【連載小説】父が倒れ、ひとり母が残った。墓のことなんて考えたことなかったが、自分もそういう年頃になったんだな。 椰月美智子「ミラーワールド」#5-1
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
前回までのあらすじ
男は男らしく、子育てに励み家事をする。女は女らしく、家族のために稼ぐ。それが当たり前の日常世界。池ヶ谷辰巳は学童保育で働きながら専業主夫をこなし、中林進は勤務医の妻と中学生の娘と息子のために尽くし、澄田隆司は妻の実家に婿入りし義父とともに理容室を営んでいた。それぞれが息苦しい毎日のなかで、妻と子を支えようと奮闘してきた。ある日、中林の中一の息子・蓮が塾の帰りに暴漢に襲われてしまう。たちまち学校中で話題となり、子どもたちや保護者はそれぞれの思いで事件を受け止めていた……。
第九話
ぼくはぜんぶ話した。悪い奴らをとっちめるために警察という組織があるんだから、考えてみたら当然のことだ。はずかしいと思っていたけど、はずかしいのは向こうのほうだ。
ぼくはたずねられたことにハキハキと答え、同じ質問をしつこく繰り返されても堂々と返した。「ぼくは悪くない。ぼくは間違っていない」と、心のなかで繰り返しながら。
あんなに
朝起きたときの、どーんと落ちていくような喪失感はまだあるけれど、浮上までの時間は前に比べてとても短くなった。「俊太くん」と名前を呼ぶだけで、ぼくは大丈夫だって思えるんだ。「俊太くん」は魔法の言葉だ。ぼくは一日に、何度も何度も心のなかで唱える。実際に声に出して名前を呼べる幸せをかみしめながら。
*****
澄田隆司
「いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴り、明るい声をあげて
「あれ、どうしたの、散髪? カラー? にしてはまだ早いか」
たっちゃんは、顔色をなくして隆司に近づいてきた。
「ねえ、ちょっと隆ちゃん。聞いた?」
たっちゃんが口を開いたところで、「専業主夫は暇だねえ!」と義父がひとり言とは思えないボリュームで言い、
「あ、ええっと、そうだな、ヒゲだけあたってもらおうかな」
と、慌てたようにたっちゃんは付け足した。次の予約のお客さんまで四十分ほどある。とりあえず椅子に座ってもらう。
「あの話、聞いた?」
「おれ、びっくりしちゃって……。隆ちゃん、知ってた?」
「うん、前にまひるから聞いたよ」
「……うちらは女の子だからいいけど、あんまりひどい事件だからさ。まさか
ウオッホン、ゴッホン、義父が大きく咳払いをする。ここは世間話の場じゃないと言いたいのだろうけど、ここは世間話の場でもある。
「このあたりも物騒になったもんだよね……。その子、これからどうするんだろ。生きていけなくないか? 噂が広まって、結婚するのも大変だろうし。お婿さんにもらってくれる奇特な人なんていないだろうし。中学生でキズもんのレッテルを貼られちゃうなんてさ。お先真っ暗、地獄の人生だよ。うちは女の子でほんとによかったって、つくづく思った。男の子はほんと大変だよ。いくら婿に出すとはいえ、結婚するまではちゃんと親の責任を果たさないと」
「うん」
「その子の親を思うと、切なくなるよなあ。塾に行かせるだけで、こんな目に遭っちゃうんだから」
「そうだね」
隆司は相づちを打ちながら、たっちゃんの顔を蒸しタオルでスチーミングした。たっちゃんは口を開けられる状態になるたびに、蓮くんの事件についてしゃべった。そして、しゃべったあとに必ず、うちは女の子でよかったと付け加えた。
「じゃあ、また寄らせてもらうね。こないだカラーしたばっかりなのに、もう白髪が目立ってきて嫌になっちゃうよ。その点、ほんと女はいいよな。白髪だらけでもお腹が出ても、それが年を重ねてきた味わいだって風潮だもんな。おれなんてさ、三週間に一回染めないと、根元の白いのが目立ってきて富士山みたいになっちゃうから大変だよ。ほうれい線も目立ってきたし、尻も垂れてきたし。そうでなくても、男は若いときからすね毛やヒゲの脱毛で金がかかるじゃん。それなのに歳をとったらとったで、今度は髪の増毛にお金がかかるもんなあ。ほんっと大変だよ。じゃあまたね、隆ちゃん。またすぐ来るよ」
「うん、どうもありがとう。じゃあね」
「うちら、つくづく女の子でよかったよな」
たっちゃんは最後にそう締めて帰っていった。隆司が片付けをしていると、
「……ああいうの、いやだねえ」
と義父は聞こえよがしにつぶやいて、わざとらしいため息をついた。
「どうして
パパ友のたっちゃんのことを悪く言われるのはおもしろくなかったけれど、隆司は、そうですねと首肯した。
退院後、義父はすっかり元気になった。隆司に対する嫌みは、以前よりパワーアップしてると言っていい。イラつくことも多いが、なにより健康でいてくれることが一番なんだと言い聞かせれば、多少のことは我慢できるようになった。
「専業主夫か?」
たっちゃんのことを聞いているのだろう。
「はい」
「暇ってのは悪だな。人間、暇があるとろくな事しねえし、言わねえもんだ。男だって仕事しなきゃいけねえよ」
隆司は少しの間のあとで口を開いた。
「仕事したくても、できない男性ってたくさんいるんですよ」
「そんなもんいるかい。女に甘えてるだけだ。もしくは仕事を選んでるか、だ」
「いや、家事や子育てを妻に任されることもあるし、妻が仕事するなって人も多いですし」
「はんっ、妻、妻ってうるせえなあ。自分の食い
こういうとき隆司は、義父の気持ちがわからなくなる。髪結いの女房を地でやってきた義父。義父の場合、自分が働かなければ生活できなかっただろう。それでも義父は、義母に文句のひとつも言わず、理容師として黙々と働いてきた。女を憎んでも良さそうなのに、義母を悪く言うのを聞いたことがなかったし、従順な態度で義母をいつでも立ててきた。
「女をのさばらせてたら、この世は終わるからな」
「あの、お
と言いかけたところで、予約のお客さんがやって来た。
「いらっしゃいませ」
隆司は笑顔で挨拶し、その話はそれで終わりとなった。
「わたしこれ大好き」
エビグラタンを見て、ともかが言う。今日の夕飯は、レンチン七分の冷凍エビグラタンと、レタスとトマトのサラダ、お湯を入れるだけのコーンスープだ。夕方からお客さんが立て込んで、かなり遅くなってしまった。
「わたしはあんまり好きじゃないなあ。焼き魚と味噌汁とか、そういうのが食べたい」
まひるだ。
「じゃあ、お姉ちゃんが作ればいいじゃん」
「やだよ、めんどい」
まひるはあれ以来、蓮くんの事件については一切口にしなくなった。隆司に話したときは、あまりの衝撃に、つい話してしまったのだろう。隆司も以来、その話題には触れないようにしている。
三人で食事をしているときに、
「あーっ、疲れたあ。今日は特に疲れたわ。お腹ぺこぺこ。わたしのご飯は?」
「今、出すよ」
隆司は席を立って、エビグラタンをレンチンして、コーンスープにお湯を注いだ。絵里は家事に関してうるさく言わないから助かっているが、はなから夫がやるものだと思っている。
テレビにともかの好きな芸人が出て、ともかが大爆笑する。まひるが、なーんにもおもしろくないと言う。
「あ、そうだ。あの変態、捕まったんだってね」
明るい笑顔で、突然絵里が言った。
「変態!? なにそれえ! なんの話? おもしろそう!」
ともかがテレビから目を離して、絵里に向き合う。絵里はともかをやんわりと無視して、まひるに目をやりながら続けた。
「とにかく捕まってよかったわ。近くにそんな変質者がいるかと思うと、気が気じゃないもんね」
声をかけられたまひるは母親の言葉をきれいにスルーして、素知らぬ顔でデザートのプリンを猛然と食べはじめた。
「ねっ、パパ」
今度は隆司に振ってきた。そうだね、と隆司は答えた。まひるは顔をしかめ、スプーンを叩きつけるようにテーブルに置く。
「警察官が聞いて呆れる」
そうつぶやいて席を立った。絵里は大仰に目を丸くして口をへの字にし、おどけたように「ハイハイ、思春期ね」と小さな声でつぶやいた。
絵里は、風に揺れる柳のような女だ。何事にもこだわらない。よく言えば鷹揚、悪く言えばテキトー。怒ることもまずないから、隆司や子どもたちとケンカになることもない。言い合いにもならない。母親の威厳というものがなく、家族の立ち位置としては、なんの実りも害もない、居候している遠い親類のおねえさんというのがいちばん近い。
今の話だって、被害者はまひると同じ中学校の生徒だと知っているのに、その点には踏み込まないし、触れようとしない。事なかれ主義と言ってしまえばそれまでだ。正義を売りにしている警察官という職業のわりに、隆司は絵里の正義感を感じたことはない。
「ママ」
「ん?」
「まひる、中学生だし、女同士のほうが話しやすいこともあると思うんだ。いろいろと相談に乗ってやってよ」
隆司は言った。
「相談? なにそれ? まひるに相談事なんてあるかなあ」
絵里が首を
「ねえ、お母さん、変態って誰のこと? 教えてよ。うちのクラスの
ともかが笑いながら言い、絵里もおかしそうに笑った。
▶#5-2へつづく
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