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試し読み

【試し読み】『バケモノの子』TV放送記念! 細田守監督による書き下ろし原作小説の冒頭を特別公開

細田守監督、待望の最新作『果てしなきスカーレット』の公開を記念して、11月の「金曜ロードショー」は4週連続で細田守作品を放送中!

2週目の今日は『バケモノの子』。
カドブンではTV放送に合わせて、監督自ら書き下ろした原作小説の試し読みを大公開!
小説でも『バケモノの子』をお楽しみください!

細田守『バケモノの子』(角川文庫)試し読み

プロローグ

『……おめえらは本当に困った奴らだな。そんなにあいつのことが知りたいか。そりゃあ確かにあいつのことは、おれたちがよおく知っている。だがな、聞かせてくれととりの丸焼きみてえに半開きの口を並べられても、はいそうですかと簡単にべらべらしやべれるようなもんじゃねえ。いいかい。おれたちにとっちゃな、あいつは特別なんだ。他の奴らとは違う、まるで別格な奴なんだよ。そんなあいつとの大事な思い出を、なんでおめえたちみてえな突然やってきたはなたれに話して聞かせなきゃならねえんだ? けえんな。ホラ、帰れって言ってるだろ?』
、そうもったいぶるな。話してやればいいじゃないか。我々だけじゃなく、この者たちにとってもあいつは特別なんだ。あいつの名前は、今やどんな田舎に行ったって聞こえてくる。どうしてもあいつのことを知りたいと、はるばるこのいおりにやってきてるんじゃないか。あいつのことを最も詳しく聞かせてやれるのは、お前と、あとはこの私しかいないだろう?』
『そうは言ってもな』
『よく来たな。さあ遠慮せず中に入りなさい』
『おいひやくしゆうぼう
『ところでおまえたち、ツユ茶は飲むかい?』
『はあ?』
『おおそうかい。飲むかい。そりゃよかった。ひいふうみいよおいつむうななやあ……。な? 多々良。この若者たちに、あいつの話を聞かせてやるよな?』
『マジかよ』
『緊張することはない。この多々良という男はな、こうして憎まれ口をたたいてはいるが、実のところ、誰かにあいつのことを話したくてウズウズしているのだ。それがこの庵の、人が絶えない理由でな。さあツユ茶だ。熱いぞ。ホラ、後ろの者にも回してやりなさい』
『……おいおめえら、突っ立ったまま茶をすする気かよ? ったくしょうがねえなあ』
『フフフ』
せめえんだから詰めて車座になれ。やれやれ。じゃあ特別にだ、おれたちが聞かせてやるから、いいか、耳をかっぽじってよおく聞きな。……それと百秋坊、おれにもツユ茶だ』
『もちろんだとも』



『昔々、といってもそんな昔じゃねえ、ほんの少し前の出来事だ』
『世界中にバケモノの街あまたあれど、ここじゆうてんがいほどにぎやかな街はない。鉄分を多く含む渋色(赤茶色)に濁った川の流れが、少しずつ削れてできたすり鉢状の谷に、今やみつくバケモノの数、およそ十万三千。それらを長年束ねてきたそうさまが、ある日突然、引退して神様に転生すると宣言なさった』
よろずの神、っていうとおり、この世にはたくさんの神様がいらっしゃるのは、おめえたちも知ってるよな。神様は、バケモノに限らず空や海や雲や山や動物植物路傍の花や虫けらの一匹に至るまで、その生と死を祝福されている。そればかりかあの醜い「人間」って奴すらも慈悲深く見守ってらっしゃるってほどの、なんともえれえ方々よ。その神様のひとりひとりは、おれたちバケモノから転生して務められているんだ。いわばバケモノってのは、この世のあらゆるものと神様の、ちょうど中間に位置しているわけだな。しかしバケモノ全てが神様になれるわけじゃねえ。あたりまえさ。おめえらなんて、天地がひっくり返っても神様になれるような面してねえだろ? おれたちの中でも特別に徳の高いバケモノだけが、出世して神様に生まれ変われるんだ』
『宗師さまは、名を「げつ」といって、純白のウサギ姿に長いドジョウひげの、微笑みを絶やさない穏やかな方だった。その上、渋天街始まって以来最強とうたわれる武術の達人でもあった。その宗師さまが、高齢を理由に職を辞されるという。「どのような種類の神になるかを思案するあいだ、新しい宗師を選ぶことになるので皆これに備えよ」とな』
『さあ、街中はひっくり返った。宗師さまが引退することへの動揺は計り知れなかった。寂しさや名残惜しさを嘆く奴らは、そりゃあ多かったが、宗師さまの神様への出世を喜ばねえ者もまた、ひとりとしていやしなかったんだ。じゃあ、とバケモノたちは考えた。いずれ空白となる渋天街の宗師の職には、はたして誰がつくのか? 跡目を継ぐのは、誰がふさわしいか? ってな』
『強さ、品格、素行とも一流、というのが跡目の条件だ。
 もともとバケモノ社会におけるバケモノは「神に仕える武者」である、という通念があり、「武者」であるならば当然武芸に秀でている必要がある、というのが伝統的な考えだ。ゆえに宗師に求められる能力としてまず挙げられるのがその「強さ」だった。なんらかの武器を携えた侍の姿はどこのバケモノの街でも一定数見られる光景だが、ことさら渋天街では、ただ腕っぷしが強いだけでは尊敬を集めることはありえない。むしろ精神的強さに裏打ちされた勇気、統率力、人望を含む真の強さこそが必要とされるのだ。次に「品格」。宗師さまの例を引くまでもなく、渋天街の民すべてを代表するにふさわしい、威儀正しく威厳ある姿勢が求められるのは当たりまえのことだ。そして「素行」。渋天街の代表に安定した人格が望まれるのはいうまでもない。以上の要件を満たす者が、十万のバケモノの中の一体、誰であるか?』
『そこで真っ先に挙がったのが、おうぜんっていうイノシシのバケモノよ。冷静沈着、勇猛果敢。大勢の弟子を抱える偉丈夫だ。げんろういんに議員として名を連ねながら、同時に武術館「渋天街まわりぐみ」を主宰する。いちろうひころうまるっていう、ふたりの息子の父親でもある。条件的には申し分ねえ。次の宗師はあいつに違いねえと、皆、口々に噂したもんさ』
『そしてあともうひとり、候補に挙がるバケモノがいた。名を、くまてつと言ってな。その名のとおりクマのごとき毛むくじゃらのようぼうに、サル並みに駆け回る底なしの体力で、自慢の大太刀をぶんぶん振り回す。武者としての十分なたいがあり、腕力だけなら猪王山をもしのぐと、もっぱらの評判だった』
『だが、こいつがちょっと厄介な奴でな。つええのは誰もが認めるところなんだが、そのかわり、粗暴、ごうがんそん、手前勝手ときたもんだから、弟子のひとりもいやしねえ』
『ましてや、息子なんかが、いるわけもなかった……』



『……そんなときに、バケモノの世界の外、つまり「人間」の世界からやって来たのが、あいつ、ってわけだ』
『おまえたち、「人間」の世界へ行ったことはあるかい? ない者がほとんどだろうな。バケモノの世界と人間の世界は隔絶され異なっていながら、世界としては響き合っていることも実はあるのだよ。人間世界は今では目を見張るほど物質的発展を遂げているが、それを支える基礎的な制度、技術、様式などのは、バケモノが人間へと伝えたものが多い。例えば、神様をめぐる人間の様々な思想や概念のほとんどは、当然ながら我らの歴史や認識からでんしたものだ。
 反対に、我らの世界では細々としか使用されないでいるものが、人間世界で独自に発展したという例もある。そのひとつが「文字」だ。我々の世界は「思想」は尊ぶが、「文字」は軽んじしりぞける習慣があるだろう? 過去の賢人いわく「生きておる智慧が、文字などという死物で書き留められるわけはない。絵にならまだしもけようが」ということからも分かる通りにな。ところが人間の世界へ行ってみろ。なんでもかんでも文字文字文字であふれておる。あの街じゅう文字だらけの奇妙な光景を見ると、ぞっとするよ。人間は文字に自らを支配されたがっているのではないかと疑りたくなるほどだ』
『そのくらい、おれたちと人間ってのは、住む世界がまるで違うってことさ。だからさ』
『うむ』
『つまり、あいつの物語を語る上で、なかなかおれたちの口じゃ言い表せない人間の扱う事柄がいろいろ出てくるから、どうも具合が悪いんだな』
『そこで』
『そこで、だ。こっから先は、あいつの口を借りてしやべることになるぜ』
『つまり、我々があいつになりきって、あいつの主観において語るということだ』
『あ? 似ても似つかねえ? あいつはこんな老けたサル顔じゃねえって? うるせえこのやろう』
『ハハハ。私のせこけたブタ鼻も、しばらくは勘弁してもらわねばなるまい。まあ心配するな。このろうそくあかりの中で聞いているうちに、私たちの貧相な顔も、そのうちあいつのせいかんな顔つきに思えてくるだろうよ。
 さあ、心構えは良いかな。
 では、始めるぞ……』

