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試し読み

【試し読み】時を超えた出会いに運命が動き出す――細田守監督最新作『果てしなきスカーレット』書き下ろし原作小説の冒頭を特別公開!

細田守監督の最新作『果てしなきスカーレット』。
2025年11月21日(金)の映画公開に先立ち、監督自ら書き下ろした原作小説が角川文庫より登場!
さらに、角川つばさ文庫からは、すべての漢字にふりがなが付いた児童文庫版が同時発売となりました。

本記事では原作小説の発売を記念して、角川文庫版の冒頭を特別公開!
いち早く『果てしなきスカーレット』の世界に触れられるチャンスです。
物語のはじまりをどうぞお楽しみください。

細田守『果てしなきスカーレット』(角川文庫)試し読み

プロローグ

『――ここは、生も死も混じり合う場所。対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、常に溶け合っている――』
 老婆のしわがれた声が、虚空に響き渡った。
 遠い鐘の音のように、年老いた声はスカーレットの意識を揺さぶった。
 彼女は閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。まばゆい光が一斉に目の中に飛び込んできて、まぶしくて何度もまばたきしてしまう。が、少しずつ慣れて景色が徐々に鮮明になっていく。
「……!」
 光が降り注ぐ水の庭に、スカーレットはたたずんでいた。
 薄桃色の髪は優雅に結い上げられ、耳には王家伝来のルビーのピアスが輝いている。ドレスは無数の白い花々で彩られていた。19歳になったばかりだった。
「ここは、天国……?」
 遠くを見渡すと、空と水の庭との境界があいまいに見える。くるぶしほどまで張られた水の、ひんやりとした感触が素足を通して伝わってくる。遠浅の海岸に取り残されたような心細さが、胸を震わせた。
 そのとき、遠くにぼんやりとした人影が見えた。息を潜め、その人物がゆっくりと近づいてくるのを見つめた。おぼろげな輪郭からは何も読み取れない。にもかかわらず胸の中で、
 あれはきっと、私の運命の人――。
 と、つぶやいていた。なぜそう思うのかわからない。だが胸の奥で高鳴る鼓動が、予感を裏付けていた。あの人はこれから、私の人生と深く関わるだろう。自然と目に涙が浮かんできた。曇る視界の中で、彼の姿が揺らめいた。
 間違いない。私の、運命の……。
 こんなにも胸が苦しくなるような感情の高まりは初めてだった。
 この正体は、なんなのだろう。
 喜びなのかいとしさなのか、それとも絶望なのか。



 ゴオオン……ゴオオン……ゴオオン……。
 不気味なごうおんが、暗い空に鳴り響いていた。
 荒涼とした大地に、ぞっとするほど奇怪に枝分かれした無数の曲線が地平線の彼方かなたまで刻まれている。とても自然にできた造形とは思えない。巨大な生き物の毛細血管を顕微鏡でのぞき込んだかのようだ。これらは、ワジ(Wadi)と呼ばれる大河のこんせきだった。かつて豊かに水をたたえていた大河が今や完全に干上がり、水の流れた複雑な跡だけが砂漠に刻印されて残ったものだ。
 この異形の地を、たった一人で歩む人影がある。
 スカーレットだ。
 水の庭での優雅な姿とはかけ離れていた。いろせ、擦り切れたマントをまとい、旅の荷物を背負い、無数のとうこんが刻まれた黒い革の防具を身につけていた。乱れた薄桃色の髪は砂まみれで、血と泥に汚れた顔には深いくまができていた。唇は乾燥でひび割れ、かつて王女であった面影はどこにもない。しかしそのひとみは鋭く光り、歩みは力強かった。あきらめを知らない意志が、彼女を前へと駆り立てていた。
 乾いた空気の中で、スカーレットはわずかな湿気を感じ取った。水の気配だ。四方を見回し、鼻を鳴らして匂いをぐと、一気に走り出した。見つけたのは池ほどの大きさの水たまりで、雨水が乾燥の途中でとどまったものだった。彼女は素早く布を浸し、顔に押し付けて茶色いしずくすすった。生ぬるい泥水が、渇ききったのどを潤した。
 身を起こし、再び歩き始めた。が、いくらも行かぬうちに突然、激しい吐き気に襲われた。体を折り曲げて先ほど飲んだ泥水を残らずもどした。砂の上に散らばったしやぶつの中で、多数の足を持つ奇怪な小虫が体をくねらせている。
「うううう」
 そんな彼女の耳に、
『あんた……』
 と風のうなりのような声が届いた。
『……おい、あんただよ!』
 いらつ声に、聞き覚えがあった。あの老婆だ。声は、砂に埋もれたよろいや古びたかぶとから聞こえてくる。
『ここをどこだと思っているんだい?』
 スカーレットは苦しさに耐えながら、ようやく空を見上げた。
 頭上に空が広がっているはずの場所には、荒れ狂う海が広がっていた。海は、天地が逆転したかのように空を覆い尽くし、白波が狂おしく渦巻いている。乾いた大地に立つ者の手が届くはずもない高さで、満々と水を湛えている。
 その空の海に奇妙な稲妻が走った。幾重にも折れ曲がり、絡み合い、空を縦横無尽に駆け巡って、空中に複雑な紋様を描き出していた。
 せんこうが消えると同時に、想像を絶するものがスカーレットの目に映った。
 視界を覆い尽くすほどの巨大なドラゴンが、天空の海を悠然と泳いでいる。
 その姿は、いにしえの伝説に描かれた竜の大きさをはるかにりようがしていた。頭部だけでも小さな丘ほどもあり、体長は目測すら困難なほどだ。空の海を泳ぐ様は、雲を突き抜ける大きさで、尾の端が見えなくなるほど長大だった。黒曜石のようなうろこまとった体に、数えきれないほどのやりもりが突き刺さっている。古代の青銅の剣や、炎の痕跡と思われる焦げ跡もある。それらの傷跡はドラゴンが幾千年もの間、人間の歴史を越えて存在してきたことのあかしを示していた。体の中心を貫いている巨大なくいが見えるが、そんな深い傷でさえ意に介さないようだった。
 ドラゴンは大きな口を開けると、せいぜつほうこうとどろかせた。
 オオオオオオオオ……。
 その音は足元の大地さえも震わせる。
 スカーレットは立ち尽くし、自分があまりにも小さく、無力であることを受け入れざるを得なかった。
『……ここはね……』
 砂に埋もれた兜から、老婆の声がする。
 言われなくとも、スカーレットはここが一体どこなのか知っている。彼女は低く、自らに言い聞かせるようにつぶやいた。
「死者の国」



