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試し読み

【試し読み】『竜とそばかすの姫』TV放送記念! 細田守監督による書き下ろし原作小説の冒頭を特別公開

細田守監督、待望の最新作『果てしなきスカーレット』がいよいよ本日公開となりました!! 映画公開を記念して、11月の「金曜ロードショー」は4週連続で細田守作品を放送中!

3週目の今日は『竜とそばかすの姫』。
カドブンではTV放送に合わせて、監督自ら書き下ろした原作小説の試し読みを大公開!
小説でも『竜とそばかすの姫』をお楽しみください!

細田守『竜とそばかすの姫』(角川文庫)試し読み

インビテーション

 暗闇に、一筋の白い線が浮かび上がる。
 ゆっくりと近づいてくる。
 この線は何か?
 徐々にはっきりしてくる。複雑なディテールをしたユニットの連なりだ。顕微鏡で見た細胞のように、規則正しく繰り返し並んでいる。
 細胞?
 いや、それは「街」である。
 ここは、『ユー』と呼ばれる、な巨大都市。
 この世の知性をつかさどる5人の賢者『Voicesヴオイシス』によって創造された、究極の仮想世界。
 全世界のアカウント数50億を突破してなお拡大を続ける、史上最大のインターネット空間。

 あなたはまだ、『U』をやっていない。
 どうやってアクセスするの?
 すぐに、自分のスマートフォンを見よう。
 トップ画面で、『U』の文字が描かれたアプリアイコンがある。新しい機種のほとんどにプリインストールされているので、すぐに見つかる。
 アプリを立ち上げよう。
 U will be you.
 You will be U.
 U will be everything.
 あなたが身につけている専用デバイス――イヤフォン、腕時計、ピアス、指輪、眼鏡、ネイル、マスクなど――が、自動的にあなたの生体情報を読み取る。
 Reading your biometric information…….
 認証までのわずかな時間、ディスプレイには『U』についてのポリシーが表示される。多様な人々を表すいくつものアイコンだ。さまざまな性別、年齢、体型、ハンディキャップ等が、さまざまな「U」の形をした図形と対置されて表示される。
「世界に存在する一人一人の違いや特殊性とおなじく、このエートス(ethos)を具現化するために様々な形のU粒子を調べています。/Much like the difference and particularity that makes each individual in the world unique, this explores a variety of different shaped U particles to embody this ethos……」
 無数のU粒子のなかから、そのひとつが確定する。
 認証が完了したのだ。
「ようこそ『U』の世界へ。/Welcome to the world of U.」
 無数に連なるスマートフォン形の窓から、U粒子が飛び出してくる。
 それは、認証された、あなただ。
 U粒子は一瞬で、可愛らしいウサギ型少女にへんした。
 アナウンスが響く。
「『U』では、誰もがリラックスして集い楽しめるように、最新のボディシェアリング技術を採用しています」
 ここでは、アバターのことを、「As」(アズ=Autonomous self/自律的自己)と呼ぶ。Asは『U』におけるあなたの分身だ。スキャンした生体情報から、『U』が誇る最高のA・Iが、あなたのAsの自動生成を行う。
 同じくログインしたU粒子が、次々とAsへと生成され、窓から飛び出してくるのが見える。
 あなた――つまり、小粋な帽子から白くてふわふわした耳をぴょこんと出した、愛くるしい少女――であるところのあなたは、初めて出会った仲間たちと共に、スカイダイビングのように降下してゆく。
 視界を埋め尽くしていた雲海が、突如として開ける。
 トワイライトの光に照らされて反射する超高層ビル街の輝きに、あなたは思わず感嘆の声をあげるだろう。
 せいに構成された幾何学的な超高層ビル群が、天地も左右もなく、幾層にも重なり合い、見たこともない圧倒的な夕景を生み出している。
 華やかなショッピングモール。夕方まだ明るいうちに退社した解放感の中で、5番街やシャンゼリゼ、あるいはぎんをぶらつく――、そんなような楽しさだ。色とりどりの衣装で着飾ったAsたちは、まるでヴェネチアの仮装舞踏会のようで、見ているだけで楽しくなる。
 小花のグラフィカルなピースが、回転しながら紙吹雪のように漂っている。そのひとつを手に取って香りをぐと、華やかで官能的な中に、さわやかな若い香りが潜んでいる。この街の景色にぴったりだ。
 あなたは、さんざめく大通りを鳥のように遊泳しながら、ふと天を仰ぐ。空であるはずの場所にも、逆さになった超高層ビルが、今にも落ちてきそうなほどにひしめいている。その高層ビル街をくり抜いたように巨大な公園があり、伸び伸びと遊ぶAsたちを見下ろすことができる。
 ここまで自由な気分にさせる街があるだろうか。
 あなたは実感する。間違いなく、ここは世界の中心だ、と。
 月が、超高層ビル群の隙間に見える。
 アナウンスがこだまする。
《『U』はもうひとつの現実》
《Asはもうひとりのあなた》
《ここにはすべてがあります》
 下に弧を描く三日月は、まるで『U』の形をかたどっているようだ。
《現実はやり直せない。でも『U』ならやり直せる》
《さあ、もうひとりのあなたを生きよう》
《さあ、新しい人生を始めよう》
《さあ、世界を変えよう――》