れん

 9歳の夏、俺はひとりぼっちだった。
 ひどい湿気に揺らめくしぶの夜。QFRONTの巨大スクリーンにまばゆい映像が間断なく点滅し、けたたましい音楽をき散らす大型トレーラーが連なって通過する。信号が変わるたびに驚くほどたくさんの人々がスクランブル交差点を行き交う。誰もが着飾り、笑い声をあげ、靴のかかとを鳴らしている。
 交差点の中心に、俺は立っている。首の伸びたTシャツ。ぼさぼさの髪。何日も洗っていない薄汚れた肌。飯もろくに食わない瘦せた体。手にぶら下げたコンビニエンスストアの袋。
 すれ違う人の、幸せそうな、のんきそうな、無責任そうな顔を、鋭い目でにらみつける。
 俺は、この世界からはじき出されてしまった、寄る辺ないただの餓鬼だ。
 往来の向こう、屈強な警察官たちにがっちり二の腕をつかまれ、駅前の交番へ引っ張られていく二人組の少女が見えた。
「さあ来て」
「触んないでよ」
「家出だよね」
「違いますー」
「噓ついてもわかるんだからね」
 警察官に発見されないように、俺はそっと人混みに紛れ、信号が赤に変わるよりも早く渡りきってセンター街の門をくぐった。通りにいくつも設置されたドーム型の防犯カメラが、怪しい者を一人も見逃さないように見下ろしている。俺はその一つ一つを睨み返しながら、カメラの視界の届かない場所へと消える。
 にぎやかな大通りから一本裏に入ると、急に人通りが途絶える。自販機の寒々しい光が照らす路地。落書きで埋め尽くされた倉庫、ビルのパイプ、室外機。乱雑に重ねられた段ボール。吸い殻でいっぱいのスタンド型灰皿。大通りで呼び込みをする店員なんかがちょっとした休憩に使う場所だ。ちょうど誰もいない。休憩する暇もないほど忙しいらしい。
 倉庫の扉に背をつけ、俺は腰を下ろした。
 コンビニ袋の中から食パンをちぎって口に放り込む。封を開いて何日も経ったパンはカラカラに乾き、むとカリッと硬い音がした。今は食い物はこれしかない。短パンのポケットに入った何枚かの一万円札と小銭が全財産だ。残りの額を頭の中で数えながら、少しずつパンをかじった。
 と――。
 キュッ……。
 震えるような小さな鳴き声に、ハッと俺は顔を上げて見た。でも、缶入れから溢れた空き缶がアスファルトの上に転がっているだけだ。
「……?」
 ……キュッ。
 小さな二つの目が、空き缶の陰からのぞき見ていた。
 ネズミ? いや違う。もっとちっこくて、ふわふわした白く長い毛の、見たこともない生き物が、じっと俺の様子をうかがっている。――いや、俺を見ているんじゃない。正確には俺が食っているカラカラに乾いたパンを見ているんだ。
「よし。待ってな」
 ひとかけちぎって手のひらに乗せると、そのちっこい奴の前に差し出した。ちっこい奴は警戒して、空き缶の後ろに身を縮める。俺はそっとパンを地面に置いて手を引く。
「ホラ。食え」
 と言っても動かず、しばらく俺とパンを見比べていたが、やがて缶の後ろから出ると、パンに取り付いた。ちっこい口が、カリカリと音を立てる。
「……おまえも、どっかから逃げてきたのか?」
 聞くともなしに聞いてみた。
 ちっこい奴は、ちっこいひとみで見上げて、まばたきするだけだった。
 俺は、ひとりぼっちだった。

 俺と母さんのマンションに、見知らぬ大人たちが上がりこんできた。
 家にあるものを片っぱしから段ボール箱に手際よく詰め込んでいく。ガムテープで封をされた箱がまたたく間に積み上がってゆく。母さんの服も、母さんの靴も、母さんのベッドも、何もかもを部屋の外に運び出している。
「そろそろ行くぞ。蓮」
 叔父おじさんが俺の名を呼び、スーツのそでをずらして時計を見た。引越し会社の人たちにこの作業を指示しているのは、叔父さんを含めた本家のしんせきたちだ。俺は答えず、窓辺に近い部屋の隅でひざを抱えたままうつむいていた。
「あの、これ、どうしましょう?」
 引越し会社の人が困った調子でく。ああ、それはこちらで運びます、と本家の叔母おばさんの声がする。俺は顔を上げた。ダイニングテーブルの上の香炉から立ち上る、線香の細い煙。のどぼとけを入れた小さなぶんこつつぼ。そして写真立てに収まった、まだ生きていた時の母さんの顔。
 俺は、それをじっと見つめた。
 叔父さんが言う。「蓮。母さんが突然いなくなって寂しいかもしれんが、交通事故だから仕方がない。おまえは本家が後見人になって引き取る。いいな」
「あなたはウチの家系唯一の男の子で、大事な跡取り。これから何不自由なく育ててあげるから」
 叔母さんが言う「何不自由なく」とはどういうことなのかを考えた。都心に不動産をいくつも持つ裕福な家だ、といつか聞いたことがある。だが俺は、この人たちとほとんど話したことがない。
 アルバムから滑り落ちた写真の中に、父さんの顔がチラリと見えた。まだ以前の小さなアパートに住んでいた頃、母さんと三人で身を寄せ合って撮った写真だ。あの頃は楽しかった。俺はまだ小さかったし、なにより三人でちゃんと暮らせていたんだから。今、こんなことになるなんて思いもしなかった。
「蓮! わかったら返事ぐらいしろ!」
 叔父さんが大声を出す。
 いつかもこんな大声を出したのを、俺はよく覚えている。突然アパートに弁護士を連れて乗り込んできて、無理やり父さんと母さんを引き離した。それはたぶん俺が「家系唯一の男の子で、大事な跡取り」ということと関係がある。母さんはずっと泣いていた。いつもそうだ。この人たちは、自分の思い通りにするときに、同じ声を出す。
 でも俺は、本家の親戚たちより、父さんの方が腹立たしかった。あのときなんで母さんが泣いているのに何もしなかったんだ? どうして本家の奴らの言うことを受け入れたんだ?
 俺は叔父さんに尋ねた。「父さんはなんで来ないの?」
「あいつのことはもう忘れろ」
「なんで? 父さんは父さんだ」
「母さんとあの人が離婚したの、知っているでしょ? 親権も裁判所がこっち、って認めたの。もう赤の他人なのよ」
「なら、一人で生きてく」
「子供がなに言ってる。そんなことできるわけないだろ」叔父さんが鼻で笑う。
 その鼻を、俺は精一杯睨みつけた。
「一人だって生きてやる。強くなって、おまえらを見返してやる」
「なんて口きくんだ。蓮、おまえは……」
「大嫌いだ。おまえらも、父さんも、全部大嫌いだ!」
 言い終わる間もなく、俺は外に飛び出していた。

 渋谷にまた夜が来る。
 あまり遅くならないうちに、どこか休めるところを探さなければ。屋根があって、誰にも見つからないで、やり過ごせるところを。だが今日は先客がいたり、工事中だったり、遊んでいる奴らが占拠していたりして、なかなか適当な場所が見つからなかった。ずっと歩きづめで、足も体も重かった。
 途中、親に抱かれたこどもの姿を何人も見た。それを見て、胸の中で何かがうずいた。親にしがみついているこどもたちの顔は、幸せそうで、のんきそうで、無責任そうに見えた。胸の中から、声が響いた。
(大嫌いだ……)
 何か得体の知れないものが暴れている。
(大嫌いだ……大嫌いだ……)
 そいつは胸の外に出たがっている。扉を強い力でたたいている。ぶち破りそうな勢いだ。じっと耐えて押し込める。でも押し込めようとすればするほど、扉を叩く力は増していくようだ。
(大嫌いだ……大嫌いだ……大嫌いだ……)
 俺は気づいた。これは呪いだ。あの嫌な本家の親戚たちに向けた呪いだ。俺を助けにこない父さんに向けた呪いだ。幸せで、のんきで、無責任な、俺以外のすべてに向けた呪いなんだ。
(大嫌いだ……大嫌い……大嫌い……大嫌い……)
 呪いは胸の奥から繰り返し激しく突き上げてきた。苦しくてもう我慢できなかった。吐き出さないと破裂してしまいそうだった。
 その瞬間、恐るべき力が加わり、呪いはついに、俺の胸の中から飛び出した。
「大嫌いだっ!」
 俺は、声に出して叫んでいたのだった。
 周りの大人たちはぎょっとして立ち止まった。何事かとこちらに視線が集まる。耐えきれず俺は背を向けた。どうしたの? と手を差し伸べながら近づいてくる親切顔の大人さえいる。俺はそれを振り切って、逃げるように走り出した。
 さっき胸の中で暴れていた何かを、その場所に置きざりにしたまま。

