、また、頭の中が真っ白になった。
『このままじゃ、吉森とだって向き合えない。甘えるとかじゃなくて、助けてもらうんじゃなくてちゃんと、あたしちゃんと、それができるように』
涙声になったことを恥じるように、杏子は早口になり、
『ごめん、切るね。吉森、ごめん、ありがと』
「先輩っ……」
遼一が何も言えないでいるうちに、電話は一方的に切れた。
呆然と、そのままの姿勢で立ち尽くす。
(俺は、)
あんなふうに謝られ、ありがとうと言ってもらえるようなことを、しただろうか。彼女の信頼に値するほどに、真剣だっただろうか?
一緒に帰ったり、悩みを打ち明けられたりして、少しは近づけたと思ったけれど、その後で、おそらく自分はやりかたを間違えた。そのせいで、彼女を追い詰めた。力になりたいと思ったけれど、それが負担になっていたなら、意味がない。
頼られて嬉しいなんて、ただの自己満足だった。
結局、何もわかっていなかったのだ。
無神経なナイト気取りを、今さら後悔する。
そんな自分に、向き合いたいと言ってくれた彼女に、自分は何もできないのか。
何を話せばいいのかわからないけれど、とにかく話をしなければいけない気がして携帯を操作した。
杏子の番号を呼び出して、けれど、すぐには通話のボタンを押せない。
謝ることすらも自己満足のような気がしていた。
電話が切れた後、迷って迷ってもう一度かけてみたが、つながらなかった。何度かけても同じ結果で、どうやら電源を切っているらしい。結局、あれから話せていない。
講義の前につかまえようと、教室の前で待ってみたが杏子は現れなかった。講義が終わっても、見つけることはできなかった。キャンパス中を捜しまわる。食堂にも、図書館にも、いない。携帯もつながらなかった。
気がつけばもう、空は暗い。一日中捜しまわって、手がかりもつかめなかった。
大学周辺の、学生が集まる店は全部覗いたが無駄だった。杏子は、暗くなってからは出歩かないから、もう家に帰っている可能性が高い。もう一度だけ電話をして、通じないことを確認して、杏子の家へと向かった。
今も、彼女にどんな言葉をかければいいのかはわからない。それでも、会わなければ何も始まらない。このままでいいわけがなかった。
(追いつめたかったわけじゃないんだ)
彼女のためと勝手に思い込んで、気持ちを押し付けて、苦しめたことを謝りたい。
向き合いたいと言ってくれた、その言葉だけで十分で、杏子が自分に負い目を感じる必要は少しもないのだと伝えたかった。
(俺が馬鹿だっただけなんだ)
八時までしか出歩けなくても構わない。本当は、今のままの杏子でよかったのだ。役に立ちたくて、頼りになると思ってほしくて、遼一が暴走しただけだ。
それでも、今、彼女が、怖くても変わりたいと思ってくれるなら、ただ寄り添うことを許してほしい。
嫌な記憶を消すことはできなくても、一緒に新しく楽しい思い出を作ることならできるはずだった。杏子が望んでくれるなら。
うまく伝える自信はないけれど、どんなに時間をかけてもみっともなくても、伝えなければならない。
何度か杏子を送るために通った道を、一人で走った。
杏子の家にたどり着き、少し迷ってから玄関のチャイムを鳴らす。父親の転勤に母親がついていったため、去年からこの家に一人で住んでいると杏子は言っていたから、彼女の家族と顔を合わせる心配はなかった。そもそも、杏子にとっては外出できなくなる時間帯でも、訪問が咎められるほど非常識な時間ではない。
しかし、反応はなかった。
窓に明かりも見えない。
まだ帰っていないのか、そんなことがありえるのか? だとしたら、誰かに送ってもらわない限り、杏子は今夜中には帰ってこられないはずだ。携帯にかけてみたが、やはりつながらない。
もしかしたら誰かと一緒に帰ってくるかもしれないと、しばらく家の前で待ってみた。それから、以前のように、駅まで来て先へ進めなくなっているのかもしれないと思いあたり、急いで駅まで戻る。
駅の周りをまわってから、近くの飲食店をのぞいてみたが、杏子は見つからなかった。
杏子でなくても、女の子が一人で出歩くのは怖いような時刻になっていた。
最後にのぞいてみたコンビニから出て、駅へ戻ってくる。今日はもうあきらめたほうがいいかもしれない。
明日また来てみようと、下を向きそうな気持ちを振り払って顔をあげると、見覚えのある後姿が横断歩道を横切るのが見えた。
まさかと思った。
こんな時間に、杏子が一人で外にいるわけがない。しかし見間違いではない、小花の柄のカットソーも、見たことがある。迷わない足取りで歩いていく背中を、慌てて追った。
夜道恐怖症は克服できたのか。それとも、杏子ではないのか?
走って追いかけたのに、いつも杏子を送っていく道の先には、それらしい姿は見えない。街灯にぼんやりと照らし出された夜道、シャッターが下りてしんとした通りの見通しは悪くないはずなのに、杏子どころか誰も歩いていない。見失うほど先を歩いていたわけではなかったはずだ。どういうことかと少し考え、一つの可能性に思い至った。
真っ暗な横道。
杏子でなくても踏み込むのをためらうような、街灯も何もない細い道を、覗いてみる。
家まではこちらの道の方が近道だと、杏子が言っていた。彼女が一人で、こんな時間に、この道を通るとは思えない。しかし、姿が見えない以上、それ以外考えられない。
どちらにしても、杏子の家まで行けば、見かけたのが杏子だったのかも確認できる。
遼一は、走って横道に入った。
人がいないせいか、足音が妙に響く。
目をこらさなければ数メートル先もよく見えないような暗闇だった。少し先に明かりが見え、ほっとしかけた時、道の終わりに後姿が見えた。
やはり杏子だ。
「澤田先輩!」
駆け寄って、呼んだ。
呼ばれて止まった杏子は振り向いて、怪訝そうな顔をした。
「どうしたんですか、学校……来ないし、携帯つながらないし……しかもこんな暗い道一人で」
「あの」
困ったような顔で、杏子は遼一の言葉を遮る。
「誰、……ですか?」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
「……先輩?」
顔が見えない暗さではない。声だけではわからなくても、こうして向き合って判別できないわけがない。
「……吉森、ですけど」
冗談かと思った。そうでないなら、杏子にそっくりな別人なのかもしれないと。
しかし、彼女は澤田先輩と呼ばれて振り向いたのだ。
「俺、大学の……一年で、……日本文化研究概論とか、同じ講義……とってて。飲み会で最初に会って」
「ごめんなさい、あたし、人の顔ってあんまり覚えなくって……そっか、後輩さん? 高田先生の講義とってたんだ。家この近く? あたしが一人で歩いてたから心配して声かけてくれたの?」
〈第6回へつづく〉
▼織守きょうや『記憶屋』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321506000128/