夜道恐怖症と遼一のことを忘れてしまった杏子。彼女の記憶を消したのは本当に「記憶屋」なのか?
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◆ ◆ ◆
「はい、どうぞ」
高原と、目が合う。
「記憶も法律の保護対象になるんですか?」
高原の目が一瞬丸くなり、しかしすぐに元通りの笑顔になる。
「情報が法律によって保護されるか、という質問ですか?」
「データの価値ってことじゃなくて、人の記憶のことです。たとえば、人の記憶を消すことのできる人間がいるとして。それを実行したら、その行為は罪になりますか?」
質問の意図がわからないらしい学生たちが、またざわめく。高原は、興味深そうに顎を引いて遼一を見た。
「それができるとして、本人に無断で消した場合には罪になる可能性はありますね。ただし、刑法に定めがないことについては裁けないのが日本の法律ですから。それがどういった罪になるのかは断言できません。それに、記憶がその人によって消された、という事実を立証できない限り、罪に問うのは無理でしょうね」
馬鹿馬鹿しく思えるだろう質問に、高原は丁寧な答えを返してくれた。そのおかげで、すっと頭が冷える。無意味なことをした、と思った。存在しない怪人の罪責を問うても仕方がない。
「たとえば頭を殴って、その人が記憶を失ったとしたら、傷害罪には問えるでしょうが。記憶を失わせようとして殴ったわけじゃないでしょうから、記憶が侵害されたとは考えにくいでしょう。想定されるケースによりますが」
法律の話だからだろうか、さきほどまでよりも、多少弁護士らしい口調で高原は言う。はい、ありがとうございました、と礼を言って、遼一は話をそこで終わらせるつもりだった。しかし、
「どうして、そういう疑問が浮かんだのか、興味があるんですが。聞いてもいいですか?」
高原は穏やかな笑顔でそんなことを訊いてきた。
目が勝手に、前の席に座る杏子へ向く。振り向かないとわかっている後姿を追うなんて、今の質問と同じくらい意味のないことだ。そう思っても、頭とは別の部分が体を動かすらしい。
「……人の記憶を消す怪人がいるって、都市伝説があって。この間、たまたま友達とその話で盛り上がったんで、ちょっと思い出したんです。変なこと聞いてすみませんでした」
「いえいえ。おもしろそうだね、その話。後で個人的に教えてください」
愛想よく笑って、高原はまた次の質問を募り始める。
記憶を消す怪人、と聞いても、杏子の表情は変わらないままだった。
*
結局まともに話すこともできず、わだかまりを抱いたまま、二年生になった。
三年生になった杏子は、就職活動を始めたらしく、キャンパス内で見かけることはほとんどなくなった。
図書館からの帰り道、久しぶりに見かけて、足を止める。しかし、声をかけようとは思わなかった。
背を向けて歩き出す。
ほら。
こんな風に、忘れていくものなんだ。
自嘲的な気分になって、口元が歪んだ。
記憶屋なんて、都市伝説の怪人なんて、特別な理由なんてなくても、人はそういう生き物だから。
望まなくても薄れていくのだ。強く望めば、消してしまうことだってあるかもしれない。そのほうが、記憶屋に記憶を消されたなどと考えるより、よほど現実的だった。
頭ではわかっているのに、何故だろう。
あの夜杏子が、知らない人間を見る目で自分を見たときの、背筋が冷えるような感覚を忘れられない。
開けたままにしておいた窓から、聞き覚えのある笑い声が聞こえてきて、遼一は立ち上がった。窓枠に手をかけて下の通りを見下ろすと、思った通り、真希が友達と連れ立って歩いてくるのが見えた。
年頃の女の子らしく、おしゃれをするようになって、髪型も少し変わって、けれど笑った顔は昔と変わらない。近づいてくる彼女を、斜め上からのアングルでぼんやりと眺める。
よく笑う子どもだった。それは今も変わらない、彼女はたいてい笑っている。冷たくしたりからかったりしてみれば、すぐにふくれて、けれどふとしたきっかけで、またすぐに笑う。昔からそうだった。それなのに、時折思い出す幼い頃の真希はなぜか、いつも泣き出す前の顔なのだ。
あのときの。
(キオクヤ)
十年も前だ。目が腫れるほど大泣きした次の日に、泣いたことさえすっかり忘れていた真希に愕然とした。
