長野県で地域医療に従事する現役の医師でもある夏川草介氏は、『神様のカルテ』シリーズにおいて、地域医療支援病院で働く青年医師・栗原一止を主人公に、限界を迎えつつある医療制度、現場の医師たちが置かれている過酷な状況を鋭く描いてきた。2019年1月には大学病院に舞台を移した新章が刊行され、医療の在り方や人間の生と死の意味を、いっそう深く問いかけている。
『勿忘草の咲く町で』の舞台もまた長野県だ。松本市郊外にある梓川病院の内科病棟は、小規模ながら近隣の特養や老健といった施設から心不全や肺炎のために搬送されてくるたくさんの高齢者で埋め尽くされ、半ば介護施設のような状態である。認知症で徘徊したり、寝たきりで奇声をあげたり、胃瘻で管理され微動だにしない患者たち。限られた医師や看護師の数に比してその人数は圧倒的で、万全の体制など確保しようもない。この病院に勤務する看護師・月岡美琴と内科医を目指す研修医・桂正太郎がさまざまな患者たちと向き合い、迷い悩みながら成長していく姿と、地方の小さな病院の多くが直面している現実を描いている。
奥さんと息子さんのために「少しでも生きたい」と強く願いながら膵臓癌で力尽きる、48歳の長坂さん。誤嚥性肺炎で入院後食欲を失い、一度は寝たきりの状態になりながらも車椅子で院外へ散歩に出られるまでに回復していく88歳の新村さん。急性胆管炎で搬送されてきた95歳の内島さんは「もう十分生きた」と穏やかに治療を拒み、一日中点滴につながったまま身じろぎもせずに横たわる84歳の田々井さんは、もう食事を摂る力がなく胃瘻の建造を待っていた。
一連の物語のなかで大事件はおこらない。奇跡もおきない。快復して元気になって退院していく患者がいて、同じくらいの自然さで亡くなっていく人がいる。死は過ぎていく日常の景色のひとつにすぎない。その風景のなかに、さまざまな信念や価値観を持つ医師と看護師たちが佇む。彼らは、この国はもう、かつての医療大国ではないこと、山のような高齢者の重みに耐えかねて悲鳴を上げている、倒壊寸前の陋屋のようであること、もう、どんな患者にでもがむしゃらに延命治療を続ければよい時代ではなくなっていることを、わたしたちに訴えるのだ。
田々井さんの延命治療の是非を問うエピソードが他人事でなく身に染みた。わたしの祖母は生前、「自分の寿命は85歳なんだ」と常々言っていた。その85歳の正月に自宅内で転倒して右股関節を骨折。入院中に急速に認知症が進み、自分で食事を摂れなくなり、胃瘻を建造し、あっという間に寝たきりになってしまった。胃瘻とは、胃部に穴をあけて直接胃にチューブを入れる措置だ。こうすれば口から食べられなくても、体内に栄養を注入することができる。祖母は「首はのけぞるような形のまま動かず、ゆるんだ口元からは涎が垂れて枕の上に糸を引いている。両腕は自分の胸を抱くような位置でかたまり、引っ張っても動かないほど固く拘縮している」、田々井さんの姿とまったく同じになっていた。その後祖母は肺炎と快復を繰り返し、92歳で息を引き取った。「口から物が食べられなくなったなら、それが人間の寿命」。そういわれていた時代なら、確かに祖母の寿命は85歳だった。しかし胃瘻という技術は祖母の死を7年先延ばしにした。けれどその7年間、祖母は本当に生きていただろうか。祖母のためと言いながら、家族が、祖母が死んでいくという事実から目をそらすためだけの7年だったのではないだろうか。7年たったら受け入れられるようになるわけでもなかったのに。読後もずっとそのことを考えている。答えは出ない。
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