 不意に、街のざわめきが途切れた。
 歌だ。
 誰かが、歌っている。
 どこから聞こえるのか? 大勢のAsたちが声の主を探そうと、見回している。あなたも、白く長い耳を澄ます。
 その歌は、壮大で、かつ繊細。親密で、かつ力強い。
 思わず、引き込まれてしまう。
「あそこだ」
 誰かが叫んだ。大勢のAsたちの視線の先が、一点に集まってゆく。
 クジラ。
 さかさまのビル群の間を、無数のスピーカーで着飾った巨大なクジラが、ゆったりと遊泳している。その鼻先に、深紅のドレスを着た、小さな人影が見える。歌は、そこから聞こえてくるようだ。
 クジラは身に着けた無数のスピーカーから、爆音を鳴り響かせる。
 彼女は、クジラの鼻先に仁王立ちし、伴奏の音圧に負けない圧倒的声量で歌い上げる。
 深紅のドレスに見えたそれは、ダリア、ガーベラ、ボタンイチゲ、エキナセアなど、幾種類もの赤が寄り集まってできた花々のドレスである。
 非現実的な、桃色の長い髪。
 海のように深い、青のひとみ
 文字通り、絶世の美女。
 そして頰には、まるで刻印されたような、がある。
「ベルだ!」「ベル!!」
 Asたちは彼女を見上げながら、口々にその名を呼んだ。
 彼女の名は、「ベル(Belle)」。

ララライ
ララライ
誰も知らない
名も無い今を
駆けてゆくよ
あの三日月へ
手を伸ばして

ララライ
ララライ
君を知りたい
声に成らない
おくびような朝を例え
何度迎えようとも

へその緒がパチンと切られたその瞬間
世界とれてしまったみたいだ

眼に写る景色が
悲しく笑うなら
恐れずまぶたを閉じて御覧

さあ!
皆さんこちらへ
どうぞ鼓動の鳴る方へ

さあ!
かかとを打ち鳴らせ
どうぞ心の踊る方へ

さあ!
しんろうに飛び乗って
さかしまな世界を乗りこなして


「ベル!」「ベル!!」「ベル!!」
 彼女の名を連呼する多種多様なAsたちの中に、あなたはいる。知らず知らずのうちにベルの歌を口ずさんでいる。歓声にこたえるように彼女は顔を向けて微笑む。彼女と一瞬、目が合ったように感じて胸がジン、と熱くなる。一度見たらきつけられて、もう目が離せない。
 出会ったばかりなのに、あなたはもう彼女のとりこだ。
「ベル!」「ベル!!」「ベル!」「ベル!!」
 ベルは、手を胸の前でクロスさせ、一気に広げた。
 同時に彼女の体からグラフィカルな花々が、一斉に発散された。花々は、悠々と泳ぐクジラの上から、街にあまねく広がってゆく。
 あらゆる人、あらゆる事象、あらゆる生を祝福するかのように、ベルは高らかに歌い上げる。
 一体、ベルとは、何者なのか?

「ぶはあっ!」
 薄い布団をけて起き上がり、大きく息継ぎをした。
 そのせいで低い天井に頭をぶつけそうになった。ここは田舎のみすぼらしい屋根裏部屋で、屋根を支える垂木がベッドのすぐ上に迫っている。
「はあっ、はあっ……はあ……」
 朝だ。日の光がまぶしい。
 さっきまでのきらびやかな世界の感触が残っている。そのざんに手を伸ばしたくて、瞼を閉じる。確かに私は、クジラの鼻先に立ち、歌っていた。華やかな衣装を着て、のびのびと、思いのままに、歌っていた。
 瞼を開けると、目の前にあるのはシーツの上の、表示の消えたスマホだ。その暗い表面に、日に照らされた自分の姿が映り込む。中学校の頃から着ているいろせたダサいパジャマ。寝癖のついたボサボサの髪。半開きの目。
 そして、頰に散らばった、
 それは私をとてもゆううつにさせる。胸がふさがれそうになって、ため息が漏れる。
「……はあっ」
 すると、
すずー?」
 1階したから父さんの声がした。「どうしたー?」
 焦る。
 ひょっとして漏れ聞こえてしまっていたのだろうか? もちろんここは防音室なんかじゃなく、ただのみじめな17歳の女子の部屋にすぎない。布団の中にくるまるしか、音が外に漏れるのを防ぐ方法はない。いつもより声が大きかっただろうか? だとしたら……。後悔の冷や汗が背中にじっとりと浮かぶ。
「な、何でもない……!!」
 ベッドの上で四つんいのまま、慌てて返事する。
 不審に思われて2階へ上ってきたらどうしよう? いや、来ないとは思うけど。でももし――、
「あっ」
 ベッドから手が滑り、ドサッ、と顔から無様に落ちた。

 制服に着替えて、1階に下りた。
 父さんの姿はなかった。仕事へ行く準備をしているのだろう。
 縁側の戸を開けてフーガを外に出してあげて、ひんやりした朝の空気を入れた。リビングとダイニングを軽くほうきで掃き、テーブルに出しっぱなしの雑誌を片付けた。お湯を沸かしているあいだ、庭の花を花瓶に挿し、台所の写真立ての横に置いた。マグカップにティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。紅茶の香りを含んだ湯気が沸き上がる。写真立ての中で、今日も母さんが微笑んでいる。
 庭でじっと待っているフーガに、ごはんをあげた。白に薄い茶色の毛が混じっているせいで、遠目には薄汚れて見え、おに入れてもらえない可哀想な犬に見える。右の前足の先が、怪我で失われている。イノシシ用のわなにはまって、ちょん切れてしまったのだ。ピンク色の地肌が見えている足を浮かせ、危うくバランスをとりながらごはんを食べている。保護犬としてうちにもらわれてくるまで、やっぱり可哀想な犬だと思われていたのだろうか。縁側に座って紅茶をすすりながら、フーガをじっと見ていた。
 日焼けした肌に紺のTシャツを着た父さんが、仕事道具が入ったリュックを肩に掛け、ガレージに出てきた。
「鈴、送っていこうか?」
 フーガを見たままマグカップから口を離さずに、私は答えた。
「……いい」
「夕ごはんは?」
「……いい」
「……そっか。じゃあ、行ってきます」
 父さんは、困り顔だったのだろう。見なくてもわかる。四輪駆動の軽自動車のエンジンがかかる。バックしてから切り返し、坂道を下りてゆく。小石をぱちぱちはじくタイヤの音が、遠ざかっていく。
 目を合わさなくなって、どのくらいになるのだろう。まともに話さなくなって、どのくらい経ったのだろう。一緒にごはんを食べなくなって、いったいどれだけの時間が流れたのだろう。
 フォン、と通知音がした。
 スマホの画面に、ポコッ、とフキダシが出る。
《ベルは、仮想世界『U』が生み出した、最高の美女》
 世界中の言語が、瞬時に翻訳される。
《非常にユニークでまれな楽曲》《ベルの歌は自信に満ちあふれている》《50億アカウントの中で一番注目される存在》
 フキダシは先を争うように次々と上がり、瞬く間にベルのアイコンの周りを埋め尽くした。
 でも、私には喜びも達成感も高揚感もない。ベルがどんなに注目を集めても、なんの関係もない。縁の欠けたマグカップに口をつけたまま、自分の殻に閉じこもる。
 あるひとつのコメントを載せたフキダシが、一際大きく膨れ上がっていく。最も注目されるコメントを拡大して表示する、フキダシの機能のひとつだ。
 すさまじい数のコメントの中で、最も多く注目されたコメントは、
彼女ベルは一体、誰?》
 だった。
 クンッ、とフーガが顔を上げた。
 私のふさぎ込んだ様子を、気にしているように。

