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レビュー

情熱の歌人・与謝野晶子の華麗な現代語訳で色鮮やかによみがえる平安の日々――『与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記』与謝野晶子 文庫巻末解説【解説:田村隆】

当時の風景が生き生きとよみがえる。
『与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記』与謝野晶子

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記』著者:与謝野晶子



『与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記』文庫巻末解説

解説
田村 隆(日本古典文学、東京大学准教授)

 あき(一八七八─一九四二)は、『源氏物語』を二度訳した。与謝野源氏、晶子源氏とも呼ばれる。一度目は『新訳源氏物語』で、上巻と中巻が明治四十五(一九一二)年、下巻が大正二(一九一三)年に金尾文淵堂から刊行されている。うえびんもりおうがいが序文を寄せ、なかざわひろみつが挿画を担当した。一度目の現代語訳と並行して、ばやしてんみんの依頼により『源氏物語講義』にも取り組んでいたが、大正十二年九月一日の関東大震災で三千枚余に及ぶといわれる原稿が焼失した。
『新訳源氏物語』は抄訳だったが、昭和十三(一九三八)年から翌十四年にかけて、全訳である『新新訳源氏物語』が同じく金尾文淵堂から刊行された。後に、三笠文庫や角川文庫、青空文庫にも収録されている。原稿の一部は大阪府さかい市が所蔵しており、国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース」においてデジタル公開されている。二度の訳業の間にあたる昭和十年には、夫ひろしてつかん)が死去した。与謝野晶子と『源氏物語』については、神野藤昭夫『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』(花鳥社、二〇二二年)に詳しい。
 二度の『源氏物語』現代語訳の間に、晶子は他の古典文学作品も訳している。大正三年には『新訳栄華物語』の上巻・中巻が、翌四年には下巻が刊行される。そして、大正五年七月、晶子が三十七歳のときに『新訳紫式部日記 新訳和泉式部日記』が同じく金尾文淵堂からじようされた。本書の巻末に付された「与謝野晶子女史著作目録」には、前著『新訳源氏物語』と『新訳栄華物語』が紹介されている。金尾文淵堂版の直前、晶子は『和泉式部日記』は大正四年二─四月に、『紫式部日記』は翌五年一─三月に、現代語訳を雑誌『台湾愛国婦人』にそれぞれ三号ずつ連載している(上田正行「『台湾愛国婦人』と与謝野晶子・素描」『『台湾愛国婦人』研究論集──〈帝国〉日本・女性・メディア』広島大学出版会、二〇二二年三月)。所蔵する函館市中央図書館の高配により閲覧の機会を得た。『新訳紫式部日記』の「ぶん真実ほんとにこんなことをいてまない」(語順がやや異なるが、本文庫では一五三─四頁)までで連載は終わっていて、その四月後に金尾文淵堂版が刊行された。
『新訳紫式部日記 新訳和泉式部日記』の挿画と装幀は『新訳源氏物語』や『新訳栄華物語』と同じく中澤弘光によるもので、天金・函入の豪華な造りである。挿画は『紫式部日記』と『和泉式部日記』の現代語訳の前にそれぞれ一枚ずつ配されている。


