KADOKAWA Group
menu
menu

試し読み

【試し読み】クラスで自分だけが「能力者」だったら――実写映画化で話題の『君の顔では泣けない』著者が描く特殊能力×青春小説! 君嶋彼方『夜がうたた寝してる間に』大ボリューム特別公開

デビュー作『君の顔では泣けない』が実写映画化!
いま話題の作家・君嶋彼方さんの第2作『夜がうたた寝してる間に』が、ついに文庫化しました。

本作のキーワードは「特殊能力」。
およそ一万人に一人、特殊能力を持つ者がいる――そんな世界で、クラスで一人だけ「時間を止められる力」を持った高校2年生・冴木旭が主人公の物語です。

本記事では刊行を記念して、物語の冒頭を大ボリューム特別公開!
どうぞお楽しみください。

君嶋彼方『夜がうたた寝してる間に』試し読み



 四角い窓に、夜を眠らせて閉じ込めた。
 少し開いた窓から漏れ聞こえていた雨の音が、ぴたりとやむ。ベッドサイドに置かれているデジタル時計がその動きを止める。ぼんやりと流していたスマホの動画の中の人々は、奇妙な格好で静止している。
 ベッドで寝そべっていた体を起こす。窓の方まで歩いていき、カーテンを開く。黒く塗られたガラスに自分の顔がぼんやりと映った。若いけれどもう少年とは言えないような、一人の男の顔だ。それをかき消すように窓を開ける。
 息を止めた暗闇が、絵画のように張り付いている。深夜の住宅街の明かりは部屋によってともったり灯らなかったりで、あとは辺りを照らしているのは街灯と一台の車だけだった。その車も道路の真ん中でじっとりと動きを失っている。ヘッドライトの中に、いくつもの雨粒が見える。
 体を乗り出して窓から顔を出す。エアコンで暖まった体が、首筋から徐々に冷えていくのを感じる。腕にぷつぷつと鳥肌が立つ。鼻から息を吸うと、凍り付くような空気が肺へと落ちていった。
 大きく息を吐く。白いもやが空中にぷかりと浮かぶ。更に、はぁ、はぁと立て続けに息を吐く。靄の塊がいくつもできて、そしてそれは宙に浮いたまま消えない。ゆっくりと右手をそこに差し込むと、湿り気のある生暖かさが指に絡みつく。
 ふいに手首に何か冷たいものが当たって、思わず手を引っ込めた。雨だ。雨粒はいくつもの小さな球体になって、夜の空を漂っている。体を動かす度、それはぺたぺたとまとわりつく。気付けば窓の周りだけ、れいに雨粒がなくなっていた。
 更に身を乗り出して、手を伸ばした。ぴったりと動きを止めているその水滴たちを、つかみ取るようにしてすくっていく。手のひらが露に浸ってれる。湿った手をパジャマのすそいて、また水滴を掬い取る。そんなことをしているうち、周辺には雨粒が一つもなくなった。
 せいひつな夜だ。雨の音も車の音も、テレビの中の声もやかましく笑う若者の声も、全てが聞こえない、完全な静寂。自分が息を吐く音だけが耳の奥でやたらとやかましく響く。
 両手をこすり合わせる。指の氷のような冷たさが皮膚を貫く。体がすっかり冷えてしまった。乗り出していた半身を引っ込めると、腕をさすりながらわずかに隙間を残して窓を閉める。
 くしゅん、とくしゃみを一つする。
 窓の隙間から、雨の音が聞こえ始めてきた。



 電車から、流れる朝の風景をぼんやりと眺めていた。ほとんどの人が自家用車で移動するこの地域では、電車の利用者は少ない。腰掛けたシートの足元には暖かい風が流れてきて、凍えていた体がだんだんと感覚を取り戻す。学生服に包まれたももかゆくなって、ズボン越しにいた。暖かさにまどろみそうになりつつも、駅に着いてドアが開く度冷たい風が流れ込んできて、都度睡魔は奪い去られる。
 何度かそれを繰り返したのち、今度は高い声が眠気を妨げた。
「アーサー! おっはよ」
 跳ねるように電車に乗り込みながら、えのもとよしあいさつをしてくる。「エノ、おはよ」と俺もそれに返す。今日めっちゃさみぃー、と言いながら隣に腰を下ろしてくる。
「十一月ってこんな寒かったっけ? あー、電車あったけー」
 十六歳にしては幼い声が電車の中に響き渡り、まばらな乗客たちがちらりとこちらに視線を向ける。しかしそれを気にする素振りもなく、榎本は話を続ける。
「こんな寒いのにさぁ、教室にあんなヒーター一個だけってありえねえよなあ。しかもあるの教卓の方だし。職員室みたくさぁ、エアコンつけてくれればいいのに」
 俺は周りの反応を気にしながらも、声を潜めることなく返す。
「金ないんだろ、きっと。うちの学校貧乏っぽいもん」
「それな! 北高は全部のトイレにウォシュレットあるらしいよ。ずるくね?」
「おっ、さすがエノ、堂々と学校でうんこしてる宣言」
「は、はあ? してねえし! 一般論? ってやつだし!」
 高い声で榎本が騒ぐ。変声期を迎えていないそののどもとはまだ平らで、背も小さく、顔つきも同級生たちに比べると幼い。俺と並ぶとまるで年の離れた兄弟のようだ。言動も子供っぽく、周囲からそれをからかわれることがしばしばある。ワックスで必死に整えられた髪は彼の精一杯の自尊心の現れだ。
「てかさぁ、アーサーもクリスマス会参加するっしょ?」
 榎本は昨日からこの話ばかりしている。昨日、どこからともなくクリスマス会の話が出てきた。十二月二十四日、クリスマスイブ、学校はちょうど二学期最後の日だ。その日は終業式だけで終わる。なのでその後、学年全体で何かをしてクリスマスを楽しもう、という会らしい。とはいえど家族や恋人と過ごす者も当然いるので、自由参加だ。クリスマス会なんて仰々しく掲げたところで、結局はカラオケやボウリングに行く程度で、いつもの放課後と大して変わりはないことが容易に想像できる。
 それでもその話題が出たとき、クラスは盛り上がった。来年は三年生に上がり、受験モード一色になる。修学旅行もなく、文化祭や体育祭への積極的な参加もない。そんな中での学年全体のイベントは、どんなにぱっとしなくても貴重だ。
「あのさあ、まだ十一月入ったばっかなんですけど。そんな前からそわそわしてるのお前くらいだぞ」
「なんでだよー! アーサー楽しみじゃないのー?」
「いやぁ、俺もクリスマスにはもしかしたら予定があるかもしれないしなぁ」
「えっ! 予定入る予定あんの!?」
「いや、今んとこ皆無」
「なんだしー! ビビったぁ」
 電車が学校の最寄り駅へ着く。この駅で降りるのはほとんどがうちの学校の生徒たちだ。校則は緩く、色とりどりのコートやマフラーでホームが染まる。榎本が赤いチェックのマフラーにあごうずめて、さっぶいと肩を揺らす。確かに十一月にしては空気が冷えている。かじかんだ両手をコートのポケットに突っ込んだ。
 改札を出ると、徒歩や自転車で通学している生徒たちと合流する。白い息があちこちで舞い上がって曇天に溶けていく。駅から徒歩七分程度の道のりで、俺と榎本はくだらない話をしながら学校へ向かう。
「おっす」
 急に肩をたたかれた。振り向くと、もうともひでが息を切らせていた。学ランの前を開け、首筋にはうっすらと汗をかいている。明らかに一人だけ季節感が狂っている。
「はよー」榎本が返す。「もっち。今日も走ってきたん?」
「おう。めっちゃあっちぃ」
「この寒さの中で汗かいてるの、もっちくらいだよ」
 俺の言葉に、まあな、と何故か自慢げににやりと笑う。
「朝から体力有り余りすぎだろ」
「ま、俺はどっかのおっさんとは違って若いからな」
「うっせ、誰がおっさんだ」
 毛利の軽口に俺が反論する。毛利は悪天候の日以外は、暑かろうが寒かろうがいつも走って学校に来る。冬でも日にけた肌とがっしりとしたたいはいかにもスポーツマン然としたふうぼうだが、実際のところ体育の成績はそれほど良くはない。
「ねー、もっちもクリスマス会行くでしょ?」
 頭一つ分背の高い毛利を榎本が見上げる。毛利が額ににじんだ汗を手の甲でぬぐった。
「まだなんも決めてない。その場のノリかな」
 毛利は「ノリ」という言葉をよく使う。要するに、周りの雰囲気や空気の流れのようなものだ。確かに、俺たち高校生にとってノリは大事である。
「ってか、もうクリスマスの話? エノ気ぃ早くね?」
 えーっ、と榎本が声を上げる。
「ほーら、やっぱ言われた」
「なんでー!? みんなドライすぎっしょ! クリスマスだよ、もっとわくわくしようよー!」
「それよか、俺はその前にある期末試験の方がゆううつだわ」
 毛利の言葉に「それな」と同調する。「それは言わない約束だろー」と榎本が騒ぐ。
 校門が見えてくる。反対側からも同じように生徒たちが歩いてきていて、開け放たれた門の中へと次々吸い込まれていく。俺たちもそれに倣う。
 そして校舎が現れる。一年の頃は異質なもののように見えていたその巨大な建物にも、今ではすっかり慣れてしまった。歴史ある、といえば聞こえはいいが、要するに古ぼけているだけだ。榎本の言う通り、エアコンもなければウォシュレットもない。机や椅子などの設備も年季が入っていて、全体的に時代を感じさせるつくりだ。三十人弱が詰め込まれた教室が一学年につき四クラス分の、小さな学校。校庭を取り囲むようにコの字の形をしていて、教室の窓からは体育の授業にいそしむ生徒たちの姿がよく見える。
 朝練に励む野球部を横目に、校庭の脇を通って校舎の中に入る。自分のクラスの下駄箱に向かおうとすると、集団がその前に陣取っていた。女子生徒たちが、一人の男子生徒を取り囲んで何やら質問攻めにしている。
「だからね、うちんちでクリスマスパーティーしようって話になってて。あかさきくんも、よかったらどうかなーって思って!」
「どうかな? もう何か予定とかって入っちゃってる?」
「クリスマス会なんて行かないもんね?」
 真ん中に立つ赤崎てんは、あからさまに困惑を顔に浮かべながらもどうにか微笑んでいる。彼が女子生徒に囲まれている様子は初めこそ物珍しかったものの、今ではよくある光景として日常にんでいる。クリスマスの話してるのおれだけじゃないじゃん、と背後で榎本がぼそりとつぶやくのが聞こえた。
「はーい、すいませーん。ちょっとどいてくださいねー」
 言いながら俺は、下駄箱を隠す女子を体で押しのける。女子が不満気な声を出してじろりとにらみつけてくるが、俺は気にすることなく上履きを取ると履き替える。
「あさくん」
 天に名を呼ばれ、顔を上げる。心なしかほっとした表情で俺を見つめる彼に、「天ちゃん、おはよ」と声をかける。天はおはようと返すと、これ幸いと言わんばかりにその群れから抜け出した。考えといてよねー、と女子生徒の一人がその背中に声をかける。
「相変わらずすごい人気だね、王子」
 毛利が思わずといった感じで漏らす。そんなことないよ、というけんそんが嫌味に聞こえるほど、天は男の俺から見てもれいな顔立ちをしている。ぱっちりとした二重のひとみに、すっと通ったりよう、少し厚めの唇。肌の色は白く、長いまつを傾けて目を伏せる姿は美しくすらある。その上成績も優秀で運動神経も抜群、しかも生徒会にまで所属しているという、まるで少女漫画から飛び出してきたような男で、王子というを込めたあだですら似合ってしまう。
 当然、とんでもなくもてる。あまりにもてすぎていて、他の男子はしつせんぼうを通り越し、尊敬の念すら抱いている。けれど天本人はその事実をあまり好ましく思っていない様子だった。天の全く関係のないところで、彼の存在がもとでいさかいが起きていることがあるのをいやというほど知ってしまっているからだ。
「王子はさー、クリスマス会は行かないの?」
「お前はさっきからそればっかだな」
「それ、エノ流の朝の挨拶なの?」
 毛利と俺がからかうと、榎本が顔を赤くして何やらわめく。その様子を見て天が笑う。
「僕は、多分行かないかな」
「えー、まじかー! でもまぁそうだよな、王子ともなると予定の一つや二つ……」
「三つや四つ……」
「いやいや、ないない。そんなないよ」
「天ちゃんは毎年、終業式が終わるとすぐじいちゃんばあちゃんちに行くんだよ」
 困ったように笑う天に助け船を出すと、「そうなんだ。毎年恒例で」と慌てたように付け加えてくる。
 俺と天は家が近所で、小中高と学校が一緒の、いわゆる幼馴染というやつだ。最近はすっかりなくなってしまったが、中学くらいまでは家族ぐるみの付き合いもしていた。
「なんだー。王子が来るなら女子の参加率上がると思ったのになー」
「エノはそれよりも自分の予定がクリスマス会しかないことを憂うべきだぞ」
「もっちはほんとやなことばっか言う!」
 そんなことを言い合いながらたらたらと歩いていると、廊下にチャイムの音が響き渡った。朝のホームルームの始まりを告げる本鈴だ。やべえ、と毛利が呟くのを合図に、俺たちは教室へと走る。途中ですれ違った学年主任が「走らない!」と怒鳴るが、そんな言いつけを守っている余裕はもちろんない。
 違うクラスの天と別れ、俺たち三人はD組に駆け込む。担任の姿はまだなく、息を切らしながらセーフ、と呟くと、アウトだよ、と背後から担任に頭を叩かれた。
「早く席に着け」
「はーい」三人揃って返事する。
 そうして、また一日が始まる。