 世の中のほとんどの人が知らないと思うけど、四国・高知は、覆いかぶさるように連なる険しい山々と、そのたにあいを流れる青く輝く美しい清流がはぐくむ、豊かな風土が自慢の県だ。一五〇年以上前には、それまで長く続いていた日本の封建社会を劇的に構造改革した人物を幾人も輩出したことがあり、これもまた自慢のひとつだ。日照時間は全国でトップクラス。お酒の消費量もトップクラス。そのせいか人柄はあっけらかんとして、気さくで明るいと言われる。でもそんな中にだって、暗い子もいれば、いつも下を向いている子だっている。
 そのひとりが、私だ。
 30軒ほどの家々が山の斜面に連なる集落の片隅に、私の家はある。見下ろした先によどがわという川が流れていて、ちんばしで対岸とつながっている。沈下橋とは、欄干のない橋のことで、川が増水して橋が沈んでしまっても流されないようにできている。私はこの橋が沈まない限り、毎日渡っている。今日も仁淀川の流れは、静かで、青い。
 たまに観光客がレンタカーでやって来て、わーれい、とか、ホントに青いんだねー、とか言って、沈下橋の上で何枚も写真を撮っている。素敵な村だよねー、とポーズを取る。彼女たちはこの地域の真実を知らない。
 スクールバッグを脇に挟んで石段を下り、急な坂道をパタパタとローファーを鳴らして歩く。掃き掃除をしている近所のおばあさんが、あら、鈴ちゃんおはよう、とか、いってらっしゃい、とか、かつては声をかけてくれた。でも今はない。多くの家の雨戸は、固く閉じられている。亡くなったり、市内の方に引っ越したりして、徐々に住む人が少なくなっていった。仁淀川の流域には、そんな集落がいくつもある。90年代初めに「限界集落」という言葉を、ある社会学者が生み出したのも、この近くだと言われている。最盛期と比べて、驚くほど人が減った、と大人たちが言うのを、小さな頃から何度も聞かされた。ここは日本中のどこよりも早く、人口減少、少子高齢化社会の最先端を突っ走っている。それは紛れもない事実だ。
 坂道を上り、国道に出たところに、停留所がある。びついた時刻表には、朝と夕方にしか時間が記されていない。乗り過ごしたら、遅刻どころじゃない。
 しばらくして、バスがやって来た。うしろの、いつもの席に座る。車内は、誰も乗っていない。停留所を次々と通過していく。乗ってくる人も誰もいない。揺られながら、運転席のそばの掲示板を、ぼんやりと眺める。
『このバス路線は9月末日に廃線になります。○○交通』
 やがて誰も住まなくなる場所に、私は住んでいる。荒波が迫る切り立ったがけのすぐそばに立たされている。いよいよこれ以上はない、世界の果てにいるような寄る辺のない気持ちになる。
 バスを降り、JR駅の改札を通って、ホームに停車する汽車(高知では列車のことを汽車と呼ぶ。正確には軽油で走るディーゼル車)に乗り換える。がら空きの車内の床に差し込んだ朝の光が、反射して振動している。停車する駅ごとに少しずつ、他校の制服を着た高校生や中学生が乗り込んで来る。街の中心に近づくほどに、床の光はだんだん見えなくなり、2両編成の車両は、お客さんでいっぱいになる。車内アナウンスが、私が降りるべき駅の名前を告げる。
 学校への道で、大勢の同じ制服と合流する。一緒になって緩やかな坂道を上る。私はその中のひとりだ。そのことは私に、とても安心を与えてくれる。
 夏の日差しが、まぶしい。