 この二つの日記の現代語訳は、昭和十一年から十四年にわたって刊行された非凡閣の『現代語訳国文学全集』(全二十六巻)の第九巻『平安朝女流日記』に再録された。「国立国会図書館デジタルコレクション」により、デジタル画像を確認できる。文淵堂版からの体裁上の変更として、和歌を記す際に一行空けることと、金尾文淵堂版は総ルビであったものが全集版ではルビが全くない点が挙げられる。『現代語訳国文学全集』においては、『紫式部日記』と『和泉式部日記』と共に、新たに『蜻蛉日記』も訳された。その解説に晶子は「蜻蛉日記は昨年の夏新しく訳したものであるが他の二書は旧稿である」と記している。『蜻蛉日記』の現代語訳は平凡社ライブラリー(今西祐一郎補注)に収録されている。
 凡例にある通り、本書の底本には金尾文淵堂版を用いたが、所々欠字が見られる。『新訳和泉式部日記』底本十二頁の「かんしやう なぶん」、五十八頁の「ほかにまだしゆのお があつた」、八十頁の「を した」の三箇所である(架蔵の一本の欠字は三例目のみで、刷による違いがある)。単純な植字の誤りと見られるが、『新訳和泉式部日記』に偏っており、校閲の工程に疎密の差があったのかもしれない。『現代語訳国文学全集』版では「夜を明した」(三四二頁)のように補われており、そのような場合には全集版を用いて校訂した。また、底本は総ルビだが、読みやすさの便を図り適宜省略した。「かあさん」(一二八頁)、「乗者のりて」(一三四頁)、「いつぱい」(九〇頁ほか)などの特徴的なものは残した。『源氏物語』の例ではあるが、先に挙げた晶子の原稿には必ずしもさほど多数の振り仮名は施されておらず、一つ一つの振り仮名が晶子自身によるという保証は全くない。だが、仮に校閲段階で加わった振り仮名であれ晶子も校正刷に目を通したであろうし、今野真二『振仮名の歴史』(岩波現代文庫、二〇二〇年)の言葉を借りれば少なくとも「時代が付けた振仮名」とは言えるだろう。振り仮名の原態については、底本に遡っての確認をお願いしたい。

『源氏物語』を訳した際に晶子は、「この書の訳述の態度としては、画壇の新しい人人が前代の傑作を臨するのに自由模写を敢てする如く、自分は現代の生活と遠ざかつて、共鳴なく、興味なく、徒らに煩瑣を厭はしめるやうな細個条を省略し、主として直ちに原著の精神を現代語の楽器に浮き出させようと努めた。細心に、また大胆に努めた。必ずしも原著者の表現法を襲はず、必ずしも逐語訳の法に由らず、原著の精神を我物として訳者の自由訳を敢てしたのである」(「新訳源氏物語の後に」大正二年十月)と述べているが、その姿勢は両日記の現代語訳においても踏襲され、本書自序の冒頭で、

 私はここに紫式部日記と和泉式部日記とを現代語に訳しました。さきに出した新訳源氏物語、新訳栄華物語と同じく、もとより原作の意義と気分とを伝えることを主としましたが、またできるだけ原文の発想法に従うことにも力めました。
(五頁)

と記している。この点は池田亀鑑「古典学者としての与謝野晶子」(『冬柏』第二十一巻一・二月号、一九五〇年二月)にも、『新訳紫式部日記』冒頭の訳文を例に、

ともかくも逐語訳でない。大胆な意訳であるといふことが誰の目にもつくにちがひない。一語一句などにかかづらつてをらず、原作者の作家体験の世界に、直接にまつしぐらにきりこんで行く態度である。

と指摘されている。なお、引用の自序にあるように晶子はすでに『栄華物語』も訳していた。『栄華物語』初花巻は『紫式部日記』を下敷きにしていることが知られるが、晶子の訳業としては『栄華物語』の経験もふまえて『紫式部日記』に取り組むという順序であった。たとえば、『新訳紫式部日記』の冒頭近くの一節は雑誌初出時には「したにはだんきやうこゑひゞき、はつきんのやうなこゝろよかぜひやゝかなみづおとどほまじつてきこえた」とあり、金尾文淵堂版の本文(八九頁)とは少し異なる(「冷かな」→「涼しい」)。実はこの初出の形は『新訳栄華物語』の当該箇所の訳文と一致し、いったんは『紫式部日記』の訳文としても採られたものが、単行本化にあたり現行の姿へと推敲されたことがうかがえる。与謝野晶子自身も「紫式部考」五〇頁に「当時の最も信用すべき史料であることは、「栄華物語」の作者が後一条天皇の御誕生を叙するに当って全く紫式部日記の其条を資料として居るので見ても明白である」と記している通りである。なお、晶子は和歌については訳出していない。これは『源氏物語』などの現代語訳でもそうだった。歌人である晶子は、和歌は和歌のまま読み味わうことを読者に求めたのではないか。
 晶子は『紫式部日記』について、