 ――そう、私は死んだ――。
 暗闇が、心の声を静かにみ込んだ。
 目を見開いたスカーレットの汚れなき白い顔が、ゆっくりと落下していく。
 ――憎きかたきへのふくしゆうに失敗して、死んだ――。
 生の領域から足を踏み外し、彼女の体はしんえんの闇へとちていった。空気は重く湿り、腐敗と血の臭いが鼻を突く。
 そこには、さまざまな時代の戦士たちの無数の遺体が折り重なっていた。古代ローマの軍団兵、遊牧民の騎馬兵、中世の騎士、中東の戦士たち……。赤黒い水面みなもに次々と浮かび上がった。戦の惨禍を背負った彼らのなきがらは、この地が全ての戦いのしゆうえんを迎える場所であるかのように、静かに浮かんでいた。
 スカーレットの純白のドレスが、どす黒い血に染まっていく。髪は泥で汚れ、顔にも血が飛び散っている。恐怖に青ざめた唇で、荒い息を繰り返していた。震える手で体を支え、よろめきながらも立ち上がろうとした。
 そのとき、戦士の遺体が動き出し、スカーレットの髪をつかんだ。
「!?」
 朽ちかけた手が次々と伸びて彼女のドレスを摑む。きようがくの声を上げる間もなく、遺体の山の中へと引きずり込まれる。必死に抵抗を試みるが、多くの手に捕らわれ身動きが取れず、なすすべもなく血と泥の中へと埋もれていく。
「ハアッ……ハアッ……」
 荒い息遣いの中で、スカーレットの瞳から涙があふれ出す。恐怖でなく、悔しさの涙だった。震える唇を血がにじむほどみしめた。
 どうしてこんなことになったのか?
 復讐の念に駆られ、命をけた戦いの果てに待っていたのはこの地獄の世界だった。意識が遠のいていく中、脳裏に過去の記憶がよみがえる。王国の栄光。父との幸せな日々。そして全てを奪った仇の顔。それらの記憶が、この残酷な現実に重なる。
 涙が頰を伝い、泥と血に混ざり合う。
 彼女は、この死者の国で、なす術もなく消えてしまうのか?

エルシノア城

 エルシノア城は、海峡にそびえ立つようさいであり、美しき宮殿でもある。城の門には王冠とライオンの紋章が刻まれ、堂々たる威厳を漂わせている。城壁と塔に囲まれたこの城は、海からの侵略者を防ぐためのけんろうな防御施設である。
 隣国スウェーデンとの間に広がるエーレスンド海峡には、帆を膨らませた大型商船が幾そうも浮かび、様々な国の旗が翻っていた。それらの船に向かって、小舟がせわしく行き交う。通行税を徴収する役人たちの声が、潮風に乗って聞こえてくる。この税収は王国の財政を支える重要な収入源となっており、デンマークの繁栄を支える基盤となっていた。
 16世紀末、ヨーロッパは各国が勢力を競い合い、海上交易が盛んだった。デンマークは北欧のかなめとして、バルト海と北海を結ぶ重要な航路を管理下に置いており、その要衝に位置するエーレスンド海峡を掌握することが、国の繁栄に直結していた。
 スカーレット王女は、外交の旅に出かけた父の帰還を、今か今かと待ち焦がれていた。石畳に響くていの音が遠くに聞こえると、13歳の青色のひとみが喜びに輝いた。長く編んだ髪を揺らしながら城の廊下を駆け、バルコニーへと急いだ。
 エルシノア城の中庭に、騎馬隊を引き連れた国王アムレットが、帰還した。
「父さま!」
「スカーレット!」
 アムレット王は、中庭に面したバルコニーに娘の姿を見つけた瞬間、温かな笑みで手を振った。
 スカーレットは興奮して、母親のガートルード王妃を振り返り、
「母上様、父さまがお戻りになった」
 と言うやいなや、階段を駆け下りた。
 中庭への扉を勢いよく開き、馬から降りたばかりの父へと走り寄ると、勢いよく抱きついた。
「スカーレット!」
「会いたかった!」
 父を見つめる王女の瞳は、この世界を信頼する気持ちに溢れている。
 王は娘を抱え、微笑んだ。
「君が私たちの無事を、神様に願ってくれたおかげさ」
 と大きな手で優しく娘の頭をでた。彼は長旅のほこりかぶったマント姿で、顔にはいくぶん疲労が見えた。ひげは旅の間に伸び、少し白いものが交じっていた。王女は、そんな父の変化を見つけて、あまり無理はしないで欲しいとひそかに願う。
 ガートルード王妃が、その様子をバルコニーから冷ややかな目で見下ろしている。ごうしやな衣装ときらびやかな宝石で飾られてはいたが、夫と娘の再会を見つめる母親のそれとは、異なる感情が宿っている。

