【集中掲載】狙撃者の探索を命じた村重だが――。 堅城・有岡城が舞台の本格ミステリ第四弾! 米澤穂信「落日孤影」#1-2
米澤穂信「落日孤影」
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※本記事は連載小説です。
>>前話を読む
あの日十右衛門は、御前衆に持鑓を持たせて瓦林越中を囲み、村重の合図で討ち果たせと命じられた。本曲輪へ渡る橋で諸将を分断する村重の策が図に当たり、三々五々登城してくる将の中から
あれから一ト月、たしかに暑気は緩み、雨は冷たいものへと変じた。
村重が言う。
「おぬしら御前衆が倒れ、儂はいち早く越中に近づいた」
「は。御前衆一同、不覚に思うております」
「そのようなことを責めはせぬ。御前衆は雷に近く、儂は遠かったというだけのことよ。──儂は越中の息が絶えておるのを確かめた。この鉛玉に気づいたのは、その折のことじゃ」
少しことばを切り、鉛玉を見据えて、村重は続ける。
「これは、越中のすぐ近くに撃ち込まれておったものじゃ。二寸ばかり地にめりこみ、掘り出そうとすると、まだ熱かった」
「されば……」
と、信じがたい思いで十右衛門が言う。
「殿は、雷が落ちる前に、何者かが越中様を撃ったと
「雷の前であったか後であったかは知らぬが」
村重は言って、鉛玉を握りこむ。
「そう、何者かが越中を撃ったぞ」
十右衛門は思わず勢い込んだ。
「しかし、なにゆえ」
対して、村重はどこかしら力のない声で答える。
「わからぬ。越中に生きておられては困る者の仕業でもあろうか」
「越中様は織田に通じておりました。すると、ほかに織田に通じた者の仕業にござりましょうや」
村重は首を横に振る。
「そうかもしれぬし、そうでないかもしれぬ。……間違いないのは、儂が越中に成敗を下すべきところ、何者かがそれを妨げたということよ」
それで十右衛門はようやく、村重が何を危ぶんでいるのかを知った。
およそ武士の家にあって、武士の行いを裁き、処断することが出来るのは頭領だけである。瓦林越中に不審の振る舞いがあったならば、その罪を明らかにして罰を下すことが出来るのは村重だけなのだ。村重が越中の罪を問うている時に横から越中を撃つというのは、村重の権を侵している……それは、明らかな造反に当たる。
大広間はほの暗さを増していく。濡れた体のせいか、十右衛門はぞくりと寒気を覚える。
村重は言う。
「この有岡城には面従腹背の
村重は立ち上がった。いっそう深く頭を下げる十右衛門に、掌の中の鉛玉を渡す。
「あの日、何者が越中を撃ったか、突きとめよ。誰がそれを命じたか、そやつの狙いは何か。わかることはすべて調べよ」
十右衛門は鉛玉を
「は」
「出来るか」
「はっ」
かれらしい、常の通りに迷いのない
だが村重は、自らが命じたことでありながら、十右衛門がそれらを本当に調べ上げられるかは疑わしいと思っていた。越中が死んでから一ト月が
3
数日が過ぎ、月が改まって八月となる。天正七年の八月は、宣教師が用いるユリウス暦ではほぼ九月に当たる。夏は終わりつつあった。
昨年十一月、荒木家は織田を離れて
天守に集まる諸将は具足のよごれ、服のほつれを気にせず、
「陸が塞がれても、海がござろう。
熱を込めて言うのは野村丹後、味方を
「丹後殿の申すとおり、毛利の背信は明らかにござる。されどわれらだけで一戦と申されても兵が足り申さず、鉄炮が足り申さず、加えて織田はとうに付け城を築き終えておる。多数が籠る城に少ない兵で挑めと申されても、それは武士の面目にはあらで、いささか
思案顔で池田和泉が言う。老年に差し掛かった和泉は、華々しい手柄を立てたことはないが、物事の算段がうまい。武具兵粮から竹木に至るまでの差配を任されているだけに、城中に和泉とかかわりのない将は一人もいない。村重が頭領では先行きがあやしいと和泉が言えば、同心する者も多いだろう。和泉が逆心したということはあるだろうか。とても、村重を追って自らが頭領になろうという
「さて、われらは毛利に味方したと言うが、そうではなかろう。毛利といい
荒木久左衛門は、待てということしか言わない。待つという策は何もせずともよいので、これでなかなか諸将の受けがいい。久左衛門が村重に背こうとしているということは、あるだろうか。たしかに久左衛門はもっとも村重に近い将で、人望も厚い。疑わしいと言えば、これほど疑わしい者もいないだろう。ただ、村重に近すぎる、とも言える。久左衛門が村重を追い落とそうとするのは、自らの足元を掘るようなものではないか。
「おのおのがた、何を仰せか!」
と声を荒らげたのは、
「毛利と一味同心してこの有岡城にて信長めを討つというのは、殿の立てられた遠大な策。その策は、いまだ何も破れてはござらん。われら家臣は殿の策を信じ、その成就に努めることこそ本分ではござらぬか。それがしは殿を、