 去年の秋。
 中庭のシンボルツリーの前で、吹奏楽部が演奏していた。それをたくさんの生徒たちが取り囲んで聴いている。
 吹奏楽部の発表はいつも人気だ。ただ演奏するだけではない。奏者全員が、演奏に合わせてステップを踏む。躍動感溢れる楽しげな踊りだ。どの楽器もステップをピタリピタリと合わせていて、それでいて演奏がよれたりぶれたりすることがない。
 私とヒロちゃん――べつやくひろと書く――も、体育館2階のベランダから聴いていた。
 1曲目が終わり2曲目が始まると、すらりとした長身の美少女が、アルトサックスを手に前に出てきた。彼女は、キビキビと左右に魅力的なステップを踏みながら、ゆるいウエーブのかかった長い髪を揺らし、少しも乱れずにソロを演奏する。
「……かわいい」
 思わず声に出して言ってしまう。ルカちゃん――渡辺わたなべと書く――の生き生きとした美しさに、ため息が出るほどれてしまうのだ。
 同じベランダで見ていた他の女子たちの話し声が聞こえてくる。
「ルカちゃんってさ、うちらの学校の姫だよね」
「足細いし、長いし」
「制服着ててもモデルさんみたい」
「ね~~~」
 と、声を合わせてうなずき合っている。
 ヒロちゃんは、横の私にしか聞こえない声で、
「細くも長くもない子からのねたみがすごそう……」
 と、本のページをめくる。
 女子たちの声が、続けて聞こえる。
「ルカちゃんってさ、自然とみんなのまとめ役になってるよね」
「おひさまみたいにみんな集まってくるからだよきっと」
 ヒロちゃんは銀縁メガネの奥でまゆひそめた。
「そういうのうっざ。その点、鈴は、月の裏側みたいだから誰も寄ってこなくて楽だね」
「ごはっ」
 突然流れ弾をくらった私は、がくぜんとした己の顔を横に向けた。
「ひ、ヒロちゃん」
「ん?」
「毒舌、私にはもう少し、マイルドにならないかな……」
「毒舌? 誰が?」
 そのとき、演奏を遮るほどの大声が、中庭に響いた。
「カヌー部に入りませんかぁー?」
 みんなが振り返る。
「カミシンだ!」「カミシンが来た!」
 カミシン――かみしんろうと書く――は、手にカヌーのパドル、背中に「CANOEカヌー」と書かれたのぼりを立て、手当たり次第にアピールしてゆく。まるで敵陣地に乗り込んだ足軽みたいに。
「あ、先輩。カヌー部どうっすか?」
「わあっ! やめろカミシン!」「入んねえよ、そんなの」
 ゲラゲラ笑いながら逃げる男子の先輩たちを追いかけたかと思うと、くるっと振り返り、今度は女子の集団に向かってゆく。
「ねえねえ、カヌーやらない?」
「きゃ~~~!!」
 女子たちは、本気の悲鳴を上げて逃げてゆく。
「あ、ねえ君、カヌーやろう!」
「ヤバイ、逃げて~~」
 本人は真剣なのだが、周囲の反応がカミシンをまるで変人のように見せている。美女たちの中に飛び込んで暴れまわる野獣のようだ。
「ねえカヌー……」
「キャ~~~」
 女子たちが逃げていくのを見ながら、私は、カミシンの一生懸命さを弁護したいような気持ちになる。
「カミシン、ひとりでカヌー部立ち上げてすごいよね」
「でもあいつひとりだけじゃん」
「なんでだろ?」
「なんでって――」
 ヒロちゃんは、演奏しながらもけんそうが気になる様子のルカちゃんに、目を向けた。
 ルカちゃんは身を硬くし、まるで視界に入れたくないようにカミシンに背を向けた。
 その仕草を、ヒロちゃんは見逃さない。
 パタンと本を閉じ、厳しい目をルカちゃんに向けた。
「――マイルドに言って、見下されてんのよ」

 私たちは体育館を離れ、校内をぶらぶら歩いた。
 コーラス部、生物部、軽音楽部、ダンス部。さまざまな部活がそれぞれに活動をアピールしていた。
 ガラス張りの渡り廊下を渡っていると、どこからか女子たちの歓声と拍手が聞こえた。
 屋外バスケコートで、1ON1ワンオンワンが行われていた。男子バスケ部の勧誘パフォーマンスだ。次のゲームのために、コートにボールが投げ入れられる。それを無駄のない手つきでキャッチする、パーカー姿の男子が見える。
「あ……」
 しのぶくんだ。
 ゲームがスタートする。
 しのぶくん――ひさたけしのぶと書く――は、ダムッ、ダムッ、とゆっくりとドリブルし、様子をうかがっている。
 相手――先輩――は、腰を低く落としながらも、ジャンプシュートを警戒してけんせいの右手を上げている。しのぶくんはいつたん、低いドリブルで抜こうとするけど、相手のガードが堅く、引き下がる。
 と思ったら、突然短いモーションからジャンプシュートを撃つ。
 速い。
 先輩は慌てて指をいっぱいに広げた手を伸ばしたけれど、間一髪、届かない。さっきのはフェイントだ。ボールはきれいな弧を描き、パスッ、とゴールネットを通過した。
 3階の廊下にずらり並ぶ女子たちから、熱烈な拍手が沸き起こった。でもしのぶくんは、微笑すら浮かべない。そのクールさが、学校中の女子たちから注目されている。
 拍手が鳴り止まないうちに、コートは既に次のゲームに移っていた。ダムッ、ダムッ、と、しのぶくんは、タイミングを計る間から、ディフェンスを押しのけるように低くドリブルしてゆく。力でも負けない、とでも言うように。強引に切り込んであっという間に先輩を抜くと、確実にレイアップで置きに行く。ボールがゴールネットをすり抜ける気持ちの良い音がする。
 再び女子たちの拍手が、校舎の壁に反響した。
 私はヒロちゃんに、ひとりごとみたいに言った。
「………しのぶくん、あんなに背が高くなるとは思わなかったな」
おさなじみだっけ?」
「オホン。実は私、しのぶくんにプロポーズされたこともあるんだから」
「マジで? なんて?」
「『鈴、僕が守ってあげる』」
「それいつ?」
「6歳」
「……そんな大昔の話されても」
 あきれたように、ヒロちゃんはため息をついた。
 またゴールが決まった。
 拍手の中、ゲームを終えたしのぶくんは微笑すら浮かべずに、先輩と並んでコートの外へ出てゆく。
 幼馴染のしのぶくん。
 私の手の届くところには、もういない。