 日々を何の問題もなく過ごすことは、それほど大変ではない。空いた時間をつぶせる相手さえいれば、あとはその場の空気に合わせてしやべって、別に楽しくなんてなくても笑顔を貼り付けて。あとは、盛り上げたり相手を笑わせたりする言葉を見つけたりしてればいい。その方法を知ってからは簡単だった。
 それでいいのだと思う。そのお陰で、昼休みを孤独に過ごさなくて済む。休み時間になるとすぐに教室から出てどこかへいなくなる奴。一人でひたすら本を読んでいる奴。どうして彼らはうまくやれないんだろうと俺は不思議だった。俺とは違って、普通の人たちなのに。
 俺は同じクラスの奴らとはほぼ全員分け隔てなく話せるし、他のクラスにも仲が良い相手が何人もいる。誰がどう見ても、充実した学校生活を送っているように見えているという自負があった。
 けれど、一週間のうち、どうしても好きになれない時間があった。毎週土曜日、四時間目、ロングホームルーム。その時間が近付くにつれ、俺は憂鬱な気分に襲われる。
「あ、アーサー、そろそろ行かなきゃじゃない?」
 毛利が黒板の上に掛かった時計を見上げる。俺もつられて目をやる。時計の両方の針は、そろそろてっぺんを指そうとしていた。喉元から漏れてきそうな不満の言葉を飲み込んで、笑顔を作って立ち上がる。
「まじだ、やべえ。行ってくるわ」
「おう、行ってらっしゃい」
「またあとでなー」
 毛利と榎本に手を振り返し、教室を出る。休み時間が間もなく終わるというのに廊下はまだ騒ぐ生徒たちであふれていた。その間を縫って、特別教室へ向かう。
 廊下の真ん中でキャッチボールをしている男子生徒二人の姿があった。こんなところでするなよ、と心の中で悪態をつく。周りも迷惑そうに彼らをいちべつするが、気にする素振りはなくボールを投げ合っている。
 うわっ、やばいっ。声が聞こえた。ボールを投げた男子生徒が発した声だった。彼の手から離れた白球は構えている相手の頭上をはるか高く越え、大きく弧を描いていた。そしてそれは、通りかかった女子生徒の頭めがけて落ちようとしている。
 あ、危ない。
 とつに思う。両手に力がこもる。キャッチボールをしていた男子二人が何か叫ぼうと大きく口を開けた。女子生徒が、自らをかばうように両手を頭の上に掲げた。
 ボールが浮かぶ。女子生徒から三十センチほどの距離でぴたりとその動きを止めたまま。蛍光灯の光を丸い形に遮り、彼女の腕にゆがんだ影を落としている。
 廊下は静まり返る。談笑の声も、上履きの音も、何も聞こえない。その静寂の中、俺だけが足音を響かせて、宙に浮かんだボールを背伸びしてつかむ。それを手に持つと、男子生徒の片方に近付き、左手にめられたミットにそのボールをじ込む。そして、ふうと息を短く吐いた。
 わっと、再び廊下にけんそうが溢れ出す。歩き出した背後からは、男子生徒たちが戸惑いの声を上げているのが聞こえてくる。俺はそれを無視して、そのまま特別教室へと再び向かう。
 しばらく歩くと生徒たちの姿は減っていく。A組からD組を過ぎた先にあるそのドアの前には、一人の女子生徒がうつむきながら立っていた。俺はポケットから黒いマスクを取り出すと、それを着けて彼女に声をかける。
「おっす。お疲れ」
 しのみやあかが俺の顔を見て、「ああ」と挨拶ともうめきともつかない声を上げる。俺の胸元辺りの背丈の小柄な体軀で、くりっとした瞳に丸い鼻と幼い顔立ちをしてはいるが、その固く結ばれた唇と睨むような目つきは威圧感がある。その全てを見透かしてきそうな視線にたじろぎながらも、俺はどうにか笑顔を作る。
「なに、どしたの。教室入れないの?」
「うん、おか先生がかぎ忘れちゃって。今職員室に取りに行ってる」
 そっか、と返すと会話が途切れてしまう。どうにも彼女と話すのは苦手だった。何か次の言葉を、と頭の中で必死に探していると、ふいと視線をらされてしまう。興味を失くされた落胆と、会話を続けなくていいあんが同時にやってくる。
「あれ」
 小さな声が聞こえた。振り返ると、あがつまそうがぼんやりとした表情で立っていた。篠宮が何か言うだろうか、と彼女の言葉を待ったが、口を開くことはおろか閉ざされたドアから視線を外す気配すらなかったので、仕方なく俺が説明する。
「岡先生、鍵忘れて今職員室に取りに行ってんだってさ」
 興味のなさそうな「そう」という短い返事と共に、大きなあくびを一つする。我妻はいつも眠そうだ。厚ぼったい二重の目をしばたかせ、どこか不満気に口角を下げている。背は高いがひどい猫背で、パーマをかけたようにうねった髪は時折寝癖がついている。実際ロングホームルームの時間も、机に伏している姿しか目にしたことがない。
「先生もさぁ、こんな寒い廊下で待たすの勘弁してほしいよなぁ。風邪引いちゃうじゃんなあ」
 話しかけてみても、案の定「そうだね」とだるそうに返されただけで、やはり会話は続かない。ためいきをつきたくなるのをこらえる。教室前はしんと静まり返るが、それに落ち着かないのはきっと俺だけなのだろう。篠宮も我妻も、その沈黙を当然のものとして受け入れているように見える。
 授業開始のチャイムが鳴る。いい加減居たたまれなくなったところで、ようやく岡先生がやってきた。俺は思わず安堵する。それは俺だけではないようで、固まった空気が少し和らいだ気がした。俺はマスクを外す。
「すまんすまん。お待たせ」
 口ではそう言うものの、のたのたと歩いてゆっくりとドアの鍵を開けている。「センセー、遅いよー」と口をとがらせてみたところで、「悪いな」とちっとも悪びれた様子もない。
 そしてようやく教室のドアが開く。岡先生が入り、電気をけた。そしてその後に続き、俺たちも教室へと入る。週に一度しか開放されないその部屋はいつもどことなくほこりっぽくかびくさい。室内は冷え切っていて、岡先生が教壇にあるヒーターの電源を点ける。
 各々が席に着く。篠宮は教壇の目の前、我妻は一番後ろのドア側の席。そして俺は、前から三列目の中央辺りに座る。どこに座るか決まってはいなかったが、いつの間にかそれぞれの定位置ができていた。
 教壇に立った岡先生が、よく通る声を張り上げた。
「この一週間、何か変わったことがあった人は?」
 毎回投げかけられるその質問に、手を挙げる者はいない。それでも毎週、岡先生はこの言葉を投げかけてくる。
 毎週土曜日、四時間目、ロングホームルーム。時計の両方の針が頂点を指す頃。俺たち三人はその時間帯に、普段使われていない教室に集まる。それが俺たちがこの学校に在籍するための義務だからだ。
 特殊能力所持者。それが俺たちの正式な名称だ。
 俺たちは、常人にはない特殊な能力を使うことができる。

