飲み会で出会った大学の先輩・杏子が気になり始めた遼一は、彼女にアプローチを始めるが……?
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◆ ◆ ◆
月曜日の午後、大学の友人たちと昼食をとり、別れ、一人で本屋へ行った。その帰り道、杏子を見かけた。
杏子は病院から出てきたところだった。
遼一のほうは、偶然だな、誰かのお見舞いかな、としか思わなかった。しかし目が合った瞬間、杏子は明らかに表情を強張らせた。それで思い出す。
今日は月曜日だ。毎週月曜日は、用事があると言っていた。
「……大丈夫ですか?」
思わず訊いてしまっていた。それくらい、彼女は動揺しているように見えた。
挨拶だけして立ち去るのがマナーなのかもしれないが、今訊けなければ、もうずっと訊けないような気がする。
だから、あえて、下がるべきところで一歩踏み込んだ。
「今から帰りですか? コーヒー、つきあってくれませんか」
途方に暮れたような顔をして、彼女はついて来た。
病院の真向かいにあるチェーンのコーヒーショップに入った。
杏子は浮かない顔だったが、遼一が奢りますと言うと、遠慮なくカウンターでトールサイズの期間限定フレーバーを注文し、有料のシロップまで追加する。思わず笑った遼一を、彼女は恨めしそうな目で見た。思ったよりも元気そうで安心したが、わざとそんな風に振舞っているのかもしれない。
先にテーブル席についた彼女は、所在無げにしている。
透明のプラスチックカップにストローを挿して、杏子の前に置いた。
「アルバイトとかしてるのかなって、思ってました。毎週月曜日はダメって」
「……うん」
「断る口実じゃなくてよかったって、安心しました」
向かいの席に座りながら言うと、杏子は少し笑ってくれる。
それから、礼を言ってカップを自分のほうへ引き寄せ、両手で包むように持った。
「心療内科。週一で通ってるんだ。よくなってきたら、二週間とか、三週間に一回でよくなるって言われてるんだけど……今のところ、あんまり効果ないみたい」
山盛りのホイップクリームを見ながら言って、一度言葉を切ってから、遼一の反応を見るように目をあげる。
「引いた?」
「何で俺が引くんですか」
こんなプライベートな事柄に無遠慮に首を突っ込んで、本当なら引かれるのは自分のほうだろう。
遼一の答えを聞いて、彼女はまた、眉を下げて笑った。
「夜道が怖いって言ったでしょ」
左手をカップに添え、右手でストローを持って、口はつけずにかき回す。
「変だよね。この年になって。自分でもわかってはいるんだ」
「変……ってことはないと思いますけど」
随分用心深いんだな、とは思ったが、この物騒な世の中、女の子ならそういうものなのかと遼一は納得していた。比べられるほど、何人もの女性とつきあったわけでもない。
ただ、気丈な杏子のイメージとは合わないような気がしていたが。
「ありがと。でも、この年になって一人で夜出歩けないなんて、やっぱり困るからさ。なんとかならないかなって、カウンセリング受けてるんだ」
被害妄想ってことになるのかな、と首を傾ける。
夜道が怖いと一口に言っても、その症状は遼一が思っていた以上に深刻だったようだ。
「治ったら、もっと、色んなことできるはずだし……飲み会にも出られるようになると思うから。そしたらまた、声かけてくれたら嬉しいな」
気弱な物言いだ。どこか遠慮がちな、そんな笑い方は似合わない。
夜道が怖いのは杏子のせいではないし、不自由していて辛いのは彼女自身で、勝手に誘ってフラれた相手にまで、申し訳なく思う必要なんてない。
彼女と出かけたいのなら、努力すべきは自分のほうだ。
(無理してない笑顔が見たいなら、俺が笑わせるくらいでなきゃ)
ポケットからスマートフォンを出して、情報サイトを開いた。
