寄り道ばかりしながらも、鮮やかに謎を解き明かす!?
『谷根千ミステリ散歩 中途半端な逆さま問題』東川篤哉
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『谷根千ミステリ散歩 中途半端な逆さま問題』文庫巻末解説
解説
若林 踏(書評家)
ミステリ小説の入門書としてお勧め出来て、かつ年季の入ったミステリファンも唸らせる作品は無いか。そんな贅沢な悩みに応えてくれるのが、東川篤哉の小説だ。強烈な個性を持った登場人物達と、彼らが放つギャグに彩られた作風は笑いを誘い、多くの読者に親しみを感じさせるものだろう。それでいて芯には謎解き小説における確かな技巧が備わっていて、推理の醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。それも「ああ、あの趣向をこういう風に発展させるのか」と、すれっからしのミステリ読者を感心させるような技巧を披露して楽しませるのだ。本書『谷根千ミステリ散歩 中途半端な逆さま問題』もまた然り。
〈谷根千ミステリ散歩〉シリーズは『小説 野性時代』二〇一八年一二月号から二〇二〇年五月号にかけて断続的に掲載された作品で、二〇二〇年一〇月に単行本化された。本書はその文庫版である。谷根千とは文京区から台東区一帯の谷中・根津・千駄木の周辺を表す言葉だ。いわゆる下町風情を残す地区であると同時に、かつて夏目漱石が住居を構えるなど文芸にも縁が深い土地が、この作品の舞台である。語り手の岩篠つみれは、谷中の町外れにある鰯料理専門の居酒屋「鰯の吾郎」の元店主の娘で、近所の大学に通う学生だ。亡くなった店主の代わりに店を継いだのが、つみれの兄、なめ郎である。鰯への愛に溢れる父親が子供に付けた名前が、なめ郎につみれ。キャラクターのネーミングからして、こてこてのギャグで笑わせてくれる。
つみれはある出来事がきっかけで、谷根千で開運グッズを売る「怪運堂」の店主・竹田津優介と知り合う。作務衣姿に大昔の喜劇俳優を思わせる眼鏡を掛けた竹田津は、ちょっと変わり者の雰囲気を漂わせる人物で、とぼけた発言を繰り返しながら谷根千エリアをぶらぶらと散策するのが癖である。だが、マイペースな振舞いのなかで時おり切れ味鋭い推理力を発揮して、つみれの身辺で生じた不可解な謎を解いてみせることがあるのだ。
可笑しなコンビが楽しい掛け合いを見せながら下町を巡るユーモアミステリ連作集、という風に捉えることが出来るだろうか。ただし先述の通り、東川篤哉の小説には古今東西のミステリで培われた趣向や技法を発展させて作られた、強固な謎解きの骨組みがある。その一つ一つを味わうことで、謎解きミステリの豊饒さを知ることが出来るはずだ。ここではネタばらしに注意を払いつつ、謎解きの部分に焦点を当てて各編を紹介しよう。
第一話の「足を踏まれた男」(初出:『小説 野性時代』二〇一八年一二月号~二〇一九年一月号)は、先輩からの頼まれ事をきっかけに竹田津と出会ったつみれが、石材店から何も盗まずに逃げた泥棒の謎に挑む、という話だ。竹田津はつみれを連れて、谷根千のなかをぶらぶらと歩き回る。最初は竹田津の行動の意図が摑めないのだが、やがて物語がある地点に到達すると、すべての事象が繫がりを持ち思いもよらぬ構図が浮かびあがるのだ。探偵役の不可解な行動を辿り「一体何が起こっていたのか」を解明していくタイプの謎解きは、かつてギルバート・キース・チェスタトンが〈ブラウン神父〉シリーズの短編で編み出した形式で、日本では泡坂妻夫の〈亜愛一郎〉シリーズなどにも大きな影響を与えている。「足を踏まれた男」もチェスタトン風の謎解きを踏まえつつ、全く関連の無さそうな事がドミノ倒しのように繫がっていく様が見事に描かれている。
古典作品との関連でいえば、第二話の「中途半端な逆さま問題」(初出:『小説 野性時代』二〇一九年七月号~八月号)が有名作のオマージュという点で読み逃せない。つみれの友人の祖母が旅行から帰宅すると、家中の家具やインテリアが何故か逆さまの状態になっていた。明らかに誰かが侵入して行ったものだが、何かを盗まれたり、壊されたりしたわけでもない。では一体、誰が何のために逆さまの状態を作ったのか。
謎解き小説のファンならば、ある有名古典のタイトルを即座に思い出すだろう。ここでは敢えて伏せておくが、実際に作中でもその作品への言及があり(ただしネタばらしはしていないのでご安心を)、明らかに先行作に対するオマージュとして「中途半端な逆さま問題」は書かれたことが分かる。もちろん単に模倣するだけではなく、某作の「逆さまの謎」に新たな捻りが加えられている所が良い。過去に使われた趣向でも、カードの捌き方次第で創意に溢れるアイディアを生み出すことが出来ることを、東川は本作で証明してみせた。