 およそ一万人に一人。それが全世界における特殊能力所持者の割合だと言われている。能力は人によって様々だ。透視能力や発火能力のような漫画や映画に出てきそうなものから、体に花を咲かせたり他人の産まれたときの体重が頭の上に見えたりというような変わったものまである。
 そして俺は、時間を停止させることができる。止められる時間に限りはなく、俺が元に戻すまで、人や物はその動きを殺し続けている。その世界の中で動くことができるのは、俺だけだ。物心がついたときにはもう、俺はこの力を手に入れていた。
 能力者は、能力を持たない一般の人々とできるだけ変わらぬ生活ができるよう支援されている。教育機関についても同様で、受け入れ態勢が整っているところであれば一般の学校に入学することも可能だった。
 この学校は去年から能力者の受け入れを許可するようになった。幸いなことに我が家から近く、天を始め見知った顔もちらほらいて、俺にとっては非常にありがたかった。他の二人はそれぞれ引っ越してきたり遠くから通学してきたりと、それなりの不便さはあるらしい。そして今のところこの学校で能力者は、ここに集まる俺たちだけだ。
 数百人いる生徒たちの中で、たった三人。どんなにこの学校へ溶け込んだつもりでいても、この教室へ来ると自分は異質な存在なのだと思い知らされる。この時間が嫌いだった。
「それじゃあ、各々自習」
 岡先生のその言葉を合図に、それぞれが好きなことをし始める。宿題をしたり、スマホをいじったり。先生も生徒たちに興味を失くしたように、手元の文庫本に目を落としている。
 岡先生は、大人たちの中で唯一の能力者だ。教員免許は持っているらしいが、基本的には俺たち三人の為に駐在している。先生は、周りの能力者の力を封じ込めることができる能力を持っている。
 能力者を受け入れるにあたって、学校側はいくつもの規則を課される、と聞いたことがある。在校生及び学校関係者全てに、入学する能力者の詳細を伝えなければならない。教育者は能力者の学校生活を妨げるような行為をしてはならない。週に一度集まり情報共有をすること、というのもそのうちの一つだ。
 岡先生の仕事は、この週に一度のロングホームルームの担当以外にもう一つある。俺たちの監視だ。要するに、俺たちがテストなどで能力を使って不正を働かないようにしているのだ。とはいえしていることといえばただじっとその場にいるだけなので、当の本人はいつもただひたすらにだるそうにしている。
 この時間は嫌いだが、岡先生は嫌いではない。先生の傍にいるときだけは、普通の人間でいられるからだ。それはきっと俺だけではなく、他の二人も同じだろう。いつも先生が教室に来ると、凍り付いた空気が氷解していくような感覚がある。
 チャイムが鳴った。岡先生が読んでいた本にしおりを挟んでぱたりと閉じる。
「じゃ、また今度」
 かすれた声が響くと、俺たちは一斉に帰り支度を始める。同時に、ドアを隔てて廊下がわっと騒がしくなる。他のクラスもロングホームルームが終わり、生徒たちで溢れ返っているのだろう。先生がドアを開けると、喧騒が教室の中に入り込んでくる。
 俺はマスクを着け、コートを着込み、かばんを肩に掛けると教室を出る。うちのクラスはまだ終わっていないようで、ドアはぴったりと閉め切られたままだった。廊下の窓際の壁にもたれ、なんとはなしに自分がさっきまでいた教室の出入口をぼんやりと眺める。女子生徒が二人、ドアの前に立っていた。
 教室から篠宮灯里が出てくる。その口には黒いマスクを着けている。声までは聞こえないが、その二人と談笑する様子が見える。篠宮が目を細め笑う。ロングホームルームではくされた様子しか見せない彼女の、そんな表情は貴重だった。本当に気を許した相手にしかそんな顔をしないのだろう。教室から我妻が出てくる気配はない。どうせいつものようにさっさと帰ってしまったに違いない。
 話しながら三人はこちらへやってくる。俺の目の前に来ても、篠宮はこちらに一瞥すらくれず、通り過ぎる。
「でさ、また灯里に彼氏が浮気してるかどうか調べて欲しいんだって」
「えぇ、またぁ?」
「ね、またかよって感じだよね。そんなに心配なのかな」
 そんな会話が聞こえてくる。
 いろんな生徒が篠宮に、恋人は浮気をしているかとか、想い人に好きな相手がいるかどうかとかをいているということは知っていた。そういう意味では、彼女も一応この学校に馴染んでいるといえる。
 人の心の中を読むことができる。それが篠宮灯里の能力だ。
 篠宮の場合、少し変わった心の読み方をするらしい。相手の顔を見ると、その相手の口から煙のようなものが漂ってくる。その煙の色や匂いは様々だ。どうやら相手の感情によって変わるらしい。たとえば、喜んでいるとオレンジの煙で甘い菓子のような匂い、悲しみを感じているとあいいろの煙で雨で湿ったような匂い、など。実際俺が見たりいだりしたわけではないから本当はもっと複雑なのだろうけど、俺が知っている情報はそれくらいだ。そしてその煙の匂いを認識したときに、相手が何を思っているかが頭の中に浮かんでくるらしい。
 篠宮は俺とは違いその力を受動的に発動させてしまう。つまり意識せずとも、人の顔を見ただけで煙が現れ、こうに流れ込み、心の声が勝手に入り込んできてしまうのだ。
 そこで対策として配られたのが、黒いマスクだ。これを篠宮が着けることによって、煙自体は見えてしまうそうだが、匂いを嗅ぐことができなくなる。そして学校の生徒や関係者にも同じようなマスクが配られた。これは反対に、自分の煙を防ぐためのものだ。これを着けてさえいれば、篠宮に心を読まれることはない。
 篠宮が能力者だと知っている校内の人間のほとんどは、篠宮とたいするときマスクを着けるため、心を読まれることは少ない。けれど校外の人間はその限りではない。能力者は一応襟や胸元などに金色のバッジを常時着用することが義務付けられているけれど、それを外してさえしまえば、篠宮に疑念を抱く者はいない。そうして彼女は、友人やクラスメイトたちのために人々の心の中をのぞいている。
 俺はその事実を、あまり好意的には受け取っていない。知らず知らず自分の心の中を読まれているなんて、ぞっとする。だから俺は篠宮の前では、岡先生がいないときは絶対にマスクを外さないようにしている。
 がらりと教室のドアが開いた。飛び出してきたクラスメイトが、俺の顔を見て「あ、アーサー、おつかれー」と声をかける。おつかれー、と俺も返す。しばらく待っていると、榎本と毛利が教室から出てきた。
「あ、アーサー。お待たせ!」
「アーサー、今日バイト? 俺たち今日部活なくなったから、カラオケ行こうぜ」
「今日はバイトなし。あと誰が行くの?」
 毛利がクラスの男子生徒の名前を何人か挙げる。俺はわざとらしく渋面を作ってみせる。
「えー、女子呼ぼうぜ女子」
「アーサー声かけてよー。その方が女子の食いつきいいんだもん」
「分かったよ、しゃあねえなあ」
 教室に入って、スカート丈の短い女子の集団に声をかける。なあなあ、今日カラオケ行かね? いいけど、あんま今日お金持ってきてないんだよね。大丈夫だって、エノがおごってくれるから。えー、なんでおれなんだよー! なんだよエノ、ノリ悪いぞ。エノ奢ってくれるなら、私行こっかな。え、まじ? 来てくれるの? ほらエノ、チャンスだぞ。ちょ、ちょっと待って! 今財布ん中チェックするから!
 毛利が榎本をからかって、またどっと笑いが起こる。そして、俺も声を上げて笑った。