近くの映画館と、上映タイトルを検索する。この店から徒歩十分の距離に、杏子を誘って断られたサスペンス映画の上映館があった。
よし。
「やっぱり、映画行きましょう。今から。確か、六時からの上映があったはずなんで」
ほらこれ、と画面を杏子に見せる。
杏子は戸惑った顔で、画面と遼一とを見比べた。
「え……でも」
六時から始まる映画なら、帰りは確実に八時を過ぎる。
そんなことはわかっている。
彼女の逃げ道をふさぐように、一言一言で囲い込むように、続けた。
「俺、送っていきますから。ちゃんと、家の前まで。つうかドアの前まで。……バスでも電車でも一緒に乗って、絶対安全に送り届けるから」
必死すぎだと笑われても仕方がない。むしろ、笑ってくれるなら、それでもよかった。
少しだけ期待してもいいなら。
自分と出かけるのが、嫌なのでなければ。
「行きませんか、映画」
杏子が、二度まばたきを繰り返す。口もとがきゅっと引き結ばれる。目が揺らいだように見えたが、杏子は泣き出したりはしなかった。
はなをすすって、目を閉じ、息を吸って吐き出す。
それから左手でカップをつかむと、プラスチックの蓋を外し、ストローと一緒にペーパータオルを敷いたトレイの上に置いた。そのまま、カップに直接口をつけてフレーバーコーヒーをあおる。風呂上りにコーヒー牛乳を飲むときのような、なんというか、男らしい飲みっぷりだ。
ほぼ空になったカップをたんとテーブルの上に下ろして、ぷはー、と息を吐き、
「行ってあげてもいいよ、そんなに言うんなら」
何故か偉そうに顎をあげ、胸を反らして言った。
「何で上から!?」
「先輩だからよ」
強引すぎただろうか、と不安になっていたから、冗談めかしたOKにほっとして、わざと軽口を叩く。杏子も軽口で返した。
わざとらしさに気づいても、お互いに触れない。
まだ、二人とも気を遣って、探り合っている。それでも、一歩近づけたことが嬉しかった。
店を出るとき、小さな声で「ありがと」と聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
映画の後、チェーンのパスタ屋で夕食をとって、帰りは十時近くになった。
杏子の家は、最寄り駅から歩いて十分ほどの場所だという。
駅からの道を、並んで歩く。女の子を家まで送る、というのは初めてで、少し緊張していた。
「あー、確かにこの道ちょっと暗いかも……」
左右に店があるので昼間はにぎやかな通りなのだろうが、当然この時間は店のシャッターは全て閉まり、人気もまったくない。
一人歩きを怖いと感じるのも無理はない、と遼一が感想を漏らせば、
「昼間、急いでる時とかは、こっちの……細い道を使うんだけど。夜はほんと、真っ暗になっちゃうから」
脇道を指差してそう言われた。
広い方の道には、一応(頼りないものの)街灯があるのに比べ、指差され覗きこんでみた脇道の方には、明かりらしいものがほとんど見えない。
「この道を女の子が一人で、ってのはキツそうですね確かに」
「うん……」
杏子はバスを降りてから、鞄の持ち手からさがったキーホルダーのようなものを、外して手の中に持っている。
何だろう、と見ていると、視線に気づいたらしい杏子が、慌てて手のひらを開いた。
「あ、……ごめんクセで」
「何?」
「防犯ブザー。携帯用の」
「へえ、こんなのあるんだ」
「けっこうすごい音するよ。これは押すと鳴るやつ。で、こっちが」
鞄をさぐって、じゃらじゃらとプラスチック製品を引っ張り出す。円盤形のもの、筒状のもの、形状はさまざまだったが、どうやらどれも防犯グッズらしかった。
「このヒモを引き抜くと鳴るやつ。こっちの方が本格的なの」
「二個も持ってるんですか? もっとこう、音だけじゃなくて、相手を撃退できるようなやつの方がいいんじゃないですか」
