- なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか?
- なぜ、陸軍と米軍は「台」を拠点にし続けたのか?
- なぜ、富士の「麓」でオウムは終末を望んだのか?
- なぜ、「峠」で天皇制と革命思想は対峙したのか?
- なぜ、皇室の負の歴史は「島」に閉ざされたのか?
- なぜ、記紀神話は「湾」でいまも信仰を得るのか?
- なぜ、「半島」で戦前と戦後は地続きとなるのか?
『平成の終焉』、『皇后考』、『増補新版 レッドアローとスターハウス』など、話題作を送り出し続けてきた政治学者・原武史さんが新たな挑戦をした、最新ルポ&評論『地形の思想史』が、本日12月20日(金)に発売となります。
今回は岬、峠、島、麓、湾、台、半島。7つの地形に着目しながら風土をめぐり、不可視にされた日本の「歴史」を浮き彫りにしていきます。
日本の一部にしか当てはまらないはずの知識を、私たちは国民全体の「常識」にしてしまっていないでしょうか?
人間の思想は、都市部の人工的な空間だけで生み出されるわけではありません。地形が思想を生み出したり、地形によって思想が規定されたりすることもあるのです。
7つのテーマと共に、独特な地形と、伝説を含めてそこに滞在ないし生活する人々の間にきわめて強い関係がみられる場所を実際に歩く。すると、死角に沈んだ日本の「思想史」が見えてきます!
皇太子夫妻が子供たちと同居し、直接子供たちを育てる一九六〇年代から七〇年代にかけての時期は、戦後日本で夫婦と未婚の子供からなる核家族が確立される時期と一致していた。核家族のためのコンパクトな居住空間として、日本住宅公団(現・UR都市機構)により団地が大量に建設されてゆくのもこの時期であった。
御用邸はもちろん、毎年夏に滞在していた千ヶ滝プリンスホテルも、核家族の空間としてはふさわしくなかった。たとえ一時的な滞在であっても、天皇や皇后を除いた皇太子一家だけが過ごすのにふさわしい完全な私的空間を、皇太子明仁は求めていたのではないか。
けれども、皇太子一家は普通の核家族ではないから、滞在するにあたっては警備の問題が出てくる。最も理想的なのは絶海の孤島だろうが、たとえ島でなくても三方が天然の要塞である「水」に囲まれ、付け根の部分がなるべく狭い小さな半島であれば、不審者が侵入する余地は限られ、警備は少なくて済む。そしてその半島のなかに、一家がかろうじて滞在できる程度のごく普通の家があれば、申し分ないということになろう。
そんな条件にぴったりと合った「海の家」を、皇太子は見つけたのである。浜名湖の奥、引佐細江の五味半島にある、平野社団西気賀保養所であった。
一九四〇(昭和十五)年に建てられた木造平屋の和風建築で、床面積は百三十六・三六平方メートルしかない。御用邸やプリンスホテルとは比べるべくもない狭さである。十畳、八畳、八畳、六畳、四・五畳の和室と、玄関、取次、台所、浴室、脱衣所、便所、廊下、縁側などからなっている。縁側は南に面している。
ここはもともと、浜松の事業家で大鉄工所主となった西川熊三郎(一八八八~一九五九)の別荘であった。四四年に日清紡に売却され、五六年には静岡銀行の基礎をつくった平野又十郎(一八五三~一九二八)が明治期に設立した平野社団の所有となり、株式会社である社団の保養所として使われるようになった。
ではなぜ皇太子は、平野社団西気賀保養所の存在を知ったのか。平野隆之社長によると、浜名湖付近を訪れた高松宮か三笠宮から保養所のことを聞いたのがきっかけだった。会社の保養所を皇室が借り切るのは異例であったが、宮内庁からの問い合わせに応じる形で貸したという。保養所にはまず六七年に浩宮が東宮侍従の浜尾実(一九二五~二〇〇六)とともに泊まり(『皇后美智子さま』、小学館、一九九六年)、六八年以降は夏の数日間を一家や親族だけで過ごすようになる。この習慣は断続的に七八年まで続いた。
