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(評者:能町 みね子 / エッセイスト)
本の帯にある「エクセレントが丘」という架空のキラキラ地名には、多くの人が思わず苦笑するでしょう。しかし、「福岡県宗像市くりえいと○丁目」「富山県小矢部市メルヘンランド○番地」といった地名はすでに実在するのです。もう笑い事ではありません。
この手の話で人口に膾炙しているものと言えば、来年開業する山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」。この駅名が決定する以前から、私はいわゆる「キラキラネーム」的な命名を危惧していました。なにしろ、この駅一帯の開発プロジェクトの名称が「グローバルゲートウェイ品川」。グローバルか、ゲートウェイか、なんらかのカタカナのついた不格好な駅名になるであろうことは予期していました。悲しいかなそれは的中し、公募によれば130位という、本来なら無視すべき候補である「高輪ゲートウェイ」という珍駅名が生まれてしまったわけです。選定理由としてもっともらしいことが述べられていますが、公募で断トツの1位となった「高輪」にプロジェクト名の「ゲートウェイ」を無理にくっつけたのが本当のところでしょう。
怒りを込めてこの件に言及するのは、この駅名について私は4万筆を超える反対署名を集めJR東日本に提出したものの、けんもほろろにはねつけられたからです。その際、強力な味方として頼ったのが本書の著者である今尾恵介さんでした。「高輪ゲートウェイ」に代表される、歴史や地名を軽視する最近の風潮に単なる「カッコ悪い」「ダサい」という若者的な感情論にとどまらない正当な論拠を頂きたかったのです。なお本書においても、このような珍駅名・珍地名を若者は「ダサい」と見なしており、こういった珍奇な命名を強行するのは主に「会社や役所の幹部の『おじさんたち』」であろうと記されています。
本書ではこのような現代的「キラキラ地名」に限らず、地名の変遷について江戸期以前にまでさかのぼり網羅的に論じています。なるほど「ゲートウェイ」や「くりえいと」は現代的感覚ではいかにも奇天烈な地名に思えますが、歴史を顧みない行き当たりばったりの地名変更については昔から綿々と行われてきたことが分かります。「現在の東京の地図を片手に永井荷風や夏目漱石の作品を読んでも、登場する町名が見当たらない」とあるとおり、特に都市部の地名は恣意的かつ徹底的に変えられてきました。例えば戦前には「下」の字が嫌われる風潮にあり、そのために現在も東京の繁華街・下北沢の住所が「世田谷区北沢」になっていたり、「銀座」という地名のブランド力ゆえ、関東大震災前と現在を比較すると「銀座」という住所の範囲が10倍以上に膨れあがっていたり。「ゲートウェイ」も、この風潮が行きついた果ての現象なのかもしれません。
また逆に、近年多発する災害に関して「この字がつく地名の場所は危険」と殊更に取り立てる風潮がありますが、本書はこれについても警鐘を鳴らします。まずその安易さは擬似科学的であり、また、そうして取り上げることによりその地名が忌避されさらに変えられてしまう危険があるからです。
地名の改変は「気分を一新させる『妙薬』として安易に処方」されており、そこで時代の断絶が起こる、と今尾さんは危惧します。「防災に関する施策を議論する際には必ず専門家を呼ぶのに、地名を議論する際にはなぜその専門家が呼ばれないのか」という疑問は、常々私も感じていたところです。歴史と地名があまりにも軽視される最近の風潮に憤慨していた身としては胸のすく思いのする労作である……と締めくくっては、個人的な気持ちが少々強く乗りすぎでしょうか。実例が極めて多く挙げられているため、地名の雑学本として気軽に手にとって楽しい本でもあります。「自由が丘駅」の住所がもともと「大字・衾、字・谷権現前」だったなんて。丘じゃなくて谷なんですね、あそこは。
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