 ガタンゴトンと、頭上で電車が通過する音がする。
 高架下の駐輪場で、俺は乱雑に並んだ自転車と自転車の間に座り、組んだ両腕に顔を埋めた。今日はここで過ごすしかない。くたくたに疲れ、もう顔を上げる力もなかった。
 俺の懐から、チコが顔を出した。センター街の裏路地で見つけたあのちっこい奴だ。ちっこいから、チコ、と名前をつけた。チコは俺の額にふわふわの毛をすり付けると、慰めるような声で鳴いた。
 キュウ。キュウ。
「チコ。大丈夫。ありがと」
 それでもチコは、心配そうに、鳴き続けた。
 キュウ。キュウ。
「大丈夫だから。でもちょっと疲れているから、このまま眠らせてくれよ……」
 ……キュ。
 不意に、チコが鳴くのを止め、素早く俺の髪の毛の中に潜り込んだ。
 誰かが話しながら、こちらへと近づいてくる。
「……まったく何だっていうんだ。要は猪王山より強きゃいいんだろ? 品格? 意味わからねえ」
「宗師さまも無茶言うねえ。前におまえに弟子入りした奴はどのくらい持った?」
「1ヶ月……1週間?……いや1日……」
「午前中だぜ、午前中!」
 二人の男が、ペタペタとサンダルの音を鳴らして、俺の前を通り過ぎていく。一人の声は甲高く早口で、体格は小柄に思える。もう一人の声は野太く、きっと大柄な男。その男が吐き捨てるようにわめく。
「メソメソ泣くような奴は嫌いなんだよっ!」
り好みしてる場合か。こうなったらその辺の人間でもタワシでもつかまえて、弟子にするんだな」
「ああそうかい。わかったよ!」
 大柄の男は突然きびすを返して戻ってくる。小柄の男の焦りが感じられる。
「おい冗談だよ、真に受けるなよ!」
 大柄の男の足音が近づいてきて、不意に俺の前で止まった。
「やい」
「……」
 俺はうつむいたまま、返事をしなかった。
「やい、って言ってんだ」
 大柄の男は、いらつようにドンと足を踏み鳴らす。
 なんで話しかけてくるんだ。っといてくれ。
 男は、いぶかしむようにいてくる。
「おめえ、生きてんのか死んでんのか?」
「……うるせえ」
「口がきけるってこたあ生きてるな? おっかさんはどうした?」
「うるせえ」俺に母さんのことを聞くな。
「じゃあおとっつぁんは」
「黙れ」俺に父さんのことを聞くな。
「答えろ。おとっつぁんは――」
「黙れ黙れ黙れ黙れ!」俺は耐えきれなくなって、顔を上げ怒鳴った。「これ以上話しかけたらブチ殺すぞ!」
 男たちは二人とも、全身をすっぽりと覆ったマント姿だった。大柄の男は袋に入れた長い棒のようなものを背に負っている。きんの奥は暗くて、顔はよく見えない。が、そのかわり独特な匂いが立ち込めている。それはたとえば、動物園の獣舎の前にいるような――。
「何が殺すだ。ガキが」小柄の男は、鼻で笑う。
「たいした鼻っ柱だな。面をよく見せろ」
 大柄の男が、マントの下からゆっくりと腕を伸ばし、いきなり俺のあごつかんで強引に引き上げた。
 俺はそこで初めて、頭巾の奥に男の顔を見た。
 ひげづらの口元からのぞく鋭いきば
 前に突き出た熊のような鼻。
 そして、俺を見下ろす野生の獣の眼。
「……!」
 俺はあまりの驚きで、身動きひとつできなかった。
「……ば、バケモノ……!」
 目の前のことが信じられない。
 大柄の男は、じっと見下ろしたまま動かない。見たこともないほど鮮やかな赤色のひとみだった。その瞳が、俺の胸の中の何もかもを見透かして、品定めしているように思えた。なすすべない俺は、ただうめくしかなかった。
「あああ……」
 品定めの時間は唐突に終わった。
 大柄の男に突き放され、俺は地面に叩きつけられた。
「うっ!」
 大柄の男は満足そうに言った。
「悪くねえ」
「もういいだろ」
 そう小柄の男に促され、大柄の男は背を向けた。
 が、行きかけて立ち止まり、振り返ると、俺にこう言った。
「おめえ――、オレと一緒に来るか?」
「……!?」
 そう言われて、胸がドキンと音を立てた。
「は? バカ言うな熊徹!」
 小柄の男が慌てて戻ってきて、大柄の男を引っ張ってゆく。
 俺は、自転車と自転車の間から出て、ぼうぜんと見送った。
 高架下を出て西口方向の階段を上る二人のマント姿が見えた。今のは何だったのか? 夢か。幻か。悪い冗談か。それとも……。
 それを確かめるために、二人のあとを追って走り出していた。

 信号が変わり、大勢の人々が一斉に歩き出す。
 スクランブル交差点の中心に飛び込んで、大柄の男の姿を探した。
 三千里薬品の青色に点滅するネオン。QFRONT。渋谷センター街の門。109。渋谷マークシティ。JR渋谷駅――。
 ぐるりと見回すが、あのマント姿はどこにも見つけられない。いつもと変わらない繁華街の風景があるだけだった。俺は目をこすりあげた。
「なんださっきの……。やっぱり、夢?」
 すると突然、後ろから腕を強く摑まれた。
「!?」
 俺は驚いて振り返った。あの大柄の男だと思ったのだ。
 ところがそうではなかった。
「ねえ君、家出してきた?」
 屈強な若い警察官が見下ろしていた。
「子供が夜にこんな所でひとりでいて、よくないでしょ」
 横からメガネをかけた中年の警察官も覗き込む。家出した少女を補導していた、あの二人組だ。
「条例違反だって知ってる?」
「は、放せ」
 俺は身をよじって逃れようとした。が、若い警察官の拘束する力はすさまじく、いくらもがいてもびくともしない。中年の警察官は小脇から書板を出して尋ねる。
「どこの小学校? 保護者の連絡先は? 迎えに来てもらうから」
 俺はハッと二人を見た。頭の中にあの本家の叔父さんと叔母さんの姿が浮かんだ。あの人たちが保護者ということになってしまうのだろうか。冗談じゃない。あいつらのところなんて死んでも行きたくない。
「いやだ……。絶対に……、いやだ!」
 俺は力ずくで警察官の手を振り切ると、人の波の中に駆け出した。
「待ちなさい!」「待て!」
 交差点を抜け、センター街の雑踏を俺は闇雲に走った。
 警察官たちが恐ろしい勢いで追いかけてくる。しかし人通りの多さが邪魔をして、思うようには進めないようだった。
 その隙に俺はかくらんするように路地を曲がりに曲がった。後方に警察官の姿が見えなくなる。それでも足を止めないで走った。捕まってたまるもんか。絶対に本家のところなんて行くもんか。あいつらは保護者じゃない。俺に保護者なんていない。
 と――。
 唐突に俺の視界に、あのマント姿が入ってきた。
「!?」
 俺はハッとして立ち止まった。
 センター街の外れのビルの狭い隙間に、体を横にして入ってゆく大きな背中が見えた。
 確かに、あの、大柄の男だった。
 ところが、ほんの少しまばたきする間に、マント姿はこつぜんと消えた。ビルの隙間には誰もいなかった。エアコンの室外機、換気扇の排気口、たくさんのパイプや店舗のゴミ箱が見えるだけだ。
「……??」
 俺は混乱した。今、確かにいたはずなのに……。
 すると、
「どこだ?」
「いや、あっちか?」
 警察官たちの声がした。背伸びして探す姿が人の波の向こうに見える。
 俺は、警察官たちと、大柄の男が消えたビルの狭い隙間とを見比べた。同時に頭の中で、本家のしんせきたちとあのバケモノを比較した。
 耳に残るあのしゃがれた声が再び響く。
 ――おめえ、オレと一緒に来るか?――
 胸が高鳴った。もともと自分の居場所なんか、どこにもないんだ。
 本家で「何不自由なく」なんて暮らすぐらいだったら、バケモノの方がずっとマシだ。
 俺は、覚悟を決めた。
 ビルの隙間に向かって、おおまたで踏み出した。

熊徹

 ビルの隙間は、不思議な路地へと通じていた。
 緑色の薄暗いぼんやりとした明かりが、でこぼこした石畳とごつごつした土壁を照らしていた。両手を広げたらそれでいっぱいの狭い路地は、どこまで行っても同じような景色が続き、行けば行くほど混乱するばかりだった。ときおり、ちょうど何かの目印のようにたけかごに活けられた花が、石畳に置かれてある。それを基準にして先へと進む。が、すぐに袋小路に陥ってしまう。頭に描いた地図を頼りに戻ってみると、さっきそこにあったはずの花がない。道を間違えたのかと、今度は壁にぶら下がる鉢植えの花を基準にする。しかしそれも戻ってみると、あったはずの花がどこにも見当たらない。
 まるで迷路だ。
 だがそれだけじゃない。路地の壁にぽっかりと空いた窓があった。扉もアルミサッシも付いていない、穴のような窓だ。その窓辺に灰色の毛の猫がいて、身じろぎもせずこちらを凝視している。と思えば別の窓辺には、2メートルほどもある立派な尾を垂らしたながどりが、振り向いて小首をかしげる。さらに別の窓辺では、枝に花をつけた鉢植えがちょこんと置かれてある。と思えば、奥にその枝と似た形の角のニホンジカが、じっとこちらの様子をうかがっている。
 ニホンジカ?
「ここ、本当に渋谷……?」
 俺は後ずさりながら、思わずつぶやいた。
 背後に気配を感じて振り返ると、ずっと奥の壁の照り返しに人影が横切るのが見えた。大きさからしてきっとあのマント二人組に違いない。急いで俺はその方向へ走り、角を曲がった。ところがもう人影は奥の角を曲がるところだった。俺は再び走って近づこうとした。なのに人影はいつも、ずっと奥の角にいる。追いつこうと走ってもなかなか追いつけない。ただ歩いている相手に、なぜなのだろう?
 四つつじにさしかかって、急に二人の姿を見失った。前方と左右を見渡しても、ただそれぞれ花瓶に活けられた花が、椅子の上に置かれてあるだけだった。行き止まりだ。誰もいない。
「あれ……? あれ……?」
 どっちにいっていいのかわからず、その場から動けなかった。
 そのときチコが懐から顔を出して、キュッ、と警戒するように鳴いた。背後から石畳をたたひづめの規則正しい音が近づいてくる。俺は振り返って、あっとなった。
 馬だった。
 馬の、長い顔が迫ってくる。
「わああああ!」
 狭い路地で逃げ場もなく、俺は馬の鼻先に押されるがままになった。さっきは行き止まりだったはずの路地の先が急に開けたようになる。広い空間と大勢の人のザワザワした気配が近づいてくる。馬は何枚もの織物を背負っていて、一直線にそこへ向かっているようだ。俺はなすすべなく、ただ大声をあげるしかなかった。
「うわあああああっ!」

