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試し読み

なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか? 不可視にされた「歴史」を浮き彫りにする原思想史学の新境地!【発売前試し読み・原武史『地形の思想史』】#2

  • なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか?
  • なぜ、陸軍と米軍は「台」を拠点にし続けたのか?
  • なぜ、富士の「麓」でオウムは終末を望んだのか?
  • なぜ、「峠」で天皇制と革命思想は対峙したのか?
  • なぜ、皇室の負の歴史は「島」に閉ざされたのか?
  • なぜ、記紀神話は「湾」でいまも信仰を得るのか?
  • なぜ、「半島」で戦前と戦後は地続きとなるのか?

『平成の終焉』、『皇后考』、『増補新版 レッドアローとスターハウス』など、話題作を送り出し続けてきた政治学者・原武史さんが新たな挑戦をした、最新ルポ&評論『地形の思想史』が、12月20日(金)に発売となります。
今回は岬、峠、島、麓、湾、台、半島。7つの地形に着目しながら風土をめぐり、不可視にされた日本の「歴史」を浮き彫りにしていきます。

日本の一部にしか当てはまらないはずの知識を、私たちは国民全体の「常識」にしてしまっていないでしょうか?
人間の思想は、都市部の人工的な空間だけで生み出されるわけではありません。地形が思想を生み出したり、地形によって思想が規定されたりすることもあるのです。
7つのテーマと共に、独特な地形と、伝説を含めてそこに滞在ないし生活する人々の間にきわめて強い関係がみられる場所を実際に歩く。すると、死角に沈んだ日本の「思想史」が見えてきます!

発売まであと少し! 待ちきれない皆様のために、『カドブン』では「まえがき」と「第一景 「岬」とファミリー 上」を先行公開します。ぜひご覧ください!!



第一景  「岬」とファミリー

 上

 東京から東海道新幹線に乗るときには、なるべく右側の席に座るようにしている。富士山もさることながら、浜松を過ぎてしばらくすると、遠州灘とつながる汽水湖である浜名湖の広々とした風景が見えるからだ。晴れていると湖面が青々と光っている。並行する東海道本線の舞阪─新居町間でも、同じような風景が眺められる。
 実はもう一つ、浜名湖を眺められる線がある。東海道本線の掛川と新所原を結ぶ第三セクター、天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線(略称天浜線)である。
 この線はもともと国鉄二俣線といい、東海道本線の浜名湖付近が戦争中に敵の攻撃により不通になった場合のバイパス線として建設された。ところが赤字が膨らんで国鉄末期に廃止が承認され、一九八七(昭和六十二)年三月に第三セクターに転換した。
 この年の秋、私は初めて掛川から天浜線に乗った。一両編成のレールバスのようなディーゼルカーであった。いつ浜名湖が見えるのかと車窓に目を凝らしていたが、なかなか現れなかった。細江町(現・浜松市北区)の中心駅である気賀を出て次の西気賀が近づいてきたあたりで、ようやく左手の視界が開け、水のかたまりをとらえることができた。そのときの感動はいまでも忘れがたい。
 ここは『万葉集』で「遠江引佐細江の澪標我れを頼めてあさましものを」(作者未詳)と詠まれた引佐細江と呼ばれる浜名湖の奥で、湖というよりはむしろ入江のようになっており、漁村の空気が漂っていた。東海道新幹線や東海道本線から見える浜名湖とは印象が異なっていた。
 だがこのときは、西気賀駅のすぐ近くに、湖に突き出た小さな半島があることに気づかなかった。ましてやこの半島が、地元の人々から「プリンス岬」と呼ばれていることなど、当時は知るよしもなかった。
 プリンスは皇太子を意味する。現上皇明仁が皇太子時代に当たる一九六八(昭和四十三)年から七八年にかけて、皇太子妃(現上皇后)美智子や子供たち(浩宮徳仁〔現天皇〕、礼宮文仁〔現秋篠宮〕の両親王、紀宮清子内親王〔現黒田清子〕)、そして時には実姉で夫を亡くした鷹司和子とともに八回も夏に数日滞在し、水泳、和船乗り、定置網漁、ホタル狩り、七夕飾り、花火などを楽しんだ会社の保養所があることから、いつしかこう呼ばれるようになったという。
 なぜ皇太子は、戦後の一時期にこのひなびた湖の岬で妃や育ち盛りの子供たちとともに過ごすことを好んだのか。その謎を解くことは、単にミッチーブーム以降の皇室の歩みを検証するだけでなく、戦後日本の社会や家族のあり方を検証することにもつながるのである。