偶然なのか。
忘れたいことを、自分の意思で忘れるなんてことが、本当にできるのだろうか。できるとして、どれほどの確率で起こり得ることなのか。
突然記憶が消える、不可思議な現象。医学的科学的に説明がつくものだとしても、自分のまわりで二度も起こるなんて、天文学的な確率だろう。
頭に浮かんだ、一つの仮説に飛びつけば楽だということはわかっていた。ただそれがあまりにも、荒唐無稽で。
(都市伝説の怪人)
疑っているのか、心のどこかで。ありえないと思いながら。
馬鹿な考えを振り払うように頭を振った。気がつけば、癖になっている。考えそうになるたびに、こうして。
こちらに気づいた真希が、嬉しそうに手を振った。一緒にいた友人らしい少女も、真希に何やら言われて窓を見上げる。
「遼ちゃーん」
まさかと思ったが大声で名を呼ばれた。よりにもよって自宅の前の道で。
「馬鹿。近所迷惑」
呟いて窓から離れる。
何よー、と文句を言う真希の声が聞こえたが、黙殺してカーテンを閉めた。
タイミングよく、机の上でマナーモードに設定した携帯が震えて着信を伝える。
とりあげてみると、着信画面には知らない番号が表示されていた。
悪戯ならすぐに切れるだろうとしばらく待ったが、鳴り続けるので通話ボタンを押して耳にあてる。
「……はい」
『ああ、吉森くん? 高原です』
男の声だったが、心当たりがない。しかし、正確に名前を呼ばれたことや、どこか品のある話し方から、悪戯ではないことはわかった。
沈黙をどうとったのか、電話の向こうの相手は、
『高原法律事務所の、高原智秋です。……この間は、ありがとう』
そう名乗り直した。
高原、……高原弁護士。大学に講演に来ていたOBの、と、やっと思い出した。
「あ、いえ! あの、……え?」
礼を言われる理由がわからない。何より、電話番号を教えた覚えもない。
混乱していると、
『記憶屋のこと。助かったよ。お礼がしたいから、今度何かご馳走させて』
ざわ、と全身が総毛立った。
(え?)
体が冷えたのは、噴き出した汗のせいか。血の気が引いたせいか。
(キオクヤ)
記憶屋?
「……い、え。そんな」
口の中が乾いて、よく動かない舌で、考える前に答えていた。頭と体が別に動いているようだった。
『家、立川だっけ? 近くに来ることがあったら電話して。こっちも、何かわかったら教えるし』
「はい……」
声が震えた。気づかれてはいけない気がした。何を? いや、だめだ今は。考えるな。考えたら、もう。
ごまかせなくなる、気づいてしまう。
でも何に?
『本当、ありがとう。……あ、前にも言ったけど、この話はうちの外村には内密にお願いします。心配性だからさ。……それじゃ、また』
同年代の友人とはやはり違う落ち着いた声、けれど記憶の中にある講演会での様子よりは幾分気軽い調子で高原は言って、電話は切れた。
携帯電話を耳にあてていた手を、下ろす。
電話の意味を考える。おそらくもうわかっていることを、受け止め向き合うために考える。
高原は弁護士で、大学のOBで、記憶屋の話に興味を持っていたようだった。それは覚えている。講演会で、自分が、記憶屋の話題を出したことも覚えている。
高原に、携帯の番号を教えた記憶はない。高原に、礼を言われるようなことをした覚えも、食事に誘われるほど親しくなった覚えもない。しかし、そのどれもが事実らしい。そして、高原の口ぶりだと、それらすべてに、記憶屋の話題が関係している。
(俺が記憶屋のことを調べていた? 高原さんにそれを話した?)
そんなことを、自分が忘れるわけがない。
覚えていない。
(三人目)
三人目だ。
記憶屋の伝説を知っていた、そしてある日突然記憶をなくした、三人目。
手のひらが汗ばんでいる。携帯電話を落としそうになって、机に押し付けるように置いた。
遅れて恐怖が来た。
突きつけられた現実は頭からねじ込まれ背中を走り悪寒となって残る。
なんだこれ。
なんだこれは。
忘れたいと願った思いの力? 違う、そんなものじゃない。
口を手で覆った。
思い出せ。考えろ。向き合え。受け入れろ。
──指し示す結論は一つだ。
記憶屋は実在する。
〈この続きは製品版でお楽しみください〉
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