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試し読み

なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか? 不可視にされた「歴史」を浮き彫りにする原思想史学の新境地!【発売前試し読み・原武史『地形の思想史』】#3

  • なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか?
  • なぜ、陸軍と米軍は「台」を拠点にし続けたのか?
  • なぜ、富士の「麓」でオウムは終末を望んだのか?
  • なぜ、「峠」で天皇制と革命思想は対峙したのか?
  • なぜ、皇室の負の歴史は「島」に閉ざされたのか?
  • なぜ、記紀神話は「湾」でいまも信仰を得るのか?
  • なぜ、「半島」で戦前と戦後は地続きとなるのか?

『平成の終焉』、『皇后考』、『増補新版 レッドアローとスターハウス』など、話題作を送り出し続けてきた政治学者・原武史さんが新たな挑戦をした、最新ルポ&評論『地形の思想史』が、明日12月20日(金)に発売となります。
今回は岬、峠、島、麓、湾、台、半島。7つの地形に着目しながら風土をめぐり、不可視にされた日本の「歴史」を浮き彫りにしていきます。

日本の一部にしか当てはまらないはずの知識を、私たちは国民全体の「常識」にしてしまっていないでしょうか?
人間の思想は、都市部の人工的な空間だけで生み出されるわけではありません。地形が思想を生み出したり、地形によって思想が規定されたりすることもあるのです。
7つのテーマと共に、独特な地形と、伝説を含めてそこに滞在ないし生活する人々の間にきわめて強い関係がみられる場所を実際に歩く。すると、死角に沈んだ日本の「思想史」が見えてきます!

発売まであと少し! 待ちきれない皆様のために、『カドブン』では「まえがき」と「第一景 「岬」とファミリー 上」を先行公開します。ぜひご覧ください!!

>>試し読み第2回へ



 日光田母沢と沼津の御用邸は、いずれも戦後に廃止され、栃木県日光市と静岡県沼津市により整備されて記念公園として一般に公開されている。沼津御用邸は空襲で本邸を焼失し、西附属邸と東附属邸だけが残っている。邸内に入ると、謁見所や御座所、御学問所、皇后御座所、寝室、高等女官詰所などの部屋があったことがわかる。建築的な観点から見ても、皇居と変わらない機能を備えていたわけだ。
 現在使われている那須、葉山、そして静岡県須崎の各御用邸の建物の延べ面積は、那須が六千九百五十三・二平方メートル、葉山が三千六百二十五・七平方メートル、須崎が五千二百三十六・九平方メートルと、いずれもとてつもなく広い(宮内庁ホームページ)。『昭和天皇実録』によると、那須御用邸には謁見所、葉山御用邸には拝謁の間、須崎御用邸には謁見室がそれぞれあり、昭和天皇が首相や閣僚らと面会していた。この点では日光田母沢御用邸や沼津御用邸同様、ただの別荘ではなかった。
 ただし皇太子明仁は昭和天皇とは異なり、御用邸ばかりを利用したわけではなかった。一九四九(昭和二十四)年夏、英語を教えていたE・G・ヴァイニング(一九〇二~九九)が滞在していた軽井沢を訪れたのが縁で、翌五〇年から毎年夏に軽井沢に滞在するようになったからだ。ヴァイニングはそのきっかけをこう説明している。

皇太子殿下が前の年に大変軽井沢が気に入られたというので、今年は八月いっぱい、私の所から六キロほど離れた丘の上にある家が、殿下のために用意されることになった。以前ある皇族が持っておられた別邸で、いまは日本人の経営する占領軍関係者のホテルになっていた。ホテルとしては小さく、その八つの部屋全部が、殿下とお付きの人々のためにあてられた。曲りくねった自動車道のつきあたりの、見晴しのよい場所にあって、警備するにも都合がよく、高さ二五四二メートルの浅間山が空高く聳え、その下のへんに離山が見渡せる、雄大な展望をおさめていた。(『皇太子の窓』、小泉一郎訳、文春学藝ライブラリー、二〇一五年)