 クローディアスは、怒りに震えた目で兄をにらみつけた。
「軍を派遣しろ、アムレット」
「クローディアス」
「やられる前に支配しろ」
 クローディアスは強弁し、こぶしを固く握りしめた。
「弟よ。どうか落ち着いてくれ」
 アムレットは静かに、しかしぜんとした態度で答えた。
 エルシノア城の執務室では、この王国の将来を巡る議論が繰り広げられていた。
 デンマークとスウェーデンは、長い間バルト海の覇権を巡って争っていた。スウェーデンが独立を果たし、カルマル同盟が崩壊すると、バルト海の覇権を求めて勢力を拡大し始めたことで、デンマークとの対立が一層激化した。
 アムレットは先日も自らスウェーデンに出向き、多くの時間と労力をかけて、争いに発展しないための繊細な話し合いをしてきたばかりだった。
 だがクローディアスは、アムレットの手法を生ぬるいと感じている。この間にも、スペイン、イングランド、オランダといった国々が海軍力を強化して、新たな領土と交易路の確保をたんたんと狙っていた。このような政治情勢の中、デンマークも軍備を強化しなければ、バルト海の支配権がいつ誰に奪われてもおかしくない。スウェーデンをかつてのように再び支配することが、将来のデンマークの安全を担保することに他ならず、そのためには戦争も辞さない、とクローディアスは主張したのだった。
 アムレットは、ため息をついて首を振った。
「戦は互いに誰も得しない。粘り強い交渉で力の均衡を図り、敵対より信頼を積み上げる。それが我らの生き延びる道だ」
 年老いた家臣や諸侯たちは次々とうなずき、安心したように王への賛同の意を示した。
 クローディアスは激しい憤りと失望に、顔を真っ赤にして叫んだ。
「なんと愚かな王だ」
 たたきつけるようにドアを閉め、執務室を出ていった。
「……」
 アムレットは窓辺に立ち、遠くエーレスンド海峡を眺めた。不安を浮かべた目で「平和な未来のために」とつぶやいた。呟きは、祈りのように静かに城の石壁に吸い込まれていった。

 黄金色に実った小麦の穂が風に揺れ、農民たちは汗を流しながら収穫に励んでいた。
 その一部が、早速城下町に運び込まれてきた。
 アムレットは、麦の穂を手に取り、いとおしそうなまなしで香りをぐ。品質を確かめてにっこり笑うと、農民たちの顔があんほころんだ。近年は天候不順で不作続きだったが、今年は久々の豊作だった。王は農民たちの肩を叩き、労をねぎらった。
「アムレット王は良き君主です」
 灰色の髪の老従者が語った。「臣民に慕われ、隣国とも友好をはぐくんでおられます」
 スカーレットにとって、このような父の姿は誇りそのものだった。尊敬と愛情の眼差しで父を見つめた。

 バルト海に臨む草の上に、スカーレットとアムレットが並んで座っていた。潮の香りを運ぶ風が、王女の髪を優しく撫でる。薄桃色の髪に、白のデイジーとブルーベルで編んだ花冠が載せられている。
 スカーレットは、インクだらけの指で羽根ペンを持ち、ひざに置いた画板の紙の上で何かを描いていた。集中するあまり、けんに小さなしわを寄せている。リネンのシャツ姿のアムレットは向かいに座り、柔らかな眼差しで娘を見つめていた。王の衣を脱ぎ、冠を外せば、他のどんな父親とも変わらなかった。
「スカーレット、大事なのは?」
 ペンを握ったままスカーレットは笑顔を向け、
「敵対より友好と信頼を。わたくしは父さまの望む王女になります」
 と父の目をまっすぐ見つめた。揺るぎない心からの敬愛を込めて。
 アムレットは苦笑した。
「王女の前に君はひとりの女の子だ。気にせずのびのび生きなさい」
 彼女は「できた」と言って、うれしそうに描いた紙を見せた。そこには、幼い筆致でいくぶんゆがんだアムレットの顔が描かれていた。
 彼は絵を見て、
「アハハ。いい男だ。嬉しい」
 と、心から楽しそうに笑った。
 スカーレットも嬉しかった。立ち上がると喜びをはじけさせるようにくるくると踊り、父の胸に飛び込んだ。父も愛おしそうに娘を抱きしめた。
「ハハハハハ」
 彼女の見る世界の全てが幸福で満たされていた。
 二人の様子を、王妃ガートルードが城の石垣の陰から見つめている。隠された嫌悪とねたみがその目に浮かんでいる。