「スプレーならあるよ。催涙スプレー、トウガラシ入り」
「うお、すげっ」
夜道を歩きながら、防犯グッズの説明会が始まる。お互い笑いながらだったのだが、家が近づいてくると、杏子は急にうつむいてしまった。
「……こんなの異常だよね」
杏子が立ち止まったので、遼一も足を止めて杏子を見る。
「九時以降怖くて一人じゃ外歩けないし、防犯グッズいくつ持ってても安心できない。一人じゃ、電車の中でもバスの中でも、ずっとスプレー握ってなきゃ怖いなんて。……握ってても、怖いなんて」
遼一は身体ごと彼女に向き直ったが、杏子のほうは視線をコンクリートの道路に落とし、遼一を見ようとしなかった。プラスチックの防犯ブザーを握り、人差し指をチェーンの先のリングにかけている。安っぽい鎖をいじりながら、話し出した。
「あたし昔、痴漢にあったことがあるの。その時は通りかかった人がいて助けてくれたんだけど、ほんと怖くて。あたし体力とかも結構自信あったし、気も強い方だったのに、怖くて声も出ないんだよ。今でも思い出すと怖いもん。トラウマってやつなのかも」
次第に早口になる。杏子にとっては、思い出したくないこと、口に出したくないことだろう。それでも、話してくれている。
彼女と視線は合わなかったが、黙って、真剣に聞いた。
「色々本読んで、色んな人に相談して、病院にも通い始めたけど、ダメなんだ。こんなに怖がる必要ないって、頭ではわかってるのに」
どうしたらいいのかわかんないんだ、と、呟いた声は、途方に暮れたようにかすれて消える。
話し終えても、杏子は立ち止まったまま、顔をあげなかった。
遼一は言葉を探す。
彼女がずっと悩んできたことへの答えを、自分が簡単にあげられるとは思わなかったけれど、聞くだけ聞いて終わりにしたくなかった。
少しでも自分を信頼してくれているのなら、せめて、一緒にいるときくらいは安心してほしい。自分を異常だなんて、遼一に申し訳ないなんて、思わないでほしかった。
しかし結局、彼女を安心させるような言葉は思いつかなくて、不甲斐ない思いで口を開く。
「……俺は痴漢にあったことないからわからないけど、」
杏子は目を伏せたままで少し笑った。
「でも、やっぱショックなんだと思うし。そういう風になってもしょうがないって、……思いますけど」
「でもやっぱり変なんだよ。痴漢に遭ったことがある女の子なんて、腐るほどいるよ。その子たちがみんな、あたしみたいになるわけじゃないもん」
「それは……そんなの、先輩のせいじゃないでしょう」
杏子は顔をあげ、ありがと、と言って笑う。礼を言われたいわけではなかったから、複雑な気分だった。
それからゆっくり歩いて、澤田と表札のついた家の前まで来る。杏子が鍵を取り出し、ドアを開けるのも見届けて、遼一が「じゃあここで」と言おうとした時だった。
「……あ、ねえ、吉森、授業で都市伝説について調べてるって言ってたよね」
ふと思い出したように、杏子が、ドアに片手をかけた状態で振り返る。
「記憶屋って、知ってる?」
「え」
どきりとした。
一瞬虚を衝かれたのは、それが聞いたこともない言葉だったからではない。
(記憶屋が出たかねえ)
ずいぶん長く聞いていなかった、しかし覚えのある言葉が、頭の中で蘇る。
記憶屋というのは、あの記憶屋か?
「知らないよね。ごめん何でもない!」
遼一が答えるより早く、杏子は言ったことを打ち消すように胸の前で手を振った。開いたドアの向こうへ身体を半分滑り込ませ、両手を合わせて感謝の意を示す。
「ありがと、本当に。また学校でね」
「あ、……おやすみなさい」
ドアが閉まった。
〈第3回へつづく〉
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