 ヴァイニングの言う「ある皇族」とは、一九四七年十月に他の十宮家とともに皇籍離脱した旧朝香宮家のことだ。皇太子が滞在したのは、もとの朝香宮別邸だった。同年八月に西武グループ創業者の堤康次郎(一八八九~一九六四)が買収し、千ヶ滝プリンスホテルになっていた。
 ヴァイニングは、「皇室の御別邸につきものの、あの四角ばった固苦しさは、まったく見られなかった」(同)と述べている。それでも木造二階建て五百九十平方メートルの本館と社宅など五棟からなり、警備もしかれていた。毎年夏に軽井沢に滞在することで皇太子妃となる正田美智子と出会い、「テニスコートの恋」が芽生えたことは、あまりにもよく知られている。
 皇太子は、一九五九年四月に結婚してからも、毎年夏に千ヶ滝プリンスホテルに滞在する習慣を改めなかった。唯一の違いは、皇太子妃を同伴するようになったことだ。時を同じくして昭和天皇と香淳皇后が那須御用邸や須崎御用邸に滞在していたから、御用邸を避ける必要もあった。
 六〇年二月に浩宮徳仁親王が、六五年十一月に礼宮文仁親王が、六九年四月に紀宮清子内親王が生まれると、皇太子夫妻は三人とも自分たちで育て、初めて東宮御所での完全な同居を実現させた。皇室にようやく、夫婦だけではないファミリーが成立したのである。
 しかしファミリーにふさわしい私的空間を、近代の皇室は備えていなかった。七八年八月十日の会見で、皇太子は「那須〔御用邸〕は私はあまり好きじゃないんです」と言い、主に皇太子一家が利用するために建てられた御用邸の附属邸についても、須崎を引き合いに出しながら、「陛下が一番お使いになりたいと思っている夏に、須崎を利用するというのもちょっとどうもという気がするわけなんで」と述べている(薗部英一編『新天皇家の自画像 記者会見全記録』、文春文庫、一九八九年)。
 皇太子に言わせれば、御用邸や附属邸よりは「あの四角ばった固苦しさ」のない民間のホテルの方が望ましかった。皇太子夫妻は千ヶ滝プリンスホテルに毎年夏、子供たちとともに一カ月前後も滞在することが多くなった。六四年以降、このホテルはプリンスホテルの名称を変えないまま一般客の利用ができなくなり、皇室専用となった。
 作家の猪瀬直樹は、一九八六年に刊行された『ミカドの肖像』で、千ヶ滝プリンスホテルを訪れたときのことを次のように述べている。

そのホテルは敷地の周囲に鉄条網がものものしく、正面にはそれらしき看板もない。その代わりに歩哨用のポリスボックスがあった。鉄条網の周囲を細い林道が走っているが、未舗装で木陰が陽を遮っているからぬかるみになっており、車で乗り入れることは不可能だった。泥に足を掬われながら林道沿いに奥まで入ると、木陰からかすかに洋館とテニスコートが視えたのだった。ここに、皇太子一家は夏のわずかの期間だけ滞在する。そして、あとは人気のない無人の館に化するのである。(『ミカドの肖像』、小学館文庫、二〇〇五年)

 もちろん猪瀬が訪れたときは「無人の館」だった。たとえ御用邸に比べて「固苦しさ」がないと言っても、もともと皇族の別邸である上、周囲から隔絶され、厳重な警備がしかれた環境そのものは御用邸に似ている。一つの家族が貸し切りで滞在するには、あまりにも大きすぎるのだ。皇太子が滞在中に記者会見が開かれるなど公的な機能を備えていたという点も、御用邸と共通していた。
 明仁が天皇になってからは、一九九〇(平成二)年八月に皇后や皇太子とともに滞在したのを最後に、千ヶ滝プリンスホテルを使わなくなる。二〇〇九年に私もここを訪れたことがあるが、すでに門扉だけを残してホテルは廃止されていた。周囲には有刺鉄線が張られ、うっそうと生い茂る草木が邪魔をして中を見ることはできなかった。

〈第4回へつづく〉

ご購入はこちら▶原武史『地形の思想史』| KADOKAWA


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