 城の廊下には、アムレット王の肖像画が飾られていた。
 絵の中の王は、戦闘用の黒いかつちゆうを身に着け、肩から富と力のあかしである赤と金色のサッシュをかけ、細かい装飾が施された立派な剣を下げていた。
 スカーレットは、肖像画の父を見上げ、完全に乾いていない油絵の具の独特の匂いがするその絵と、自分の描いた父の絵を見比べた。油絵は、自分の絵とはまるで違っていた。一国の統治者としての威厳を象徴するようなせいかんな顔つきで描かれている。彼女にはみのない父の顔だった。画家は王としての父を描き出しているのだ。優しいだけではない、別の側面がたくさんあることを想像した。いつか父の思いが全てわかる時が来るのだろうか。
 はっと横を見ると、傍で王女をじっと見下ろしているガートルードの顔があった。
 王女は向き直り、インクだらけの手で紙を開き、自分の描いた絵を見せた。
「母上、わたくしは父さまの望む――」
 ガートルードが遮る。
「汚い手」
「え?」
 ガートルードは王女から絵をサッと取り上げると、ビリビリに破って床に捨てた。
「……」
 スカーレットは、あまりのことに言葉を失い、その場で動けなくなってしまった。ガートルードが表情ひとつ変えず去っていく。
「……」
 王女は、足元に散らばった紙片をぼうぜんと見つめ続けた。何が母をそれほどいらたせたのか、想像すらできない。

「夫は娘を愛しすぎる」
 月光が差し込むてんがい付きベッドに腰掛け、ガートルードはつぶやいた。
「奴は善人を気取っているだけの腰抜けだ」
 同じベッドに座るクローディアスは、王妃に背を向けたまま、吐き捨てるような低い声で言った。
 ガートルードは、挑発するようにクローディアスを見る。
「夫は全てを手に入れているのに、あなたには何もない。同じ兄弟で」
「そうとも。子供の頃からずっと奴の耳に毒を注ぐことを夢見てきた。……コケにされ続けて、このままでは済まさない。絶対に」
 クローディアスは、怒りの矛先がすぐそこにあるかのように、虚空をにらみつけた。
 ガートルードは両手で髪留めを外し、長い髪を下ろした。絹のドレスが滑り落ちると、王妃の白い肌があらわになる。
「わたしはいつでも、王になる男のもの。あなたにその覚悟があるのなら、見せて」
 王妃は、問いを突きつけるような目で見た。
 クローディアスのナッツのような香りと、ガートルードの白桃のような匂いが、シーツの上で混ざり合った。手入れの行き届いた長いネイルを、力をみなぎらせた筋肉の上に丁寧にわせていくうち、彼は獣のようなうめき声を上げた。彼女が膝をついて上に覆いかぶさると、長い髪の毛が彼の顔に落ちた。指先が静かに、熱を宿した湿り気の奥へと彼を導いた。
 ガートルードにとって、スカーレットは、我慢ならない存在だった。
 自分がままははだから愛情がない、というだけではない。あの娘は、自分を邪魔する存在に思えてならない。
 世継ぎの男子を産むことを期待され王家に嫁いだものの、アムレットは自分を十分に愛さなかった。王との関係が冷めていくにつれ、王妃として存在意義に疑問を感じずにはいられなかった。
 その理由は、あの娘にある、と彼女は考えた。自分を差し置いて、父と娘の半ば異常ともいえる親密さを見せつけられるたびに、苛立ちをかき立てられた。このまま男子を産めなければ、王位継承者はスカーレット王女、ということになってしまい、自分は権力のから振り落とされてしまうだろう。
 あの小娘が自分の人生を脅やかしているのは間違いない。言い知れぬ焦りと不安が、ガートルードをひそかに追い詰めていた。何か手を打たなければならない。
 そこで彼女はクローディアスの野心に目をつけた。彼を利用すれば、この状況を変えられるかもしれない。
 その夜、ガートルードは、クローディアスに火をつけることに成功したのだった。

 薄暗い回廊を、アムレット王が息を切らせて走る。
 大粒の汗が頰を伝って落ちていく。壁にかかったしよくだいの揺れる灯火が、影を不規則に躍らせている。
 大勢の近衛このえへいよろいをガチャガチャと鳴らして捜し回っている。廊下を走り抜ける足音、扉の開閉する音、兵士たちの呼び交わす声が、城の中に渦巻いている。
 教会のステンドグラスの下、クローディアスの怒声が響く。
「大変だ。この城に反逆者がいるぞ」
 と証拠の文書の束を高々と掲げた。ドイツ語で書かれた文書の抜粋は以下のとおりである。
『アムレット国王が、隣国との和平交渉に乗じて、我が国の軍事情報や国勢情報を渡している。戦争回避のために、領土の一部分の分割譲渡を約束した。さらに、彼は隣国商人への税制優遇を無断で取り決めた』
 クローディアスは、城中に響き渡るような強い口調で命じた。
「捕らえよ。決して逃がしてはならぬ」
 アムレットは何度も後ろを振り返って、追っ手に見つからないように暗い回廊を駆けた。
 だが城の地下兵営で、とうとう近衛兵たちに発見され、取り囲まれてしまった。
 宮廷の家来であったギルデンスターンとローゼンクランツは、それまでの従順な態度を翻し、薄ら笑いを顔に浮かべてアムレットに近づいてきた。
「袋の鼠め」
 ギルデンスターンが冷たく言い放つと、
「これで終わりだ、チェックメイト」
 ローゼンクランツもからかうように付け加えた。
 しかし、先日までアムレットを守る役目だった近衛兵たちは、王を捕らえるという異常な状況に戸惑いを隠すことができず、表情をこわばらせたままだった。
 アムレットは彼らを見回すと、その心情を察し、力無く微笑んだ。

