その一行に直面した瞬間、正真正銘、世界が歪んだ。意味を強調するため一字一字に付された傍点が、破壊力を倍増させている。こんなにも強烈な感情を喚起させられる傍点は、初めて目にするものだったかもしれない。しかも、それは二度現れる。
第一五回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作『がん消滅の罠 完全寛解の謎』でデビューし、医療本格ミステリの旗手として一躍注目を集めた岩木一麻。待望の第二作『時限感染 殺戮のマトリョーシカ』もまた、医療研究経験者ならではの発想で生み出された「医学トリック」をど真ん中に据える。謎が謎を呼び全てのピースが最後にぴたりと嵌まる、本格ミステリとしてのダイナミズムは前作よりずっと激しい。そして物語のスケールが、呆れるほどにばかでかい。
二〇一九年七月、台東区谷中にある一軒家で、東都大学医学部教授の南真千子が首切り死体となって発見されるところから物語は始まる。現場には、チューブに入れられた寒天状の物質と共に、声明文が残されていた。〈マトリョーシカは数十万人の命を奪うだろう。我々はバイオテロにより享楽に満ちた世界に死を振りまき、人々に内省を促す〉。情報隠蔽に奔走する警察を尻目に、犯人はテレビ局に真実をリークする。マトリョーシカとは何か。警戒されるリスクを冒してまで、なぜ事前にバイオテロを予告したのか? 犯人が新たな一手を繰り出すたびに、真実を覆う霧はさらに濃くなり、サスペンスの狂熱が高まっていく。
所轄の新米刑事・桐生彩乃は、本庁捜査一課の鎌木多門警部補とコンビを組んで、事件解決に乗り出す。鎌木は理系出身で(卒論は「カマキリの交尾」)、情緒に流されない冷静な判断力と、屁理屈すれすれの論理展開力の持ち主だ。幼少期から空手に打ち込んできた肉体派の彩乃は、警察官としてのキャリアをスタートさせた直後、遺伝性の希少疾患であるポンペ病を発症。筋細胞が死んで、筋肉量が減っていく症状を薬で抑えている状態にある。つまり、それまで自分の個性だと思っていた領域が、今まさに奪われつつある。そう告白すると、鎌木は応えた。「僕は病気も個性の一つだと思っている。希少疾患であればなおさらだ。君にしかできないことがきっとある」。この二人がコンビを組んだからこそ、犯人の思考をトレースし事件の真相に迫ることができたのだ。二度現れる傍点の先で、トリックの衝撃よりも、ここでしか味わえない人間性と出会えた感触が上回っているのは、進化した筆力の賜物。豊かな余韻をもたらす幕切れにも、胸を打たれた。
何より興味深いのは、デビュー作に書き込まれていた「命とお金の天秤」「魂の救済」「抑うつリアリズム理論」といったモチーフが作中に再び召喚され、もっと先へ、もっと奥へと掘り進められている事実だ。もしかしたら作者は、小説を書くという営みを、専門分野の研究論文のように捉えているのかもしれない。二作の根幹をなしていた「医療とは何か?」というテーマを、今後も小説を書くことで追求しようとしているのかもしれない。この一作で、確信が芽生えた。この人が生み出す物語を、これからもずっと読み続けたい。
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『原発サイバートラップ』
一田 和樹
(集英社文庫)
サイバーテロリストが韓国の第二古里原子力発電所をのっとった。「専守防衛」の日本政府は動きが取れぬまま、ハッカー集団や世界各国のサイバー軍需産業はネット上で連帯し戦いを挑む。なぜこんな無謀なテロを仕掛けたのか? 犯人の真の「目的」は、『時限感染』とかすかにシンクロ。
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