【集中掲載】城内の裏切り者は誰なのか? 堅城・有岡城が舞台の本格ミステリ第四弾! 米澤穂信「落日孤影」#1-1
米澤穂信「落日孤影」
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※本記事は連載小説です。
1
夜風が涼を含むようになると、天下の民はわずかに息をつく。実りの秋は遠からじ、まだ油断は出来ないが、どうやら一年かろうじて食を
有岡城は土地を大きく囲い込んでいて城内には田畑もあるが、そこで
村々では毎年秋に稲を刈り入れて米にして、米は売られて銭になる。武士はその銭を取り立て、あるいは武具に、あるいは寄進に、あるいは茶道具に換え、そして米を買う。村では米を売って銭に換え、武士は銭を払って米を買うのだから、米問屋は薄利でも商いが成り立つ。ところがこのところ、肝心の銭の出回りが悪い。
七月下旬の晴れた日、村重は城内を見舞った。半具足で馬に
万人が死に絶えたような静けさの中、村重の馬が歩む
一行はやがて町家を抜け、城の南側、
「殿、いかに」
「……いや。行こう」
そう言って村重が道の先に目を戻すと、
「おぬしら」
村重が声をかけると、足軽らは死の予感でも覚えたように、いっそう深く首を垂れる。それに構わず、村重が訊く。
「そやつは何者じゃ。直答を許す」
足軽らは目を交わし合い、一人が答える。
「
やはりか、と村重は思った。
武士のみならず庶人にとっても、身内を殺されることは決して許せぬことである。一人殺されれば一人殺し、二人殺されれば二人殺さなくては臆病の
足軽らは、無腰の男を
「誰から誰へ出す解死人じゃ」
村重が訊き、足軽は
「は。
「丹後と和泉だと。
足軽はひたいを地べたに打ちつけた。
「お許しくださりませ。わしらはただ届けよと命じられたのみにて、何も存じませぬ」
村重は馬上から足軽の頭を
2
二日後。雨の降る夕刻、御前衆の組頭を務める
雨の音が騒がしい。十右衛門は
「聞こう」
「は。解死人の仔細、突きとめてござりまする」
村重は十右衛門に、野村丹後が解死人を出すに至った仔細を探るよう命じていた。十右衛門は常のようにそつなく役目を果たし、雨中をいとわず言上に参じたのである。
「面を上げよ。近く寄れ」
十右衛門はことばに従い、
「されば、いかに」
「は。事の起こりは四日前、兵粮を配る折。池田和泉様御家中の組頭が雑兵を用いて兵粮を鵯塚砦に運び、軍法通りに一人五合の米を配らんといたしたところ、野村丹後様の足軽どもが不平を鳴らし、五合では足りぬ、もっと
一日五合の米は、足軽に配る量としては最少に近い。合戦に当たっては、その倍を配ることも珍しくはない。先の見えぬ籠城の中で、武具兵粮を差配する池田和泉が配る量を絞るのはもっともだが、五合では不満を
「寄越せ、寄越さぬの言い争いから
「和泉は」
「解死人を送り返したと聞き及んでござりまする」
詫びとして送られた解死人は、殺しても構わぬし、返しても構わぬというのが古法であった。
十右衛門が言を継ぐ。
「昨日、荒木
村重は渋い顔になる。
「久左衛門がか」
「は」
村重は、その話を聞いていなかった。荒木久左衛門は村重の信頼厚い老臣であり、今日も顔を合わせてことばを交わしている。だがかれは、丹後と和泉のあいだに
領内の諍いは村重が理非を見定める決まりである。村重に届け出ず
眉根を寄せ、
「……気運が似ておる」
「気運にござりまするか」
十右衛門が
「さよう……
ぎくり、と、十右衛門が身をこわばらせた。雨の音が高い。
勝正が頭領に収まる折には、
だが、池田家の諸将──つまり北摂に先祖代々の土地を持つ国侍たちの心は、いつからともなく、勝正から離れていった。やがて勝正はおのれの家臣に放逐され、失意の中で死んでいった。
「殿のおことばではござりまするが」
十右衛門が声に
「左様なことはござりますまい。たしかに、人死にを出しながら殿に言上せぬ振る舞いは良からぬことと存じまするが、それも殿に無用の手間をかけさせぬためにござりましょう。久左衛門様は申すまでもござらず、野村丹後様も池田和泉様も、無二の忠臣にござりまする」
「儂は二日前、鵯塚砦を見舞おうとした」
十右衛門のことばが耳に入らなかったように、村重は言う。
「城外を見れば夏草が茂り、寄せ手の竹束が打ち捨てられておった。……儂が何を言わんとしておるか、十右衛門、わかるか」
「は、されば……どなたが預かる柵かは存じませぬが」
と、十右衛門は慎重に答える。
「左様なことは、いささか、疎略かと」
村重は頷く。城を守るには、むろん、寄せ手を近づけさせぬことが第一である。そのためにはいち早く敵を見つけ、矢玉を浴びせねばならない。夏草が茂っていれば敵に気づくのが遅れるし、竹束が捨て置かれていれば、寄せ手に繰り返し使われてしまうだろう。城兵は草を刈らねばならず、仕寄せ道具は壊さねばならない。朝夕の薄闇にまぎれて行えば、それはさほどの難事ではない。戦に備えて見晴らしをあけるのは、村重が繰り返し諸将に命じていたことでもある。
「疎略にされておるのは、城の守りではない」
と、村重は言う。
「油断なく守れという儂の下知──それよ」
あの時もそうだった、と村重は思う。勝正が放逐される前、柵木の修繕は遅れ、御貸具足は数が
勝正は希代の名将ではなかったかもしれないが、愚将でもなかった。行き届かぬところを見つければ手当を下知し、とはいえあまり細かなことは言わずに諸将に預け、油断なきように務めよと日々言い聞かせていた。しかしかれのことばは、だれにも重んじられなかった。
この有岡城で夏草が伸びていることや、久左衛門が喧嘩を告げ知らせなかったことも、たしかに些事ではある。だが、このような些事が先ごろまで見られなかったことも、間違いないことであった。村重は言う。
「ここ一ト月、諸将が務めを怠り、言上を控えるようになった。ここ一ト月──思うに、あの日からであろう」
一ト月前の「あの日」がいつを指すのかは、十右衛門にもはっきりとわかった。南の庵で旅僧と御前衆が殺され、二人を殺した
村重は
「恐れながら、殿。なにぶん長陣にござれば気の緩みということも少しはござりましょうが、殿の御下知があらば、将卒みな身を慎んでそれに従いまする。我ら荒木家中、みな最期まで殿をお支えする覚悟。どうか、お疑いになりませぬよう」
決死のことばに、村重は何も言わなかった。雨の音ばかりが大広間に満ちる。十右衛門の顎の先から、滴が落ちる。その滴が雨であったか、おのれの冷や汗であったか、十右衛門にはわからなかった。
ふ、と村重が息をつく。その面に怒りはない。
「十右衛門。儂が乱心し、いわれもなき
「まさかのこと。滅相も」
体を小さくして平伏する十右衛門を村重はしばし見下ろし、やがておもむろに、懐から何かを取り出した。
「あの日なにかが変わったと考える、
村重の手の平には、小さな玉が乗っていた。離れた場所からではあったが、十右衛門は目を凝らしてそれを見る。
「
「そうじゃ。あの日のことを、よも忘れはすまい。瓦林越中が死んだ日のことを」
主に言われ、十右衛門はその日のことを思い出す。入道雲が湧き立ち、遠くで雷が鳴る、蒸し暑い日であった。
▶#1-2へつづく
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