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試し読み

【試し読み】『米澤穂信と古典部』収録、〈古典部〉新作短編「虎と蟹、あるいは折木奉太郎の殺人」

〈古典部〉シリーズについて「広く深く」網羅したファン必読の一冊、『米澤穂信と古典部』が本日発売となりました。発売を記念して、本書に収録された書き下ろし新作短編「虎と蟹、あるいは折木奉太郎の殺人」の試し読みを公開いたします。この機会に〈古典部〉の世界観をぜひお楽しみください。

 悪いことはするものではない。過去はいずれ露見する。若気の至りだ、あの頃は誰だってそうだっただろうと必死に弁解しても、動かぬ証拠の前には情状酌量など望むべくもない。むかし仕掛けた罠に自分で引っかかるようなもので、このあいだ読んだ文庫本から引用するなら、端倪(たんげい)すべからざる運命は実にどこに落とし穴の口を開けているか、わかったものではないのだ。俺はできるだけ清く生きよう、その決意が得られただけでも、今日この場で旧悪を晒される精神的拷問に耐える価値はあるというものだ。
 ある火曜日、地学講義室には珍しく古典部の全員が揃っていた。これにも、どうしてこの日に限って揃うのか、たいていは二、三人しかいないじゃないかと歯がみしたくなる。一年生の大日向((おおひなた)が勢い込んで、
「持ってきましたよ!」
 と((くだん)の冊子を机に広げたときには、俺はなんというか、これまで捨てて、忘れてきたものに待ち伏せされていたような気さえした。
「へえ、懐かしいもの持ってきたね。そういえばあったよ、こんなの」
 軽い口調で里志さとしが言う隣で、伊原((いばら)が感心している。
「見つけたんだ。ひなちゃん、物持ちいいね」
 大日向はわざとらしく胸を張った。
「でしょう。友達にもよくそう言われます」
 してみると、この冊子が放課後の地学講義室に現われたのは、伊原の差し金であったらしい。胸の内から湧き上がる不安を押し殺し、手元の本に集中しようとするも、うまくは行かない。
 教室の後ろの方に陣取っていた千反田(ちたんだ)が席を立ち、大日向が机に置いた冊子を覗き込む。
「『読書感想の例文』……。なんですか、これ」
「ええと、これはですね」
 言いつつ、大日向はちらりと伊原を見る。伊原が後を続けた。
鏑矢(かぶらや)中で、夏休み前に配られてたの。いきなり感想文書けって言われても困るだろうから、去年の感想文を参考にできるように、って」
花島(はなしま)先生がやってたんだよね、それって」
 里志がそう付け加えると、大日向が「はなっち! 懐かしー」などと言っている。そんなふうに呼ばれていたのか……。
「花島先生というと、鏑矢中学で国語を教えている先生ですね。折木さんの読書感想文を市のコンクールに送ったと聞きました」
「そう、そのひと」
 里志は得意げに頷いた。
「言葉の正確性とか構文の正しさとかには厳しかったけど、それを踏まえた上で、読書感想文は自由な解釈で書いてほしいって言ってた。この冊子は、なんていうかな、これぐらい自由でもいいんだっていう極端な例だったって記憶があるよ。三年間、毎年もらった。どこの中学でもやってることだと思ってたけど、違うみたいだね」
印地(いんじ)中では、こういうものはなかったです」
 現在の古典部員の中では、千反田だけが出身中学が違っている。
福部(ふくべ)さんも参考にしたんですか?」
「面白かった記憶はあるけど、参考になったかどうか……。というか、僕は読書感想文は書かなかったと思う」
 堂々と言うようなことでもないだろう。伊原がやれやれとばかりに首を横に振った。
「あたしは読みましたよ。正直、毎年楽しみでした」
 大日向の声は、いつも大きい。
「国語は割と好きなんですけど、これ読むと、あたしって頭かたいなあって思わされるんです。ふつうの感想しか書けないんですよね」
「そういうことなら」
 冗談めかして、千反田が微笑む。
「わたしも負けません」
「あはは、常識人のかなしさですね」
「そう思います」
 大日向と千反田が常識人と言われると、どことなく頷けないものがある。まあ、里志あたりと比べれば、確かに常識的ではあるだろう。
 見るともなく窓の外に目をやると、グラウンドに運動系の部員たちが散らばっていた。季節は春で、まだ桜が散り残っている。新入部員を確保した部活では、一年生に心得を教えている段階だろう。古典部には教えるべきノウハウも怪我を避けるための注意点もないので、こうして意味があるようなないような会話を交わすぐらいが関の山だ。
 千反田が冊子を手に取り、ページをめくる。
「ラン・チチ・チチ・タンを読んで。あら、書いた人の名前はイニシャルなんですね。K・B、思い当たる方は、二人しかいませんが」
「こっちのは名前がありますよ。青木薫子(かおるこ)