 夕飯前の健全な時間に解散し、帰宅する。ドアを開けると、玄関にスニーカーが並べて置いてあるのが見え、思わず溜息をつく。俺が土曜日が嫌いな理由は、ロングホームルームの他にもう一つある。父親が自宅にいるからだ。
 父は俺が起きると同時に家を出て、夕飯を終えると同時に帰宅する。平日はほとんど顔を合わせずに済むのだが、土日となるとそうもいかない。日曜は家にいることが多いが、土曜は趣味の釣りに出かけることもある。学校から帰り、玄関先に履き古したスニーカーがあると、舌打ちしたくなる。
 わざと靴をでたらめに脱いで家へ上がると、リビングには顔を出さず自室へ向かう。階段を三段ほど上がったところで、がちゃりとリビングのドアが開いた。
あさひ」不機嫌をあらわにした母の声が聞こえてくる。「帰ったら言うことは?」
「腹減った」
「じゃなくて! リビングに顔出して、ただいま帰りましたお母様お父様、くらい言いなさいっての」
 うるさいなあ、と吐き捨てると、母の顔を見ず階段を駆け上がる。ご飯もうできるからね、と背後から張り上げた声が聞こえてきた。
 部屋の中は暖かかった。エアコンがついている。俺が「帰る」と母に連絡してから、逆算して部屋を暖めたり、夕飯を作ったりしてくれているのだろう。それくらいのことは分かっているはずなのに、悪態が口をついて出てきてしまう。
 制服を脱ぎ部屋着に着替えていると、机の上に大きな水色の封筒が置いてあるのが見えた。宛名は「さえ旭様」。俺宛だ。恐らく母が置いていったのだろう。開けなくても、中身は想像がつく。特別支援地区のパンフレットだろう。
 国内の一定の地域に、特別支援地区、通称「特地区」と呼ばれる区域が存在する。そこは主に能力者と、能力者の家族のみが居住している区域だ。能力者が一般の人々と生活するとなると、どうしてもリスクは伴う。そこで立てられた対策が、この特地区というわけだ。
 その地に住むかどうかの判断は、初めは能力者の保護者にゆだねられる。自分の子供を、一般社会で育てるのか、それとも能力者たちの中で育てるのか。そして、能力者が十八歳になったとき。その決定権が初めて、能力者本人に与えられる。
 もちろん、それは俺も例外ではない。高校卒業まではこの場所で暮らすことになるだろうが、大学進学もしくは就職と同時に、俺は決めなければならない。特地区に行くのか、行かないのか。
 高校二年に上がった辺りから、この手のパンフレットが時々届くようになっていた。中に書いてあることは大抵同じ。特地区がどれだけ能力者を受け入れる態勢が整っているか。どれだけ能力者を第一に考えているか。まるで能力者にとってのユートピアだとでも言うような美辞麗句が躍っている。俺から言わせてもらえばそんなところ、厄介者を閉じ込めたうばて山だ。
 こんなもの読まなくたって、俺の気持ちは決まっている。特地区なんて、普通の環境でうまく生きていけなかった奴らが集まる場所だ。俺はそんな負け犬なんかにはならない。封筒を開くことなく机の端に寄せると、そのままベッドへと寝っ転がった。
 しばらくすると、ドアの向こうから母の声が聞こえてきた。ご飯できたよ。体を持ち上げるのがおつくうでぼんやりしていると、またさらに聞こえてくる。ご飯できたってば! どうにか布団から体を引きがすと、一階へ下りてリビングへ向かう。
「ご飯できたって言ったらすぐ来てよ、冷めちゃうでしょうが」
 母の小言を、はいはいと受け流す。食卓には既におかずが並べられており、母は台所でちやわんに白米をよそっている。俺は父の向かいに座る。父はバラエティ番組に視線を注いでいる。別に見たくて見ているわけではないことくらい、すぐに分かった。
「はいはい、パパお待たせ。さ、食べよ食べよ」
 それぞれの目の前に茶碗を置くと、母が父の隣に座る。父がテレビを消し、傾けていた姿勢を正した。いただきまーす、と母が手を合わせ、父と俺がそれに続く。
 ふいに、父と目が合った。小さな両目をしょぼつかせている。俺はさっと目を逸らし、米を口に放り込む。じりと口元にしわのいっぱい寄った父の笑顔が、ちらりと目の端に見えた。
「旭は、今日は友達と遊んできたのか」
 ああ、としやくしながらぞんざいに返事をする。困ったように笑う父の顔が見えたが、俺は無視してご飯を飲み込む。母がじろりと睨みつけてくる気配がしたが、それも無視する。
 母は若いし美人だ。せてすらっとしていて、年齢もまだ四十を過ぎたばかりだ。本人に言いはしないが、自慢の母親だ。小学校のときの授業参観で、冴木くんのママきれいだねと言われるのがとてもうれしかった。今でも、並んで歩いていると姉弟と間違われることもある。俺の外見のせいもあるかもしれないが。
 父は母と同級生だった。母と反対に父は、とても四十過ぎには見えないほど老けている。てっぺんが丸く禿げた頭、白いものだらけの髪、深く刻まれた法令線、垂れた目尻に集まる小じわ、そしてのったりとした動作や独特の体臭。還暦を越えているようにしか見えない。学校の行事で父を見られるのが恥ずかしかったし、祖父と孫だと思われたことも何度もあった。
 父のことが嫌いだ。にへっと笑うだらしない顔やおくびような目。でも何よりも嫌なのは、それが自分の未来の姿かもしれないということだった。
 父は俺と同じ能力を持っている。つまり、時間を止めることができる。この力は、父から受け継がれたものだった。
 能力者が自分の力を自覚するタイミングは人それぞれだ。俺のように生まれつきその能力を持っている者もいれば、突然授かる者もいる。逆にその力をいきなり失う者もいるらしい。原因はいまだに判明しておらず、遺伝で力を得てしまう場合もあれば、突然変異で手に入れる場合もある。要するに、詳しいことは何も分かっていないのだ。
 そしておおよその能力がそうであるように、俺の持つ力にも副作用やリスクは伴う。時間を止めている間、停止を解除するまでは時の流れが動き出すことはない。だが、止めている本人の体にだけは、時間が流れる。たとえば一時間ほど時間を止めたとすると、他の人より一時間余計に時間が経過していることになる。
 俺と父が実年齢よりずっと老けて見えるのはそのせいだった。時間を止めればその分だけ余計に歳を取る。父がとても四十代には見えないように、俺もとても十七歳には見えない。軽くはたちは超えている見かけだ。そのぶん、止まった世界で生きてきたということだ。
 むやみやたらと時間を止めるな、と大人たちからは口酸っぱく言われた。止めれば止めるほど、寿命が縮まっていくのだから。
 とはいえ、そうはいかないこともあるだろう。まるで指を鳴らしたり爪をんだりする癖のように、勝手に体が時間を止めてしまうことは多々ある。きっとそれは父も同じだ。あの人だって力を使いまくったせいで、あんなジジイになってしまった。もしかしたら俺だって、いつかああなるときがくるかもしれない。そう考えるとやっぱりぞっとするし、どうしても父の顔を見るといらちが募ってしまう。
 時間を止められる力なんて、俺にはあまりにも大きすぎる。たとえば映画や漫画なら、この力を使って強大な敵に立ち向かったり、大勢の人たちを助けたりして、ヒーローのようなはちめんろつの活躍を披露するのだろう。でも、現実にはそんなことは起こらない。せいぜいできるのは、落とした皿を割れる前に受け止めることくらいだ。
 何の為にこんな力が生まれてきてしまったのだろう、と時々考える。偉い人たちが一生懸命考えても分からないことが、俺に分かるはずないのだが。

