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試し読み

「悌ちゃんは特別や」幼馴染みの言葉を胸に――【『かたばみ』試し読み#02】

うちのぼりさんの『かたばみ』が第10回山中賞を受賞しました!

【山中賞とは】
高知市の「TSUTAYAなか店」の書店員であり、フリーペーパー「なかましんぶん」の編集長を務める山中由貴さんが、お客様に「どうしても読んで欲しい」と思った本の中(翻訳書も含め、ジャンルは問わず)から独自に選出する「山中賞」。年に2回、芥川賞・直木賞よりひと足早く発表され、受賞によって販売数が10倍になった書籍も!

本作は太平洋戦争中から戦後にかけての日本を舞台に、血の繫がらない親子が向き合い、生きていく様を描いた笑いと涙のホームドラマです。新聞連載時から大きな反響を呼び、数多くの感想が寄せられました。
この度、山中賞の受賞を記念して試し読みを公開! 全5回の連載形式で毎日配信します。気になる物語の冒頭をお楽しみください!



第10回山中賞受賞記念
直木賞作家・木内昇が描く笑いと涙の家族小説
『かたばみ』試し読み#02

 じんだいせいいちがこの前年、東京の早稲わせ大学に入学した。彼を追って東京へ行き、その活躍を近くで見守ろうと悌子は決めていたのだ。
 清一は、悌子の家の三軒先に住むおさなみだ。小さな頃から駆けっこが速く、竹馬やら石投げやら体を使うことならなんでも巧みにこなし、いつも近所の子供たちの中心にいる少年だった。「大将」とあだ名もついたが、威張ることなく穏やかで、目上目下にかかわりなく誰に対しても親切で優しかった。
 清一の父親は植木職人で、悌子の家にもよく出入りしていたから、自然と家族ぐるみで親しく付き合うようになった。両家の親たちは、いずれ清一と悌子が一緒になればしんせきになりますな、などと、茶飲み話でしょっちゅう言い交わしていたのである。
 その清一が、いつの頃からか野球にのめり込み、
「悌ちゃん、キャッチボールしん?」
 放課後になると、雨の日以外は毎日欠かさず呼びにくるようになった。
 とはいえ、本物の野球ボールは買えなかったから、清一自作の球である。庭木を支柱に固定するときに使うしゆなわを彼は父親から拝借し、これを子供のこぶし大の石に幾重にも巻き付けて作るのだ。グラブは、軍手を重ねてつけることで代用したが、清一作のボールは重くて硬かったから、捕球のたびにジンとしぶとい痛みが、悌子の手指の骨を伝って脳天まで響いた。
「人差し指の第二関節で捕るようにしやー。それをなー、他の指で包む気持ちで握るとえーて」
 清一は、手に入る限りの野球解説本を読み込んでは、その知識を悌子にも丁寧に伝えた。投球の際の足の踏ん張り方、重心の置き方、肩の鍛え方。このとき教わったいずれもが、のちに槍投げ選手となる悌子の技量を的確に下支えすることになったのだ。
 ふたりでキャッチボールをしていると、女と遊んでらぁ、と冷やかす悪ガキもいたが、清一はいつも堂々として、
「だって、この村じゃ、悌ちゃんが一番ええ球を投げるでね」
 と、朗らかに返していた。
 ラジオで放送されるようになった野球中継も、清一はよく悌子の家で聴いていた。六大学野球に、伝統の一高対三高戦、それから毎年夏休みに甲子園で行われる全国中等学校優勝野球大会。
「僕の家、ラジオがないで、毎日お邪魔して申し訳あらせん」
 盛んに恐縮する清一を、母も兄たちも快く迎え入れた。礼儀正しく素直な彼は、大人たちからもあまねく信頼されていたのだ。
「ドロップって、どんな球筋やろなぁ。カーブとどう違うんかなぁ」
 彼特有ののんびりした口調で、アナウンサーの語る野球用語を反復しては、律儀に帳面に書き付けていた。
 清一は高等小学校を卒業すると、なが川の向こうにある菅生すごう中学校に入学した。悌子たちの住むいなぐんいちはしむらやぶからは歩いて一時間ほどの場所にある甲子園常連校で、清一は野球部に入部するや、朝から晩まで練習漬けの日々を送るようになった。
 一年遅れて岐阜市内の高等女学校に入学した悌子は、日曜日になると、いまみねからかがしまを経て、ごうばしを渡り、菅生中野球部の練習を見に行った。
 入学当初は先輩の下で球拾いばかりしていた清一だったが、すぐに頭角を現し、二年が終わる頃には次期エースとして期待されるようになっていた。
「中学五年生の先輩にも投げ負けんというから、立派やな」
 清一の速球をひと目見ようと近隣から集まってきている野次馬たちが、そう言い合うのを悌子は聞いた。そのうち他校の野球部員も頻繁に偵察に訪れるようになり、清一が四年に上がる頃には、そこに黄色い歓声が交じるようになった。菅生中の投手がめっぽう美男や──女学生の間に、そんな噂が流れたからだった。
 近くにいすぎたせいで、悌子はそれまで気にしたこともなかったが、言われてみれば清一はもくしゆうれいというにふさわしい顔立ちをしている。切れ長の目はくりっと大きく、まゆはきりっと太く、鼻筋がぐいっと通っている。黙っているとしいが、笑うと端整な顔がくしゃっと崩れて、途端に親しみやすさがにじみ出るのも、彼の魅力のひとつだった。
 けれどその頃の悌子は、女学生たちが群がる様子を見ても、
 ──今日もキャーキャー言われとる。
 程度にしか思わなかった。やきもきすることも、女学生たちにいらつこともなく、ただ、以前のように一緒にキャッチボールができないことを残念に思っていたのだ。
 悌子が、高等女学校の体育教師から、槍投げ競技の選手となることを熱心に勧められたのは、ちょうどその頃のことだった。
「君ほどの体格と肩の強さがあれば、人見絹枝のような活躍も夢じゃない。陸上部に入れ」