 学校から帰ってきて、沈下橋をトボトボと渡った。
 しのぶくんとは、幼稚園から小学校低学年まで一緒だった。その後しのぶくんは街の方に引っ越してしまい、離れ離れになった。高校で、再び同級生になった。だが昔のようには、いかない。
 あの頃は、今のようないつも下を向いている子になるとは、思っていなかった。こうなってしまったのには、理由がある。
 仁淀川の静かな流れを見た。
 そう。その、大昔の話だ。
 白い鳥が、水面を低く通過した。

記憶

「母さん」
「なあに鈴」
 私が呼んだら、母さんは振り向いて、返事をしてくれた。
 十一年前。家はまだ新しかった。ガレージはまだなく、庭のあちこちに、鉢植えの花が並べられていた。
「髪切らない」
 私はそう伝えて、家の前の坂道を走り下りた。母さんは反対の階段を下って回り込み、腰に手を当てて待ち構えていた。私は、絶対に切らないからね、と、ぴょんぴょん跳ねながら反対方向へ逃げた。でもあっけなく連れ戻された。庭のベンチに座らされ、散髪用のケープを着せられた。「可愛くなるよ、鈴」嫌だ。髪を切った後は毛先がチクチクして嫌なのだ。足をぶらぶら揺らして唇をとがらせた。だが母さんはお構いなしにハサミを構えると、私の髪を一気にザクザクと切っていった。「これから小学生になるんだから」両脇の髪は肩につかないように。前髪はまゆのずっと上になった。学校に通い出しても、しばらくは首元がチクチクしていた。
 母さんと、たくさん遊んだ。
 夕方の河川敷の芝生で、お相撲を取った。私が力任せに押し、母さんは芝生に転がった。勝った、と私はうれしくて笑った。母さんも笑った。どうして? と私は聞いた。私が負けると泣いちゃうから? ううん。母さんは首を振った。ひ弱だった鈴が強くなったことが嬉しいの。その様子を父さんは、芝生に寝転がりながら、笑って見ていた。
 母さんはよく塩たたきを作った。軽く塩を振ってかなぐしに刺したカツオの身を、コンロの直火で皮目からあぶる。私は椅子の上からじっと見ていた。脂が垂れてくるので、クッキングペーパーに吸い取らせながら焼くとレンジが汚れない。焼き目がついたら、氷水にくぐらせて冷やし、それから水気を取る。太め、というより分厚く切るのが、母さん流だった。だから子供の私は、分厚い塩たたきの一切れをはしで持てずに苦労したし、口の中に収めるのも四苦八苦した。母さんはマグカップを手に、私の悪戦苦闘を眺めながら、父さんの帰りを待っていた。父さんはあの頃サラリーマンで、ネクタイを締めて毎日街に出かけていた。
 そのせいか、今よりは昔の方が、家には多少のお金があったのかもしれない。当時最新式のスマートフォンを母さんは買った。搭載されたカメラの性能を試してみようということになり、父さんのひざの上で、私は、母さんにスマートフォンを向けた。母さんをフレームに収めるのを父さんに助けてもらい、シャッターを押した。白い服を着て微笑む母さんは、美しかった。その写真は紙にプリントして、今も家にある。
 私は今と違って、そこらじゅうを走り回っているような快活な子だった。家の中より断然外で遊ぶのが好きだった。木があれば登り、葉っぱがあればちぎり、虫がいれば追いかけた。しかし陽には焼けなかった。そういう体質だったのだろう。かわりに、顔はそばかすだらけになった。膝も傷だらけになった。林の中で、河川敷で、家の前の坂道で、よくつまずいて転んだ。母さんは慌てて駆け寄って、痛くて泣く私を、ぎゅうっと抱っこしてくれた。痛いのは不思議とどこかへ行ってしまった。それはそれは幸せな時。私は活発に走り回ったせいで、そして母さんに抱っこしてもらいたかったせいで、何度転んだかわからない。その度に母さんは、まるで自分の娘の一大事であるかのように駆けつけて、心配してくれたのだった。
 毎日が夏休みのようだった。お洗濯やお掃除をする母さんにまとわりついては遊んだ。お昼ごはんのあとは、座敷の戸を開け放ち、畳に夏布団を敷いて、一緒にお昼寝した。蚊取り線香の煙が緩やかに立ち上っていた。目を覚ますと、大概、横で寝ていたはずの母さんの姿はなく、せわしげに家事をこなしていた。思い返せば、今忙しいから、と言われたことは一度もない。求めればどんな時にでも私の相手をしてくれていた。
 家が山奥だったので、どこかへ食べに行くということはまずなく、そのかわり母さんはどんな料理でも作ってくれた。ある日、絵本で見た焼き鳥が食べたいと言った。それまで食べたことがなかった。母さんは、一つ一つとりにくを串に刺して、焼き鳥を作ってくれた。私は生まれて初めて、焼き鳥というものを肉眼で見た。食べ方が分からず、肉をみながら串から外す、というのがうまくできなかった。その姿を父さんと母さんはじっと見ていた。娘が人生で初めて体験する事柄を、決して見逃すまいというように。