「そんじゃ、おやすみー」
「おう、おやすみー」
 互いに言い合って、通話アプリを閉じる。最近は毎晩のように、毛利と榎本と、通話アプリをつなげながらオンラインゲームに興じている。たまに盛り上がりすぎて、誰かの親の𠮟る声が聞こえてきたりするのも、それはそれで楽しい。大抵は榎本の「眠くなってきた」の一言が終了の合図になる。
 ベッドに寝そべったままゲームをしていたせいか、腰が痛い。ゲーム本体の電源を切り、ごろりと寝返りを打ち枕に顔を沈めて、ベッドサイドのデジタル時計を見る。零時二十分。
 試しに目をつぶってみても、全く眠気は降りてこない。それでも刻一刻と時間は進んでいって、俺を置いて勝手に朝になろうとしている。枕を引き寄せ、胸元でぎゅっと潰した。
 夜は嫌いだ。その先には朝が待っているからだ。朝の方が、もっと嫌いだ。
 日々は楽しい。俺はうまいことやれている、という自負もある。能力なんてあしかせがあっても、学校に溶け込み友人たちと笑い、喫茶店でのバイトだってきちんとこなしている。今はいないが去年は彼女だっていた。友人たちには隠しているが、童貞はとっくに捨てている。順調に人生をこなしていっている。
 でも一日が終わるとほっとする。今日も何事もなく終わった、と胸をで下ろす。時々自分の言動を思い返してみたりする。あのとき変なこと言ってなかったかな。あのときああすればよかったな。昼間は気にならないさいなことが、空が暗いというだけでやたらと気にかかる。はんすうしては落ち込みもだえする。そしてまた、一日が始まることにうんざりする。
 また、ベッドサイドの時計を見る。零時二十分。最後の数字は丸のまま変わっていない。
 夜に時間を止めることは、今や日課と化している。特に何をするわけでもない。停止した世界の中で、宿題をしたりゲームをしたり筋トレしたりする。ただそれだけだ。それでも、どんなに時間を浪費しても空は白んではこないという安心感があった。
 初めて朝が来て欲しくないと願ったのは、小学校の高学年に差し掛かる頃だった。学校という場所に行くのが、嫌で嫌で仕方なかったのだ。
 そのときの俺は、今ほど日々を上手に過ごせていなかった。一人だけランドセルの似合わない体軀だった俺は、能力持ちということも相まって、周りから敬遠されていた。当然友人らしい友人もできず、少しでも体を小さく見せようと常に背を丸めていた。
 こんなことがあった。クラスメイトの一人が、当時っていたカードゲームの、きらきら光るレアカードを学校に持ってきて自慢していた。全く興味のなかった俺は、昼休みに彼に群がる同級生たちを遠巻きに眺めていた。
 そして放課後。彼が騒ぎ出した。カードがない。教室中が騒然となった。小学生にとってのレアカードは、とんでもない貴重品だったのだ。
 ばたばたと捜索が始まる中、俺も形ばかりはそれに参加して、机の下に目を滑らせたりしていた。そんな中、一人の女子が言った。
「ねえ、もしかして冴木くんじゃないよね?」
 その言葉に、騒がしかった教室が一気に静かになる。視線が一斉に俺へと注がれた。
「確かに、冴木ならこっそり盗むの簡単だもんな」
「時間を止めて取っちゃえばいいんだもんね」
「ふざけんなよ、冴木! 俺のカード、返せよ!」
 持ち主までそんなことを言い始める。俺はれたようにふさがった喉で、どうにか自分じゃないと絞り出した。それでも彼らの幼稚な残虐さは治まることなく、手を叩きながら「かーえーせ! かーえーせ!」と大合唱が始まった。
 どうしていいか分からなかった。だって、本当に俺ではないのだから。何も言えず俯いて、瞳の表面を覆う涙をどうにかこぼすまいと、目を見開いて床を睨みつけていた。そのときだった。
「ねえ、ちょっと待って。よくないよ、こういうの」
 そう言って俺を庇ってくれたのが、天だった。天はそのときからクラスの人気者で、人望も厚かった。天は淡々と言う。疑う前に、もうちょっとちゃんと捜してみようよ。みんなで手分けしてみればすぐに見つかるよ。
 結果的に、カードは持ち主のノートに挟まっていた。周りはよかったねと彼の肩を叩き、彼もありがとうと安堵の表情を浮かべている。誰も俺に謝ろうとはしなかった。
 何故か俺の方が居た堪れなくて、帰り支度をして教室を出ようとしたとき、天に呼び止められた。
「旭くん。よかったら、一緒に帰ろ」
 それから、俺と天は仲良くなった。家が近所ということもあり、家族で出かけたりもするようになった。
 学校は嫌いだ。その一件以来、更に強く思うようになった。クラスメイトが自分の敵のように見えて怖かった。学校へ行きたくないという気持ちが、俺に夜を眠らせた。
 それでもどうにかやっていけたのは、天がいてくれたからだろう。クラスメイトや教師の心無い言葉に傷つく度に、天は俺の背中を叩いて慰めてくれた。まるで子供をあやすように、ぽんぽん、と。気恥ずかしくもあったが、手のひらの形でじんわりと暖かくなる背中に俺は安心感を覚えた。
 中学に上がっても周りに馴染めない俺に、天は変わらず接してくれて、そのお陰もあって少ないが友人もできるようになった。
 そして高校に入って、俺は決心した。いつまでも天に頼っているわけにはいかない。俺は俺の力で、この場所でうまくやってみせる。やがて天とは前ほど話さなくなって、俺には俺だけの友達ができるようになった。
 だけど、今でも時間を止めてしまう。どこかでまだ朝を怖がっている自分がいる。
 ベッドから起き上がると、机の傍にある窓へ向かった。カーテンを開けると、ガラスは黒く塗り潰され、鏡のように顔を映し出している。俺の嫌いな顔。同級生たちとは全然違う、成熟してしまった大人の顔。
 窓を開けると、俺の姿が消える。そこには夜がある。時の止まった夜は綺麗だった。うるさいバイクの音や学生の騒ぐ声もなく、静寂に包まれている。車のヘッドライトや家の窓から漏れる明かりは動くことも途絶えることもなく、ただ夜を白く小さく切り取っている。
 風もなく空気の流れもなく、外の冷たさは部屋の中に入ってこようとはしない。腕を突っ込むと、まるで冷水に浸したような感覚がひじから先を包む。窓から顔だけを出すと、暖房で火照った頰に冷気が心地い。
 時間を止めることは、時折怖かった。このまま、時が止まり続けてしまったらどうしよう。どんなに頑張っても元に戻せなくなってしまったらどうしよう。そういう恐怖だ。全てが動きを止めた世界で、自分ひとりだけが時を過ごしている。そんな考えが時々襲ってきてぞっとした。
 目が覚めて、いつも朝を知らせてくるはずの窓の向こうの光が何故かない。時計を見る。時間は真夜中のまま。何度力をめても、その数字は動かない。スマホの画面の時計も、同じ時刻を示している。両親の寝室に向かうと、ベッドで眠ったまま微動だにしない。揺すっても声をかけても何も反応しない。そこで俺はやっと、止まった時間の中にひとり取り残されたことに気付く。
 そんな悪夢を何度も見た。それも、朝が来るのを怖いと感じる理由のうちの一つだった。
 朝なんて来るな。来るくらいなら、ずっと夜のままでいい。でも夜に生きる勇気もなくて、俺は窓を閉め、カーテンを寄せる。どれほど恐ろしいと思っていても、結局またこうやって、時間を止めてしまうのだろう。
 時計をゆっくりと撫でる。一番右端の数字が、丸から縦の線へとかちりと変化した。

 その日は、特にいつもと変わらない朝だった。少しだけ寝坊してしまい、学校へ着くのがいつもより遅くなったくらいだろうか。スマホをいじりながら電車に揺られていると、先に学校へ着いているはずの毛利からメッセージが届いた。
【二人とも、もう学校着いた?】
 いやまだ、と返事をする。おれもうすぐ、と榎本も返している。
【やばいぞ。はよ来い】
 き立てるような毛利の態度に思わず首を傾げる。なんなんだ、と思っていると、今度は榎本から立て続けにメッセージが来る。
【やば! やばい! アーサーはよ!】
 そして電話がかかってくる。慌てて切って、【今電車だから出らんない】と入れる。
【駅着いたら教えて】
 毛利が返してくる。それから一向に何も連絡はなく、なんなんだよもう、と溜息をついて画面を閉じる。
 電車を降り、二人にメッセージを入れる。校門で待ってる、と毛利が言う。学校へ向かうとその言葉の通り、校門に二人がいた。榎本が大きく手を振る。早く早く、と急き立てられて、わざと歩みを緩めて向かう。
「アーサー、おっそいよもう」
「うっせえなあ。これで大したことなかったら殴るかんな」
「うわっ暴力的。いやめっちゃ大したことあるから!」
「直接見た方が早いよ。行こう」
 二人に背中を押され、校門をくぐる。そして、二人の言っていることが誇張ではないとすぐに分かる。
 人だかりができていた。生徒たちががやがやと騒ぎながら、集まって何かを見ている。その奥では学年主任のくにしろさつきが、必死に生徒たちを追い払おうと声を上げている。何やらただならぬ雰囲気だが、人が多すぎて何が起きているのかが分からない。
 こっちこっち、と榎本に手を引っ張られるがまま、人の波をかき分けていく。そして、その光景が目に飛び込んできた。
 花壇に、机が咲いていた。
 一つや二つではない。数十、いや百を超える数の机が、校舎の壁に沿ってうずたかく積まれていた。校舎を囲うように植えられていた花や植え込みを全て押し潰すかのように、机はあるいは正位置で、あるいは四本の脚を天に向け、あるいは横たわっている。机だけではなく、椅子もばらばらと転がっていた。机の中にあったであろう教科書や筆箱も辺りに散乱している。
「なんか投げ捨てたみたいよ、窓から」
 毛利がその異様な状況の説明をし、榎本もそれに続ける。
「しかも、うちの学年だけらしくてさ。やばくない?」
 その言葉に顔を上に向ける。二階の窓は全て大きく開かれていて、薄いクリーム色のカーテンがひらひらと舞っているのがちらりと目に入った。ここからは見えないけれど、きっとどの教室も空洞なのだろう。いたずら、という言葉で片付けるには暴力的な気がした。
「ここで集まらない! 早く体育館に行きなさい!」
 積まれた机の前に立つ国城が、怒気をはらんだ声を張り上げる。それにひるみもせず、スマホを掲げてぱしゃぱしゃと生徒たちが撮影している。慌てた様子で榎本がスマホを持った手を必死に伸ばすが、生徒たちに阻まれてうまく撮れなかったらしく、唇を尖らせている。俺撮ったからあとでデータやるよ、と毛利がにやついている。
 俺はじっとその光景を眺めていた。机と椅子。それらが折り重なるように落ちている。もう飽きてしまったのか、行こうぜ、と榎本が俺のそでを引っ張り、俺たちはその場を去る。
 それでも脳裏にはまだこびりついていた。オブジェのようなその机たちと、ざわつく生徒たち、苛立つ教師。明らかにそこにあるのは非日常だった。嫌な予感がした。俺が今までどうにか保ち続けていた平穏が、音を立てて崩れていくような予感が。
 十一月の上旬。せいれつな寒さの朝だった。