 紫式部日記は同じ作者の源氏物語のように洗練された文章でなく、ほんの徒然の慰めに書いた物にすぎませんけれど、天才紫式部の日常生活とその思想感情とを直接に知ろうとするには、此書によるほかはありません。道長を中心とする平安盛期の文明生活を知る史料としてもまた一つの宝庫です。 (六頁)

と述べており、文学作品としてよりもむしろ考証史料として評価している節があるが、訳文をつぶさに見ると、その史料を自分語りの文学作品に仕立てている。
 宮仕えを始めた自分をそれまでの生活と比べた場面をまずは原文から挙げる。かんこう五(一〇〇八)年十一月の記事である。

年ごろつれづれに眺め明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき来にけりとばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから、はかなき物語などにつけてうち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけ遠き、便りどもを尋ねても言ひけるを、ただこれを様々にあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかり逃れたりしを、さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな。

 出仕前には物語について語り合える人との交わりですんでいたものが、宮仕えによって恥ずかしさやつらさもすべて思い知ることになったと嘆く。引用した角川ソフィア文庫の『紫式部日記』(山本淳子訳注)では途中に句点がなく一文として扱われているが、晶子は七文に分けつつ、以下のように訳す。

宮仕に出る前の自分は淋しい徒然の多い日をここで送っていた。苦しい死別を経験した後の自分は、花の美しさも鳥の声も目や耳に入らないで、ただ春秋をそれと見せる空の雲、月、霜、雪などによって、ああこの時候になったかと知るだけであった。どこまでこの心持が続くのであろう、自分の行末はどうなるのであろうと思うとやるせない気にもなるのであったが、自分と同じほどの鑑賞力をもつ文学好きの女同志とはずいぶん真実のある手紙を書き交したものであった。自分の直接知らぬ女からもそんなことで手紙を貰った。自分にはその文学好き仲間の交際から慰みが見出されていたのである。これを最も人間らしい生きようであるとは思えないながらも、他人から侮辱を受けたり、悲しい目に合せられたりすることは知らないでそのころは済んだのであった。宮仕以後の自分は昔の自分が知らずにおられたことまでもことごとく味わなければならないことになったと、自分はこんなことを思うのであった。
(一三一頁)

 全体の分量としても説明がかなり加わっているという印象を受ける。「苦しい死別」とはちようほう三(一〇〇一)年四月の夫ふじわらののぶたかとの別れを指す(八〇頁の「紫式部・和泉式部年譜」は四月二十三日没とするが、『尊卑分脈』によれば二十五日没)。文章を分けながら、「自分」という一人称を九回用いながら語ってゆく。『新訳紫式部日記』には二六七例の「自分」が見られる。日記の原文には「われ」のような一人称が現れることはほぼないのだが、このように「自分」が繰り返されることで、内省する「自分」の輪郭が際立っている。与謝野晶子訳で読むことはこの呼吸を読むことを意味する。晶子は『蜻蛉日記』の現代語訳でも「自分」を用いている。「鑑賞力」、「侮辱」などの熟語や「随分真実(初出時は「情」)のある手紙」、「最も人間(初出時は「人」)らしい生きよう」といった表現も、仮名文の原文とはやや距離があり、晶子訳を特徴づける。
 また、文中の「いかにやいかに」は、『拾遺和歌集』哀傷の「世の中をかく言ひ言ひの果て果てはいかにやいかにならむとすらむ」(巻八・五〇七)を引歌とするものだが、私見では現代語訳の底本と目される清水宣昭『紫式部日記釈』(天保五(一八三四)年刊)の説明は、「いかにやいかには、いかならん〳〵と、行末をあやぶむ心なり」(巻二)というもので、引歌はふまえられていない。先行のこうした注釈書にった可能性が考えられよう。
『紫式部日記』の後半に消息体と呼ばれる「はべり」を用いた文章が含まれている。そこでは、周囲の女房やせいしようごん和泉いずみしきあかぞめもんについても言及され、人物評としても重要な箇所である。木村架空『評釈紫女手簡』(林書房、明治三十二年)においてもすでに示される通り、通常は消息体の開始は「このついでに、人のかたちを語り聞こえさせば、物言ひさがなくやはべるべき」という箇所からとされるが、『新訳紫式部日記』においては付録の「紫式部考」で提示した立場に基づいた現代語訳がなされていることも重要な点である。
 この日記を与謝野晶子は、「である」「であった」調の常体で訳しているが、底本一三五頁に区切りの線が入れられ、三行目から変化する(図版参照)。