 山奥に住む私たちが遊びに出かける場所といえば、遊園地やショッピングモールではなく、家からさらに山奥にあるキャンプ場だった。晴れた夏の日、母さんと私はつば広の帽子をかぶって沈下橋を渡った。父さんは、キャンプ道具をいっぱい担いでいた。
 やす渓谷の奥にあるすいしようぶちは、地元に住む私たちですら息をむような、驚きの青さだった。あまりに水が透明なため、川底に落ちる自分の影がくっきりと見える。まるで宙に浮いているような感覚に、少し怖くなる。母さんは水泳の上級者だった。かつて地元の子供だった母さんは、夏はカッパのように毎日泳いだものよ、と自慢した。川の楽しみを知り尽くしていた。同時に、危険な日に危険な場所で泳ぐなど決してしないし、させなかった。母さんは、浮かぶ私を回り込むと、見せつけるように水中に潜った。浮き輪につかまったままの私は不安になって母さんを呼んだ。母さん、行かないで、と。でも母さんは、私の声が聞こえなかったように、青い水中を泳いで行ってしまった。
 ある日の夕方、母さんのスマホをいじっていて、奇妙なアプリを見つけた。そのアプリを起動させると、白と黒のよこじまが並んでいる。これなに? と指差して横にいた父さんに聞いた。父さんはのぞき込んで首をひねると、夕食の支度をしていた母さんを呼んだ。
 夕食後、私が縦に持っていたスマートフォンを、母さんの手が横に直した。横にしてそれがピアノのけんばんなのだと分かった。促されるまま、私は鍵盤のひとつを押した。「ド」の音が出た。私は、出た、と母さんの顔を見た。母さんも、出た、と私の顔を見た。それは母さんが自分で使う用の音楽制作アプリだった。
 そこで初めて私は、母さんの部屋を見回して気がついた。棚にぎっしり並んでいるものが、古いレコードやカセットテープやCDだということに。そしてそれらをレコードプレイヤーやカセットデッキにセットし、アンプを通すと、左右のスピーカーから音楽が鳴るということも。コレクションは、クラシックとジャズとロックの歴史の要点を的確に押さえた見事なものだった。そんなラインナップが、世界の果てにある家の一室に詰め込まれていたことの価値や意味を、当時の私は全くわかっていない。
 その部屋で、アプリの鍵盤を次々と押しては、記録した。再生すると、それぞれの音が並べた順番通りに鳴る。めちゃくちゃな音階を入力しても、律儀に再生してくれる。それがたまらなく嬉しくて、椅子の上でピョンピョン跳ねた。母さんも笑っていた。暖かい白熱灯の光が、私たちを照らしていた。
 それ以来私は、このアプリに夢中になってしまった。母さんにスマホを貸してもらい、昼も夜も朝もいじっていた。操作は直感的で使いやすかった。決して子供用のアプリではなかったため、読めない言葉や、分からない機能などがたくさんあった。でもそんなことはお構いなしにのめり込んだ。曲を作るという、刺激的で新しい体験にどっぷりとハマっていった。何曲も作曲して、母さんの前でプレビューした。聴き終えた母さんは、その都度、短い言葉でアドバイスをくれた。○○すればもっと良くなる、とか、○○するのがコツだよ、とか。時にはコレクションの中のレコードをいくつか取り出し、参考に聴かせてくれたりもした。母さんは音楽家でも作曲家でもないのに、アドバイスのひとつひとつは、今思い返しても的確だと思う。こういったやりとりを何度もするうち、ある時、私の組み立てたメロディを聴くなり、あ、と母さんが何かに気づいたように言って、自分でも小さく歌いながら確かめだした。私が、どう? と聞くと、母さんは、悪くない、と言った。母さんが言うには、私が打ち込んでいるのをヒヤヒヤして見ていたそうだ。普通は置かないような場所に音を置いている。きっとこの曲は残念ながら失敗で、今までの作業がすべて台無しになる、と。しかしだんだん形になってくると、不思議と自然ないい感じにまとまっているように思える、と言った。私は、転げ回りたいほどの幸福を感じた。きっと親の贔屓ひいきだと思うけど、と母さんが付け加えたとしても、幸福だった。私としては、別に誰か第三者に聴かせようと思って作っているわけではない。母さんにだけ聴いてもらえればそれでよかったのだ。母さんが、私の打ち込んだ曲に合わせて歌う。右手でテンポをとり、優しく歌う。友達同士で作る合唱団のメンバーでもあった母さんの声は、伸びやかに響き透明感があり、私のヘンテコな曲を何倍も素敵に聴かせてくれた。私はうれしくなって、それに合わせて歌った。どうやっても母さんのように素敵には歌えなかったけれど。

