米澤穂信「遠雷念仏」
1
夏は死の季節である。
熱波は生あるものを仮借なく責め立て、老いた者、病んだ者、幼き者の命をぽつりぽつりと奪っていく。ひとたび生が失われれば、逃れようのない温気が速やかに骸を腐乱させる。水は淀み、菜は萎れ、実りの秋はまだ遠い。夏はまさに、死の季節だ。しかし天正七年六月、摂津国有岡城を死の沈黙が覆っているのは、夏のせいばかりではなかった。
城は敵に囲まれている。天下をほぼその手中に収めた織田家が兵と金を注ぎこみ、有岡城を囲んでいる。弓や鉄炮は届かず、不意の夜討ち朝駆けも禦げ、しかし有岡城の何をも見逃さぬように付かず離れず、一里ほどの間をおいて幾つもの陣を敷いているのだ。
昨年極月の、たった一度の力攻めを除いて、織田はまともには有岡城を攻めてこない。はじめ有岡城の将兵は織田の臆病を笑い、有岡城の堅さを誇った。しかし半年も籠城を続ければ、誰もが薄々ながらに察し始める。──織田が攻めてこないのは、攻めても勝てぬからではない。攻めずとも勝てるからなのではないか……と。では織田が勝った時、有岡城の諸人はどうなるのだろうか。死の気配は濃い。
ある月のない夜、有岡城主の荒木村重は、自らの屋敷で家中の池田和泉に会っていた。和泉は城内の兵粮武具を差配し、城中の見廻りも任ぜられている。
「ひとりふたり、斬ったそうだな。仔細を言え」
村重がそう命じると、和泉は平伏したまま答えた。
「は。それがしの手勢が城内警固のさなか、煙硝蔵近くにて曲者ふたりばかり見つけ誰何したところ、そやつらは脱兎のごとく逃げ出しましてござりまする。兵どもが追いましたるところ、曲者どもはいかにも城中不案内の様子にて、大溝に行く手を阻まれ進退に窮し、刀を抜いて出合となった由。味方は多勢なれど曲者も必死にて、やむなく両人討ち取ってござりまする」
和泉は詫びるように言う。曲者は能う限り生かして捕らえよ、と村重が命じていたからである。
「そうか」
と村重は言った。
「煙硝蔵は、大事ないか」
「油が撒かれておりました。警固の者どもがいま少し遅ければ、取り返しのつかぬところ」
村重は頷き、物は言わなかった。このところ、織田の手の者が城中を跋扈している。曲者を見たという報せは毎日のように伝えられるし、何者かに討たれた味方の骸が見つかったことも一度や二度ではない。
有岡城は堅城だが、伊丹の町をそのまま城内に取り込んだためあまりに広く、いかに兵を配しても長大な柵木のすべてを見張ることは出来ない。幾人がこの有岡城に忍び込んでいるのか、見当もつかぬという有様であった。それは戦の初めからわかっていたことであり、これまでは警固を厳にして大事を禦いでいたが、ここに来て敵の跳梁を許している。兵の気が緩んでいる、と言えば言えるだろう。だがそれ以上に恐れるべきは、兵が自棄になることである。どのような戦も、兵どもがどうせ無駄だと思ってしまえば、そのようになる。
「煙硝蔵には守りの兵を置いてあったはずだ。そやつらはどうした」
「は」
和泉はそっと、ひたいの汗をぬぐう。
「足軽がふたりばかり警固いたしおるところ、見知らぬ者どもに酒を勧められ、その場を離れたとのこと。両人とも、捕らえておりまする」
「そうか。斬れ」
「仰せの通りにいたしまする。斬首でよろしゅうござりまするか」
和泉がそう訊いたのは、磔や火炙りなどの惨刑に処さなくてもいいか、という確認のためである。村重は物憂げに、
「そうせよ」
とだけ言った。
どこか西の方で雷鳴が響き、その余韻が村重の屋敷に届く。雷の多い年は豊作だという。土地を広く囲い水に恵まれた有岡城には田畑もあり、秋になれば新米が実る。有岡城はそれまで持ちこたえるだろうか。
案ずることはない、と村重は思う。有岡城は落ちぬ。兵粮も玉薬も備えは充分で、まだ幾月、幾年であろうと籠もっていられる。……考えるべきは、そうして籠城を続けた先に、本当に勝利があるのかということだ……。
「雷が」
と、和泉が呟く。
「雷が、いかがいたした」