 エルシノア城の中庭は、異様な緊張感に包まれていた。
 かれた炎が石畳を焦がしている。薄曇りの空は地上の色彩を奪っていて、息苦しいほどだった。
 黒いカズラを着た大司教の低いとうの声が、ラテン語で断続的に響く。
「Miserere nobis……」(我らをあわれみたまえ……)
 銀の香炉から立ち上る乳白色の煙が、渦を巻きながら空へと昇っていく。
 デンマーク王国はプロテスタントであり、保守的なルター派であった。だが大司教はプロテスタントであるにもかかわらず、を被っている。香を焚くこともカトリックの伝統である。聖職者たちが、カトリックであるクローディアスに恭順の意を示すため宗旨変更したのは明らかだった。
 中庭には、人々が大勢押し寄せて隙間もなかった。不安と混乱、信じがたい事態への戸惑いが充満していた。年寄りは震える手で十字を切り、母親たちは幼い子供の目を覆っていた。
 人々の視線の先に、オークの木で組まれた処刑台がある。
 ギルデンスターンとローゼンクランツが、下でニヤつきながら見守る中、後ろ手にかせをはめられたアムレット王は、その処刑台に自ら登った。王は、冠も失い、リネンのシャツと乱れた髪が風になびくのみだった。しかし目には、なお王としての威厳が宿っていた。見上げると、バルコニーからクローディアスとガートルードが冷ややかに見下ろしているのが見えた。
 濃緑の上着をまとったクローディアスは証拠の文書を手に、芝居がかった口調で糾弾した。
「おお兄よ。隣国と共謀するとは、なんという恐ろしいことをしてくれたのだ?」
 アムレットは冷静に、しかしぜんとした態度で応じた。
「権力に焦がれた弟よ。偽りの証拠を掲げてまで醜い人殺しに成り下がるつもりか」
「黙れ!」
 クローディアスの怒声が中庭に響く。文書を偽りと指摘されたわずかな動揺を悟られないよう、彼は群衆に向き直って宣言した。
「民よ。裏切り者には罰を与えなければならない。それが果たされた時、神は我を新しい王に選ぶだろう」
 だが人々は、信じられない様子で互いに顔を見合わせ、声を上げた。
「王がそんなことをするはずがない」「何かの間違いだ」「アムレット陛下を信じています」
 誰もが、クローディアスの言うことを真実だとは思っていない。
 クローディアスはその反応に焦りを感じ、事を急ぐかのように鋭く命じた。
「始めよ」
 声を合図に、宰相ポローニアスとその息子レアティーズ、守備隊の精鋭コーネリウスとヴォルティマンドが剣を手に処刑台に登ってきた。刃が幅広で先端が角張っているのが特徴の、処刑用の剣である。
 人々は騒ぎ立てて止めようとするが、衛兵が力で押しとどめる。
 それまで国王の処刑というのは、退位させた上で、ひそかに暗殺するというのがじようとう手段であった。ゆえに、処刑を民の面前で行うなどということは極めて異例の事態だった。その衝撃があるのだろう、人々の動揺のひとつひとつが無数に重なり合い、大きなうねりとなって中庭に反響した。
 クローディアスが去るのと入れ替わるように、悲痛な表情のスカーレットは、バルコニーの石の手すりにしがみつき叫んだ。
「父さま!」
 彼女は目の前の出来事が信じられない。父さんがまさか処刑台の上にいるなんて。薄桃色の髪は乱れ、顔色は青ざめ、声は恐怖に震えた。「どうしてこんなことに……」
「……!」
 アムレットが王女に気がつくと、それまで冷静だった表情が瞬時に崩れた。娘を見上げて、まゆひそめ悲痛な表情で何かを叫んだ。
「……○○○……」
 しかし言葉は、人々の騒然とした声にかき消され、聞こえない。
「今、なんて言ったの?」
 スカーレットは手すりを強く握りしめ、必死に耳を澄ませた。
 アムレットは再度、娘に向かって叫ぶ。
「……○○○……」
 が、その声も、無数のけんそうのせいで届かない。
 ポローニアスとレアティーズが、アムレットの肩をつかんで無理やりにひざまずかせた。ポローニアスの表情には、堂々とした自信が見てとれる。レアティーズの口元には、笑みさえあふれている。それまでしもべであったはずが、躊躇ためらいすら見せない。
「何て? 何て言ったの? 父さま」
 彼女は、手すりから落ちてしまいそうなほど前に乗り出した。
 動揺の声がさらに高まる中、アムレットは娘を見つめ、愛情と悲しみがないまぜになった表情を向けた。何かとても大切なことを伝えようとしている。唇が、三たび同じ動きをした。
「……○○○……」
 しかし、その言葉も、彼女には届かなかった。
「待って」
 焦燥に駆られたスカーレットはバルコニーから離れ、建物内の階段を一目散に駆け降りた。
 四人の刑執行人が、一斉に剣を振り上げた。
 やいばが、薄曇りの陽光を鈍く反射する。
 人々は息をみ、静寂が訪れた。聖職者たちの祈りの声も途切れた。
 ガートルードは少しも表情を崩さず、この光景を見ている。
 スカーレットがドアを押して中庭に飛び出した瞬間、目に飛び込んできたのは、前のめりに倒れる父の姿だった。
 アムレットの血が、処刑台の階段を伝って、石畳の上に落ちていく。その赤はあまりにも鮮やかで、とても現実とは思えない。
「……!」
 父さん、と声に出したいのに言葉にならない。胸の中の、幼い頃の思い出、父との楽しかった日々の記憶が崩れ去っていく。
 まりの中に横たわる父の姿。
 彼女ののどから、気も狂わんほどの絶望の声が絞り出された。
「ああああああああ!」