 私と母さんにまつわる幸福な思い出は、唐突にここで終わる。
 そして、あの8月が来た。
 このあとは、つらく苦しい記憶ばかりだ。

 泣き叫ぶ小さな女の子の声が、河原に響き渡った。
 女の子が、ひとりなかに取り残されていた。
 4歳か、5歳だろうか。私よりも、小さい子に見えた。
 ついさっきまであんなに晴れていたのに、気がつくと青空はなく、どんよりした雲が覆っていた。美しく穏やかだった川は、ちょっと目を離した隙に、濁り、増水し、流木をはらみ、驚くほど流れを速くしていた。上流で激しい雨が降っているのだろうと想像できる。
 こんなふうになる前の、まだ流れが透明だったとき、対岸で楽しげに騒いでいた人たちがいた。その人たちが、今はこちらの岸でぼうぜんと女の子を見ている。地元でなく、都会から来たであろうことがすぐに分かるほどの、カラフルなアウトドア用の服を着ていた。女の子の服も、見たこともないような鮮やかな色だった。都会から来た人たちは、どうして女の子の派手な色の服を見落としてしまったのだろう。どうして彼女の存在を忘れて、こちらの岸に戻ってきてしまったのだろう。
 河原で川遊びを楽しんでいた、それぞれの友人たち、それぞれの家族たち、それぞれの釣りやカヌーを楽しんでいた人たちは、どうすることもできない様子で、ただ棒のように立って見ているしかなかった。立っているのも無理はない。そう思わせるほど、川の激しい流れが、女の子と人々を分け隔てていた。ちょっとやそっとでは助けられない、と誰もが気がついていた。大人のひとりが、携帯電話でどこかと通話していた。だが、女の子のいる中洲が少しずつ狭まっていることが、誰の目にも見て取れる。救助隊の到着が間に合うとはとても思えないと、誰もが気づいている。だから、何もできずに突っ立っているしかないのだ。
 ただこのまま、女の子の泣き声を聞いているしかないのか?
 その時、誰かが、カヌーの脇にある赤いライフジャケットを拾った。女の子を見つめながらそれを着つつ前に出た。
 母さんだった。
 かあさん、と私は慌てて母さんの服のすそにすがりついた。母さんが今からしようとしていることが、あまりにも危険であることに勘づいた。不安でしょうがなかった。叫びながら懸命に引っ張り、行かせまいとした。母さんは、しゃがんで私の手をぎゅっと握り、何事かを私に言い聞かせた。そのとき母さんがなんと言ったのか思い出せない。私自身がわめいていて、言葉を聞ける状態になかったのかもしれない。
 母さんは私が追いすがるのを振り切るように立ち上がり、ライフジャケットのバックルをロックしつつ走って行った。私は、追い掛けようとして河原の石に足を取られて倒れた。それでも身を起こし、母さんの背に叫んだ。
 行かないで、と。
 母さんは、私の言葉を聞いていなかった、と思う。女の子の居場所を確認しつつ、川上に回り込んでから水に入り、流れに乗って助けに向かった。
 小雨が降り始めた。
 それからどれくらい経っただろう。にわかに周囲が騒がしくなった。女の子が川から助け出されたのだ。ずぶれでぐったりした女の子を、大人たちが川から引き上げている。私は、雨に濡れながら、それをじっと見ていた。駆け寄る人たち。喜びの声や泣き崩れる声が入り混じる。大丈夫? 目を開けて。よかった。助かってよかった……。
 その女の子は、母さんが身に着けていたのと同じ、赤いライフジャケットを着せられていた。
 その瞬間、私は、何が起こっているのかを、いっぺんに理解した。
 母さんが、いない。
「かあさん……。かあさん……!」
 どこ? と捜すように左右を見た。
 どこにもいない。
「かあさん……!」
 遠くで、救急車のサイレンの音がした。女の子は毛布にくるまれ、たくさんの大人たちに担がれて、河原を後にしていく。
 みんなそのことに夢中で、私の母さんがいないことに、気づいてくれていない。
「かあさんっ!!」
 私だけが声を張り上げて、呼び続けた。
 何度も。何度も。何度も――。

 その後のことは、よく覚えていない。
 ずっと川下の方で、母さんが見つかったと聞いても、噓にしか思えなかった。母さんの使っていたマグカップの縁が、いつの間にか欠けているのに気づいたのも、ずっと後になってからだった。
 父さんは、いつか撮った母さんの写真を、写真立てに入れて台所の片隅に置いた。その横に、毎日花を添えることを欠かさなかった。
 近所の人たちは、道で出会うたびにわざわざ声をかけてくれたり、親身になって話を聞いてくれたり、涙ながらに励ましてくれたりした。
 一方、インターネットには、この事故に関する匿名の書き込みがあふれていた。
《雨で増水した川に飛び込むなんて自殺行為だよ》
《泳ぎに自信があったらしいが、プールとは違うんだよ》
《他人の子供を助けて死ぬなんて、自分の子供に無責任だ》
《事故があると、川遊びが辛気臭くなって迷惑だな》
《人助けなんて善人ぶるから、こうなるんだ》
 書き込んだ人は、実際の事情など何も知らないのだろうし、書き込んだ翌日には、おそらく書いたことすら忘れているのだろう。だが書かれた方は、胸にいつまでも刺さり続ける。事故直後、顔見知りの人が、これ見て、ひどいんだ、と憤りと共に教えてくれた。私はこれらの言葉を前にして、幼すぎて意味を全部理解できなかった。だが成長し、言葉の意味を正確に理解できるようになるにつれ、そこに込められた無意識の悪意に苦しみ続けることになった。母さんを失ったことすらいまだ受け止められないのに、まるで助けた母さんが全部悪いとでも言いたげなこれら書き込みを、遺族としてどのように受け流せばいいというのだろうか?
 そんな私をよそに、台所の写真立ての中で、母さんは微笑むだけだった。

 その事故から、以前の私とは決定的に何かが変わってしまったように思う。
 ある日の夕方、ほこりの積もりはじめた母さんの部屋で、楽しかった思い出に立ち返りたくて、椅子の上に立った。そして母さんと一緒に歌った曲を歌った。
 だが、歌いはじめて、全く歌えなくなってしまっていることに気づいた。声がのどの奥で引っ掛かったようになり、口の外に出てくれない。混乱した。心の中の何かが歌うことを抑圧していた。あれ? なんで歌えないんだろう? 涙が出てきた。
「母さん」
 つぶやいた。
 ねえ母さん。私、なんで歌えなくなってしまったんだろう?
 あれほど歌うことが楽しく、必要に思えたのは、母さんが聴いてくれていたからだということは、明らかだった。
 だが、歌えないからと言って、客観的には、だからなんなのだ、ということになる。何も困らないじゃないか。歌えないとしても、誰も何もとがめない。ただ人生は続いてゆくだけだ。

