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連載

呉勝浩「スワン」 vol.3

無差別銃撃事件の最中に少女が見た光景とは――。 2019年最大の問題作。呉勝浩「スワン」#3

呉勝浩「スワン」

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AM10:20

 よしむらきくはスカイラウンジのいつもの席に座り、あの女が寄ってくるのを忌々しげに待っていた。
 今週も、自宅を出たのは午前九時ちょうど。湖名川シティガーデン・スワンのオープン時刻に玄関ポーチをわたりながら、まるで出勤みたいだねえ、と思った。それなら遅刻だと苦笑した。
 近所の停留所に着いたとき、ぴったりバスがやってきた。待たずに乗れたのも車内がガラガラなのも毎週のこと。ふわっと差し込む陽の光に、ブラインドを下ろすかどうか決めきれないまま、バスは目的地へ走った。
 湖名川駅前まで三十分もかからない。バス停から西口改札方面へ歩き、そばにあるスワンのエスカレーターで二階へ上がる。すぐ目の前に大きな自動ドアが現れる。まさしく玄関口だ。これをさっそうとくぐるのが菊乃にとって、雨が降ろうが槍が降ろうがゆずれない、日曜日をはじめる儀式であった。
 自動ドアの先はガラス張りの通路になっている。車道をまたぐ空中の連絡通路だ。清潔で品が良く、道幅はおどろくほど広い。これがピーク時にはしっかり混雑するのだから侮れない。まだ余裕があるこの時刻に通路の中央を悠々かつするのが菊乃は好きだ。人ごみにのまれて歩くのは疲れるし、危ないと感じることも多い。認めたくはないけれど、八十も間近の年齢になると足もとがおぼつかないときもある。
 歩を進めるたび、背筋がのびていく気がした。ささやかな高揚と、なんとなしの誇らしさ。この通路から連想するのは空港だ。
 夫が元気だったころ、よくふたりして海外旅行に出かけた。目をみはるような景色や、舌が引っくり返るような料理、ありふれた路地にも発見があった。おなじ場所をぐるぐる回るタクシー運転手、汚いミサンガを売りつけてくる路上販売人。笑えない危機もあった。言葉すら通じない見ず知らずの他人に助けられ、優しさが世界をつないでいるのだと半ば本気で思ったりした。
 三ツ星ホテルの値段でウサギ小屋のようなホテルをつかまされたことだって素敵な経験と断言できるが、しかしいちばん楽しかったのは、これから出発するという直前、搭乗口へ向かうひと時だった。「はしゃぐんじゃないよ、みっともない」とたしなめてくる夫こそ、じつは舞い上がっていたことを菊乃は知っている。
 事業を息子のひでに譲ってから夫が亡くなるまで、十年にも満たない期間ではあったけど、思い出はいまも輝いている。
 それでというわけでもないが、日曜日のお出かけを、菊乃は精いっぱいお洒落しやれしてのぞもうと決めていた。
 秀樹の嫁は「おめかししてウォーキングですか」と顔をしかめ、孫娘は「ウォーキングじゃなくてランウェイだもんね」とおだててくれる。いつの時代、どこの国でも嫁はうるさく、孫はかわいいものなのだ。
 やれやれ。ようやく着いたね。
 連絡通路の先にお出迎えのオブジェが見えた。本館と別館にわかれたスワンの、駅と直結する別館エントランスだ。円い噴水のウエルカムオブジェはたいした大きさでなく、水柱も気持ち程度の高さしかない。石造りのへりもいささか安っぽいのだが、決まった時刻に作動するからくり仕掛けのおかげでぎりぎり面目を保っている。正式名称は「ジークフリートの泉」。常連客はたいていみんな「王子の泉」と呼んでいる。
 それを横目に、菊乃は進んだ。
 エントランスを抜けると一気に視界が広がった。目の前にはエスカレーターを備えた吹き抜けスペースがある。そこから左右へ木目調のタイルの床がうんとのび、そこらじゅうに店舗が連なっている。上下左右、どちらを向いても開放感でいっぱいだ。デジタル案内板が映す丸い全体図にびっしり記された店名は、字が細かすぎて菊乃の目をチカチカさせる。別館とはいえど一階から三階までくまなく回ろうと思えばゆうに数時間はかかるだろう。通路や壁ぎわに置かれたソファやベンチは飾りではなく、切実なセーフティネットなのである。
 菊乃はエスカレーターの吹き抜けをたくさん通る順路で歩く。ひらけた空間が気持ちいい。昼前でさほど混んでもおらず、気分はショッピングモールの女王様だ。無人で動くエスカレーターを眺められるのもこの時刻ならではの特典だった。
 しばらく行くとふたたび連絡通路が現れる。眼下の交差点を斜めに渡り、別館から本館へ。