評定の場は、しんと静まった。新参者の新八郎の放言を
今日の評定も、昨日と同じであった。戦は
毛利に付くことを決めたのは、村重である。毛利の不実を責めるのは村重の判断を責めるに等しい。諸将はそのことに気づいていないのだろうか。気づいていてなお、村重の代わりに毛利を
──村重には、どちらともわからなかった。
評定を終え、村重は御前衆に守られて屋敷へと戻る。
諸将の前に出る折、村重は籠手や脛当てなどは身に着ける。矢玉が飛ぶ場所でもないのに
武士は死に近い
村重の沈黙に
「だしの方さま……」
千代保はその一言で、ふつっと念仏を止めた。仏像に向かい合ったままで言う。
「なあに」
「殿が」
首を巡らし、千代保は振り返った。長い籠城にもかかわらず、やつれの見えぬ若い横顔である。千代保ははっと目を見開き、仏像の正面を村重に譲る。
「これは殿。申し訳も」
「なに。大事ない」
村重は仏ではなく、千代保の正面に
「熱心よな。なんぞ、願でもかけておったか」
そう村重が言ったのは、軽口であった。だが千代保は思いがけず黙り込む。やがて千代保は蚊の鳴くような声で、
「
と言った。
「菩提を弔っておりました」
「何者の菩提を」
「
「何十何百とおろう」
「はい」
村重は仏像を見た。南都仏師の手になる、
千代保は
「門徒は菩提を弔わぬと思うておったが」
一向宗は、人の祈りの効験を認めない。死者を救うのはただ
千代保は目を伏せた。
「さようにござります。……ではござりますが、殿の御前ではばかりもござりまするが……」
体を小さくして、千代保は言う。
「御城の苦難を見ながら、何もせずにはおられませず。父が見たら、さぞ叱りましょう」
一向門徒である千代保が釈迦牟尼仏の像の前で死者の菩提を弔うというのは、たしかに宗門の理屈に合わぬことである。千代保はひどく不面目に感じているようだが、その折々で効験のある神仏に願をかけるのはむしろ世間並のことである。村重は言った。
「父御の仰せはわからぬ。儂は、我が有岡城の者どものために祈ってくれたことを
千代保はと胸を突かれたような顔になり、ゆっくりと床に手をつき、首を垂れた。
「もったいのうござります」
「念仏は
「もとより、唱うべき数に定めなどありませぬゆえ」
「そうか。門徒の教えには疎くてな」
手を戻し、千代保は顔を上げて
そこで村重は、ふと思い当たった。千代保を室に迎えてから、織田を離れると決めてから、籠城が始まってから……いつでも訊けたことであるのに、一度も尋ねなかったことがある。いまが──いま、だと。籠城九ヶ月、将卒ともに
「千代保。おぬしは儂に、念仏を勧めぬのだな」
「はい」
「それは、なんぞ故あっての事か」
問われ、千代保は戸惑いを見せた。千代保はおのれの存念というものをほとんど語らない。問われても、答えていいものか迷うようなそぶりであった。
「構わぬ」
村重がそう促すと、千代保はなお迷う様子ながら、おずおずと口を開いた。
「むろん、父からは、折ごとに殿に念仏をお勧めするよう命じられてはおりました。されど池田に参じ、またこの伊丹に移って殿の御役目を拝見するにつけ、後生のためとお勧め申し上げても殿にはかえって御厄介と思い、今日までそのことは申し上げずにおりました」
「厄介とは、なんのことか」
「さればにござります」
と、涼やかな声で千代保は言う。
「殿は荒木家の御大将におわします。仏のことは、力なき民草には救世の約、弓馬の武家には今生の
村重は、笑いたいような心持ちになった。たしかにそうである。頭領が宗門を選ぶのに、我が身の現世利益、極楽往生ばかりを考えるわけにはいかない。
高山大慮の前の主君、
村重も同じであった。かりに千代保が一向宗を強く勧めてきたならば、その教えに理解のあるふりぐらいはしただろう。だが、改宗はしなかった。この北摂にあって一向宗に参じれば、誰もが、荒木は本願寺の軍門に下ったと見なすからだ。
それを千代保が見抜いているとは、村重もついぞ思わぬことであった。
「違いない」
と村重は言った。
「武略じゃな。座禅も題目も武略じゃ。戦に参ずれば後生御免、進めば極楽
千代保は
「
「馬鹿な」
村重も、つい釣り込まれて
「この乱世、心愚かな者を
「それはもう、どこにでも」
その時、持仏堂の外から足音が近づいてきた。聞き覚えのある小者の声が、「申し上げます」と言う。
「何じゃ」
「郡十右衛門殿が参じ、急ぎお目通りを願っております」
「すぐに行こう」
そう答えて小者を下がらせ、村重は立ち上がった。阿古々が平伏する横を通り過ぎながら、村重は千代保を振り返り、
「されば、武略に参ろうか」
と言った。
▶#1-3へつづく
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