「いえ、埒もなきこと」
「そうか。下がれ」
「は」
対面の間に一人残り、村重は和泉が言わんとしたことがわかるような気がした。なぜなら村重自身、おそらく同じことを考えていたからだ。
雷が安土に落ち、信長を焼き殺してはくれぬか……。
村重は薄く笑った。おのれの胸に浮かんだ想念そのものが、はっきりと証立てているではないか。この戦は、もう終わりなのだ。
翌日。本曲輪天守で開かれた軍議の場で、煙硝蔵が狙われたこと、守りを懈怠した足軽を斬ったことが諸将に伝えられた。居並ぶ諸将は、物も言わない。誰もが、そのようなこともあろう、と受け止めているのだ。村重が見張りを厳にせよと命じた時でさえ、どこか聞き流すような気配がないでもなかった。しかしさすがに村重が低い声で、
「その話はそれまで。次に、皆の者に言うことがある」
と前置きすると、将たちは容を改めて聞き入った。
村重が言う。
「宇喜多が織田についた。備前美作は織田に転んだ」
やはり今度も、口を開く者はいなかった。重い静けさが天守を満たす。
宇喜多の寝返りは、すでに広く噂されていた。向背常ならぬ宇喜多のこと、さもあらんと多くの者が頷く一方で、それは空説に過ぎぬと唾を飛ばして言い募る輩も少なくはなかった。信じたくなかったのである。宇喜多が織田につけば、毛利勢が陸路駆けつけることは絶対に不可となる。
今年の三月、敵将滝川左近の手の者が、村重に宛てて矢文を射込んできた。そこには宇喜多背信の旨が書かれており、村重はその一文が家中に漏れぬようにと腐心した。城中の動揺を狙った空文のおそれが否めなかったからだ。それから三ヶ月、織田の目を盗んで尼崎城と文をやり取りし、宇喜多の寝返りはどうやら間違いないとわかった。同様の噂が城内に広まっているいま、事実を伏せておく意味はもはやない。
「されば」
しわがれた弱々しい声で、荒木久左衛門が言う。
「殿。いかがなされまするか」
それが問題であった。宇喜多が寝返ったいま、有岡城はどうすべきか。村重は鷹揚に言う。
「思案はある。じゃが城の行く末のことなれば、皆にも考えがあろう。存念あらば、聞こう」
上座の方で、両の拳を床につけた者がいた。
「恐れながら」
若武者である。これは北河原与作といって、村重の先妻の縁者にあたる。北河原家は伊丹家に属していたが、村重と縁つづきであることから主の疑いを招き、追放されたという経緯があった。村重の先妻というひとは既に亡く、北河原家も当主を戦で失って衰えたが、与作は御前衆の旗奉行として懸命の働きをしている。馬術においては家中随一、織田に遮られた尼崎城との往来を幾度も果たした、末恐ろしい若者であった。与作は言う。
「尼崎城の毛利勢は、すでに宇喜多に備えて引き上げておりまする。城中は人無きに等しく、当城への援兵など思いもよらぬありさま。殿、どうかご賢察あれ。毛利は参りませぬ。毛利なしでは戦になりませぬぞ」
尼崎城をその目で見てきた与作の言である。諸将もやや気を吞まれた様子だったが、ほどなく、与作を笑う声が上がった。五十がらみの、僧形の男だ。
「殿。仮に与作めの申すとおり尼崎が空城だとしても、早合点はなりませぬぞ。軍兵は波のごとし、返してはまた寄せるものと承知しておりまする。大坂は堅固、丹波も支えておりますれば戦の趨勢は何も変わってはおらず、よし山陽道は宇喜多に塞がれるとしても、毛利には海路がござれば案ずるほどのことはなかろうと存じまする」
これは瓦林越中といい、荒木家中屈指の大身、瓦林越後入道の親族に当たる。瓦林越後の娘は北河原与作に嫁いでおり、与作と越中も親類に当たるというのに、この二人はどこかよそよそしい。越中は与作を、衰えた北河原家の小せがれが一端の武者らしい顔をすると侮る風であり、与作は越中を、瓦林の家名に胡坐をかいて勇ましいことを放言するつまらぬ男と見る風である。越後入道が健在ならこの二人が角突き合わせるようなことはなかっただろうが、あいにくかれは病の床についており、軍議にも長く出ていない。