収録作中の白眉は第三話「風呂場で死んだ男」(初出:『小説 野性時代』二〇一九年九月号~一一月号)だろう。「鰯の吾郎」に忘れ物をした客の家をつみれが訪ねると、そこには浴槽に上半身を突っ込んで二本の脚を立たせた男の死体があった。日本一有名な死体といっても過言ではない、横溝正史『犬神家の一族』に出てくる死体のパロディであることは、ミステリファンならずとも一目瞭然だろう。笑えるだけではなく、収録作の中で手がかりの埋め込み方に関する技法が最も輝いている作品であることを強調しておきたい。手がかりはそれ自体がずばり真相を指し示すわけではない。他の手がかりと組み合わせたり、或いはそこからロジックを積み重ねることによって読者が真相を導き出せるように仕込むことが、謎解きミステリ作家にとって腕の見せどころなのだ。その意味で「風呂場で死んだ男」における無駄のない構成には、本当に惚れ惚れするものがある。
手がかりの提示では、第四話「夏のコソ泥にご用心」(初出:『小説 野性時代』二〇二〇年四月号~五月号)も素晴らしい。つみれの友人宅に入った泥棒を見つけ出すフーダニットの趣向が盛り込まれた作品だが、ここでは些細な手がかりから連鎖的に推理が導かれ、犯人特定へと至る過程が見事だ。決め手となる手がかりがシンプルであればあるほど、その後に展開する論理のアクロバットが華麗に映える。東川篤哉はそのことを熟知しているのだ。
東川篤哉のデビュー作は二〇〇二年に刊行された『密室の鍵貸します』(光文社文庫)だが、それ以前から鮎川哲也が編集するアンソロジー『本格推理』に東篤哉名義で寄稿していた(このアンソロジーに収められた四編は、光文社文庫から刊行された『中途半端な密室』という短編集に纏められている)。『密室の鍵貸します』は光文社の新人発掘企画「KAPPA-ONE 登龍門」の第一期作品として刊行されたもので、この時の「KAPPA-ONE」は『本格推理』の掲載作家の中から有望な新人を選出する形を取った。その中で東川は有栖川有栖の推薦を受けてデビューしたのである。
『密室の鍵貸します』に始まる〈烏賊川市〉シリーズなど、笑いの中に謎解きの手がかりを巧妙に隠す技巧が東川の特徴の一つだ。ユーモアを単に小説の味付けとして描くのではなく、謎解きを構成するための部品として笑いを活かしている点が魅力なのである。東川がミステリファン以外からの認知を急速に広めるきっかけになったのは、〈謎解きはディナーのあとで〉シリーズ(小学館)の大ヒットである。大財閥の令嬢にも拘わらず刑事として働く宝生麗子と、毒舌を連発する執事の影山のコンビが活躍する同作は二〇一一年の第八回本屋大賞を受賞し、櫻井翔主演でドラマ化・映画化もされた。キャラクターの魅力をフックにした作品で精緻な謎解きを読む面白さを人口に膾炙させたという点で、〈謎解きはディナーのあとで〉シリーズのヒットは国内ミステリ史に残る出来事であると言えるだろう。
ユーモア以外の特徴としてもう一つ、実在の小都市を舞台にした作品が多い事も挙げられる。本作もそうだが、〈かがやき荘西荻探偵局〉シリーズや『伊勢佐木町探偵ブルース』(祥伝社文庫)など地名を題名に冠した作品も目立つ。どこか浮世離れした登場人物たちが現実にある身近な土地で暴れ回るというギャップもまた、読者が作品に対する親近感を抱く理由になっていることは着目しておくべきだろう。
有栖川有栖は『密室の鍵貸します』の文庫解説において「氏の作風は『軽み』を持ち味としているが、それは力を抜いた作品を意味しない。」と評している。東川篤哉という作家の本質をこれほど的確に捉えた言葉はないだろう。笑いとキャラクターの個性で魅せつつ、どの東川作品にも余詰めを排し、堅牢な推理を描いて読者を感心させようとする姿勢が貫かれている。さらには先行作に限りない敬意を払いつつ、謎解きの技法や趣向に新味をもたらす貪欲さも感じられるのだ。柔らかなイメージに惹かれて東川作品を手に取った読者が、その先に広がる謎解きミステリという名の大海へと飛び込んでいくことを切に願う。
作品紹介・あらすじ
谷根千ミステリ散歩 中途半端な逆さま問題
著者 東川 篤哉
定価: 836円 (本体760円+税)
発売日:2023年06月13日
東京・谷中には、おいしい食べ物、下町情緒、そしてミステリが揃っている!
下町情緒あふれる谷根千にある、鰯専門の居酒屋。看板娘(?)のつみれの元に謎めいた相談が持ち込まれる。困り果てて頼った開運グッズ店の店主・竹田津は、お好み焼きを食べたり猫を構ったり、寄り道ばかりしながらも、鮮やかに謎を解き明かす!?
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322302001502/
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