復讐

 スカーレットは、これからの自分の人生を、父のふくしゆうのためにささげると誓った。
 あの瞬間から彼女の世界は一変した。海辺で無邪気に踊った少女の面影は消えた。幸福だった日々は二度と戻らない。
 スカーレットは細い腕で剣術の修行に打ち込んだ。空気を切り裂く剣の音が地下兵営に響く。父が捕らえられたのと同じ場所だ。鋭いひとみに、抑えきれないほどの強烈な復讐心をみなぎらせた。
 指導役には、アムレット王に忠誠を誓った信頼のおける者が選ばれた。近衛このえ兵の中でも剣技に秀でていて、相手が王女だろうが13歳だろうが、遠慮しなかった。
 侍女たちは恐れとあわれみの入り混じったまなしで、驚くほどへんぼうした王女を見守っている。
「くっ……」
 彼女は未熟さゆえ、何度も剣を取り落としてしまう。手には生傷がいくつもできている。悔しさと屈辱でいっぱいだった。歯を食いしばり、再び剣を握り直した。

 クローディアスは、正真正銘の王となった。
 緊急招集された議会で承認され、エルシノア城の教会で大司教からたいかんされた。デンマークの慣習に従い、聖油を両肩の間と腕に塗油された。
 デンマーク貴族のみならず、支配下のノルウェー、アイスランド、フェロー諸島、シュレスヴィヒ公国、ホルシュタイン公国からも諸侯や役人が集まり、華やかな衣装に身を包んで新王の前に跪いた。
「国王クローディアス陛下。万歳」
 スカーレットは式に出席せず、黒い喪服姿で城の廊下にひとり座った。
 新王は、玉座から立ち上がり、命じた。
「隣国へ軍を送り、反乱を鎮めよ」
 廊下の窓越しに、重装備の軍隊が出撃していくのが見える。
 祝宴でクローディアスとガートルードは笑顔を見せ、賓客の前で結婚を宣言した。
 すべてが変わっていく。幼いスカーレットにはあらがすべもなかった。身につけている喪服が、せめてもの抗議の印だった。
 アムレットの死から、二ヶ月も経っていなかった。

 王女は黙々と修行を続け、15歳になった。
 兵士を模したトルソーに、目にも留まらぬ速さでこぶしを打ち込む。以前と比べて随分と力強さが加わった。格闘技に秀でた指南役のアドバイスを、荒い息を整えながら聞くと、れた汗が乾かぬうちすぐに試した。
 ある日のこと、スカーレットは城の中庭に響く荒々しい声に足を止めた。
「早く行け」「ぼやぼやするな」
 その怒号が気になり、廊下から窓越しに中庭を見下ろした。
 汚れた衣服をまとった男女二人が、兵士たち五、六人にやりの柄で乱暴に突かれながら連行されている。二人の顔には疲労と絶望が浮かび、足取りは不安定だった。それでも何度も後ろを気にするように振り返っていた。その度に兵士たちは「前を見ろ」と怒鳴り、さらに強く槍の柄で押した。
 スカーレットの胸に疑念が湧いた。兵士たちにこれほど乱暴に扱われるあの二人は、一体何をしたというのだろう。新たな王となったクローディアスが戦争の準備を進めている影響で国中が不景気に見舞われ、貧しい者たちが街に溢れているという噂は聞いていた。が、それと関係があるのだろうか。
 侍女がそっと王女の耳元でささやいた。
「クローディアス王は、反対派を鎮圧すると言って、関係のない貧しい者を拷問にかけています」
 スカーレットの心は重く沈んだ。目の前の男女はとても反逆者には見えない。恐怖政治の手段としての見せしめか。自らの正当性を示すためのスケープゴートか。
 すると、連行される二人の後ろを、ボロ布をまとった幼い少女が懸命に追いかけてきた。片手に人形を握ったまま、小さな足で走ってくる。
 男女が何度も後ろを振り返っていたのは、娘を気にかけていたからだった。二人は、この少女の両親だったのだ。しかし、兵士たちは無情にも二人を連れ去ってしまう。
 小さな手は空をつかむだけで、親に届くことはなかった。少女は石畳につまずき、地面に倒れ込んだ。
 スカーレットは胸を締め付けられた。彼女の過去が少女の姿に重なる。父を失った自分もまた、残されたあの少女と同じだ、と。そう思った瞬間、彼女の目から大粒の涙がぽろぽろとあふれ出した。
 少女はぼうぜんとしたまま立ち上がり、遠ざかる両親の背中を見送っていた。どうすることもできない。かわいそうな罪なき親たちはこれから残酷な目に遭わされるだろう。二度と会えないかもしれない。少女は何もできないまま、ここに立ち尽くす以外ないのだ。
「……!」
 クローディアスの冷酷な顔が脳裏に浮かび、彼女に激しい怒りが沸き上がった。許せない。絶対に許せない。涙はとどまることなく頰を伝い落ち、行き場のない怒りで震える拳を思い切り柱にたたきつけた。