平生の手紙によう書かぬ事をいいこと、悪いこと、世間のこと、一身のことも残らず自分は書いてお目に懸けたいのです。 (一六九頁)

 このように「です」「ます」調の敬体が用いられている。一三七頁一行目まで続き、線で再び区切られた後に「十一日の未明に宮様は御堂へおいでになるのであった」と、「であった」の形に戻る。今日の現代語訳ではこの前後で特に文体を変えてはいない(ましてや線で区切ったりはしない)ことから、これは晶子訳の大きな特徴と言える。この箇所について晶子は、「紫式部考」五〇頁に「途中で一度友人に見せたことがあって、その時に書き添えた手紙がそのまま中ほどに挟まっている。またその後に書き足して、寛弘七年の春の記事で終っているのは、そのころからしだいに病身になったらしく想われる」と説明している。このように、「紫式部考」での考察が晶子の現代語訳に反映されているのである。前述の『紫式部日記釈』には、

こゝの御ふみに以下、次〻に見えたるは、消息文の辞にて、前のことゞもは、べちに、ものにかきて、それにそへて遣すなり。さて、遣すかたは、いづかたにかあらん、其方をかゝざれば、定めてはいひがたきことなれど、になう、へだてなく、むつびかはしたる、友だちなどのかたなることは、しられたり。もしは、むすめのかたへかとも、思はるゝ所〻あり。
(巻四)

とあって、「前のことゞも」を書いたものの添書として記した友人への消息文と解している点は、晶子の主張とここでも一致する。

『紫式部日記』の中に和泉式部の人物評があり、晶子の訳によって挙げると、

和泉式部という人と自分とは興味ある手紙の交換をよくしたものである。和泉式部には仕方のない放埒な一面はあるが、友人などに対して飾り気なく書く手紙は、文学者としての素質が十分にある女だけに真似のできない妙味のあるものであった。傷のない歌を詠むこと、博覧強記であること、主義主張のあること、これらの約束を具備した真の歌人ではないが、現実を詩化して三十一字にした一首のなかに人の心を引くところが必ずあった。しかしこれほどの人でも他人の歌の批難をしたりしているのを見ると、まだ十分歌というものが解っていないらしく思われる。おそらく才気に任せて口先で歌を詠むという方の人らしい。敬意を払うべき歌人とは思われない。 (一六〇頁)

というように、毀誉を織り交ぜた評を下している。その和泉式部の日記が『紫式部日記』と共に晶子によって訳され一書に収められている。

 くろ髪のすぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

 これは晶子の第一歌集『みだれ髪』(明治三十四年)の表題歌であるが、『和泉式部集』(上・八六)所収の、

黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき

の影響が指摘されている。この一事をもっても晶子の和泉式部への共感がうかがえる。
 晶子が自序において、

 和泉式部日記は和泉式部が自家の閲歴の重要な一部を、わざと三人称で客観的に描写した短篇小説です。日記ともいいますが、一名を和泉式部物語ともいうのです。 (六頁)

と述べている通り、『和泉式部日記』は書名を『和泉式部物語』とする伝本が多い。原文では「女」と記されるこの三人称という点を晶子は徹底しており、訳文を読んでいてまず目につくのは「和泉」の呼称であろう。日記の冒頭は、

 和泉は情人の為尊親王のおかくれになった歎きのなかに身を置いて、明けても暮れてもただ人生のはかなさばかりが思われた。翌年の春が来り春が去っても、まだ和泉は傷ましい胸をそのまま抱いていた。 (一八三頁)