 この特別教室はどうしてかいつも、ほこりっぽくかびくさい。週に一度は使っているのに。掃除が行き届いていないんだろうか。ずっとここにいると体を壊してしまいそうだ。
「昨日の件ですけど」
 その声に我に返る。目の前では学年主任の国城さつきが、背筋をぴんと伸ばしこちらをじっとにらみつけている。その姿勢の良さは、学年主任という肩書に恥じぬよう虚勢を張っているかのようだ。
 毎週土曜のロングホームルーム。いつも自習で終わるその時間は、国城という異質な存在がいるだけでいつもと全く違う様相だった。
 国城は小柄だが、その威圧感からかそれを感じさせることはあまりない。丸い眼鏡の奥の小さな目をこれでもかと見開いて、反対に厚みのある唇はぎゅっと結ばれている。
 その横では岡先生が腕を組んでうつむいている。神妙な面持ちをしているようにも見えるし、退屈に耐えているようにも見える。
 そして教卓の前の席に、俺たちは三人並んで座らされている。いつもと違う席に座っているというだけで、なんだか妙にそわそわする。
 昨日の件、とはもちろんあのことだ。誰かが校舎内に侵入し、二年の教室内の机や椅子を全て投げ捨てたあの事件。脳裏に、あのオブジェのように積み重なった机が浮かぶ。
「どうして私が今日ここに来たか、分かってますよね?」
 まるで責めるように、国城は三人の生徒の目を順々に見つめる。篠宮、俺、我妻。普段は生徒に対し敬語なんて使わないくせに、わざわざ丁寧な言葉遣いをするあたりどことなく嫌味っぽい。
 事件の後、当然のことながら学校じゅう騒ぎになった。あの後生徒たちは体育館に集められ、校長からの話があり、そして二年生の一時間目の授業はそれぞれが自分の机と椅子を戻す作業でつぶれた。その間生徒たちの間では、「一体誰がやったのか」という話題で持ちきりだった。
 生徒なのかな。先生かも。部外者って可能性もあるよね。学校に恨みがある人なのかな。ただのいたずらにしてはちょっと、度が過ぎてるよね。
 そして当然のように、その声は上がってくる。
 やったの、能力者のやつらじゃないの?
 俺は直接誰かにそう言われたことはなかったが、陰でそうささやかれていることは知っていた。二年の教室だけでしか事件が起こっていないせいもあるのだろう。能力者は、この学校では二年にしかいない。
 ふざけんな、と思った。確かに、能力者が事件を起こしたという話はしょっちゅう耳にする。だからといって、そいつらと一緒にされたのではたまったものじゃない。
 きっと国城は、生徒たちのその噂を聞きつけてここに来たのだろう。いや、正確に言えば、その噂を利用して、というほうが正しいかもしれない。元々国城は俺たちのことをよく思っていなかった。毛嫌いしていると言ってもいい。
 学校側が能力者の受け入れをしているとはいっても、教師陣が一枚岩というわけではない。急に能力者を相手にしなければならなくなったことに反発を覚えている教師もいるだろう。そもそもこの学校がその受け入れを決めたのだって、学校の評判を上げるためだからだと囁かれている。
「俺じゃないよ、センセー」
 痛いほどの沈黙に耐え切れなくて、俺は口を開いた。顔の横で両手をひらひらさせて見せる。それを国城がじろりと睨む。
「別にあなたたちを疑っているわけじゃありません。ただ何か事情を知っているなら、教えてほしいだけです」
 よく言うよ、と心の中でつぶやく。疑いまくってるくせに。本音を押し込めて笑う。
「知ってることなんてなんもないですよー、俺だって朝びっくりしたんですから。うわ、机落ちてる! って。なあ?」
 右隣の篠宮に声をかける。彼女は小さくためいきをついた後、「まあね」と答えた。
「私も学校に来て初めて状況を把握したので。特に知ってることはないです」
 不機嫌さを全く隠そうとしていない声色だった。幼い声も相まって、子供の文句のようにも聞こえるが、国城を見る目つきは鋭い。国城が彼女の様子をじっと見つめる。それ以上の情報を引き出そうとしているかのようだったが、篠宮はもう口を開こうとはしなかった。
 そのとき、ふぁ、と空気の抜けるような音がした。国城が、即座に篠宮から我妻に視線を移す。どうやら大きなあくびを放ったようだ。何やってんだよ、と舌打ちしたくなる。案の定、国城の顔が引きっていく。
「我妻くん、いい度胸ねあなた」
 目の辺りをこすりながら、「すみません」と全く悪びれぬ様子で我妻が謝る。
「我妻くんはどうなの」
 国城の口調からは、さっきのいんぎんさはすっかりせていた。それでも全く意に介さぬ様子で、我妻はぽりぽりと頭をく。
「分からないです。そもそも俺、その例の現場きちんと見てないんで」
「ええ? そんなわけないでしょう。あれだけ騒ぎになってたのに」
「本当ですよ。教室に行ったら、誰もいないし物もなくてびっくりしたんです」
「あぁ、そうね。あなたはそういう人だったわね」
 いかにもあきれましたというような物言いで溜息をつく。どうにもいちいちあおるような仕草を繰り返すが、我妻本人は全く意に介していないようだ。後頭部の辺りには今日もまた寝癖がぴんと跳ねていて、それを気にする素振りすらない。
 国城がいらたしげに、教卓をかつかつと爪でたたく。まるで私は苛立っているとアピールするかのように。
「あなたたちね、このままだといつまで経っても帰れないわよ」
 えーっ、と思わず声を上げた。いくらなんでも横暴だ。
「岡先生はどう思われますか」
 じっとやり取りを静観していた岡先生に矛先が向けられる。先生が首をぐるりと回した。ぱきぱき、と骨の鳴る音がこっちにまで聞こえてきた。
「どう、と言われても。まあ、彼らがやったのかもしれませんね」
 その言葉に、俺は思わず目を見張る。俯いたり視線をらしたりしていた他の二人も、同時に岡先生の顔を見る。けれど先生に一切たじろいだ様子はない。何かを言いかけようとした国城を「でも」と遮る。
「彼ら以外の誰かがやったのかもしれません」
「はあ?」語尾が甲高く上がる。同時に両方のまゆり上がっている。「何を、当たり前のことを」
「そう、当たり前ですよね。別に彼らじゃなくたって、学校に侵入して机を投げ捨てるなんてこと、誰にだってできる」
 授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。静まり返っていた廊下に、一気にけんそうあふれ出す。教室のドア一枚隔てて生徒たちが騒ぐ声が聞こえてくる。
「嫌疑をかけるのなら、この学校の人間全員を平等に疑うべきです。この子たちかもしれない、でも別の生徒かもしれない。もしかしたら教師かもしれない。私がやったのかもしれない。もしかしたら、国城先生だったりして」
 おどけたように岡先生が言うと、国城がぎろりと睨みつける。
「岡先生、いい加減にしてくださいよ。実際ね、生徒たちから声が上がってるんですよ。やったのはこの子たちじゃないかっていう声が」
「あ、怪しい。その生徒怪しいなあ。大抵、そうやって言い出す奴が一番怪しいんですよ」
「岡先生!」
 いよいよ国城が声を荒らげる。しかしそれすら意に介さぬ様子で、黒板の上の時計を見上げた。
「国城先生、チャイムはもう鳴ってますよ」
 何か言いたげに国城が口を開いたが、そこから出てきたのは大きな溜息だけだった。呆れたように首を二、三度小さく振る。
「それじゃあ、私からはもう何も言いません。このようなことはもう二度とないとは思いますが、よくよくお願いしますよ」
 低い声でゆっくりと告げると、教壇を降り、教室のドアをがらりと開ける。そこには数人の生徒が聞き耳を立てるようにたむろしていたが、国城がいちべつするとさっと道を空ける。ドアを閉めたのを見計らうと、ふう、と岡先生が息を吐く。
「あー、おっかなかった」
「センセー、ありがとー。めっちゃ助かった」
 俺が手を合わせて礼を言うと、隣から篠宮が口を挟む。
「大丈夫なんですか、先生。あんなふうにたていたりして」
「うーん」と、岡先生がうなる。「まあ、思ったこと言っただけだしなあ」
 あの言葉は果たして本音なのだろうか、とふと思う。本当は俺たちのことを疑っているが、立場上ああ言っているだけなのではないだろうか。その真実は、篠宮にすら分からない。
「とりあえず、しばらくは国城先生も目光らせてるだろうから、お前ら大人しくしとけよ。じゃあな」
 そう言うと岡先生は教室を去っていく。なんでこんな思いをしなければならないんだ、と俺はみする。やってもいない罪で疑われるなんて、理不尽すぎやしないか。
 他の二人はコートを着込み、帰り支度をしている。俺はマスクを着けると、慌てて声をかける。
「あー、ちょ、ちょっと、ちょっと待って」
 篠宮と我妻がぴたりと動きを止め、同時に視線をこちらに向ける。少したじろぎそうになりながらも続ける。
「てかさあ、普通にむかつかない? 国城もだけどさ、他の奴らもめっちゃ犯人扱いしてくるじゃん。腹立たない?」
 きっとこいつらだって、能力者に生まれてしまったというだけで、つらい思いを何度もしてきたはずだ。それこそ今回のように、何かある度にやりだまに挙げられ、疑われる。俺だってそんな経験は一度や二度ではない。それに対してふんまんを抱いているのは、俺だけではないはずだ。
 けれど、返ってきた反応は思った以上に芳しくないものだった。我妻は興味なさそうにあくびをし、篠宮は何故か鋭く俺を睨みつけていた。
「べつに。全然むかつかないけど」
「まじかよ! お前もむかつかないの?」
 我妻を見る。我妻がやっとそれに気が付いたように、後頭部の寝癖を指でいじった。
「っていうか、あんま興味ない」
 だるそうに言うその姿は、ポーズではなく本当に関心がないように見えた。俺は衝撃を受ける。
「興味ない、って……我妻はクラスの奴らになんか言われたりしないの?」
「してるよ。こそこそ言ってる、わざわざ俺に聞こえるようにして」
「なんだよそれ、めっちゃむかつくじゃん!」
「でも、俺には関係ないし」癖っ毛を混ぜるように頭を搔く。「事件のことについてとか、本当に何も知らないし。だからどうでもいい」
「えー、まじかよ。みんなで犯人見つけてさ、身の潔白を証明してやろうぜ!」
「何それ、やだよ。めんどくさい」
 我妻に鼻で笑うように言われ、むっとする。当の本人はもう話は終わったと言わんばかりに教室を出ていく。「あ、待てよ」と廊下に顔を出すが、既にその姿はなかった。
「じゃ、私も帰るね。バイバイ」
「あー待って、ちょっと待って待って」
 帰ろうとする篠宮のマフラーを思わず引っ張る。け反った篠宮が、じろりと俺を睨みつけた。ごめんごめん、と手を振ってみせる。
「なぁまじでむかつかないわけ? 犯人捜し協力してよ」
「あのさあ、そんなに簡単に見つかるわけないでしょ。何言ってんの」
「いやいや。篠宮の能力さえあれば、そんなの簡単じゃーん!」
 おどけて言ってみせたつもりだったが、その顔にすっと不愉快さが張り付いた。しまった、と思い慌てて続ける。
「さすがにさ、学校中の奴らの心読んでくれとは言わないからさ! ちゃんと俺も協力するし。なっ?」
「悪いけど、学校の人の心は読まないことにしてるの」
 そう言いながらも、悪びれた様子は一切ない。夜のように暗い黒目に自分の姿が映っているのが見えて、俺は視線を逸らしたくなる。マスクのお陰で、心を読まれることはない。けれど篠宮にじっとすくめられると、隠しているものが全て見透かされてしまいそうで、俺は彼女のことが苦手だった。
「でもなんか、浮気見破ったりしてるって聞いてるけど」
「あれは全部、学外の人だから。学校内ではそういうことしない」
「なんだよ、中も外も変わんないだろー」
 そのとき初めて、篠宮が視線を逸らした。俯くと前髪に隠れて、見下ろしている俺からは彼女の表情が見えなくなる。少しの沈黙の後、口を開いた。
「私が、好きで人の心の中読んでるとでも思ってるの?」
 さっきよりもずっと低い声に、俺は「え」と言葉を失う。篠宮の前髪が横に垂れて、彼女が俺を見上げる。さっきと変わらない暗い色が目の奥にある。
「あんたがマスク外してくれたら、協力してあげてもいいよ」
「えっ?」自分でも驚くほど間の抜けた声が出る。
「岡先生が言ってたでしょ。この学校の人間、全員平等に犯人の可能性はあるって。逆に言えば、私たちの誰かが犯人だって可能性ももちろんある。それは、あんたも一緒でしょ」
「いやいやいや。犯人が、わざわざ犯人捜ししようって言わないっしょ!」
「そんなのなんの証拠にもなんない。マスク外して、自分は犯人じゃないってちゃんと証明してよ」
 篠宮がゆっくりとマスクをあごまでずらした。不機嫌そうにへの字にゆがんだ薄い唇が姿を現す。左の頰には、大きなにきびが二つ並んでできている。その表情は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えない。俺は口元に手をやる。マスクに指をかけ、それを引き下げようとする。
 その途端、背筋がぞわりと震える。恐怖だった。今自分が思っていること、考えていること、隠していること、全部すべてこの女に読み取られてしまう。その事実がとてつもなく怖かった。やましいことがあるわけではない。当然、俺は犯人ではないし、犯人を見つけ出したいという思いは本物だ。本物のはずなのに。
 篠宮は表情をぴくりとも変えず俺を見つめてくる。どうにか笑顔を作る。
「外す、外す。ちゃんと外すからさ、外しゃいいんだろ。でもちょっと待って、あの、えーっと、心の準備が」
 顔の下半分がじっとりと湿っている。マスクにかけた指は、まるで凍りついたかのように動かない。篠宮が、はぁと大きく息を吐いた。
「自分の心は読まれたくないくせに、他の人のを読んでくれだなんて、ほんと都合がいいよね」
 まあ、結局みんなそうなんだけどね。そう吐き捨てるように言うと、マスクを着け、くるりときびすを返す。教室を出ると、待っていたであろう友人たちに声をかけている。ごめんねー、待った? その声にはさっきまでの冷たさはなく、明るく朗らかだ。
 高い笑い声が遠ざかって、俺はようやく平静を取り戻す。マスクを外すと、口元が汗でれていた。学ランのそでぬぐう。
「アーサー」
 声をかけられて顔を上げる。ドアの外から、毛利と榎本が顔をのぞかせていた。
「なんだよ、お前ら。部活は?」
「いや、行くけど。様子気になっちゃって」
 出入口の方まで歩くと、その隣には天の姿もあった。
「天ちゃんまで来てくれたの」
「うん、なんか心配で」
「まじか。ありがと」
「ううん、いいんだけど」寒いのか、天は右手で左腕を頻りにさすっている。「大丈夫だった?」
 まるで自分が傷付けられたかのような表情で、天は俺を見つめる。なんだか昔を思い出してしまう。天はよくこうやって、悲しそうな顔で俺を気にかけてくれていた。大丈夫だよ、と笑って肩を叩くと、いてっ、と苦笑いを返してくる。毛利と榎本もどことなく心配そうだ。
「なんかすごい長かったな。めてたの?」
「うんまぁ、そんなところ。てかまじ疲れたわぁ」
「国城が結構ぎゃーぎゃー言ってる感じ?」
「そ。いつ火ぃ吹くのかひやひやしてたわ」
 そう言って笑う。三人も笑う。稚拙な会話、幼稚な話題。つまらなくても笑って、思ってなくても同意して。周りから浮かないよう、疎まれないよう、どうにかやってきた。自分を偽って溶け込むことは、慣れてしまえばどうということはなかった。相手の欲しがる反応や言葉さえ分かれば、それを与えてあげるだけで、相手は喜ぶ。たとえそれがちっとも思っていないことだったとしても。
 そうやって、俺はやってきたのだ。それが偽りだと、心の中を見透かされてしまうことは怖かった。俺が楽しいと思って過ごしている日々が、全部偽物だとつきつけられてしまうことになりそうで。

