今月の太鼓判!
本選びに失敗したくない。そんなあなたに、旬の鉄板小説をドドンとオススメ!
湊 かなえ『落日』(角川春樹事務所)
落日という言葉は何かが衰える様を表すが、彼方に沈みゆく太陽の美しさと儚さがある。それも、後からあれが落日だったと気づくものではないだろうか。湊かなえの『落日』においても、過去のできごととそれにまつわる記憶とが結びついている。
物語の語り手は二人いる。一人は三十三歳の映画監督、長谷部香。自殺直前の人たちをドキュメンタリータッチで描いた「一時間前」が海外の映画賞を受賞し注目されている。しかし彼女が語り始めるのは栄光とはほど遠い思い出だ。幼い頃に母親から叱られてアパートのベランダに出されていたこと。そして、同じくベランダに閉め出されていた隣室の少女と、仕切り板の隙間から手と手だけで交流した記憶である。ほどなく香は父の死を契機に引っ越したため、彼女の消息は知らなかった。しかし、のちにある事件の被害者となりすでに亡くなっていたことが判明する。
もう一人の語り手は二十九歳の脚本家、甲斐千尋。脚本家といってもふだんは恋愛ドラマの巨匠の助手を務め、時間ドラマを一本書いたことがあるだけ。三十を前に脚本家をあきらめようか。そんな思いが去来する日々だ。心の支えは海外で演奏活動を行っているピアニストの姉へメールを書くことである。そんなある日、面識のない長谷部香から、会いたいというメールをもらう。千尋の出身地で起きた殺人事件を、映画化したいというのである。
香と千尋は対照的な女性だ。香は生い立ちが複雑で繊細なところがあり、思索にふけるタイプ。千尋は出来のいい姉に比べ自分を平凡だと思い込んでいて、書く脚本もあこがれの姉をなぞったようなヒロインばかり。香が世に出たばかりの旭日なら、千尋は夢を追うことをやめようかと考えている落日である。この二人が一つの事件を間に向き合うことになる。
事件とは山と海に挟まれた小さな町で起きた一家殺害事件である。引きこもりの兄が妹を刺し殺し、家に火をつけて両親が焼け死んだ。妹の名前は沙良。香の隣室に住んでいたのはこの一家。つまりベランダで交流があったのは殺された沙良だったことになる。沙良はこの物語のもう一人のヒロインといってよく、二面性のある少女だ。平気で嘘をつき、周囲の人間たちの中には人生を狂わされた人もいる。沙良の評判を知るにつれ香は混乱する。記憶の中の少女と沙良が重ならないのである。一方、千尋は映画の製作会社が、自分の師匠をこの企画の脚本に指名したと知り焦る。二人は事件の真相にたどりつけるのだろうか。
湊かなえは『告白』で衝撃的なデビューを飾って以来、数々のミステリを書いてきた。この作品もその系譜の一つに数えられるが、初期作品と比べると、味わいはより複雑だ。事件の真相を知りたいという読者の欲求に応えつつ、二人の女性それぞれの成長と変化、未来へと踏み出す一歩をくっきりと描き出している。近年、「イヤミス」と呼ばれる後味の悪いミステリが人気を集め、『告白』はその嚆矢ともいわれる。しかし『落日』のラストは違う。美しく、儚い。もの悲しさもある。しかし、そこに爽やかな風が吹いている。
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地方の名門校で起きた入試妨害事件を臨場感たっぷりに描く。登場人物の多視点に裏サイトのコメントを加える手法が現代の群像劇にふさわしい。狭い世界で行き詰まってしまう人たちは、『落日』で描かれている地方とは対照的。そのどちらも湊かなえの世界だ。