 17歳になって、スカーレットは、としかさの侍女たちと同じほどに背丈が伸びた。
 彼女が短剣を手に一歩前に進むと、空気が張り詰める。たいする訓練相手は、その気迫に一瞬たじろいだ。合図とともに、彼女は一瞬で間合いを詰めた。金属が触れ合う高い音が響く。見守る侍女たちの息をむ音が漏れる。攻撃に迷いはない。短剣を順手逆手と自在に操り、目にも留まらぬ早さで相手を組み伏せた。指導役たちは、思わず感嘆の声を漏らした。これほど才能と情熱を持つ者は他にいない。誰もが王女の技量の高さを認めた。
 彼女に、かつての未熟さはじんもない。代わりに、冷徹な決意と研ぎ澄まされた技術が身についていた。強い憎しみと引き換えに得た、剣の力だった。

 19歳、スカーレットは、ドイツ・ヴィッテンベルクへ留学した。
 当時、女性が大学に入ることは不可能とされていた。大学は主に聖職者の養成機関であり、女性は対象外だったのだ。通常、王位継承者や王族は、教育機関に通わず家庭教師がつくのが一般的で、大学の教師を城に招き、個人授業を受けるのが慣例であった。
 ゆえにスカーレットの留学は異例中の異例といえた。ヴィッテンベルク大学は宗教改革の影響を強く受け、宗教教育にとどまらず幅広い学問分野が教えられていた。彼女は大学所属の神学、天文学、人文学、法学、哲学などの研究者たちに個人的に師事した。大学敷地内に女性は入れないため、あえて一般学生と同じ質素な宿舎を選び、その宿舎で教えを受けた。
 窓の外に小雪が舞う、静かな冬の日。
 スカーレットは、寒い宿舎の中で、静かに書き物をしていた。扉の隙間に一通の手紙が差し込まれる。筆を置き、立ち上がって手紙を手に取った。エルシノア城の従者からの報告だった。
『穀物危機で多くの民がきんふちに立たされています。にもかかわらず、クローディアス王は何もしようとしません。その上……』
 彼女の顔から、血の気が引いていく。
「……!」
 居ても立ってもいられず、マントを摑むと部屋を飛び出した。
 この時期、「小氷期」と呼ばれる14世紀から続く地球の寒冷化の最中にあった。
 加えて1600年、ペルーのワイナプチナ火山が爆発し、大量の二酸化硫黄いおうが大気中に放出された。その影響で、太陽光が遮られ、世界全体の気温が顕著に低下した。
 翌年から、ヨーロッパ各地で冷害や霜害が頻発することになる。農作物の生育期が短縮され、収穫量が目に見えて減少した。大麦、ライ麦の収穫に失敗し、ワインの生産は壊滅的だった。穀物不足に伴い、食料品の価格が急騰したことが、社会的な不安を増大させ、一部地域では暴動や反乱が発生した。
 この寒冷化はデンマークも逃れることはできず、農業が深刻な打撃を受けた。それのみならず、周辺の海域や湖沼が一部凍結し、海運にも大きな影響が出ていた。
 人々の生活が危機にひんしている。一刻も早く対策を講じる必要があった。