 家から少し離れたところにある喫茶店で、俺はバイトをしている。酒類も提供するような洒落じやれたところで、週に二、三日働いている。
 特地区以外では、能力者が就職するのはどうしても難しい。力を生かした職業につく者もいるが、能力によってはやはり犯罪と結びつくイメージも強く、採用を渋られるケースが多いのだと聞いた。そういった事情もあるからこそ、特地区に移住する能力者は後を絶たない。
 それもあって、俺は覚悟をしていた。きっとアルバイトだって、なかなか決まったりしないんだろう。そう思って受けた面接で、あっさりと受かった。
 そのとき改めて実感した。俺だったら大丈夫。うまくやっていける。何の問題もなくここで生きていける、と。
 店に入って奥へ向かうと、ちょうど女子更衣室から出てきたバイト仲間と鉢合わせた。制服姿で、おつかれさまーとにこやかに笑いかけてくる。
「今日は冴木くんと一緒の日か。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
 そう言って、俺は男子更衣室へと入る。店長を含め、ここで働く中で俺は一番年下だ。大学生が多く、見かけは俺の方が年上でも、結構可愛がられているという自負はある。さっきすれ違った女性は、俺の初体験の相手だ。食事に誘われ、家に誘われ、あれよあれよという間に事を済ませてしまった。それ以降は特に何もなく、ただのバイト仲間としての関係が続いている。
 当然のことながら、この店の中で能力者は俺だけだ。それでも一緒に働いている人たちは何の偏見もなく接してくれている、ように見える。お客さんにコーヒーぶちまけそうになったら助けてね、と笑ってくれた人もいた。
 とはいえ、客となるとそうもいかない。
「お待たせしました。アイスコーヒーお二つです」
 それらをテーブルに置き、ごゆっくりどうぞ、と頭を下げる。踵を返し歩き出すと、その女性客二人がひそひそと話すのが聞こえてくる。
「ね、ね。見た? 襟元」
「見た! 金色のバッジ! あれって、能力者ってことだよね?」
「やっぱそうだよね! やば、私初めて生で見たかも」
「見た目は普通の人と全然変わんないんだねー」
 そりゃそうに決まってんだろ、と心の中で悪態をつきながらキッチンへと戻る。
 当然愉快ではないが、あれくらいならまだ可愛いものだ。以前、初老の男性からはっきりと言われたことがある。
 悪いけど、君から渡されたものなんて、怖くて口にできない。
 俺は申し訳ありませんでしたと頭を下げ、料理を作り直し、別の店員に持って行ってもらった。突っ返された分は、俺が金を払いますと言ったのだが、店長は笑ってそれを断った。
 俺は、恵まれていると思う。ただ金色のバッジをしているというだけで、ののしられたり暴力を振るわれたりという話は枚挙にいとまがない。それに比べたら、陰口や悪態などさいなことだ。理解者に囲まれ平穏な日々を送っている俺は、本当に恵まれている。
 だから、大丈夫に決まっている。俺の人生は、最高であることが約束されているはずなのだ。たとえ、机が投げ捨てられるなんてふざけた事件が起きてしまったとしても。

