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連載

真藤順丈「ビヘイビア」 vol.44

【連載小説】「はい。わたしは風祭です」。探していた彼女ではないけれど、その女性は確かに、そう名乗った。真藤順丈「ビヘイビア」#12-1

真藤順丈「ビヘイビア」

※本記事は連載小説です。



前回までのあらすじ

タクシー運転手の城之内とウズベキスタン出身の青年ガフは、技能実習生として来日したガフの恋人・シトラの死の謎を追っている。外国人のための調査事務所を開業した二人は、日系ブラジル人一家の依頼で風祭喜久子という人を捜す。一家の娘カレンは、彼女の腹の傷痕のわけを喜久子が知っているのではと言う。調査途中、城之内とガフは一家と絶縁中のカレンの兄アッシュとも会う。なかなか捜し人には辿り着けないなか、大泉町で情報を得るが......。

詳しくは 「この連載の一覧
または 電子書籍「カドブンノベル」へ

       §

 あの世とこの世の境目にたたずんでいるような、ひんやりと透きとおった空気をまとっている人だった。これまでにおおいずみまちで出逢った日系ブラジル人たちとも、オリヴェイラ家のだれとも印象が重ならない。世間ずれしたところや人懐っこさが希薄で、いつかこの地を離れることになったときに持っていけないものは──故郷に帰るにしても、さんの川を渡るにしても──みずからの人生に組み入れることを注意深く避けているような、浮き世離れした気配を漂わせていた。
「あなたが、かざまつりさんですか?」
 こちらに風祭さんはいらっしゃいますか、と訊きかけたじよううちをよそに、相手を見るなりガフはそう質問していた。違うだろ、珍しく日本語を間違ってるぞと城之内は思った。だって目の前にいるのは、九十歳のばあさんでも日本人でもないじゃないか。
 ところがその人は、否定することも訊き返すこともなしに、
「はい。わたしは風祭です」
 と、間を置かずに返答したではないか。
 城之内とガフがたどりついたその場所は、秘密の礼拝所じみていた。
 希望を抱いた異国の暮らしが立ちゆかず、お払い箱にされていく移民たちの先細りの予感を漂わせながらも、なぜか〈行き止まり〉という感じがしない。音声や映像にあふれているけれど不思議なほど厳粛でひそやかな場所だった。
 はままつに足を運べばどうにかなる、というのが路頭に迷った在日ブラジル人のちようになっているらしい。おかげで近県や首都圏からも職を失った人々がこの地を訪れる。在日ブラジル人のなかには、仕事だけでなく派遣先の寮を追いだされたりして、住むところにも困窮している者が少なくない。無職の外国人はどうしても不動産会社に敬遠されるし、失業が長引けば友人や親戚の家に間借りするのも限界がある。最後の駆けこみ寺として浜松を特別視するのはすずマヌエルのような失業者ばかりではなかった。彼らが人づての情報をたぐって訪れるのがこの場所、市内のビデオショップの奥にある五十台以上のモニターとDVD録画機材に囲まれた小部屋だった。
「あなたは、ぼくたちが捜している風祭さんじゃない」とガフがつづけた。
「はい、そうですね」
「だけど、風祭さんではある」
「そうですね」
「ぼくたちの捜す風祭さんを知っていますか」
「知っていると思います」
 何はともあれ喜んでいいらしい。浅草から大泉町へ、大泉町からこの浜松へ、オリヴェイラ家の依頼を果たすための東奔西走がようやく〈風祭さん〉へと実を結んだ。「もしかしてさんのご家族?」と城之内は訊いた。年齢からして子や孫という可能性もあると思ったが、礼拝所のあるじはかぶりをふった。
「わたしは喜久子さんからみようもらいました。風祭ブルーナといいます」
 亜麻色の長髪にスパイラルパーマをかけた四十がらみの女で、化粧っ気はなくても顔立ちにはラテンの華がある。それでも他のブラジル人と毛色が違うのは、プロテスタントの熱心な信者で手の届くところに聖書を置いているからというだけではなさそうだ。の当たらない小部屋で朝な夕なしているためか、暗い席にひっそりと身を沈め、世慣れた美女というあつかいを受けないようにその手前で踏みとどまっている気配があった。周囲にあふれかえる色彩に、本来の自分がまとうべき色彩を吸いとられてしまったみたいに、グレーやベージュの地味な色の服装が板についていた。
「もうそろそろ、だれか来ると思ってました」と言うこともやや預言者じみている。
 風祭ブルーナはこの部屋で、ブラジル本国から届いたサンバ・カルナヴァルの映像やメロドラマなどをDVDに焼き、ビデオテープにダビングする作業を延々とつづけている。ここから違法コピーのDVDやテープが全国のコミュニティへと送られ、故郷をしのぶブラジル人たちのや娯楽となっている。行き場のないブラジル人がこのブルーナを頼ってくるのは、彼女が最低限の住まいを提供するからだった。

 浜松の北、とうめい高速の高架沿いに並ぶ廃業した数軒のラブホテルに、家をなくしたブラジル人たちが共同生活を営んでいる。リーマン・ショックの数年後、ブルーナとおなじくクリスチャンだったオーナーが、緊急避難用のシェルターとして無償提供した場所で、ブルーナはその窓口のひとつとなっていた。廃業しているが支援者が電気も水道も通して、ダブルベッドや内装や調光装置はそのままの居抜きで、家族連れを主としてブラジル人を迎えていた。
「すごい、ベッドに寝たまんまで部屋の明るさ変えられるよ。ここはウズベキスタン人でも入れますか?」
「お前、家あるじゃん」
「いちおう聞いておこうと思って」
 ぜひ見たい、と頼んだらブルーナが連れていってくれた。新たに住まいや仕事が見つかるまでつねに十家族、二十人から三十人ほどのブラジル人が暮らしているという。駐車場には子供のための遊具が置かれていて、ロビーには大きなテーブルがあって共有の飲食スペースになっている。それぞれの部屋もアパートの一室と大差がないようで、扉の前の廊下には大小の家財道具や収納ケースが積まれている。張りわたされた洗濯ひもには、派手な色合いの衣類やシーツ、緑と黄色のジャージなども干されていた。
「わたしは二十代のころに婚約者と日本に渡ってきましたけど、その男にひどい裏切りをされてすぐに別れた。行くところもお金もなくて信仰にすがりました。神様と向き合っているときだけ、明日食べるものもない不安を忘れられたから。だけどたくさんたくさん祈っても現実の世界にはびくとも通じません。元気がなくなってふさいでいたときに、救ってくれたのが喜久子さんとサンバでした」
 風祭喜久子がその行く先々で、望郷の念にとらわれたブラジル人に手を差しのべたのはこれまでも耳にしてきた事実だった。綱渡りの危なっかしさをすすんで引き受ける二十代の頃に日本にやってきて、外国で真っさらな生活を築くというロマンティックな運命をともにするはずだった恋人には、借金のカタとして水商売に売られかけた。かろうじて逃げだしたものの仕事探しでも酒癖でもアスピリンなどの濫用癖でもすり減らされた。アルコールがないと夜の重さに耐えられなかった。紙パックに入った甘ったるいだけの赤ワインと錠剤をちゃんぽんで流しこみ、水溜まりのように浅い眠りにもとどまっていられず、頭痛とおうに苦しんだ。喜久子さんにめぐり逢ってサンバを習わなければ、わたしは自分で自分の身を滅ぼしていたと思いますとブルーナは言った。
 たとえ異国であっても、みずからの主張や存在感を示せる天性の朗らかさがあったのが風祭喜久子で、そうしたパーソナリティは純日本人ながらラテンの血をほうふつさせる。かたやブルーナには孤塁を静かに守るような、陽の光のもとの快楽を素通りするような奥ゆかしさがあり、そこらの日本人よりもよほどふるい日本の美徳を感じさせた。そんな二人だったからこそ二つの国の中間でちょうど落ち合うみたいにウマが合ったのか、故郷にも身寄りのなかったブルーナは風祭喜久子を母と慕い、養子縁組すら望んで、義理の母と娘にはなれなかったが、風祭を名乗ることは許してもらったという。
 ラブホテル団地を見てまわりながら、城之内はブルーナに訊いた。
「だけど、あとすこしでおやになったかもしれなかったあなたでも……」
「はい、風祭さんがいまどこにいるかは知りません」
「うはあ! ここでもか、あんたもなのか」
 ちちの老人ホームにいた一番弟子とも変わらない。風祭喜久子の意思を継ぐような人を見つけても、誰もが口をそろえて言う、あの人がどこで何をしているのかは知りません。
「おいガフ、こりゃあもう無理なんじゃないか。これだけあちこちに足を運んで、親しかった誰に聞いても知らないんだから。そもそも捜して見つけられるような相手じゃないんじゃないか」
 ベッドサイドの調光装置をいじりながら、ガフはじっと何かを考えこんでいる。この男はブルーナのダビング室を訪れるなり「」と訊いた。城之内には見えていないものが見えているのか、ガフは目を閉じると、眉間に荒々しいしわを寄せ集め、そばにいるこっちの胸が騒ぐような険しい面持ちを浮かべている。
「ここはけっこう、出入りは激しいですか」
 たずねられたブルーナは「はい」と余計な言葉を削ぎ落として答える。
「リーマン・ショックのあとにできたって。あなたが窓口の役割をするようになったのは」
「二〇一五年頃からです」
「あなたがそれをするようになったのも、喜久子さんがいたから」
 ブルーナはうなずいた。サンバ・カルナヴァルの音と映像に囲まれたあの礼拝所の、ひとつ前のあるじが風祭喜久子だった。ブルーナはそれを引き継ぐかたちで、違法ソフトの複製やこのラブホテルへと人々を導く役割を担うようになった。
 だけど風祭喜久子という人は、たとえそれが異邦の地でも、老境のさなかにあっても、ひとところに定住することをしない。他者からの求めがあってのことなのか、自身の思いが向くままなのかはわからないが、時期が来たらふらりと別天地へ旅立ってしまう。
 ここまで調査を進めてそれだけはよくわかった。たしかに風のように自由な人だ。そうして死期を悟った猫が、誰も知らないところに消えるという俗説を地で行くように、安否を知らせずにひっそりとこの世を去るのだろう。「風祭さんの居場所を知ることはできない、誰にもできない」と城之内は呪文のように唱えた。ブルーナはさみしげに微笑んで、何かずっと大きなものを受け入れるかのようにまた肯いた。
「そもそもカレンたちへの電話の目的は、風祭喜久子さんを捜させることじゃなかった」
 するとガフが目を開けてつぶやいた。「どういうことだ」と訊いたところで、明確な説明はすぐに返ってこない。こいつやっぱり何かに触れたんだな、と城之内は直感した。見えそうで見えない糸をたぐり寄せるように、ガフはガフなりの手つきで疑問と真実の相関を探ろうとしている。
「ブルーナさんは、オリヴェイラ家のことは知っていますか」
「はい、リベルダージで有名な一家でしょう」
「その一家が、日本に来ているのは?」
「それも、噂で聞きました」
「だからこそ、〈そろそろ誰か来るころ〉と思いましたか」

▶#12-2へつづく
◎第 12 回全文は「カドブンノベル」2020年12月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年12月号

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