 前のめりで語る教師のつばをよけながら、人見絹枝というのはオリンピックでメダルを取った、やけに大きな女の人か、と悌子はぼんやり思い、槍投げ選手としての資質をいだされたことより、がたいのよさをあげつらわれたような気がして、ひどく傷ついたのだ。
 春休み、久し振りに村内で行き合った清一に、だから悌子はとっさに相談を持ちかけたのだった。陸上部に入って槍投げにいそしむべきか、否か──。
「今日は練習休みだで、少し川原で話そーや」
 清一は明るく言って、歩き出した。
「珍しいなぁ。あの野球部が休みやなんて」
「卒業式のあとは一日だけ休みなんや。それと正月やな。他はナシや」
 清一の、かつてふっくらしていた頰は鋭くとがり、色白だった肌は焦がしたもちのように真っ黒だった。なにより、背が悌子より頭一つ分高くなっている。悌子は学年で一等背が高く、それを気にしていつしか猫背でいる癖がついていたくらいだったから、清一の隣を歩く安心感はまた格別だった。
「練習、えらいか?」
 川原の草むらに座って訊くと、
「そりゃ、えらいわな」
 清一は、いつものくしゃっとした笑みを向けた。
「春、秋はまだええ。冬もえらいが、なにより夏やな。炎天下でも水も飲めんで、授業がない日は一日十時間も投げ込むんやよ。外野に草むらがあってな、そこに水を入れたヤカンを隠しとって、部員はみな球拾いのふりして飲んどるが、僕は投手やで」
 菅生中エースの座を射止めた清一には、監督がぴったり横について指導するため、ひとときも気が抜けないのだという。
 右手の人差し指と中指は、幾度も皮がむけたのだろう、分厚く盛り上がり、肩甲骨から上腕、首までも大人の男のようにいかめしかった。たった数年で、体がここまで変わる練習というのはどんなものかと、悌子は密かにおぞ立つ。
「槍投げ、やりとうないんか」
 悩みをひと通り打ち明けると、清一はまっすぐに訊いてきた。
「うーん、まだようわからん。ちょっと面白そうやな、とは思うわな」
「なら、やってみたらええがね」
 でも、体格がよくて推されただけだから、とまでは、いかに兄妹のように育ってきた清一にも、気恥ずかしくて口にできなかった。
「悌ちゃんの気持ちが一番大事やけど、僕は槍投げ、向いとると思うで。悌ちゃん、肩がええもの。せっかくの長所をかさんのはもったいないがね」
「……長所?」
 肩がよくてもお嫁にはいけない。いい奥さんになって子供を産むことが女としてもっとも優れた道なのだと、母は常日頃、口を酸っぱくして言っている。
「長所やで。悌ちゃんほどの肩は、野球をやっとってもめったに出会えんよ。他の人は持っとらんものを活かすべきやで」
「肩か。そんなんも、長所て言うんやね」
 不思議に思ってつぶやくと、清一は口を真横に大きく広げて笑った。
「そらそうや。野球やったら選手生命を決めるほど、大事なもんや。でも僕は他にも悌ちゃんの長所、山ほど知っとるでね。悌ちゃんは特別や。特別な女の子やし」
 悌子が清一を、単なる幼馴染みではなく、ひとりの人間、もっと言えば異性として意識したのは、このときが最初だったかもしれない。見た目だけで判断せず、内面もすべて知った上で自分という人間を認めてくれる他者がいる──それがこれほど甘美な福音をもたらし、かほどに心強いものなのか、と驚きの中で悌子はしかと胸に留めたのである。
 春休みが明け、進級するとすぐに悌子は陸上部に入部した。途中入部にもかかわらず、投擲の仕方を一、二度教わっただけでコツをつかみ、ひと月が経つ頃には他の部員の誰よりも遠くまで投げられるようになっていた。下半身をうまく使っている、肩甲骨がよく動いている、槍の回転も素晴らしい、と体育教師は絶賛したが、いずれも悌子が無意識にやっていることだった。
 その秋の県大会に学校代表として出場すると、二位を大きく引き離し、県新記録で優勝してしまったから、悌子もさすがに、これは本当に自分の抜きん出た長所なのだ、と認めないわけにはいかなくなった。
 清一もまた、時を同じくして甲子園で活躍し、五年生の夏が終わったところで声のかかった中から早稲田大学野球部を選び、進学を決めた。僕もとうとう六大学野球の選手になれるんや、といつも冷静な彼には似合わず、はしゃいだ様子で悌子に報告してから、
「悌ちゃんも、そのうち東京に来たらええ。体育の学校もあるでね。そしたらまた一緒にキャッチボールできるな」
 彼は、悌子の手を強く握って言った。不意に触れられて泡を食い、なんと答えたものか、覚えていない。けれど悌子は、清一が自分との将来を見据えてくれていることを、このとき確かに知ったのだった。

(つづく)

作品紹介



かたばみ(KADOKAWA刊)
著者:木内 昇
発売日:2023年08月04日

「家族に挫折したら、どうすればいいんですか?」
太平洋戦争直前、故郷の岐阜から上京し、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、肩を壊したのをきっかけに引退し、国民学校の代用教員となった。西東京の小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染みで早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいたが、恋に破れ、下宿先の家族に見守られながら生徒と向き合っていく。やがて、女性の生き方もままならない戦後の混乱と高度成長期の中、よんどころない事情で家族を持った悌子の行く末は……。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322110000639/
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