と訳されている。さきほど、『紫式部日記』における「自分」に触れたが、「和泉」の回数を数えると、二四二例見られた。今日の現代語訳では、原文の「女」をそのまま訳すことはあるが、それ以外で主語を三人称でその都度立てることはしていない。それだけ、晶子の訳では「自分」や「和泉」の語によって人称、そして紫式部と和泉式部の存在が強く印象づけられるのである。
 また、この引用箇所に見られるように、冒頭からためたか親王の名を挙げるなど、情報を足しながら訳してゆくことについては松浦あゆみ「晶子の和泉式部──『新訳和泉式部日記』の恋」(『与謝野晶子を学ぶ人のために』世界思想社、一九九五年)に指摘されている。ちなみに、為尊親王の弟で、親王の死後に和泉式部と恋仲になるあつみち親王は、「そちの宮」、「宮」と記される。
 そうした読者への配慮は次のような箇所にも現れる。

もう尼になる仕度にかかろうかなどと思つているある日の昼ごろに、宮からお文があった。

 あなこひし今も見てしが山がつの垣ほに生ふるやまとなでしこ

 ただ古今集のこの歌が一首書かれてあるだけであった。思いもかけずまた烈しい恋の焰を燃やせと火をつけられたように和泉は思った。
 お返しには、

 恋しくば来ても見よかし千早振る神のいさむる道ならなくに

 という伊勢物語のなかの歌を一首だけ書いた。宮は和泉の書いた古歌を微笑んで御覧になった。 (二六四─五頁)

 歌について、原文にはない出典(作品名)を訳文に織り交ぜている。現代語訳付きの校注書などでは現代語訳ではなくむしろ注に記されることだが、現代語訳のみで一体的に理解できるよう工夫されている。
『和泉式部日記』については、自序の中で、

源氏物語の大作と比較することはできませんが、ともに我国の写実小説の祖であり、ことに和泉式部日記が遠く明治の小説に先だって、自己の経験を書く小説の最初の作であることは文学史上の光栄だと信じます。 (七頁)

と高い評価を与えており、『紫式部日記』を史料としてとらえる見方に対し、『和泉式部日記』は『源氏物語』と比較するなど、「小説」として把握していることが見て取れる。和歌は『紫式部日記』と同様に訳されていないが、『和泉式部集』については与謝野夫妻による評釈『和泉式部歌集』(大正四年)の共著がある。
 日記の後半には以下のような会話の場面がある。

 お通いの途絶えた間のお心持などを人懐しい御様子で宮は女に語ってお聞かせになった。
「この間話したようにすることを早くお決めよ。私はこうして隠れて来るのをきまり悪くも恥しくも思っているのだよ。そうかといって来ないでは生きがいもない気がするのだから、ねえ厭だねえ、世の中は。どうにかして苦労をせめて少くしようじゃないかねえ、お互いに」
「私はもういつでもお邸へ参るつもりでいるんでございますよ。けれど、またね、参ってからあなたのお心の冷たさに泣くようなことがありはしないかと、それが心配になってまいりましたの」
「まあ試して御覧、私の愛がどれほどのものであるかをさ」
 こんな言葉がされた。 (二四二頁)

『紫式部日記』に比べてかなりくだけた口調のやりとりがなされる。この書きぶりは『源氏物語』の現代語訳に近く、晶子の解説するところの「短篇小説」の文体が選択されているのだろう。『新訳和泉式部日記』の魅力の一つと言える。

 晶子の現代語訳には今日の解釈とは一致しない場合がしばしば見られる。千葉千鶴子「『みだれ髪』と『和泉式部歌集』──晶子の古典文学観(一)」(『北海道武蔵女子短期大学紀要』第一巻、一九六九年三月)および松浦氏によって指摘されているのは『和泉式部日記』冒頭の、和泉式部と帥の宮のわらわとのやりとりである。晶子訳から紹介しよう。

「この花を帥の宮様へ差上げてね、どう思召しますかを伺ってきて下さいな」
 和泉は一枝の橘の花を童に渡した。
「花橘の香を嗅げば昔の人の袖の香ぞするというような御返事を頂いて参りましょう、しかしはじめてでおありになるのでございましょうから、何かちょっと御挨拶のお言葉でもございましたら伺って参りましょう」
と童はいった。 (一八五頁)