小田部雄次『皇室と静岡』(静岡新聞社、二〇一〇年)では「プリンス岬」について触れられている。もちろん参考にはなったが、小田部自身が実際に西気賀保養所を訪れた上で書いているわけではない。皇太子が妃や子供たちとともに八回も訪れたからには、よほど一家が滞在する場所としてほかにない魅力があったのだろう。それを実感するためには、いまなお会社の施設として使われている西気賀保養所を見学する必要があると思った。
『本の旅人』の編集部を通して平野隆之社長に連絡をとったところ、あっさりと許可が下りた。ふだんは空き家だが、管理人が立ち会う約束も得た。
春爛漫の天気となった二〇一八年四月十日、私は新横浜から東海道新幹線の「ひかり469号」に乗って浜松に向かい、浜松駅の改札口でKADOKAWAの小林順編集長や岸山征寛さんと合流した。かつて皇太子一家が浜松駅から車列を組んで西気賀に向かったのと同様、私たちもタクシーで向かうことにした。
市街地を抜けると三方原台地に出る。元亀三(一五七二)年に武田信玄(一五二一~七三)と徳川家康(一五四三~一六一六)の両軍が戦ったところである。景色は段々とひなびてきて、道の両側に茶畑やみかん畑が広がるようになる。
いまは浜松市北区になっている旧細江町に入ると、浜名湖の奥に当たる引佐細江が見えてくる。天浜線の車窓から見たときと同様、漁村の気配が漂っている。引佐細江の周りを回るようにして国道362号に合流したかと思うと、左手の湖面の向こうにこれから訪れる半島がちらりと見える。
午後一時過ぎ、タクシーは西気賀駅に到着した。行き先を西気賀保養所にしなかったのは、保養所を訪れる前に、すぐ近くを走る思い出の鉄道がいまどうなっているか、見ておきたいと思ったからだ。
まず駅舎を見学する。駅本屋と待合所が登録有形文化財に指定されている。一九三八(昭和十三)年に建設されたときの赤い屋根の駅舎が保存されているのだ。無人駅だが、かつて駅員が切符を売っていたところが「グリル八雲」になっている。メニューを見ると本格的な西洋料理を出すようだが、訪れた時は休業中であった。
下りホームが駅舎に接している。上りホームへは、線路にかかる踏切のない歩道を渡らなければならない。上下線ともに、線路には草が生えている。
13時22分、一両編成の下り新所原ゆきディーゼルカーがホームに入り、ゆっくりと停まった。女子高校生が一人降りただけだった。車内には数人しか乗っていない。並行する国道362号は車がひっきりなしに往来しているところを見ると、地元民ですら乗らないのだろう。悲しいが、これが多くの第三セクターの現実なのだ。
西気賀駅を出て国道362号を横断すると、すぐに半島の入口がある。半島の海岸沿いに、車一台がやっと通れるほどの遊歩道が敷かれているのだ。けれども車どころか通行人も見かけなかった。
湖からの横風が強い。そのせいか、民家の垣根が異様なほど高く続いている。さざ波の立つ湖のはるか沖合には湖を横断する東名高速道路の橋が眺められ、カキの養殖に使われたと見られるイカダが浮かんでいた。
五分ほど歩くと、早くも半島の突端に出る。普通の岬であれば灯台が建っていそうなあたりに、平屋建ての瓦屋根の家が見えてくる。平野社団西気賀保養所だ。ここは垣根が低いので、遊歩道からでも全体を見渡せる。庭がよく手入れされていてあずま屋もある。思っていた以上に、こぢんまりとした外観であった。
かつて訪れた千ヶ滝プリンスホテルとは印象が全く違う。森に囲まれたプリンスホテルとは異なり、三方が湖に囲まれているせいか、こちらの方がはるかに明るく開放的だ。会社の保養所といっても、立派な邸宅が建ち並ぶこのあたりでは、ごく普通の家にしか見えない。
当時の写真を見ると、皇太子の一行は浜松駅から直接車で半島の遊歩道に乗り入れたようだ。その車が停まり、地元の町長らが一行を出迎えた船着き場のあたりで、管理人の男性が私たちを待っていた。
私たちは男性に案内され、保養所の玄関へと入った。
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