 エルシノア城の大広間は、まるで別世界だった。
 大理石の床、黄金の装飾、壁に掛かるごうしやなタペストリー。ろうそくの炎が揺らめく長テーブルの上には、山のように盛られた肉料理と果実が有り余るほど並んでいた。いくつものワインだるからはほうじゆんな香りが漂う。楽師たちの陽気な調べに乗せて、集まった王侯貴族たちの笑い声が響く。
 その中心で、クローディアス王が満面の笑みをたたえていた。
 すると突如、会場がざわめいた。皆の視線が一斉に入り口へと向けられる。
 スカーレット王女の登場だった。
 輝くようなドレスは、ナデシコ、デイジー、リリー、スズラン、バラ――、無数の白い花で彩られていて、夢の中から現れたような美しさだった。薄桃色の髪は優雅な三つ編みに編み込まれ、耳には王家伝来のルビーのピアスが輝いていた。彼女に付き従う四人の侍女がひざを屈して王に礼をしたが、スカーレットはそれをせず、ぜんとした足取りで現王の前に進み出た。
 クローディアスは杯を掲げ、皮肉な笑みを浮かべた。
「王女よ。ヴィッテンベルクへの留学など止めて、その美しさで皆の目を楽しませてはどうかな?」
 明らかなあざけりと威圧だった。しかし、スカーレットは何も答えず、ただ真っ直ぐにクローディアスを見据えた。ひとみの奥に、王国の危機に対して何も手を打たない王への強い抗議の意志を込めた。
 クローディアスはそれに気づき、鼻で笑うと余裕の笑みを見せた。が突然、彼女の三つ編みの髪を荒々しく摑み、自分の前に強引に引き寄せた。
「!」
 あまりのことに客たちが息を吞む。楽師たちの演奏もむ。
 クローディアスは目を細め、威嚇するように王女の顔をにらみつけた。
 しかし、スカーレットは屈せず、強いまなしで王を睨み返した。
 場は静まり返り、ただろうそくの炎のパチパチという音だけが聞こえた。客たちは次に何が起こるのかを、戸惑いと恐れの表情で見守った。
「……ふん」
 クローディアスは鼻を鳴らすと、王女を突き放して去っていった。王女は一歩も引かず、りんとして立ち続けた。
 うたげは、何事もなかったように再開された。
 リュートとヴィオールの音色に合わせて、客が踊っている。
 クローディアスは側近たちと談笑しながら杯を重ね、すっかり上機嫌の様子だった。彼の高らかな笑い声が、大広間に響く。
 スカーレットは、柱の陰からその様子をうかがっていた。黒い帽子をつけた給仕がさかずきを差し出す。受け取ったが、飲む余裕もない。しばらくして侍女の一人が静かに近づき、合図を送ってきた。準備は整いました、今がチャンスです、と。
 王女はくばせして合図を返した。侍女はこたえて素早く動き、盃に新たな酒を注ぐ振りをしながら、準備した白い粉末をひそかに入れた。
 陽気なクローディアスは、侍女が差し出した盃を確かめもせず摑むと、一気に飲み干したように見えた。
 王女は盃の縁を口に当てたままじっとその様子を見つめる。変化が起こるのをひたすら待つ。
 程なくしてクローディアスは、大きな欠伸あくびをしたかと思うと、眠そうに目をこすった。体が、徐々にかんしていくのが見て取れる。
 計画通りだった。
 ついにこの時が来た、とスカーレットは思った。緊張で体が震える。落ち着かせるように、自分の盃を一気に飲み干した。
 宴も終わりに近づき、人々が徐々に去っていく。
 空の椅子が並ぶ中心で、ひとり残されたクローディアスは、腰掛けたまま眠り込んでしまったようだった。小さないびきが、静寂の大広間に薄く聞こえる。
 スカーレットは音を立てないように慎重に歩み寄り、ドレスのひだに隠し持った短刀を取り出した。銀色に輝くやいばに、決意が映し出されている。父のかたきを討つと誓ってから数年、辛苦に耐えながら鍛錬を積んできた。ついに目的を果たす時が来たのだ。いや、自分のためだけではない。国のため、飢えに苦しむ人々のため、その生活を守るために、この殺害は正当なものなのだ、と、自分に言い聞かせた。
 しかし――。
「!?」
 突然、彼女の体に異変が走った。視界がぐらつき、足元がふらつく。激しい吐き気が込み上げ、耐えきれず膝をついた。手足がしびれ、冷や汗が額から滴り落ちる。
「……!?」
 自らのしやぶつにまみれながら、かすんでゆく眼で、先ほど自分が口にした盃を見つめた。毒だ。なぜ……?
 その時、横たわる彼女の前に影が差し込んだ。見上げると、そこには冷酷な笑みを浮かべたクローディアスが見下ろしていた。後ろに、黒の帽子をつけた給仕の姿が見えた。先ほど彼女に盃を差し出した給仕だ。
「自分だけは毒を盛られないと思うお前は、赤ん坊でなくて何だ?」
 クローディアスは完全にかくせいしており、酔った様子はじんも見られなかった。
 傍らのガートルードが、哀れな子供よ、お前に王位など相応ふさわしくない、とわらっている。
 スカーレットは悔しさで涙をぽろぽろ流しながら、怒りと屈辱に震えた。
「許さない……」
 全身が経験したことのない痛みに包まれる。それでも歯を食いしばってクローディアスを見た。
「絶対に……許さない」
 クローディアスはその言葉を嘲るように笑いながら背を向け、大広間から立ち去っていった。
 慌てて駆けつける侍女たちの声が聞こえる。
「……王女様? 王女様……?」
 視界がぼやけ、深い井戸の中へ落ちていくように、意識が遠のいていく。
「王女様!?……王女様……!?」
 侍女たちの声が、ひどく遠くに感じられる。
 それを最後に、スカーレットは意識を失った。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

原作小説情報

角川文庫版



書名:『果てしなきスカーレット』
著者:細田 守
発売日:2025年10月24日

生きる意味を問う、感動の最新作――細田守監督書き下ろしの原作小説!
叔父に愛する父を殺された王女・スカーレットは、復讐に失敗し、《死者の国》で目を覚ます。略奪と暴力が荒れ狂う世界で再び復讐を決意した彼女の前に、現代の日本からやってきた看護師・聖が現れる。敵味方関係なく手を差し伸べる聖の優しさに反発しながらも、理想の地「見果てぬ場所」を目指してともに旅をする中で、スカーレットの心は大きく揺らいでいき……。時を超えた出会いと長い旅路の果てに、彼女が辿り着いたある“決断”とは。

▼作品詳細(KADOKAWAオフィシャルサイト)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322408000676/

角川つばさ文庫版



書名:『果てしなきスカーレット』
作:細田 守
挿絵:YUME
発売日:2025年10月24日

生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。細田守監督書き下ろし原作小説!
叔父のクローディアスに父を殺された王女・スカーレット。
復讐に失敗し、目が覚めると、そこは《死者の国》だった!
人々が互いの物を奪い合う、争いばかりの世界。
そんな中で出会ったのは、現代の日本から
やってきた看護師の青年・聖。
二人はクローディアスを追って、みんなが夢見る
理想の地、“見果てぬ場所” を目指すことに。
敵・味方関係なく、誰にでも優しい聖と旅をするうちに、
スカーレットの固く閉ざされた心は変わっていき――。
「生きること」について問いかける、感動の物語!

▼作品詳細(KADOKAWAオフィシャルサイト)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322505000194/

原作特設サイトはこちら!

https://kadobun.jp/special/scarlet/

映画『果てしなきスカーレット』情報

キャスト:
芦田愛菜
岡田将生
山路和弘 柄本時生 青木崇高 染谷将太 白山乃愛 / 白石加代子
吉田鋼太郎 / 斉藤由貴 / 松重豊 
市村正親
役所広司

監督・脚本・原作:細田守
企画・制作:スタジオ地図
公開日:2025年11月21日(金)
©2025 スタジオ地図

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・公式HP:https://scarlet-movie.jp/
・公式X:https://x.com/studio_chizu
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