 大日本帝国憲法の制定に際して、伊藤博文(一八四一~一九〇九)は「我国ニ在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」と述べた。皇室は国家秩序の中核であるばかりか、精神的機軸でもあるとされたのだ(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、一九六一年)。大日本帝国憲法で天皇は「統治権の総攬者」とされ、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされた。伊藤に言わせれば、天皇とは国家と完全に一体化した「公」なる存在であり、「私」は原理的にあり得ないことになる。
 確かに明治天皇(睦仁。一八五二~一九一二)は、一九一二(明治四十五)年七月十九日に突然倒れるまで、「公」として振る舞おうとした。一八七三年八月、箱根宮ノ下に滞在したのを唯一の例外として、私的な理由で休むことがなかったことからも、それはうかがえる。明治天皇にとっての私的空間は、一般国民が目にすることのない宮殿内の御内儀(オク)だけであった。そこには天皇のほかに一人の正室(皇后美子)が住んでいたほか、御内儀とつながる局には側室を含む多くの女官が住んでおり、子供たちは同居していなかった。
 ところが、大正天皇(嘉仁。一八七九~一九二六)の場合は違った。嘉仁は生まれたときから病弱で、何とか成長して皇太子にはなったものの体調は回復しなかったため、明治中期から栃木県の日光、神奈川県の葉山、静岡県の沼津などに御用邸が建てられた。これらの御用邸は、皇太子の静養を第一の目的としていた。
 このため嘉仁は、明治天皇とは異なり、皇太子時代から毎年夏や冬に御用邸にしばしば滞在する生活を送るようになる。一九〇〇(明治三十三)年に結婚してからは、同年夏に新婚旅行を兼ねて日光田母沢御用邸に滞在したのをはじめ、皇太子妃節子(後の貞明皇后。一八八四~一九五一)と一緒に御用邸に滞在することが多くなる。嘉仁は天皇になってからも、こうした生活を変えようとはしなかった。
 大正期の天皇は、皇后とともに夏は日光や葉山、冬は葉山に滞在した。宮内公文書館所蔵の「大正天皇実録」によると、御用邸に滞在中も首相や閣僚らと面会する一方、日光では乗馬を、葉山ではヨットを楽しんでいる。この点では確かに御用邸が私的な空間になったのだ。だがやはり皇室のしきたりに従って子供たちとは別居しており、年齢の離れた澄宮崇仁(三笠宮。一九一五~二〇一六)を除く迪宮裕仁(昭和天皇。一九〇一~八九)、淳宮雍仁(秩父宮。一九〇二~五三)、光宮宣仁(高松宮。一九〇五~八七)の三人の親王が、御用邸で一緒に過ごすことはなかった。
 一九一四(大正三)年八月、日本は第一次世界大戦に参戦し、ドイツに宣戦布告した。同年十一月には早くも青島が陥落したのを見届けた天皇は、一五年一月十二日から葉山御用邸に滞在する。皇后も一月二十二日に葉山に移り、三月十九日まで天皇とともに滞在するが、宮内公文書館所蔵の「貞明皇后実録」によると、この間に戦地から帰還した軍人が戦況の報告に訪れ、天皇ではなく皇后に面会している。
 昭和天皇もまた御用邸に滞在しながら首相や閣僚らに面会したのに加えて、戦中期には葉山や日光田母沢の御用邸で戦地から帰還した軍人に会って戦況を聴取したり、首相や参謀総長らの奏上を受けたりしている。それだけではない。日本国憲法のもとで「国民統合の象徴」へと変わった戦後も、首相や閣僚らが御用邸に赴いて内奏をしたり、御用邸で天皇が会見を開いたりしていたことが、東京書籍から刊行された『昭和天皇実録』から読み取れるのだ。この点で御用邸は、皇居と同じ性格を一貫して兼ね備えていた。
 昭和天皇は一九二四(大正十三)年に久邇宮良子(香淳皇后。一九〇三~二〇〇〇)と結婚している。二人の間には二人の親王と五人の内親王(うち一人は早世)が生まれたが、やはり子供たちと本格的に同居することはなかった。
 正確に言えば、第一子に当たる照宮成子内親王(一九二五~六一)は女子学習院に入学するまで両親と同居していた。だが貞明皇后や高松宮から、手元で育てたから甘やかしたと激しく批判されたこともあり、一九三三(昭和八)年に生まれた継宮明仁(現上皇)を含め、幼少期を除いて再び別居になった。しかも戦争末期から敗戦直後にかけての時期には、継宮明仁と義宮正仁(常陸宮)の両親王が日光に、三人の内親王が日光に近い栃木県の塩原に疎開するなど、子供たちもバラバラになった。
 皇太子明仁は敗戦直後に奥日光の湯元温泉から帰京してからも、しばらく東京都下の小金井の御仮寓所(現・江戸東京たてもの園)に住んでいた。戦後も天皇は皇后とのみ栃木県の那須や葉山の御用邸に滞在したのであり、たとえ御用邸に子供たちがやって来ることはあっても、一緒に滞在することはなかった。御用邸というのは、夫婦が過ごす場所ではあっても、家族が過ごす場所ではなかったのである。

〈第3回へつづく〉

ご購入はこちら▶原武史『地形の思想史』| KADOKAWA


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