 馬に路地から押し出され、そのせいで俺は石畳に頭をしたたか打ち付けた。
「イテッ。つ……」
 俺を押した馬は、大量の布を背中に抱えたまま二本足で立ち上がると、不審な表情をこちらに向けながら、横を通り過ぎていった。
 二本足?
 ハッと俺は顔を上げた。
 そこは石造りの大きな屋敷のような場所で、天幕が張られた中庭の下に、みつ色のランプの光に照らされた大勢の奇妙な男たちが集いうごめいていた。
 むせかえる獣の匂い。男たちは皆、獣の顔だった。
 毛糸を手に商談する立派な角のカシミヤヤギ。商品の織物を開いて見せるアルパカ。品定めに首を伸ばすラクダたち。ノート片手に指を立てて値段交渉するアンゴラヤギ。札を素早く数えるラマのプロフェッショナルな手さばき。取引された織物の束を、運送役の馬たちが肩に背負って運び出してゆく。
 やばい。
 バケモノだ。ここは、バケモノだらけの街なんだ。
 俺は恐怖と不安で泣き出しそうになり、思わず悲鳴を上げた。
「あああ……!」
 その声に、商談中のヤギが気づいた。ヒツジたちも次々とこちらを見た。あちこちからバケモノたちの視線がこちらに集まってくる。
 やばいやばい。
 チコは危険を感じて懐に飛び込んだ。俺は元の路地に引き返そうと慌てて立ち上がり後ろを振り返った。しかし路地があるはずの場所はなぜか、壁でふさがれてしまっていた。
「あれ……? あれ……!? 今来たはずの道がない!?」
 なぜだ? いつの間に? どうして? いくら探ってもそこには路地などなく、かわりに塗り込められたような壁が立ちはだかっているだけだった。全身から冷や汗が噴き出た。
 バケモノたちは驚いたような、いぶかしむような、物珍しいような目つきで俺を見てざわついている。
 やばいやばいやばい。
 どこでもいいからここから逃げなきゃ。駆け出したとたん、足がもつれて四つんいになってしまった。くそっ。俺はかまわず無理やりに四つん這いの手足を動かし、一目散にその場を逃れた。
「出口……出口は……!?」

 バケモノの街の大通りは、たくさんの商店が建ち並び、祭りのような活気に満ちあふれていた。通りの頭上には大きな布がいくつも重なるようにり下げられ、見たこともないような青や赤や紫のあやしい光を放っていた。路上は夜の街を楽しむバケモノたちでごった返していて、俺は隠れるように身を低くして四つ足で駆け抜けた。しばらく行くと大通りの先に大きな門が見え、そこに備え付けられた円形の青いネオンが規則的に点滅しているのが見えた。中心の赤いネオンの額面には黄色の文字で、
「渋天街」
 と書かれてあった。どうやらそれがこの街の名前であるらしかった。両脇にはそれぞれ「三千界」「甘栗」とある。この意匠はどこかで見覚えがあったが、それが何であるかは思い出せない。門を抜けて、開けた石畳の広場に出た。広場を中心に東西がなだらかな丘になっていて、斜面を住宅らしき灯火が埋め尽くしていた。その丘から見て、谷に当たるのが広場で、この街の中心であるらしく、一段と明るい光を発していた。それは広場に軒を連ねる無数の露店が放つ光だった。俺はバケモノたちの波に押されるまま雑居する露店街の中に飛び込んだ。
 軒下にぶら下がる、皮をこんがり焼かれたアヒルの丸焼き、首がついたままのどり。凶暴な歯を見せつける鮭の干物。グロテスクな宇宙人さながらににらみつけるエイの干物。つぼに溢れかえるイカ、ヒトデ、カエル、トカゲ、その他得体の知れない乾物。量り売りの穀物、果実の山。積み上げられた酒瓶。無数に並ぶなべかま、壺。大小さまざまな骨や貝殻でできた装飾品。妖しい輝きを放つ刀剣、武具のたぐい――。目に入るもの全てが、いままで自分がいた世界とまるで違う。強烈な孤独感に襲われ、不安で今にも押しつぶされそうだった。早く「出口」を見つけてここから脱出するんだ、渋谷に戻るんだ、そう念じながら懸命に四つ足で駆け続けた。
「あっ!?」
 いきなり誰かが俺のシャツの首元を引っ張った。抵抗する間もなく子猫が首元をつままれるように引っ張り上げられてしまった。俺を捕らえたのは、だんびらをぶら下げたガラの悪そうなオオカミのバケモノだった。
「……なんだ、こいつ」
「人間の子供だ」
「人間? なんでここに?」
 仲間のオオカミのバケモノ二人が寄ってきて、手足をバタバタさせる俺を吃驚びつくりした眼でのぞき込む。そこは和楽器の露店の軒先で、三人は手にした笛やや太鼓のバチで、俺のほっぺたを引っ張ったり、まぶたを押し上げたりした。
「は、放せ!」
 叫ぶ俺を無視して三人組は顔を互いに寄せてニヤリと笑うと、凶悪な相談を始めた。
「ちょうどいい。皮をいで三味線屋に売るか?」
「カラカラに乾かして削り節にするか?」
「それとも……」
 露店のにわとりや鮭みたいになんかなりたくない! 俺はたまらず悲鳴をあげた。
「た、助けてっ!」
 と――。
「やめろ、馬鹿者!」
 いさめるような鋭い声がした。
 声の主は、せこけたブタのバケモノだった。坊主頭にしようひげそうりよが着るような黒い服(じきとつ)は、ところどころ虫に食われたような穴が空いていた。
「罪深いことを言うな」
 小さな目をゆっくりまばたきさせて、三人組を諭すように言った。

 身を寄せ合いブツブツ文句を言うオオカミたちの姿が、しりに遠ざかる。
 僧侶姿のバケモノに連れられて、俺は露店の連なる通りを歩いた。
「なあに気にするな。あいつらは口と顔がちょっと乱暴なだけさ。怖がることはない」
 そう言われても全身の震えが止まらなかった。夜遅くの屋台から、酔っ払ったバケモノの甲高い笑い声や怒鳴り声が、間断なく響いていた。僧侶姿のバケモノは、俺を安心させようとしてのことだろう、穏やかなやさしい声で言った。
「私は百秋坊。見ての通り修行の身だ。ここ渋天街へは、定められた順路を巡らねば辿たどり着けん。神にすらなれる我らバケモノとなれぬ人間とでは、生きる世界が違うでな。偶然に迷い込んで、心細かったろうに。さあ、私が元の世界へ送り届けてあげるから――」
 俺は意外だった。バケモノと言ってもなにも恐ろしいばかりじゃない。よくしてくれるバケモノもいるのかもしれない。いつの間にか体の震えは収まっていた。今はともかくもこの僧侶姿のバケモノ、百秋坊が出口を教えてくれるらしいから、ついていきさえすれば元に戻――
「よお! おめえ本当に来たのかい?」
 聞き覚えのある、しゃがれた大声がした。
 俺は振り返って、ぎょっとした。
 あの大柄のバケモノが、満面の笑みでのっしのっしとやってくる。マント姿じゃなく、代わりに真っ赤な上着を羽織り、身の丈ほどもある朱色の大太刀を背負っていた。白い模様の毛が首元から覗く。熊みたいな顔だからツキノワグマのバケモノなのだろうか。ひさご(ひょうたん)の酒瓶を手に、
「へへ、見込んだ通りだぜ。ますます気に入った!」
 と酔っ払った赤ら顔を機嫌よく突き出すと、俺の肩をつかみ、うらあっと引き寄せた。
「熊徹、何をする」
 百秋坊は、たしなめるように力づくで俺を引き戻した。「迷子の子供だ。優しく寄り添わんか」
 熊徹、と呼ばれた熊のバケモノは不満そうに口元をねじ曲げた。「寄り添うだぁ? 坊主は甘々なことしか言わねえな」
「乱暴に扱うなということだ」
「乱暴で何が悪い? 迷子なんかじゃねえ」と言って熊徹は、大きな手を俺の頭に置いた。「こいつは今からオレの弟子だ!」
「……弟子?」
 は? そんな話、知らねえよ。
「言っただろ。忘れたのか?」
 言ってねえよ。忘れるもんか。
 百秋坊は仰天して声を上げた。
「……人間の子供を弟子にするのか?」
「人間だろうがタワシだろうが知ったことか。弟子っつったら弟子だ!」
 熊徹は、俺の頭をわしづかみにしてぐりんぐりんと揺らした。
「待て待て待て」
 とサル顔のバケモノが小走りでやってきた。あいめの上着と手ぬぐいを首に巻いた姿がどことなく職人風のいでたちで、腰の帯にがまぐちの財布をつっこんでいた。声からして熊徹と一緒にいた、あの小柄の男だった。「おれはやめとけって言ったんだがね」
「多々良、わけを話せ」
「宗師さまが、跡目を目指すなら、どうしても弟子を取れとこいつにおっしゃってな。だが猪王山ならいざしらず、こいつの弟子になんか誰もなりたがらねえ。ヒヒッ。で、哀れな人間どもを見物してるときに、このガキを見つけた、と」
 百秋坊はあきれ顔で熊徹を見やった。
「それでさらってきたのか?」
「ついてきたのはこいつだ」
「だからと言って関係のない者を巻き込むな」
「見所のある奴に目ぇ掛けちゃいけねえのか? え!?」
 熊徹はいらつように大声を張り上げる。
 が、多々良と百秋坊のふたりはまったく動じない様子だった。
 この三人の関係はいったいなんなんだろう? と俺は思った。



『……熊徹はあのあと酒臭い息で「帰るぞ」とひとこと言うと、おれたちが反対するのも聞かずに無理やりあいつを引っ張っていった。給水塔脇の坂道を上る熊徹とあいつの小さな後ろ姿を、おれたちは広場のはずれで見送った。
「なんとむちゃくちゃな、そこまでして跡目の座が欲しいのか」
 百秋坊が深刻にまゆをひそめているので、おれは噴き出しちまった。
「いやいや、熊徹はただ猪王山とのケンカに勝ちてえだけよ。なんのこたあねえ」
「確かに。宗師となり神様に出世するなど、さらさら興味ないだろう」
「仮にあいつが転生しても、せいぜいつくがみがいいところさ。便所の神とかタワシの神とかな」
 百秋坊は気の毒そうに言った。
「人間の子供を、熊徹と一緒にして大丈夫だろうか」
「さあね。おれぁ知らね」
 おれにしてみたら、人間のガキなんかっとけよ、ってなもんだったがな……』