 バイトを終え、いつものように帰宅する。遅番の日は賄いが出る。父と一緒に食卓を囲まなくて済むことにほっとしながら、階段を上がっていると、「旭」と母から呼び止められる。うんざりしながら振り返る。
「ちょっと、来なさい」
 母が手招きする。その声はいつもよりずっと低く、どきりとしながら、平静を装って「なんだよ」と返す。
「いいから、早く」
 硬くとがった声だ。何かしてしまっただろうか、と記憶を辿たどるが思い当たる節はない。とりあえず渋面を作り、かばんを肩にかけたまま階段を下りる。
 リビングには、いつものように困ったような顔の父がいた。その隣に神妙な面持ちの母が腰掛ける。俺もその向かいに座る。
「旭、さっき学校から連絡が来てね。昨日、変なことがあったんでしょ」
「変なこと?」
「なんか、学校の机とか椅子が、窓から投げ捨てられてたっていう」
 なんだ、そのことか。脱力して、椅子の背に体を預ける。
「あんたのこと疑うわけじゃないけど。何も関わってないでしょうね?」
「はあ?」かちんときて思わず大きな声が出る。「なんだよそれ、思いっきり疑ってんじゃん」
「ただの確認。関わってないなら関わってないって言ってくれればそれでいいの」
 どうせ国城が電話をよこしてきたに違いない。学内でこんな事件が起きました、恐れ入りますがお宅の息子さんと本件についてお話し合いしていただけませんか。大方そんなことを言われたのだろう。
「なんも関わってないよ。机投げたりなんてしてない」
「そう。ならいいんだけど」
 崩すまいとしているその表情の奥に、あんしているのが見て取れて腹立たしい。父は先程から何も言わず、ただ薄ら笑いを浮かべている。
「てか、こっちだって被害者なんだけど。いろんなとこから疑われたりしてさあ。すげー迷惑」
 父と母がちらりと目を合わせる。そして、母がふうと小さく息を吐いた。
「ただでさえ能力持ちは疑われやすいから。あんたも気を付けて行動してね」
「はああ? なんだよそれ」
 高くなった声に、父と母が揃って驚いたように目を見張る。
「俺がいけないってわけ? 俺のせいで、周りは俺のこと疑ってくるってこと?」
「そんなこと、言ってないでしょ」
「いや言ってるから。べつに好きで疑われてないし、そもそも好きで能力持ったわけじゃないし。全部父さんと母さんのせいだろ」
「旭、もうその辺でやめときな」
「遺伝するかもって分かってたくせにさ。それなのに結婚して、子供産んで、そんな力押し付けてきたのはそっちじゃん。俺のせいにすんなよ。母さんが、こんな男の子供産むのがいけないんだろ」
「旭!」
 母が俺の名前を叫ぶ。俺ははじかれるように椅子から立ち上がると、踵を返してリビングを飛び出した。目の端にちらりと父の困ったような笑みが見えた。わざと大きな音を立ててドアを閉める。
 階段を駆け上がり、自分の部屋に入る。鞄を床に放り投げると、そのままベッドへと倒れ込んだ。
 苛立ちが収まらない。スマホを開いてSNSを眺める。指を滑らせていると、毛利が何か投稿しているのが目に入った。校舎の壁に沿って、机と椅子が折り重なっている写真だった。「ヤバい」という文字がその上に乗っかっている。コメントがいくつかついていて、毛利はその一つ一つに状況の説明をしていた。
 俺は溜息をついて、スマホの画面を消す。悪気があるわけではないのだろう。毛利に言わせればきっと「ノリ」みたいなものだ。ただ、目の前にいない人間をおもんぱかることは、意外と難しい。
 さっきの母の言葉が脳裏によみがえる。能力持ちは疑われやすい。そんなこと、俺が一番よく分かっている。布団にくるまると、白いカバーに包まれた枕に顔を突っ込む。
 ドアをノックする音が聞こえた。枕に顔を埋めたまま、それを無視する。またノック。反応しないでいると、がちゃりとドアが開いた。
「勝手に入んなよ」
 顔を見ないまま吐き捨てる。ベッドの傍にしゃがみ込む気配がした。
「旭、さっきはごめんね」やはり母だった。「別に、あんたを疑ってるわけじゃなかったの。ただ心配で」
 穏やかでなだめるような声色だった。見かけばかり歳を食い、すっかり成人してしまったような見た目の息子が相手でも、そんな慈しむような声を出すのだと思うと、なんだかむずがゆいようなあらがいたくなるような、妙な気分だった。
 俺は何も返さない。能力者の子供を育てるということが、どんなに苦労の連続だったか想像に難くない。それでも素直にそれを受け入れて、感謝の意を述べるほど大人になれない。
「ごめんね、あんたも大変な思いしてるのに」
 そう言って布団越しに俺の背をでる。その部分だけじんわりと温かくなって、何と返していいか分からず居心地が悪い。ばさりと布団をいで、母の顔をちらりと見る。
「べつに、もういいし。てか触んなって」
「あっ、何その言い方。親に向かってー」
 笑いながら母が俺の頰を軽くつねる。なんだよもう、と俺はその手を振り払う。
「ねえ旭。今度さ、よかったら一緒に特地区行ってみようよ」
 特地区。その単語を出されて、指先がぴくりと震える。
「あんたが特地区を嫌がってるのは知ってる。住めなんて言わないし、お母さんたちは旭の意志をちゃんと尊重するよ。でもね、一回どんなもんか見に行ってみてもいいと思うんだ。ちょうどこの前、お誘いのチケットも届いてたし」
「行かない。行く必要ない。あんな、逃げた奴らが集まるような場所」
「あのねえ、旭。あんたが思ってるような場所じゃないんだよ」
「うるさい、しつこい。俺は住む気ないってずっと言ってるだろ」
 そう吐き捨て、俺はまた布団を頭からかぶる。ぶ厚い布越しに、母が深く息を吐くのが聞こえた。お沸いてるから入っちゃいなさいよ、と俺の背をもう一度撫で、そして部屋を出ていく気配がした。俺は頭だけを布団から出す。
 もし、俺が特地区へ行くことを選んだら。周りは何と思うだろう。あ、あいつ、普通の場所じゃうまくやっていけなかったんだな。能力者だし、まあ仕方ないか。そう思うに決まっている。尻尾しつぽを巻いて安全地帯へ逃げたと思われるに決まっているのだ。そんな屈辱には耐えられない。
 胸の中がざわざわする。また今日も時間を止めて、眠った夜をただじっと眺めるのだろう。確信めいた予感がしていた。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名: 夜がうたた寝してる間に
著 者:君嶋彼方
発売日:2025年10月24日

『君の顔では泣けない』の著者が放つ、小説野性時代新人賞受賞第一作!
冴木旭はクラスの面々とは分け隔てなく話すし他クラスにも友達が多い“普通の”高校2年生。ただ1点、「時間を止められる力を持っている」以外は。全校生徒数百人中「特殊能力所持者」は旭を含め3人。「普通の人」と同じように生きたいと願う旭だったが、ある日、教室の窓から大量の机が投げ捨てられる事件が発生し、能力者達に疑いの目が向けられる……。誰もが心揺さぶられる、新感覚異種能力青春譚! 解説・浅倉秋成

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322501000750/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら

著者特設サイト:https://kadobun.jp/special/kimijima-kanata/


紹介した書籍

関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2025年11月・12月号

10月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2025年12月号

11月6日 発売

怪と幽

最新号
Vol.020

8月28日 発売

ランキング

書籍週間ランキング

1

映画ノベライズ(LOVE SONG)

橘もも 原作 吉野主 原作 阿久根知昭 原作 チャンプ・ウィーラチット・トンジラー

2

夜は猫といっしょ 8

著者 キュルZ

3

恐竜はじめました4

著者 クラナガ

4

意外と知らない鳥の生活

著者 piro piro piccolo

5

小麦畑できみが歌えば

著者 関かおる

6

まだまだ!意外と知らない鳥の生活

著者 piro piro piccolo

2025年11月3日 - 2025年11月9日 紀伊國屋書店調べ

もっとみる

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP