「記憶屋って、知ってる?」夜道恐怖症の先輩・杏子の口から発せられたのは、そんな言葉で……。
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コミュニケーション概論の課題のレポートを書いたとき、参考にしたインターネットのサイトがあった。個人のサイトらしいが、都市伝説全般について扱っていて、五十音別、種類別に全国の都市伝説をまとめた検索機能つきの事典や、管理人による各都市伝説の考察、都市伝説に詳しい管理人が常駐しているらしいチャットまである。情報量はかなりのものだった。
別れ際の杏子の言葉が気になって、ブックマークされたままだったそのサイトを開いてみる。思ったとおり、都市伝説事典の「か行」に、「記憶屋」という名前を見つけた。
マイナーな都市伝説らしく、他の記事と比べると情報量は少なかったが、それでも、数行の説明文が載っている。
曰く、記憶屋は、記憶を消すことのできる怪人である。呼び出す方法はいくつかあるが、基本的に、記憶屋は記憶屋に会いたいと思っている人間の前に現れる。日本で流行する都市伝説には、実は海外から輸入されたものが少なくないが、記憶屋の噂は日本、それも東京近辺でしか聞かない。女子高生を中心に、ごく最近になって流行し出した。分類すると、「怪人赤マント」や「口裂け女」などに代表される「怪奇・怪人系都市伝説」の一種である。
子どもの頃に、遼一も祖母から聞かされたことがあった。サイトに書かれた情報と、内容はだいたい同じだ。しかし、そのサイトには、「最近になって流行」と書かれている。
昔はごくごく限られたエリアで語られていた都市伝説が、何かの理由で広く知られるようになってきた、ということだろうか。
(でも何か地味だな)
ぞっとするようなオチのあるエピソードがあるわけでもなく、怪人としても、口裂け女や人面犬と比べるとインパクトに欠ける。だからこそマイナーなのだろうが、数ある都市伝説の中でも、あまりおもしろいとは思えなかった。
(何にしても、ただの噂話だけど)
杏子が真剣な顔で口にしたから、気になっただけだ。
(先輩、何で急に記憶屋のことなんか言い出したんだろう)
記憶を消してくれる怪人なんて、子どもだましの作り話のことを。
首の筋を伸ばして骨を鳴らしながら、ぼんやりと考える。
(本当にいたらいいのにって? そうしたら、自分のトラウマになっている記憶も消してもらうのにって?)
カウンセリングも効果がなくて、何をしてもダメなのだと言った後で。
いるはずがないとわかっていて、いたらいいのにと、あんな真剣な顔で言おうとしたのなら──そんな「もしも」は虚しくて、悲しかった。
*
遼一がしつこく誘うのに押し切られる形で、杏子は何度か飲み会に参加した。
帰りは毎回、遼一が自宅まで送って行く。ナイトになった気分で、遼一にとってはそれも楽しかったが、彼女は申し訳なさそうにしていた。
「恐怖症」を治そうと、杏子自身も努力していたが、成果にはつながっていないようだ。
十分ずつ帰る時間を遅らせて、少しずつ慣らしていってはどうか。いっそ一度夜に出歩いてみて、どうということはないとわかれば平気になるのでは。遼一も色々と考えては案を出したが、杏子はそのたび、どれももう試したことがあるのだと首を振った。
「高校の時から色々やったんだ。カウンセラーの先生も二人目なの。でもだめみたい。理屈ではわかってても、頭じゃなくて、気持ちとか、体とかが……」
少なくとも、遼一が一緒ならば、夜道を歩くことはできる。
それなら、実際に夜の外出を重ね、何度も同じ道を通い続けるのが、一番地道で確実な方法に思えた。続けていれば、いずれは平気になるのではないか。
彼女を送り届ける任務を何度か繰り返した後、タイミングよく開かれた飲み会に、杏子と参加した。もうそろそろ、慣れてきた頃ではないか。そう思い立って、飲み会が終わりに近づいた頃にわざと、どうしても外せない用事ができたと言って席を立ってみる。
杏子には何も話していなかったが、荒療治のほうが効くかもしれない。何かあってはいけないので、先に帰ったように見せかけ、離れてついていくつもりだった。
杏子は他の皆と別れてから、随分長い間店の前に止まっていた。しかし、やがて、意を決したように走り出す。何かに追われてでもいるかのような走り方で、ついていくのに苦労した。いつもの彼女らしくもなく、びくびくと周りを気にしながらだったが、駅まではそれほど距離がなく、人通りも多かったこともあり、なんとかたどり着く。
何ごともなく電車に乗り、最寄りの駅に着いたのを見届けて、遼一は安心しかけた。しかし、そこまでだった。