 俺は熊徹の背中を追って、坂道を登った。
 大通りから分かれた道がどんどん細くなり、何段もの階段を上がった。にぎやかな街から徐々に寂しくなり、道端のゴミや壁の落書きが目についてくる。なにやら物騒な空気が漂い、決して裕福な者が住む場所ではないことは一目でわかる。
 熊徹の家は、石段を登りきったところにあった。
 そこはせいぜい1LDKほどの「小屋」といってもいい代物で、コンクリート造りの壁の塗料は経年のため剝がれ落ちていた。前庭のタイルの隙間から雑草が生え放題になっていて、屋上には物干しのワイヤーが風に揺れていた。
 熊徹は、前庭に面した入り口の布カーテンをめくり中に入っていった。なぜ布カーテンなのか。ドアのない家なんてあるのか? 俺はどうしたものかしばらくちゆうちよした。小屋の中に心細い明かりがともる。もうひとつ扉があることに気づいた。ここが正式な玄関らしい。俺は仕方なく覚悟を決めて、玄関の扉を開けた。
 小屋の中はほとんどごみ捨て場と区別がつかないほど散らかっていた。壁から壁へ通したワイヤーに、何着もの服が乱雑にぶら下がっている。テーブルの上の食器は放りっぱなし。椅子は転がったまま。部屋の隅に「くまてつあん」と書かれたボロボロの額が、粗大ごみのように立てかけてあった。
 じゆうたんの上に乱雑に転がる酒瓶だの靴だの食いかけのはちみつの瓶だのを熊徹が足で押しのけて、かわりに小さなクッションをふたつ放って寄こした。
「ここで寝ろ」
「弟子ってどういうことだよ」
「オレがこれからわしてやろうって言ってんだ」
「別に頼んでねえよ」
「フン。勝手にしろ」
 熊徹は、この小屋でたったひとつの豪華な装飾を施した大きなソファに腰を下ろした。ソファというよりはシェーズロングと呼ばれる、まるで貴族がお昼寝するのに使うような革張りの立派なソファで、粗末な小屋にまるで似つかわしくない場違いな印象を与えた。熊徹は腹をボリボリきながら言った。
「ただしメソメソする奴はキライだ。泣いたらすぐ放り出す」
「泣かねえよ」
「そうこなくっちゃな」
「だからってあんたの弟子になんかならないからな」
「じゃあなぜついてきた?」
「なぜって……」俺は言葉に詰まった。
「言わねえでもわかるぜ。行くところがねえことぐらい」
「……同情してんのか?」
「バカヤロウ。そんなことは一人前になってからほざけ」
 熊徹は怒鳴り、それから横を向いてひとりごとのようにつぶやいた。「おまえはどのみちひとりで生きてくしかねえんだ」
 その言葉には妙な実感と説得力がもっていた。俺は黙ってしまった。
「――」
「まだ名を聞いてなかったな」
「――言わない」
「は?」
「個人情報だから」
 知らない人に名前を教えちゃいけません。大切な個人情報です。小学校の教師が言っていた。しかし目の前の熊のバケモノに対して個人情報などと、口にしてなんだかちぐはぐな気分だ。
「ええい、なら歳は?」熊徹が苛立ってきばを見せる。
 年齢も同じ個人情報だ。言っていいものかどうか躊躇した。が、ここで拒否すればなおさら自分の中にちぐはぐな気分が増えてしまうかもしれない。
 俺は、歳の数だけ指を立てて見せた。
「九……?」
 熊徹は俺の指を見て、何かを思いついたようにニンマリ笑うと、ソファに深くもたれ満足げに宣言した。
「へへ。じゃあおめえは今から『きゆう』だ」
 きゅうた? なんだその変な名前!?
「……なんであんたが名前を付けるんだよ」
「いいか、『九太』だからな。さて、オレはもう寝るぜ。九太」
 畳み掛けるように言うと、熊徹は布団にくるまって背を向けた。

 今は何時なのだろうか。すでに0時を回っているのかもしれない。
 俺は布をめくって前庭に出た。空には驚くほどの数の星が輝き、眼下には、にぎやかな繁華街の灯がまたたいていた。給水塔だと教えられた円筒形の建物が特徴的だ。確か渋谷にも同じような円筒形の建物がどうげんざか下にある。そういえば円形のドームを乗せた建物にも、また銀杏いちようの葉のような形が連なる建物にも見覚えがあった。どういうことなのだろう? ここは別世界のようで、渋谷とつながっているということなのだろうか……。
「蓮」
 後ろから声がした。
 振り返ると、母さんだった。
 エプロン姿でお盆を持ち、小屋の外に立っていた。
「蓮の好きなハム入りオムレツ作ったよ。冷めないうちに食べよ」
 死んでしまったはずの母さんが、にっこり笑ってこちらを見ている。どこまでが夢でどこまでが現実なのかわからなくなる。でもこのバケモノの街だって、充分に夢みたいじゃないか。
「うん。今行く」
 と母さんに返事をした。先ほどから驚きの連続で、してしまっていたのかもしれない。俺は夢の中にいるみたいに歩き出した。
 三歩歩くと、母さんはもうどこにもいなかった。
「……」
 急に厳しい現実を突きつけられた気持ちになった。たまらず背を向け、ひざを抱えてしゃがんだ。俺は正真正銘のひとりぼっちだった。絶望的な寂しさと悲しさが針のように全身を刺した。涙があふれ出た。必死にかみ殺すが、どうしてもえつが口から漏れてしまう。チコが懐から出て心配そうに鳴くと、寄り添うように俺に身を寄せる。それでも嗚咽が後から後から出てきてしまう。
 ――メソメソする奴はキライだ――
 さっきの熊徹の言葉が響く。
 泣くな。
 何度も、自分の胸に言い聞かせた。

 ガンガンガンガン!
 突然大きな音がして、俺は跳ね起きた。
「わわっ!?」
 見ると、フライパンにづちを持った熊徹が、ニタリと歯を見せて笑っていた。
「メシだ」
 すがすがしい青空。もう朝だった。熊徹はなおもフライパンを思い切り打ち鳴らす。
 ガンガンガンガン!
「や、やめろっ!」
 俺は耳を押さえて抗議した。
 昨夜、俺は階段下のとり小屋の中で、眠りこけたのだった。熊徹が言うには、目を覚まして部屋に俺がいないと知り、逃げ出したと思ったらしい。そしたら鶏小屋で鶏たちに囲まれて眠っていた、と。言われて俺も不思議だった。なぜ俺は逃げ出さなかったのだろう?
 熊徹は、どんぶりに盛られた飯に生卵を次々と割り入れた。
「まだ怒ってんのかよ。ちょっとふざけただけだろ。機嫌直して食えよ」
 チコは俺の肩の上で松の実をカリカリかじっていた。俺だけが飯に手をつけず、黙りこくっている。
「生みたて卵だ。生で食わねえともったいねえぞ」
 新鮮な卵は鶏の体温が残っていてほんのりあったかい。さっき鶏小屋で寝ている時、頰に温かいものを感じていたのは、この卵のあったかさだったのだ。
 だが俺は食わない。
「それとも腹減ってねえのか?」熊徹はいぶかしみく。
「減ってるよ!」怒りと空腹でとうとう俺は叫んだ。
「なら食え!」
「生の卵なんか!」
「あ?」
「……生臭くて食えるか」
 卵料理は大好きだが、生卵だけは無理だった。うまそうに食う奴の気が知れない。
「普通に食うだろ。見てろよ」
 目の前の気が知れない熊は、どんぶりの卵と飯をぐちゃぐちゃにはしでかき混ぜるとそれを一気にバクバクとかき込み、いっぱいに膨らんだほっぺたを見せて俺にこう言った。
「どうだ!?」
 俺はその馬鹿面に顔を背ける。
「バカじゃね?」
「なんだとコラァ!」
 馬鹿熊の口から大量の飯粒がき散らされ、俺に降りかかってきた。
「わっ、キタネエ!」
「弟子は好き嫌い禁止だ!」
「俺はあんたの弟子じゃねえ!」
「うるせえ食え!」
「嫌だね!」
「どうしても食わねえつもりなら」熊は腰を落として構える。
「どーすんだよ」俺も警戒し腰を落とす。
「口ん中に放り込んでやる!」
 馬鹿熊は、かごから卵をつかむと回り込んでこちらへ向かってきたが、俺はそれを予期してほぼ同時に走り出した。テーブルを中心に、狂ったように追いかけてくる馬鹿熊から俺は逃げまくった。
 ぐるぐる回る馬鹿熊と俺を、いつの間にか百秋坊と多々良が窓の外から眺めている。
「やめろ、熊徹。優しく扱え」
「わかったろ、熊徹。そんな小憎らしいガキ、とっとと突っ返してこい」
 どちらも熊徹の耳にはまるで入らないらしい。俺は隙を見て円運動を離れ外へ出ると、多々良たちの間から身を乗り出し、ひとりぐるぐる回る馬鹿熊に言ってやった。
「あんたなんか大っ嫌いだ!」
 ようやく気づいた馬鹿熊が血相変えて追いかけてくる。
「待てコラ九太!」
 俺は門を出て昨夜登った石段を一気に駆け下りた。なにが九太だ。誰があんな奴の弟子になるか。はるか後ろでわめく声が遠ざかって行く。
「待てコノヤロ! 九太!」

