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連載

呉勝浩「スワン」 vol.2

無差別銃撃事件の最中に少女が見た光景とは――。 2019年最大の問題作。呉勝浩「スワン」#2

呉勝浩「スワン」

AM10:10

 川を越えると風景が変わる。それを目の当たりにするのがかたおかいずみは好きだった。
 ふぞろいな建物や小さな公園などが散らかっているこちら側から、川を挟んだあちら側へ。ほんの数秒、橋を駆け抜けるあいだ、車窓は水面みなもに満たされる。それが川を渡りきったとたん、がらりと変わる。定規で区切ったような一画が視界を覆う。高さもサイズも色も形もほとんどおなじ戸建て住宅が、かっちりすしめになって、まるで玩具おもちやのブロックでつくった箱庭みたい。
 橋を渡ったんじゃなく、じつはトンネルを抜けたのかしらと錯覚するほどその切り替わりは劇的で、ふわっと意識が浮かびそうになる。舞台の幕が上がったように、思わずつま先ポワントで立ちたくなる。
 この浮遊感を楽しみたくて、たとえ車内がガラガラでも席に座らず、いずみはドアにへばりつくことにしていた。とくにこんな晴れた日は、川面がきらきら輝いて、さしずめ光のトンネルをくぐる気分を味わえる。
 なのに今日は、まったく楽しくない。
 ミニチュアめいた箱庭を過ぎ、背の高いマンション群が車窓を埋めたとき、ぴょん、とスマートフォンが鳴った。
〈おは。なにちゅう?〉メッセージの主はせりだった。
〈おっす。おら移動中〉いずみの返信に芹那が質問を重ねてくる。〈スワン?〉
〈いえす〉〈れいの?〉〈いえす〉
 泣き顔のスタンプを添えると、〈決闘、乙〉と返ってきた。
〈いざとなったらぶっとばしんしゃい〉
 芹那の落ち武者みたいなネコのスタンプに苦笑しつつ、いずみはメッセージを返す。〈法律、こわし〉〈弁護士、高し〉〈いざのときはカンパよろ〉
 送られてきたネコスタンプは無表情で、これにもいずみは笑ってしまう。
〈あとで報告する〉〈待ってる。がんばりんしゃい〉
 やりとりを終え、ため息をひとつ。がんばるといってもねえ……。
 芹那がおなじ高校だったらよかったのに。クラスまでいっしょでなくても、昼休みとか放課後につるめたら、きっと心強かった。
 我ながら勝手な注文だ。地元の友だちとは距離を置く──。一方的にそう決めたのはいずみだし、こんな薄情者に連絡をくれるだけでも芹那には感謝すべきだ。
 甘えすぎてはいけない。おおげさにいえばいずみにはいずみの生き方があり、芹那には芹那の世界がある。いまはこの、気軽に愚痴をいい合えるくらいの距離が、たぶんちょうどいいのだ。
 それにしても──とあらためて、いずみはこのゆううつな日曜日のお出かけに思いをせた。
 まったくもって、すこぶるたいへんに、理不尽だ。
 用があるならそっちから訪ねてくるのが筋じゃない? なんでわたしが電車に乗って三つも駅を越えなくちゃならないの?
 明日に始業式をひかえたこのタイミングで、わざわざいじめられるために。
 げっそりとしたため息がもれる。高校デビューは完全に失敗した。入学早々クラスメイトに目をつけられて、嫌われて、くだらないからかいがはじまった。からかいはやがて攻撃と呼べるものに変化し、気がつくとクラスじゅうが手に手を取り合い、いじめの輪を組んでいた。そのうちおさまるとみくびっていたのがまずかったのか、たんに運が悪かっただけなのか。
 学校だけの話ならまだ耐えられた。不運のきわめつきは、いじめの号令を発した張本人がおなじクラシックバレエの教室に通う生徒だったということだ。何が悲しくてそんな奴と放課後も顔を合わせなくちゃならないんだ。おまけにこうして呼びだされるなんて馬鹿げてる。
 電車が湖名川駅のホームへ滑りこむ。窓に、Tシャツを着た細身の少女が映る。黒髪をポニーテールにまとめ、すっぴんで、ピアスやネックレスもしていない。この純朴そうな女子高生を自己採点するならば、せいぜい六十五点というところ。
 かまうもんか。わたしには武器がある。ステージの上で跳ぶグラン・ジュテ。誰にも負けない自慢のジャンプ──。
 脳裏に、ふるたち小梢こずえのつんと澄ました笑みが浮かんだ。いずみを呼びだした顔面偏差値Aクラスのサディストのほほ笑みが。
 ぶっとばす、ねえ……。芹那のアドバイスを思いだしながら、いずみは電車を降りた。足は西口改札へ向かった。湖名川シティガーデン・スワンのり改札である。


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