 なにしろ下級生に見られることが前提だから、冊子への収録を嫌がる生徒も多かった。市のコンクールに出るというならやむを得ないが、後輩の晒し者になるのはごめんだ、というわけだ。冊子の目的は読書感想文を書くための参考にしてもらうことであり、書いた人間の名前は別にいらない。そこで、名前が載ることを希望しない生徒は、イニシャルで掲載されている。
「それよりも」
 言いながら、大日向はそっと冊子を千反田の手から取り戻す。数ページめくって、俺が内心言わないでくれと願っていたその言葉を、堂々と口にする。
「あたしがお見せしたいのは、これです。山月記を読んで……H・O」
 それだけ見せて、大日向は冊子を伏せた。
「鏑矢中学出身で、H・Oのイニシャルを持つひと」
 千反田に続いて、伊原も呟く。
「ひなちゃんの一年先輩。つまり、わたしたちと同学年」
 里志が首を捻ってみせる。
「H・O……ホー? ホー、ねえ。山月記なんていう、有名だけど短くて、早く読めそうなものを読書感想文の課題に選びそうな、ホー……」
 どいつもこいつも、上手に人をいたぶってくれる。俺は文庫本を机に伏せ、断固として言った。
「俺じゃないぞ」
 大日向が手を打って喜んだ。
「そうなんですか! 先輩のでないなら、読むのも気が楽ですね」
 言葉に詰まった。
「噓だ。本当は、俺のだ」
 里志が苦笑いし、伊原が腰に手を当てる。
「知ってたよ、ホータロー」
「なんでそんなわかりやすい噓つくのよ」
 慈しむような笑みを浮かべて、千反田が小首を傾げた。
「ちょっと恥ずかしかったんですよね、折木(おれき)さん」
 わかっているなら、言わなくてもいいだろうに。
 読みたいですか、と大日向が訊き、他の三人がそれぞれの言い方で、読みたいと答える。こうなるともう逃げ場がない。まあ、山月記の方なら致命傷には至らない。
「さて、ではこれから、今後を見据え国語の勉強の参考にするため、折木先輩の感想文をみんなで読もうと思うのですが」
 そう言った後、大日向はちらりと俺の方を見て、真顔になった。
「先輩が嫌ならやめます」
 既視感があるな。先週も同じようなことを訊かれた。返事は変わらない。
「公開したものだからな。お好きにどうぞ」
 厳密に言えば、中学校の後輩に向けて匿名を条件に公開したものだが、匿名が破れたから読むなとは言えない。三年前、読書感想文を後輩向けに冊子にまとめていいかと訊かれたとき、まさか高校に入ってから部活の連中の(さかな)にされるような目に遭うとは夢にも思わなかったけれど。しかし公開とは不可逆の行為であり、もともと条件がつけられるようなことでもないのだ……とまあ、これは姉貴の受け売りだが。
 大日向がにこりと笑い、ぐるりと他の連中に視線を走らせる。
「ところで、山月記読んだことないひと、いますか?」
 地学講義室は、奇妙な静けさに包まれた。
 俺が思うに、この沈黙は、誰も山月記を読んでいなかったがために下りてきたものではなかった。自分は読んでいるが、誰か読んでいないやつがいるかもしれず、ここで「読んだよ」と言えばその誰かに気まずい思いをさせるかもしれない……という配慮の沈黙だったという気がする。いずれにしても、最初に口を開いたのは里志だった。
「どうだったかな。あらすじだけでも教えてよ」
「がってんです」
 胸を張り、大日向は朗々と語り始める。
「山月記は、中島敦が書いた、とても有名な短編です。ある優秀な男が科挙に合格したものの、役人になるより詩人になって後世に名を残そうと仕事を辞め、詩を書いていましたがなかなかうまくいかず、仕方なく再就職したものの新人扱いに耐えられず、ある日失踪してしまう、というところから話が始まります。
 男が失踪してからしばらくして、ある役人が仕事で山を通りがかると、虎に襲われます。虎は役人を殺す寸前で藪に駆け込み、危なかった、などと言う。その声に聞き覚えがあった役人が失踪した男の名を呼ぶと、虎は藪の中から、確かに自分だと答えます。なぜ男が虎になってしまったのか、虎になった男は日々どんなことを考えているのか……そこは、あたしには上手く説明できません」
 里志は曖昧な表情で、「そうだった。ありがとう」と言った。
 冊子に手を置き、大日向は我が事のように誇らしげに笑う。
「あたし、このH・Oさんの感想文を読んだとき、びっくりしたんですよね。ぜんぜん思いつかなかったことじゃないけど、突き詰めて考えようとしたことなんてなかったし、なによりそれを学校の読書感想文にしようなんて思いもしなかった。作者に会えて嬉しいです。握手してください」
 大日向と俺の机は離れている。お互いが中空に手を差し伸べ、仮想の握手を交わす。
「では、ええと、こんな感じです」
 伏せていた冊子を表に向けると、俺を除いた四人が、顔を並べて読み始める。
 俺は文庫本に戻ったふりをするが、実のところ気もそぞろだったのは無理もないだろう。書いたことは、おおよそ憶えていた。

 
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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