跡目争い

 昼の渋天街は、昨夜とはまるで変わって見えた。
 逃げる道すがら、仕事に向かうバケモノの姿を多く見た。大きな荷物を背負い歩く行商人や、無数の籠を竹ざおにぶら下げて売り歩く籠屋、建物の補修で足場を組むとび職のバケモノも見た。皆、働いている。俺は認識を改めた。バケモノと言っても、昔のうたにあるように夜な夜な遊んで暮らしているわけではなさそうだ(それに比べてあの馬鹿熊はなんだ。刀を下げてぶらぶらして、まるでヤクザ者じゃないか)。
 俺はTシャツをかぶって顔を隠し怪しまれないようにすると、昨夜の中庭のある屋敷を探した。そこに渋谷にかえることのできる通路があると予想した。布がり下げられた大通りはすぐに発見できた。色とりどりの布のひとつひとつは昼の光で見るとそれぞれ素材や染め方、透過度が異なり、複雑に影響し合うように配置されていて、まるで一種の芸術の実験のように思われた。
 この大通りのたたずまいはどことなくセンター街に似ていると、俺は最初から感じていた。路地の配置が限りなく近かったのだ。しかし店舗中心のセンター街とは異なり、路地裏には職人がたくさん働く工房街であった。かめの液体に生糸をくぐらせるあいめ職人、リズミカルに織る機織り職人、シルクスクリーンで生地を染める染色の職人。どれも布にまつわる職人たちの姿だった。生地のロールを何本も抱える生地屋の姿も見た。そういえば昨夜の屋敷の中庭も、毛織物の取引場のようであったことを思い返す。
 別の工房も見ることができた。そのひとつが鍛冶かじ屋だった。真っ赤に焼けた鋼を盛大な火花を散らせて鍛錬する職人たちの姿があった。別の職人は素延べした地金を金槌で打ち出しては何度も反りの具合を確認していた。その長く細い形は明らかに刀剣だった。職人たちは刀匠だということに俺は気がついた。そういえば剣を帯に差したバケモノをよく見かける。馬鹿熊もそうだ。この街では剣が重要な意味を持つのかもしれない。
 路地をくまなく歩き回ったが、中庭のある屋敷はついに発見できなかった。閉じた門をいくつも見たので、その中にあったのかもしれない。しかし夜にしかあの取引場は開かないとすれば今は確かめようがなかった。俺は仕方なく広場に出た。昼時の露店は昨夜とはまるで違う様相で、野菜などの生鮮食品を並べる店や、スープめんや雑炊、ピザなど昼飯を供する店が軒を連ね、ごくまっとうな生活の営みが感じられた。こわもての三人が俺に「カラカラに乾かして削り節にするぞ」とすごんでいたが、あれは脅しにしか過ぎなかったのかもしれないと思えてくる。昨夜、極めてグロテスクに見えたとりの丸焼きや鮭の干物などの品々も、昼の光の下では実に美味うまそうに見えた。腹の虫が激しく鳴った。
 ある露店の前で不意に子供二人の姿を見つけて、俺はどきりとした。
 子供がなんで? だがよく考えれば意外なことでもなんでもない。バケモノの世界にも大人がいれば子供もいて、親もいれば子もいるのだった。子供二人は背の高さからして俺と同い年くらいだろうか。幼い顔は、バケモノとか動物とかというより、まるで人間の子供と変わらないように思えた。俺はとうがんを売る屋台の陰に身を潜め、ひそかにのぞき見た。
 二人のうち、ウリ坊みたいにコロコロ太った子が、露店で注文したフルーツパフェを受け取るのが見えた。大きめに切った果物がふんだんに盛られた、なんとも美味そうなパフェだった。
「兄ちゃんも食べる?」
 もう一人のスラリとした背の子は首を横に振った。色白の整った顔立ちと落ち着いた物腰は、兄弟でもまるで対照的に見えた。
「そっか。じゃあおいら一人で食べよ」弟は太い指で果物をつまむ。「まずはミカンから……」
 ミカン……。俺ののどが思わずゴクンと鳴った。
「あーん」
 あーん……。俺もつられて口が開いてしまう。何しろここ数日、ロクなものを食ってないし、特に今朝は意地を張って何も口にしていないのだ。
 が、弟は手を止めた。「やっぱやめた」
 ハッ。俺は我に返って冬瓜の裏に隠れた。
 弟は別の果物をつまんだ。
「やっぱ最初はさくらんぼにする。あーん」
 あーん……。やっぱり俺もつられて口が開いてしまうのだった。ヨダレがだらりと口の端からしたたり落ちた。何しろここ数日ロクなものを食ってないし特に今朝は意地を張って何も――
「見ろ二郎丸。父上だ」
 兄の明るい声に、弟が手を止めた。
「父ちゃん」
 ハッ。俺は我に返って冬瓜の裏に隠れた。
 イノシシの顔をしたバケモノがやって来てしゃがみ、兄弟の肩を抱いた。剣を腰に差したたくましい体。長い鼻と二本の大きなきば。ライオンのたてがみのような黄金色の髪とあごひげはいかにも強そうで、それでいて息子たちの前で優しそうな顔をほころばせている。
「一郎彦。二郎丸。けいに励んでいるか?」
「はい」声を合わせて兄弟は返事をした。
 一郎彦、と呼ばれた兄の方が身を乗り出す。
「父上。私にも稽古をつけてください」
「もちろん。すぐにでも……」
 言いかけてイノシシの剣士は後方を見た。後ろには水牛やサイなど屈強そうなバケモノたちが揃いの上着でびっしり並んでいた。背にはイノシシの牙を組み合わせた紋が染めつけられている。イノシシの剣士がこの者たちのおさなのだろう。兄弟たちに向き直って言った。
「時間を作るから、もう少し待っていてくれるか?」
「えーまた?」
 二郎丸、と呼ばれた弟は不満そうだった。
 が、兄の一郎彦はけなに笑顔を向けた。
「はい」
「済まぬな」イノシシの剣士は立ち上がる。
 と、広場の中心に何かを発見したようだった。「熊徹!」
 熊徹!? 俺はハッとして見た。
 昼時のバケモノでごった返す広場で、熊徹は俺をキョロキョロ捜していたのだった。
「おう猪王山」
 猪王山、と呼ばれたイノシシの剣士は、熊徹のところへ進み出た。
「貴様もとうとう弟子を取ったそうだな。噂を聞いたぞ」
「ああ。それが早速どっか行っちまってよ。見かけなかったか? こんなちっこいガキなんだが」
「子供? お前自身が子供のようなのにか?」猪王山は大げさに驚いてみせる。
「ちっ、うるせえなあ」
 やりとりの雰囲気から、この二人は旧知の仲だということが伝わってくる。
「これは二人の子の父親としての意見だが、何の経験もないお前にはとても保護者は務まらん」
「ああそうかい。オレはこうしようといつたん決めたらそれ以上曲げねえ性分でね。それより九太だ。まったく人間のガキってのはすばしっこくてよ」
 その言葉に、穏やかだった猪王山は、ハッと息をんだ。
「……人間だと? おい、弟子というのは人間の子供のことか?」
 そのときだ。
「師匠」
 油断した俺は、猪王山の弟子の水牛に捕まってしまった。
いてえ! 放せ!」
 弟子の水牛は俺の髪の毛をつかみ、高々と掲げてみせた。
 宙に足をばたつかせる俺に、広場のバケモノたちの視線が一斉に集まった。「人間?」「なぜ人間が我らの世界に?」……。
 一郎彦と二郎丸の兄弟もつぶやく。「人間。あれが……」「なんで人間なんかがいるんだ?」
「おお九太!」
 捜したぜ、と言わんばかりに熊徹が笑顔を向けた。が、その肩を猪王山は制すように摑むと張り詰めた声で言った。
「待て熊徹。悪いことは言わん。あの子供を元の場所に捨て置いてこい」
「なんだよ人間の一匹や二匹ぐれえ」
 猪王山はただならない緊張をみなぎらせる。
「お前や皆は知らぬかもしれぬが、なぜ我らバケモノと人間がむ世界を異にしているか。人間はひ弱が故に胸の奥に闇を宿らせるという。もし闇につけ込まれ、手に負えなくなったら……」
「闇? へっ、あいつの中にそんなものがいるようにゃ見えなかったがね」
「聞け! お前ひとりの問題ではないのだ」
「オレの弟子をどうするかはオレが決めるんだよ」
「いいか警告するぞ。渋天街の皆のためにもやめろ!」
 猪王山はついにどうかつするように声を荒らげた。思い思いにくつろいでいたバケモノたちは、足を止め背伸びして何事かと見守る。
 熊徹と猪王山、たいする両者の間に、緊張した空気が走った。
「皆のため? もう新しい宗師にでもなったつもりか、猪王山よ」
「なに?」
「なら力ずくで止めてみろよ。なんなら跡目の決着、今ここでつけたっていいんだぜ」
 その一言で、広場は沸き立った。
「猪王山と熊徹の対決だ!」
 誰かが声を上げた。
「待ってました!」「新しい宗師が決まるの?」
 バケモノたちが一斉に退しりぞいて場所を空ける。
 その中心で、両者はゆっくりと間合いを取る。熊徹は、猪王山をにらみつけながら太陽の紋の入った赤い上着を脱ぎ、地面に放った。
 バケモノたちをかき分けて百秋坊が叫んだ。
「熊徹! 落ち着け!」
 一方、多々良は無責任にあおる。
「いいぞやれやれえ!」
 バケモノたち全員が、決着を望む空気に満ち満ちている。
 その片隅、くだんこわもて三人がコソコソと顔を突き合わせている。
「オレは猪王山」
「オレも猪王山」
「オレも猪王山」
「それじゃけにならねえだろ」
 決して乗り気でない猪王山は、やれやれとため息をつくと仕方なしに上着を脱ぎ、傍らの一郎彦に渡す。
 心配そうに一郎彦が見上げる。「父上」
「下がっていろ」
 猪王山は帯から下げ緒を解き、刀をさやごと引き抜くと右手に持ち替え、刃の方を下にして一礼する。
 が、熊徹は一礼もせず、ニヤつきながら体をひねってストレッチをしている。
 バケモノたちはその態度にざわつく。「なんだ熊徹の野郎」「礼儀を知らんのか」「準備運動?」「馬鹿にしてんのか」「猪王山を見習え」……。
 一郎彦も熊徹に憤る。
「作法にのつとれ!」
「あいつに作法なんてあるかよ」
 多々良は平気な顔で見物を決め込む姿勢だ。
 対照的に百秋坊は心配性らしい。
「あのバカ、この場の全員を敵に回しおって……」
 バケモノたちのブーイングの嵐の中、熊徹は勢い良くシャツを脱いで上半身裸になると、不敵な表情を見せる。石畳にひざをついて刀礼したあと、落ち着いて下げ緒を帯に結びつける猪王山とは、まさに対照的だ。
 俺は、髪の毛を摑まれてぶら下げられたまま、猪王山の弟子の水牛にいた。
「これから斬り合いになるの?」
「刀を抜くのは宗師さまが禁止した」
 弟子の水牛は親切にも自分の刀のつばもとを見せてくれた。「みんな鍔と鞘をひもで結んで抜けないようになってる」
「へー」
 俺は感心したように鍔元をのぞき込んだ……ように見せかけて、体を反動させると弟子の水牛の脇腹の一点を思い切りった。
「うぎげっ!」弟子の水牛はあまりの痛さに変な悲鳴をあげて、思わず俺を手離した。俺はその隙に逃げ出し、人混みに紛れた。
「ま、待てコラ! どこ行った?」
 バーカ。もう捕まるもんか。
 猪王山への歓声が響く中、毛むくじゃらの上半身に大太刀を引っ掛けた熊徹は、ガードの低いボクシング風の構えで俊敏にフットワークしつつ、猪王山の周りで挑発するように左右の構えを頻繁にスイッチさせる。と、その場でランニングのようなダンスまがいのパフォーマンスを繰り広げたかと思えば、突然体をひねり、カポエラ風の側転から宙返りを披露する。広場のバケモノたちは意外なコンビネーションにおおっ、とどよめく。熊徹はおまけのカポエラ側転を見せバケモノたちを盛り上げると、腕をくるくると回転させて歓声にこたえた。
「やるな熊徹も!」「すげえ!」「もっとやれえ!」
 歓声に熊徹は胸を張って見せた。
 が、それらの挑発に猪王山は一切動じない。
 その対比が喜劇のように可笑おかしいらしく、多々良は手をたたいて喜ぶ。「ギャハハハ!」
 その横で百秋坊は「何をやっとるんだバカめ!」と頭を抱える。他人のやることが我が事のように恥ずかしい性質たちらしい。
 熊徹が軽やかなフットワークで間合いを見極め前後するのを、俺はバケモノたちの隙間から見た。
 その瞬間。
 突然の熊徹の左ストレートが、猪王山に飛ぶ。
 が、猪王山は無駄のないバックステップとスウェーでかわす。