青い顔をして防犯グッズを握り締めた杏子は、そこから動くことができなかった。居酒屋があった駅前の通りと比べ、杏子の最寄り駅周辺は寂しい。駅の周りには24時間営業の店もあり、そこそこ明るいが、暗い方へと歩き出すことにはやはり抵抗があるらしかった。
何度も歩き出そうとするのだが、数歩と進まないうちに戻ってしまう。遠目にもそれとわかるくらい、がちがちに体に力が入っていた。
走ろうとして、がくんとブレーキでもかかったかのように足が動かなくなる様子を見てわかった。
まだ早かった。
遼一が思っていたよりずっと、杏子の恐怖症は根深いものだったのだ。
三十分ほどもそうしていただろうか、やがて杏子は肩を落とした。駅のすぐそばにある、24時間営業のファミリーレストランへと、ブザーを握り締めたまま走り出す。そこで夜を明かすつもりらしいと気づき、慌てて追いかけた。
レストランの前で追いついて声をかける。杏子は息を切らせた遼一を見て、すぐにその意図を悟ったようだった。
「ごめんね」
泣き出しそうな顔で言う。
怖かったからでも不安だったからでもない、騙した遼一を責めているわけでもない。自分の不甲斐なさを、申し訳なく思っている顔だった。
そんな顔はさせたくなかった。
自分が失敗したことを知った。
「俺のほうこそ、ごめん」
手を握りたいと思ったけれど、彼女の手には防犯ブザーが握られていた。
結局その日は、いつも通り、杏子を家まで送って行った。
手には触れられなかった。
*
大量の防犯グッズも、異常なほどの警戒心も、必要のないものだと杏子は自分でわかっていた。頭で理解していても、恐怖だけが消えない。
遼一にできることは何もなかった。何かしようとしても、杏子はやんわりとそれを拒絶した。何をしても無駄だと、わかっているとでもいうように。
「記憶屋は、忘れたいことがある人の前に現れて、忘れたいことだけを忘れさせてくれるんだって。忘れた人は、忘れさせてもらったってことも全部忘れて、悪い思い出は全部なかったのと同じになるんだって」
あの一件があってから、杏子は、たびたび記憶屋の話をするようになった。
恐怖症を治すには、もはや、原因となっている過去の記憶を消し去るしかない。色々な治療を試した結果、そう考えるに至ったらしい。
最初は冗談かと思ったが、真剣な顔を見たら、笑い飛ばすこともできなかった。
「そりゃね、噂をそのまま信じてるわけじゃないよ? でも、噂になるってことは、何かあると思うんだ。たとえば、すご腕の催眠術師がいるとか……都市伝説の研究してるサイトを見たんだけど、まだ研究段階の脳手術が関わってるとか、そういう説もあるみたい。だから、何かヒントになればなって」
杏子はそう言ったが、遼一にはわかっていた。彼女は、優秀な催眠術師や脳外科医に会えることを期待して記憶屋を探しているのではなく、噂の通りの、魔法のように人の記憶を消してしまえる存在を求めている。
いるはずのない、都市伝説の怪人を。
*
気になって、都市伝説関連のサイトを回り、記憶屋に関する情報を集めてみた。
しかし、どこにも、大したことは書いていない。口裂け女の話にはさまざまなバージョンがあったが、記憶屋の話にはオチもなかった。記憶を消してほしい人の前に現れる怪人、という設定だけだ。
どうやらこの「記憶屋伝説」は、都市伝説の中では異色らしい。それはわかる気がした。基本的なストーリーがなく、聞いた人間に与える恐怖が中途半端だ。口裂け女や、怪人赤マントの話もそうだが、通常都市伝説にはストーリーがあって、被害者がいて、「もしかしたら自分も遭遇するかも」という恐怖が噂を広める。そこへ、対処法だの背景だのと細部が追加されて、都市伝説として完成されていくのだ。
こんな、ほぼ設定だけの都市伝説が、限られた範囲でとはいえ、流行する理由がわからなかった。
都市伝説サイトの、チャットルームを覗く。人がいたので、思い切って入室してみた。
チャットルームにいたのはサイトの管理人らしく、知らない人間の入室にも動じずに挨拶してくる。さすがにチャットに慣れているのか、大分速いペースで発言数は増えた。うっとうしい思いもあるが、情報を求めてここへ来たことを思えば好都合とも言える。言葉を交わしながら、質問するタイミングを計る。
ドクター:『RYOさんは、どんな都市伝説に興味があるんですか? アメリカ輸入型のシチュエーション系が最近は流行りみたいですけど』
RYO:『あんまり詳しくないんですけど、記憶屋の話とか』
ドクター:『マイナーなとこ突いてくるなあ(笑)』
こういったやりとりには慣れていない。居心地の悪さを感じたが、抑えて続けた。
RYO:『忘れたい記憶だけを消してくれる人の話、ですよね』
ドクター:『基本的にはそうだね。あ、でも確か食べるんだよ。消すんじゃなくて』
キィを打つ手が止まる。
食べる?
ドクター:『ボランティアで消してくれるわけじゃなくて……記憶屋の方は、記憶が欲しいんじゃなかったかな。記憶屋って呼ばれてるけど、実質は記憶喰いっていうか。ホラ、口裂け女とかと同じ、怪人系の都市伝説だから。妖怪みたいなもんなのかな? だから、公に姿を現すことはしないんだとか』
怪談じみてきた。最初から信憑性のない噂ではあったが、こうなると噂と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい。
それでも杏子は、すがっているのか。
RYO:『俺、ガキの頃にその話聞いたことあるんですけど』
ドクター:『え、本当に? 最近流れ始めた噂だと思ったけど、そっか、昔から原型はあったんだ』
「ドクター」が言うには、都市伝説は、全く新しく作り出されることは少なくて、大抵は民話や海外の小説、実際にあった事件などに、原型となる話があるのだそうだ。実際の誘拐事件が原型となって、人をさらう怪人の伝説ができたり、村一番の美人が実は口が耳まで裂けた妖怪で、正体を知った村人を追いかけたという民話が、一見美しい女性がマスクをとると口が裂けていて、「見たなあ」と子どもを追いかけるという口裂け女の噂になったりするらしい。そうすると、杏子の言うように、天才催眠術師や脳外科医が記憶屋として語られるようになったという可能性もゼロとは言えないわけだ。
ドクター:『この手の噂は、伝わっていくうちに変形したり、尾ひれがついたりするものだからね。RYOさんが昔聞いたってバージョンと、今流行してるバージョンを比べてみるのもおもしろいかもしれないなぁ』
RYO:『バージョンがどうのっていうほど違うとこはないと思いますけど……誰かが何か忘れてて、え、そうだったっけ、って言ってたりすると、ばあちゃんが「記憶屋が出た」とかって』
ドクター:『なるほどなるほど。物忘れをする、普通は忘れるはずもないようなことをぽかっと忘れちゃう、っていう、そういう現象自体に「記憶屋」って原因を作って名前をつけたって考えれば、ルーツが見えてくるような気がするね。たとえば、ぬりかべって妖怪、知ってる? あれもそもそもは、山道で急に前に進めなくなるっていう現象にそういう名前をつけて妖怪として認識するようになったものなんだけど……』
「ドクター」の薀蓄はそこそこ興味深かったが、これ以上有用な情報は得られそうにない。途中からは返事を打つのも面倒になって放っておいたのに、彼(おそらく)の発言はしばらく止まらなかった。適当なところで、礼だけ言って退室する。
愛用のMacの前で、遼一は少しの間そのまま止まっていた。
思い出したことがあった。
忘れるはずもないことを忘れる現象。説明のつかないこと。
(遼ちゃんどうしたの?)
ずっと昔だ。そんなことがあった。
覚えていないのか、と訊いたら、え、何が? と返されたことが。
忘れられるはずもないことだったのに、彼女はそれを忘れていた。演技ではなかった。演技でごまかせるようなことではなかった。
(……お母さんが、何? 何のこと言ってるの?)
(遼ちゃん変だよ? どうしたの)
どうしたの。
不思議そうに首をかしげた、自分を見あげた、あの目は噓をついていなかった。
自分の方がおかしくなったのか、夢でもみていたのかと思った。その頃遼一はまだ子どもで、何が起こったのかわからなくて。不安になって。怖くなって。
それ以上確かめることもできなかった。
違う、あれは。あれは違う、はずだ。
記憶屋なんてものは、単なる噂で、現象に名前をつけただけの。
〈第4回へつづく〉
▼織守きょうや『記憶屋』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321506000128/