【山中賞とは】
高知市の「TSUTAYA中 万 々 店」の書店員であり、フリーペーパー「なかましんぶん」の編集長を務める山中由貴さんが、お客様に「どうしても読んで欲しい」と思った本の中(翻訳書も含め、ジャンルは問わず)から独自に選出する「山中賞」。年に2回、芥川賞・直木賞よりひと足早く発表され、受賞によって販売数が10倍になった書籍も!
本作は太平洋戦争中から戦後にかけての日本を舞台に、血の繫がらない親子が向き合い、生きていく様を描いた笑いと涙のホームドラマです。新聞連載時から大きな反響を呼び、数多くの感想が寄せられました。
この度、山中賞の受賞を記念して試し読みを公開! 全5回の連載形式で毎日配信します。気になる物語の冒頭をお楽しみください!
第10回山中賞受賞記念
直木賞作家・木内昇が描く笑いと涙の家族小説
『かたばみ』試し読み#03
国民学校の代用教員として初登校の日、悌子は
「あれ、どうしたの? どっかにぶつけた?」
店のほうから、
「いえ。
手拭いを取って見せると、朝子は
「ほんとだ。見事に真っ赤だね。それじゃ、子供らが腰抜かすよ、先生」
気はいいのだが、彼女は遠慮を知らない。これに追い打ちを掛けたのが、朝子の
「こりゃー、腐った
朝食の
赴任先が西東京は
二階には三部屋あって、
惣菜店を営む朝子は生まれも育ちも下町で、以前は亭主と一緒に
「年寄りと小さい子がいるからさ、ちょっとした疎開ってつもりもあってね。それに、あたしもこんなだし」
悌子が内見に来た日、朝子は少し張り出してきた腹を指して笑っていたのだ。彼女のもんぺ
一階の半分、十坪ほどが惣菜店、もう半分が朝子たちの住まいだ。食糧難が続いてはいるが、小金井は農家が多く、野菜だけは苦労なく
「ここんとこ、
朝子は時折不安も漏らすが、その口調は不思議とどこまでも明るい。
食堂をよして惣菜店に切り替えたのは、外食券制度が導入されたせいだった。この券を集めて米を買いに行けた頃まではよかったが、昨今その米が日に日に減っていく。
「玄米の配給じゃ米を
姑のケイは、腰こそいくらか曲がっているが、数え七十とは思えないほど動きが機敏だ。小柄で
この日も、まぶたを冷やす悌子を
「あんた、そんな図体のくせに、気が弱いと見えるね」
ケイは
「そんなこっちゃ、南方におられる兵隊さんに申し訳が立たないよ」
ひとり息子を兵隊にとられたからか、ケイは二言目にはこの台詞を持ち出すのだ。
「まことにあいすみません」
しおしおと
「ご飯は? なにか食べていく?」
朝子が店から声を投げた。
米穀通帳を示して手に入る配給米は、大人ひとりにつき一日二合三勺。悌子もこれでやりくりしている。ただ、おかずをひとり分作るようだと高くつくから、近頃はごはんだけ持ち込んで、店の惣菜を月極料金で分けてもらっていた。料理が不得手の悌子には、これが大いに助かった。
「すみません。今日はあまり時間の余裕がなくて。お腹も
作りたての惣菜をてきぱきと並べている朝子に向かって詫びると、
「あんた、すぐに謝る癖はよくないよ。そんな弱気でいちゃあ、アメ公にゃあ勝てないんだから」
ズズッと
国鉄武蔵境給電区を左に見て、お
武蔵境駅周辺は、
校門前には上級生らしき生徒がふたり、木銃を手に立っており、登校してくる生徒たちに
広々とした校庭では、桜が満開である。悌子は立ち止まり、目線を上げて、大きく息を吸う。清らかな青空とやわらかな薄紅色に視界が覆われると、自然と力が湧いてきた。
「全力で楽しむべし」
競技に入る前にいつも胸の内で唱えていた言葉を、念じるようにつぶやいて、くすんだ緑色に塗られた木造校舎へと力強く一歩踏み出した。
(つづく)
作品紹介
かたばみ(KADOKAWA刊)
著者:木内 昇
発売日:2023年08月04日
「家族に挫折したら、どうすればいいんですか?」
太平洋戦争直前、故郷の岐阜から上京し、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、肩を壊したのをきっかけに引退し、国民学校の代用教員となった。西東京の小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染みで早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいたが、恋に破れ、下宿先の家族に見守られながら生徒と向き合っていく。やがて、女性の生き方もままならない戦後の混乱と高度成長期の中、よんどころない事情で家族を持った悌子の行く末は……。
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