 下がる猪王山に熊徹の追撃の右、そして左、スイッチすると続けて2発の左ジャブから右ストレート、右回し蹴りのコンボ。ダッキングする猪王山に間髪れず素早いステップでフェンシングのような右ジャブから、鋭い左。
 だが猪王山は巧みに体を入れ替えて逃れると、熊徹と大きく間合いを取った。
 全てを見切ってかわしたパフォーマンスに、賞賛の拍手が巻き起こる。
「おおおお!」「さすが猪王山だ」「1発も当たってないぜ」……。
 熊徹は不敵な横目で、猪王山に手招きした。そのジェスチャーは『今の貴様と同じことをオレもやってやる、打って来な』という意味だ。広場にどよめきが広がった。そんなことができるのか? と。猪王山は、ほんの少しの戸惑いを感じたようにまばたきをするとこぶしを上げる。本当に打っていいのか? というまばたきだ。熊徹は薄ら笑いで答えた。
 猪王山の、先ほどの熊徹と同じ左拳から始まるコンボ。
 熊徹はノーガード、最小のバックステップで歩くようにかわして行く。
 観客のどよめきが、熊徹の気を良くさせる。
 と、その一瞬の隙に猪王山の鋭い拳が飛ぶ。
 バゴッ、と鈍い音がして、熊徹の顔面にめり込んだ。
「あっ!」
 俺は顔を引きつらせた。
 殴られた鼻面を押さえる熊徹は、先ほどのような余裕はもうなかった。猪王山の攻撃をいっぱいいっぱいの必死な目で避ける。みっともないほどのオーバーアクションはまさに喜劇さながらに観客の笑いを誘った。それもつかの間、両手を離した鼻血滴る熊徹の顔面に、またもや猪王山がクリーンヒットを決める。
「やった!」一郎彦と二郎丸はガッツポーズを取る。
「バカめ!」
 あきれる百秋坊の隣で、多々良はバカ笑いを上げる。「あはははは!」
 あざだらけの顔をぶんぶん振って、熊徹は正気を取り戻す。ズズッと鼻血を吸い込むと、力任せに大振りで猪王山に立ち向かう。
 が、カウンター狙いの猪王山のしなやかな左の蹴りが、熊徹の胸にさくれつした。
 ドオオオン、と大きな音を立てて、熊徹の体はあっけなく地面に沈んだ。
「ああっ!」俺は思わず悲鳴を上げた。
 バケモノたちの歓声と拍手に包まれた猪王山は、ガードを解いて倒れた熊徹に軽く礼を終えると、悠々と戻ってゆく。
 が、歓声が途中でどよめきに変化するのに気づいて、ゆっくりと振り返った。
 熊徹だった。
 あれほど見事な蹴りを受けたはずなのに、ふらつきながらも立ち上がっていた。
「……まだまだ!」
 幾分ダメージはあるものの、まだまだ気合充分の様子だ。肩から下げた大太刀を腰に回すと、相撲の立ち合いのように低く構えた。
 両手の赤毛がブオッと音を立てながら逆立った。続けて全身の毛も次々と逆立っていき、体が元の何倍にも膨らむ。
「……!」
 俺は息をんだ。
 熊徹は、野生の凶暴な熊そのものへと変身したのだ。
 一郎彦が心配げに声を上げる。
「父上!」
「案ずるな」
 猪王山はシャツを脱ぎ捨てると、地面に指をつく。
 黄金の毛が逆立つ。ばかりでなく、その指までも猪のひづめに変化した。全身の毛と筋肉を膨らませ、猪王山は野生の猪そのものの姿になった。
 バケモノたちの驚くべき変化に、俺は言葉もない。
 だが観客たちにとってはこのような変化は当然のようで、楽しんでいる様子だ。行司さながら一斉に「はっけよーい」と声を揃えた。
「のこった!」
 両者は四つ足で突進すると、頭と頭を激突させた。
 ドオオオン、と衝撃で地面が揺れた。露店に並べられたワイングラスがガチャガチャとぶつかり合う。
 間髪容れず、両者の巨体が猛スピードでぶつかり合う。
 またもや激しい衝撃が広場を震わせた。露店にぶら下げられたエイの干物がぴょんぴょんはねあがった。
 三たび衝突する両者は、その反動でのけぞりながらも、その場で体勢を改め、初めて組み合った。
 双方譲らずきつこうする光景はまさに相撲そのものだ。
 まず先制したのは猪王山だった。力押しで寄り切ろうとするが、熊徹がギリギリ片足で踏みとどまる。おっとっと……となんとかバランスを取って持ちこたえると、今度は熊徹がぐいぐい押してゆく。
「ぬ……ぬぅおおおお!」
 押し込まれて猪王山の汗だくの表情がゆがんだ。
 勝機を確信するように熊徹はニヤリと笑うと、
「うおらああああ!」
 気合とともに押しまくる。
 踏ん張る猪王山の後ろ足の蹄が石畳を滑る。熊徹の膨張したふくらはぎが、空回りしつつも確実に押してゆく。猪王山は広場の端の露店ギリギリのところでなんとか踏みとどまった。だが苦痛に表情が歪んでいる。
 観客から悲鳴にも似た吐息が漏れる。「猪王山が追い込まれている」「勝負は決まってしまうのか?」
 熊徹は玉の汗を顔いっぱいに浮かべながらも、力を緩めようとしない。
 もはや力の限界であるかのように、猪王山は苦しげに目を閉じた。
 そのとき、
「がんばって猪王山!」
 父親に肩車されたバケモノの少女が、声を張り上げた。
「!?」
 それをきっかけにバケモノたちから次々とコールが上がる。
「猪王山……! 猪王山……!」
 バケモノたちの不安な顔は、声援が増えるとともに変化していき、やがて拳を振り上げた大合唱となってゆく。
「猪王山! 猪王山! 猪王山!」
 どこを見ても猪王山の応援一色だった。
「誰も……誰もあいつを応援してない……」
 俺は、熊徹がこの街の中で、どんな位置にいるかを感じ取った。
「あいつは、このバケモノたちの中で、ひとりぼっちなんだ……」
 猪王山は、大声援に息を吹き返したようにカッと目を見開くと、残る力を振り絞りながら前へと押し戻してゆく。少しずつ、しかし着実に。その一歩一歩に声援は高まってゆく。
「ぬ……ぬおお!?」
 まさかの逆転が信じられないといった表情の熊徹は、徐々に、しかし確実に押し戻されていく。猪王山は押し戻す力をどんどん強め、広場中央まで戻ったところで、気合とともに熊徹を投げ飛ばした。
「うぐっ!」
 吹っ飛んだ熊徹は、石畳に体を打ち付けると、つちぼこりの中で体が縮み、元の姿に戻ってしまった。
 だいかつさいが広場のあちこちから沸き起こる。
「やった!」「さすが猪王山!」……。
 猪王山も元の姿に戻って、立ち上がりつつ肩で大きく息を整えている。
 一方、立ち上がれぬままの熊徹は、荒い息の中、おぼつかない手つきで腰の下げ緒を引き、大太刀を手繰り寄せる。
「まだやる気か?」と猪王山。
「……おめえに勝つまでやるぜ!」
 さやを持ったまま下げ緒を乱暴にほどくと、大太刀をガツンと地面に突き立てた。
「もうやめとけ」
 猪王山の息はもう元に戻っている。冷静な言葉だ。
 熊徹は大太刀を支えにして、やっとのことで身を上げる。
「なんの……! まだまだっ!」
 太刀を握ったまま、熊徹の上体が下へ傾いて行く。そのまま倒れてしまうのではないかと思った時、低い姿勢から加速して走り込み、鞘ぐるみの大太刀を力任せに振り上げる。
 猪王山は瞬時に下げ緒をほどいて刀を鞘ごと抜くと、それを受け止める。
 ビイイイィィン、と鞘同士が振動する。熊徹のバカ力は、さしもの猪王山もつかを握っていられないほどの衝撃を与える。熊徹のこんしんの二太刀が振り下ろされる。あとずさりする猪王山が、今度は両手で受け止める。
 ビイイイィィン、と再び振動音が響き、猪王山は体ごと流される。
「ゼエ……ゼエ……」
 疲労こんぱいの熊徹は、もう立っているだけで精一杯のように見えた。それでもなお、大太刀を構える。
 猪王山もそれにこたえ、構える。
 広場は、バケモノたちの猪王山コールが響き渡る。が、両者の間は、まるで静寂が支配しているかのように、動かない。長いにらみ合いが続く。
 均衡を破ったのは熊徹だった。
 次の瞬間、鞘と鞘が激しく打ち合わされる。
 圧倒的な猪王山コールの中、懸命に太刀を振るう熊徹を、俺はじっと見ていた。
「……」
 拮抗はそう長くは続かず、すぐに熊徹が劣勢になった。熊徹の頰が刀でみじめに打たれる。汗が雨みたいに石畳に飛び散る。
「やっちゃえ父ちゃん!」二郎丸がとして叫ぶ。
 俺は、熊徹をただじっと見ていた。
「……!」
 再び熊徹は打たれ、無残によろける。鞘の打撃とはいえ、全身に打撲こんが次々と出来る。
「ああっ……!」多々良は思わず眼を覆う。
 顔面そうはくの百秋坊がつぶやく。「熊徹……!」
 俺は、歯を食いしばり、じっと見ていた。
「……!!」
 下から熊徹のアゴが突き上げられる。
 猪王山の勝利を予感し、バケモノたちの盛り上がりは最高潮に達する。
 俺は、その様子を見ながら、言い知れない怒りに全身が震えるのを感じた。もう我慢がならない。ただ黙って見ているのは、限界だ。
 俺は、いっぱいに声を張り上げていた。
「負けるな!」
「!?」
 熊徹はハッとした。
 けんそうの中でも、俺の声は、はっきりと熊徹の耳に届いた。
 バケモノたちが不審そうにざわつく。「誰だ今の声は?」「まさか、熊徹を応援する奴がいるとは」……。
 打撲痕だらけの熊徹は、広場をきょろきょろと見回す。
 そして、ついに俺を発見した。
 俺はそれに応えるように、バケモノたちの中でたったひとり、叫んだ。
「負けるな!!」
 熊徹は、驚きに眼を見開いた。
「……きゅう……」
 俺の名を最後まで呼ばないうちに、猪王山の刀の柄が、熊徹の顔面にめり込んだ。
 バキィッ、とすさまじい音がして、熊徹が吹っ飛び、宙を舞った。
「ああっ!」
 多々良と百秋坊が悲鳴をあげる。
「決まった!」
 一郎彦は父の勝利に歓喜する。
 ゆっくりと熊徹の体が漂い、地面へと落下していく。
 と、
「そこまで」
 声が、広場全体に響いた。
 熊徹が地面にバウンドする。
 いつの間にか、両者の間に手を広げて立つ、二本の長い耳を持つ姿があった。
 猪王山はハッと気づき、素早く刀を右手に持ち替えると、礼をした。
「宗師さま」
 広場のバケモノたち全員が、慌てて礼をする。
 宗師、と呼ばれたのはウサギのバケモノだった。熊徹や猪王山に比べてぐっと背丈が低く、白髪、しらひげの老人だった。そのかわりふさふさの襟のついた派手なしゆう入りのかいき姿は、バケモノたちの誰よりも目立っていた。
「なにをしておるか。試合には早い」
 宗師さまは威厳ある態度で言うと、ウサギみたいな愛らしさでぴょんと跳ねた。「わしはまだ何の神になるか決めておらぬ」
 猪王山は進言する。
「宗師さま。人間を引き入れた熊徹を罰してください」
「ふむ。しかし罰と言っても、こやつはお主がのしてしまったではないか」
 宗師さまは優しい目で、地に伏せる熊徹を見下ろす。ズタボロの熊徹は、少しも体を動かせないまま、ひとりごとのようにうなっている。
「……誰が何と言おうと、あいつはオレの弟子だ……」
「ほほう。覚悟はあるようじゃ」
 とぼけた宗師さまの口調に、猪王山は驚いたように目を見開いた。
「例外を認めるのですか!? 気の毒だが熊徹に責任など取れない!」
「責任はわしが取る。弟子を取れとき付けたのはこのわしじゃからの」
 いつの間にか宗師さまは猪王山の後ろにいた。まるで瞬間移動の不思議な術のようだった。混乱する猪王山は振り返って訴えた。
「ですがもし闇を宿したら」
「なにもヒトのすべてが闇に飲み込まれるわけでもあるまいて」
 まばたきの間もなく宗師さまは熊徹の傍にいた。抗議したい猪王山は、ただほんろうされていた。
「しかし……! どうしてそう熊徹に甘いのですか?」
 言い終わらないうちに、いつのまにか宗師さまはバケモノたちの輪の向こうにいた。
「話は終わりじゃ。解散」
 猪王山は大きくため息をつき、
「熊徹。宗師さまの寛大なお心に感謝せよ」
 と言い残すと、おおまたで去っていった。
 広場のバケモノたちが三々五々散って、それぞれの仕事に戻っていく。気がつけばもう日は傾いて、午後の気だるい日差しに変わっていた。
 その中で俺はひとり、熊徹をじっと見ていた。
 やっとのことで熊徹は起き上がり、俺に気づくと、しばらくぼうぜんと見ていた。
 が、次の瞬間には、バツが悪そうに目をらした。