 花橘の枝を渡したのは和泉式部で、それに対する帥の宮の返事をもらって来ようと童が応じたことになっている。松浦氏により底本と推定される群書類従本の本文は、

これまいらせよ、いかゞ見給ふとて橘をとりいでたれば、むかしの人のといはれて見(にイ)まいりなむ、いかゞきこえさせんといへば、……

というもので、今日通行の本文ほど文脈は明快でないが、この橘の枝は帥の宮から和泉式部に贈られたと解さねばならない。それにしても、「花橘の香を嗅げば昔の人の袖の香ぞするというような御返事」といった訳し方は、会話としては冗長で不自然だが『古今和歌集』の引歌(初句は「五月待つ」)をわかりやすく解説する親切な配慮である。
 このようなケースは『紫式部日記』にも見られる。文献上、『源氏物語』への最初の言及とされる寛弘五年十一月一日の記事を例に挙げる。もんのかみ藤原きんとうが紫式部に戯れに話しかける場面で、「源氏物語千年紀」や「古典の日」のよりどころとなった記事でもある。

左衛門公任卿督、なかしこ、このわたりに、若むらさきやさぶらふ、とうかゞひ給ふ、源氏に、かゝるべき人見え給はぬに、かのうへは、まいて、いかでものし給はん、と聞ゐたり。
(『紫式部日記釈』巻二)
 公任左衛門督は、
「ええと、この辺においでですか、若紫は」
 といって御簾の中を窺っていた。自分は源氏物語のなかに賞めて書いた女性のいずれにも当っていないと謙虚な心で思っている。ましてこの辺に若紫の夫人をもって自任している作者がいるわけはないと自分は苦笑しながら聞いていた。
(一二六頁)

という解釈は、今日では『紫式部日記絵詞』などの「源氏にべき人も見え給はぬに」という本文に基づいた上で、「源氏の君に似ているような方もお見えにならないのに」と解されている。晶子の訳では「源氏」はひかるげんでなく作品としての『源氏物語』を指す。これは、『紫式部日記釈』の注釈、「源氏以下、式部の心中の詞にて、源氏はみづから作れる源氏物語なり」と通じる。ただし、続く「かゝるべき人は、かくたはぶれみだりがはしき人といふ意なり」の解釈は採っていないので、この注釈書を参照したとしても、取捨選択がなされている。訳文では「該当する人」というほどの意味であろう。
 晶子自身のいわば誤訳によるものと、当時の本文に基づいたものとがある。『新訳和泉式部日記』の最後は、

宮の夫人の手紙や女御の心持などは第三者になって書いた和泉の想像であるから、そう思ってほしい。 (二七六頁)

とある。宮内庁書陵部蔵本に基づく角川ソフィア文庫版(近藤みゆき訳注)の本文は、

宮の上御文書き、女御殿の御ことば、さしもあらじ、書きなしなめり、と本に。

であるが、群書類従本には「本に」がない。『蜻蛉日記』や『源氏物語』の最後も、それぞれ今日の本文には「とぞ本に」、「とぞ本にはべめる」とあり「本」が登場するが、晶子が参照したと思われる諸本はその部分がないものが多い。先に考察した「にる」と「かゝる」のように、参照した本文によって現代語訳が異なるのは当然のことである。

 晶子の訳業を支えたものについて改めて考えてみたい。『新訳紫式部日記』の訳文は清水宣昭『紫式部日記釈』の本文や解釈に近い箇所が散見する。完全に一致するものではないが、この本を底本とし他本を参照したと見てよいのではないか。与謝野夫妻もへんさん校訂に関わったそうしよ「日本古典全集」所収の『紫式部日記 紫式部家集 清少納言[枕草子] 清少納言家集』(本書の編纂校訂は正宗敦夫)は昭和三(一九二八)年四月の刊行である。そこには、

藤井高尚の門人で名古屋の人清水宣昭が著はした紫式部日記釈四巻は諸本を参考して校訂した本で一般に(善カ)書とせられてゐる。別によい本も発見せられなかつたからすべて此書に拠り、近く関根正直博士が著はされた「精解」を参考した。

とあって、『新訳紫式部日記』よりも後の評価ではあるが、『紫式部日記釈』への評価はうかがえる。また、「有朋堂文庫」の『平安朝日記集 全』(大正二年)にも、「覆刻するにあたりて原拠とせる諸本」として、『紫式部日記』は「清水宣昭「紫式部日記釈」」、『和泉式部日記』は「木版群書類従本」が挙がっている。両日記の現代語訳とほぼ同時期の「有朋堂文庫」の底本選択と一致するもので、当時の標準的な判断だったのではないか。
 ちなみに、『紫式部日記』や『和泉式部日記』と異なり、『蜻蛉日記』は昭和期に訳されたことはすでに述べたが、それにより現代語訳の底本に『蜻蛉日記』のみ、晶子も関わった「日本古典全集」を採り得たことも特筆すべきであろう。『現代語訳国文学全集』の解説には「正宗敦夫氏が古典全集に採られた本を私は主として用ひ、訳本の性質上意味の通らぬ所だけは流布本に由つて補つた」とある。
 訳業を支えたものという点では、底本のほか、この書物の刊行に至るまでの晶子の両日記に対する考察も挙げねばならない。『紫式部日記』については、すでに挙げた付録の「紫式部考」がある。書誌情報などで本書の付録は「紫式部新考」と誤って記載されることがあるが、それは昭和三年に雑誌『太陽』に連載された別の論考で、本書に付されたのは「紫式部考」である。年譜考証に加え、『源氏物語』の成立順序について、

私の想像では、源氏物語は「桐壺」から書かれずに弐巻の「箒木」から書かれた。

という注目すべき言及がある。これは後につじてつろうが「『源氏物語』について」(『日本精神史研究』)で述べた、「かくて我々は、帚木が書かれた時に桐壺の巻がまだ存在しなかったことを推定しなければならぬ」という主張のさきがけをなすものと言える。
『和泉式部日記』の解説については、「自序」に「和泉式部考をも書きたいと思いましたが、その暇を得ないのと、まだ私の研究に不安心なところのあるのとで止めました」(七頁)とある。「紫式部考」の後には「紫式部、和泉式部年譜」が続いているのだが、この和泉式部の年譜については後に「日本古典全集」所収の与謝野寛・正宗敦夫・与謝野晶子編纂校訂『和泉式部全集』解題において、「編者等の中、与謝野寛と晶子が曾て「和泉式部歌集」講本に添へたる和泉式部の略伝、及び晶子が「新訳紫式部日記と新訳和泉式部日記」に添へたる「紫式部日記、和泉式部年譜」の中の和泉式部の略伝は併せて抹殺し、其後の和泉式部に関する研究をここに此解題の中に略述したのである」との表明がある。紫式部と和泉式部の人物と作品について繰り返し検討が加えられるさまは、先に見た自序にうたわれるところの「もとより原作の意義と気分とを伝へることを主としましたが、またできるだけ原文の発想法に従うことにも力めました」という「自由訳」を強調した訳業の舞台裏をかいま見るようである。ちなみに、敬体で書かれたこの自序で、晶子は「私」という一人称を用いている。二つの日記の現代語訳にも、会話や消息文中に「私」が現れ、作者や作中人物を示す。その時々における人称の選択も注目されるところである。

作品紹介・あらすじ



与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記
訳者 与謝野 晶子
定価: 1,012円 (本体920円+税)
発売日:2023年06月13日

情熱の歌人・与謝野晶子の華麗な現代語訳で色鮮やかによみがえる平安の日々

平安時代の代表的な日記文学である『紫式部日記』『和泉式部日記』を、大正の歌人・詩人である与謝野晶子が華麗な文体で大胆に現代語訳した名作、初の文庫化! 平安貴族と女房たちの日々の暮らしや、宮廷の行事、人間関係と恋愛事情が描かれ、当時の風景が生き生きとよみがえる。二つの日記作品に加え、与謝野による論考「紫式部考」を併録。田村隆氏(古典文学研究)による「解説」で、与謝野訳の魅力と味わい方を紹介。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322303000446/
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