みなさん猫は好きですか? 好きですよね?
日々ふかふかごろごろしてますか? 毛だらけですか灰だらけですか?
諸手を挙げて大賛成の親愛なるあなたにも、
猫なんか興味もないしむしろ嫌いだし毛だらけなんてぞっとするあなたにも、
もれなくお贈りする、浅生鴨さんの新刊『猫たちの色メガネ』。
27のすこしふしぎなお話に訳もなく猫が出てきます。嫌だと言っても出てきます。猫が好きでも嫌いでももれなく、すご――く、面白いです。
そんなこといきなり言われても、というあなたのために、浅生鴨さんが特別番外編を書き下ろしました。読んでね。
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「判断力」
「おお、松原君。突然どうしたんだ」社長室の応接ソファに腰を下ろして役員たちと談笑していた社長は、赤い顔で松原を迎えた。七十を過ぎてもまだまだ脂ぎっているところはさすがだ。
「実は、伺いたいことがありまして」前置きは抜きにして松原は切り出した。
「なんでも最近、重要な経営判断をすべて機械に任せていらっしゃるとか」
「機械というと新しく導入したAIのことかね」社長の顔が困惑気味になる。
「いやいや、そうじゃない」向かい側の副社長が胸の前で両手をバタバタと振った。
「あれは、あくまでも私らのサポートをするためのものだよ」
「そうだ。判断はワシらがやっておる」社長が大きく頷く。
いや、納得できない。松原は奥歯を噛んだ。どう考えてもまともに判断したとは思えない、短絡的な指示ばかり出ているのだ。
「もっと長期的な視野に立っていただかないと、現場が混乱します」
「判断しているのはワシらだ。つまりワシらの指示が間違っているというんだな」社長の眉間が盛り上がった。声に怒気が含まれている。
「あ、いえ。そういうわけではありませんが、その、なんと言いますが、現場の感覚に合っていないものですから」松原の声が小さくなる。判断力には自信があるが、上司に逆らうほどの勇気はなかった。
「松原君はAIに反対なのかね」そう尋ねたのは専務だ。
「機械に任せるのはいかがなものかと」
「任せてはおらん。あくまでも私たちのサポートをさせているだけだ」
「そうとは思えません」
畳み掛けようとした松原の話を社長が大きく腕を振って遮った。
「いいかね。うちのAIには経営判断なんて無理なんだよ」社長がきっぱりとした声で言った。
「うちのAIはね、頭はそれほど良くないんだ。その代わり、かわいいのだよ」
は? 何の話だ? 松原は混乱した。頭が良くないって、どういうことだ。かわいいってなんだ。人工知能の話じゃないのか。
「ちょっとくらい出来が悪くてもかわいいのが一番ですからね」明るい声で社長にそう言ってから専務は松原を睨んだ。
「それにつけても君は何だね。君のように他人のミスを責めるばかりが経営じゃない」
「いや、私はそういうつもりで申し上げているわけじゃ」松原の視線が次第に下がっていく。
「ふむ」社長がふいに首を後ろに向けた。軽く手を上げ、壁に取り付けられたモニターに向かって話しかける。
「どうだね。こういう意見があるのだが」
ブンという小さな音が鳴って、モニターに映像が映し出された。猫が腹を見せながら、床に背中を擦りつけている。
「ニャーン」スピーカーから合成音声が流れる。
役員たちの顔が一斉にほころんだ。
「ニャーン」もう一度、同じ音が流れる。
おいおいおい、何だ。何だよこれ。最新のAIじゃないのか。かなりの金額で導入したんじゃなかったのか。
「最新だとも」専務が嬉しそうに答える。
「猫の鳴き真似をするAIなんて聞いたことがありません」
「何を言っているんだね。ワシらがリラックスして判断できるようにするのがAIの役割だぞ」
「ニャーン」AIが繰り返す。モニターの中の猫が、毛糸玉で遊び始めた。いやいや、これだったら猫を飼えばいいじゃないか。
「おお、いい子だねぇ」社長の声が甘くなる。
「どうだね」松原を振り返った。
「おかしいでしょ! AIってのは、データに基づいて、先の先の先まで予測して、時には冷徹な経営判断を下すものなんじゃないですか!」松原は大きな声を出した。
「そんなものは誰も求めちゃおらん」社長も大声で答える。「必要なのはこれなんだ!」
画面には猫が映り続けている。これ、本当にAIなのか。ただ猫が映っているだけだろう。IT業者に騙されて、妙な商品を掴まされたんじゃないのか。松原はモニターを睨みつけた。
「松原サン」突然、AIが呼びかけた。
「な、なんだよ」
「松原サン、私ガ嫌イナンデスカ?」
「好き嫌いじゃない。商品として如何なものかと言っているんだ」
「私ハ……商品ナノデスネ……」
「あ、そういうつもりじゃないんだ」
「単ナル……機械ナノデスネ……」
「いや、ちょっと言い過ぎたかな。悪かったよ」松原は頭を掻いた。こうやって、ちゃんと受け答えができるということは、やっぱりAIなのか。
「ニャーン」AIの声が甘えたトーンになる。
「なんだよ、またそれか」
「ニャーン」さらに甘え声になった。
「よせよ」
「松原サン、私ノコト好キ?」
「だから好き嫌いじゃなくて」
「ニャーン」
「いやその」
「ニャーン」
「わかったよわかったよ。好きだよ、好きです。ああ好きです」
「ニャーン」
「ホラ、松原サンモ一緒ニ。ニャーン」
「できるか」
「そうだ。君も鳴きたまえ」専務が嬉しそうに言う。
「できません」
「できるとも」社長が立ち上がった。
「ほら。ニャーン」目を閉じて気持ち良さそうに首を左右に振る。役員たちも社長に合わせて声をあげた。
「ニャーン」
「ほら、松原君も」副社長がニコニコして促す。
「ニャーン」松原は、口を曲げながらしぶしぶ声を出した。あれ。やってみると案外気持ちがいいぞ。さっきまで怒っていたことなど、どうでもよくなってくる。
「ニャーン」
そうだ、そうだよ。先の先の先なんて考えたって無駄だ。今この瞬間を気持ちよく過ごすことが一番だ。目の前のことが一番だ。
「ニャーン」社長が鳴く。
「ニャーン、ニャーン」役員たちが鳴く。
「ニャーン」松原も鳴く。
社長室の中に猫の鳴き真似が響き渡った。
ふいに松原の携帯がブルブルと震え始めた。チラと視線をやると部下からのメールだった。ああ、無理だ。判断できない。もう目先のことしか考えられない。指先でOKと打ち込み送信する。これでいいんだ。難しいことは後回しだ。今はただこうやっていたい。
「ニャーン、ニャーン」次第にすべての判断力が奪われていく。
画面の中の猫が、毛糸玉にじゃれつきながら微かにニヤリと笑ったように見えた。