 夕方の日差しが、渋天街を包む。
 傷だらけの熊徹はうなだれて帰り道の階段を登り、ときおり立ち止まっては、
「くそっ! うおおおっ!」
 と、負けたのが腹立たしいようにどこへともなくえた。俺は、その背中をずっと見ながら、少し距離を置いて後を追った。
 小屋に着く頃には、すっかり日は暮れていた。
 扉を開けると、朝出てきたままの乱雑な状態の中で、ソファにふて寝する熊徹の広い背中があった。背中の太陽の紋が、夕日みたいにしぼんで見えた。
 俺は言った。
「あんた、強いな」
 熊徹は生傷だらけの顔をちょっと向けて、
「何を見てたんだおめえは」と言うと、再びそっぽを向いた。
 俺は続けた。
「もし、あんたといて本当に強くなるなら、俺、あんたの弟子になってやってもいいぜ」
「……ふん。どうせまた逃げ出すんだろ」
 俺はそれには答えず、倒れた椅子を戻して座り、かごの中の卵を見た。
「これ、まだ賞味期限あるよな」
 もちろん朝に生みたてだった卵は、夕方でも充分に食えるはずだった。朝の残りの冷や飯に卵を割り入れ、はしをひっつかんでぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
 熊徹は、その音に顔を上げて、背中越しにこちらをうかがっている。
 少し俺は迷った。が、目をつむると覚悟を決め、思い切って口に放り込んだ。
 二、三回もぐもぐとんだ。
 が、俺の嫌いな生臭さが口いっぱいに広がって、冷や汗が全身から吹き出た。やばい。だが気合とともに無理やりに飲み込んだ。
 とたん、胸の奥からキモチワルさがこみ上げてきた。
「オエーッ!」
 それでも、精一杯の力で、熊徹に顔を向けた。
「う、うめえ……!」
 もうヤケクソだった。生臭かろうがなんだろうが、全部食ってやる。どんぶりごと食ってやる。
 気がつくと熊徹はこちらを向いて、俺が食うのをぼうぜんと見ていた。
 何がおかしいのか、目を見開いて、ニヤついていやがった。
「へへ……。よし九太! しっかり鍛えてやるから覚悟しとけ!」
 さっきまでしょぼくれていたのは、どこかへ吹き飛んじまったらしい。熊徹は身を反らせてワハハハと、豪快に笑った。
 俺はそれどころではなく、次々に襲い来る吐き気と戦いつつ、涙目になりながらい続けた。
「ウッ……オエッ!」
 熊徹の笑い声は、小屋の外まで響いた。
「ワハハハハハ!」
 こうして俺は、この日から「九太」になったんだ。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

今後の放送予定はこちら。来週以降も楽しみにお待ちください!

11月21日(金)『竜とそばかすの姫』
11月28日(金)『時をかける少女』

※放送日は予定のため、予告なく変更する場合があります。ご了承ください。

作品紹介



書名:『バケモノの子』(角川文庫)
著者:細田 守
発売日:2015年06月20日

君となら、強くなれる――。 細田守監督の冒険活劇、書き下ろし原作小説!
この世界には、人間の世界とは別にもう1つの世界がある。バケモノの世界だ。ある日、ひとりぼっちの少年がバケモノの世界に迷い込み、バケモノ・熊徹の弟子となり、九太という名前を授けられる。その偶然の出会いが、想像を超えた冒険の始まりだった――。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/321501000141/
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映画『果てしなきスカーレット』情報

キャスト:
芦田愛菜
岡田将生
山路和弘 柄本時生 青木崇高 染谷将太 白山乃愛 / 白石加代子
吉田鋼太郎 / 斉藤由貴 / 松重豊 
市村正親
役所広司

監督・脚本・原作:細田守
企画・制作:スタジオ地図
公開日:2025年11月21日(金)
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