 ひときわ大きな吹き抜けスペースにたどり着く。広さだけなら別館も負けていないが、ここはちょっと迫力がちがう。胸の高さくらいあるフェンスから下をのぞくと、一階の広場は白を基調としながら暖かみのある色合いで、床は巨大な円をつくっている。三階を越え天井まで、空間がすこんと抜けている。壁の装飾もやたら細かく凝っていて、バロックだかロココだか菊乃にはわからないが、ともかく由緒ある塔だとか神殿といった風情だ。エスカレーターすら、ここでは古代が生んだ奇跡に映るからおもしろい。
 そしてここにもからくり仕掛けの噴水がある。広場の真ん中に置かれたそれは王子の泉よりひと回り大きく、素材もデザインも二倍か三倍こだわって、おそらく値段もぜんぜん高い。
 スワン名物、「オデットの泉」。みなの呼び名は「白鳥の泉」。ゆえにここは白鳥広場。まあ、そのまんまだ。
 白鳥広場はソファやベンチがたくさん置かれ待ち合わせの定番スポットになっている。特設ステージを組みヒーローショーやコンサートを催すこともある。菊乃もたまに足を運ぶが、数分眺めて立ち去ることがほとんどだ。やはり人ごみは苦手である。
 見上げると、ガラスの天井。ほかの場所より一段高くなっていて、そこから降り注ぐやわらかな陽の光を浴びていると何やら荘厳な気分になってくる。
 休憩もかねてお手洗いに寄り、壁ぎわのソファに腰かけて息をついてから、菊乃は後半戦にのぞんだ。
 白鳥広場から奥は、長い直線的なつくりになっている。二階と三階の通路は真ん中を吹き抜けが貫いていて、左右にわかれたフロアの行き来には渡り通路を使わねばならない。ほどよい間隔でエスカレーターが設置されており、この場所の吹き抜けはちょっと大きくなっている。
 そろそろ人が増えはじめていた。家族連れやカップルに追い抜かれるたび、歳だねえと、がっかりする。
 白鳥広場から数えて四つ目のエスカレーターを過ぎる。この先が、菊乃の目的地だ。
 本館のどんつき。五つ目のエスカレータースペースの向こうに、透明な筒がすうっと空へのびている。五階ぶんくらいの高さだろうか。このエレベーターの頂上に、菊乃が目ざすスカイラウンジはあるのだった。
 ふう。さすがにくたびれた。悔しいが、ウォーキング呼ばわりもあながち的外れじゃない。
 呼んだエレベーターを待つあいだ、菊乃は一階を見下ろした。
 最後の噴水は、白鳥の泉に負けぬ大きさと立派なつくりをしていた。待ち合わせに便利な広場になっている点もおなじだ。ただ噴水の、水を囲うへりが、黒い。床のタイルもそれに合わせモノトーン調になっている。例のごとくここを「オディールの泉」と呼ぶ者はわずかで、通称は「黒鳥の泉」だ。
 到着したエレベーターに乗り込む。箱が屋根を越え、上空へのぼってゆく。本館の最北端にそびえるエレベーターの筒から見ると、正反対の屋根がこんもり盛り上がっているのがわかる。白鳥広場の一段高いガラス天井だ。
 上から見ると細長い長方形の建物にすぎないが、じつはちょっとした遊び心が隠されている。エレベーターの筒がのびる北側の地上から南側の盛り上がった最上部まで、側面の白壁に銀色の線が斜めに走っていて、これを遠くから眺めると羽をたたんだ鳥の身体に見えなくもない。つまり建物を白鳥に見立てた趣向になっているのだ。となればこの筒はまっすぐのびる長い首。道路を挟んでとなり合う巨大な貯水池を湖とみなせば見事、「白鳥の湖」が出来上がる。ついでにいうと緑と茶色の外壁をもつ別館は白鳥が住む森のイメージなのだとか。ここまでくると呆れるより可笑しさが勝り、菊乃はこの冗談をわりと気に入っている。
 エレベーターがスカイラウンジに到着した。乗ったときと逆側のドアが開く。白鳥の頭は全面ガラス張りの壁から四月の陽光を受け入れていた。二十くらいあるテーブルに客の姿はまばらだ。
 厨房との仕切りになったカウンターへ目をやったとき、むっと眉間にしわが寄った。制服姿の若いウェイトレスが、おなじような顔をした。またきたのか、という顔だ。
 ふん。またきたよ。文句でもあるのかい?
 ぷいっと視線を外し、案内も待たずに店の奥──白鳥のくちばしのほうへずかずか進む。年明けから勤めだしたらしいお団子頭の彼女とは、どうも馬があわない。さっさと辞めてしまえばいいのに──。
 こうして午前十時二十分現在、菊乃は貯水池を見下ろす窓ぎわのいつもの席に腰をおろし、お団子頭の彼女が注文をとりにくるのを忌々しげに待っているのだった。

>>#4へつづく ※9/19(木)公開
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