 地元の中学校に進学した。ジャンパースカートの制服が、息苦しかった。
 小学校の同級生は、進学とともに街へ行く子が多く、地元に残る生徒は半分もいなかったので、中学でも複式学級になった。
 ゆえに合唱の練習などは、教頭先生の伴奏で、全学年で歌うこととなった。全学年といっても13人だった。13人しかいないせいで、私は歌わずに、口パクだけしていることがすぐにバレた。なぜ歌わないのか、事情を聞かれたが、何も言わなかった。怒られるかと思ったら怒られなかった。次の練習から私だけ見学してよし、ということになり、音楽教室の片隅でひとり座りみんなが練習するのを眺めていた。黙っているだけの、無気力な少女に見えていたかもしれない。
 でもその内部では、言葉にならない訳のわからないものが、たくさん渦巻いていたのだと思う。下校し帰宅するとたまらず母さんの部屋に入った。黄昏たそがれの光が窓からまぶしく差し込んでいた。使わなくなった食器や季節の家電なんかを収めた段ボールが、テーブルの上に積み上げられている。すっかり物置と化していた。あれから何年も経った。経ってしまった。
 私はそこにある大量のレコードを、棚の端から一枚ずつ出して順番に聴いた。何日も、何日も、何日も。ひたすら聴くことによって、荒ぶる気持ちをなんとか鎮めていた。
 だがある日、もう耐えきれないと思う瞬間があった。帰ってくるなり母さんの部屋に入ってキーボードの前に座り、レポート用紙を素早く開くと、胸の中の訳のわからないものを吐き出すために、ペンで猛然と書き始めた。吐き出さないと窒息しそうだった。紙をめくって一心不乱にどこまでも書き続けた。
 ――母さんは、なぜ私を置いて川に入ったのか? なぜ私と生きるよりも、名前も知らないその子を助けることを選んだのか? なぜ私は、ひとりぼっちなのか。なぜ、なぜ、なぜ――。
 紙を継ぎ足し、ポスト・イットで補足し、長い長い歌詞を書いた。湧き上がる音階を長く長く記譜した。どちらでもないものは、絵として吐き出した。何種類もの渦巻きだった。かわに浮かぶ渦のようでもあり、全てをみ込むブラックホールのようでもあり、頭のてっぺんに空いた穴のようでもあった。部屋の床は、歌詞と絵と楽譜が入り交じった紙片で埋めつくされた。
 が、不意に、
「…………!!」
 我に返って、筆が止まった。たった今、書き連ねた言葉や絵や音階の無価値さ、無意味さ、醜さ、どうしようもなさに、気づいてしまった。
 何をやっているのか? 心底、へきえきした。
 紙をビリビリに破った。いままで書いたものの全てを、古いスチール製のゴミ箱にちゆうちよなく捨てた。その紙の束は、今吐いたばかりのゲロに見えた。

 高校生になった。
 私は、私自身がいよいよ無価値に思えた。制服のネクタイがいよいよ息苦しかった。沈下橋をうつむきながら渡り、登校した。
 市内の中心にある中高一貫校に、試験を受けて合格し、高校から編入した。そこで、おさなじみのしのぶくんと再会した。
「鈴」
「しのぶくん……」
 小学生の頃と高校生になった今では、しのぶくんは何もかも違って、背が高く、輝いて見えた。一方、私はといえば、あの頃から全く成長していないように思えて、たまらなく気恥ずかしく、ろくに話もできなかった。私は今まで何をやっていたのか?
 山奥から街に通う新しい生活が始まったのに、勉強に身が入らなかった。せっかく苦労して試験を受けて入ったのに、授業中、ついうつろに窓の外を見てしまう。これではいけない、とわかりつつ。
 部活はどこにも入らなかった。そんな学生は極めて少数だった。
 帰り際、部活に打ち込む生徒たちの姿が見える。陸上部が、中庭で列をなしてトレーニングハードルを跳んでいる。バレー部がグラウンドをランニングしている。耳にメトロノームを着けた吹奏楽部の打楽器担当が、廊下でスティックを打ち鳴らしている。なぎなた部は格技場で姿勢良く正座し、よろしくおねがいいたします、と練習前のあいさつをしている。まだ背番号をつけていない野球部の一年生は整列して立ち、先輩たちの練習を食い入るように見ている。
 どこにも属していない私は、早足で学校を出た。
 既に冬になっていた。
 市内の中心を東西に流れる、かがみがわという川がある。緩やかな流れのことが多いので、対岸のテレビ塔やビルを鏡のように映している。その脇の道を通って駅への道を帰っていると、
「キャハハハハ……」
 楽器ケースを背負った軽音楽部の女子たちが、笑いながら軽やかな足取りで追い越していった。スクールバッグに付けた、猫型のかわいいぬいぐるみが揺れている。私のスクールバッグに付いているのは、「ぐっとこらえ丸」の安っぽいプラスチック製プレートだった。「ぐっとこらえ丸」とは、壁に手を突いてつらいことに堪える、たまご型のキャラクターだ。堪えすぎたのか、頭にヒビが入っている。もちろん、かわいくはない。

 暗く狭い廊下で、
「私、ダメ! ちょっと!」
 と私は抵抗したのだが、
「いいじゃん」
 と、部屋に引っ張り込まれてしまった。背後で防音ドアが、バタンと閉まった。
「あっ!」
 そこはカラオケボックスの派手な室内で、ピンクとパープルの照明が妖しく回転していた。お香の香りがする。クラスの女子たちだけのしんぼく会だと聞いていたが、ソファの上に立ちゆらゆら首を振る女子たちの狂乱の姿を見せられると、このテンションの中にはとても入っていけない、と思わされた。
「ペギースーかわいい」
「これ『U』で流行はやってるやつだよねー」
 壁のモニタ画面には、『U』の人気Asアズ、ペギースーが、黒のラバードレスを着て歌う姿が映っていた。銀色の髪を揺らす、紫の口紅と赤いひとみの、エキセントリックな美女。
 ペギースー? 『U』? As? 流行ってる? 何ひとつ知らない。まるで自分とは別世界の出来事のようだ。すると、
「はい」
 と、唐突にマイクが差し出された。歌って、というように。
「え?」
 戸惑った。コートもマフラーも脱いでない。なのに、
「はい」
 またマイクが向けられた。私みたいなクラスの端にいるような子に、どうして?
「みんなで歌お?」
「ねえ歌って」
 女子たちの影が、何本もマイクを押し付けてくる。どういうこと?
「ひとりだけ歌わないつもり?」
「歌えないって、ウソだよね?」
 そういうことか。
 何十本ものマイクが次々と、私の顔に無理やり押し当てられる。
「ううう、ううううう」
 痛い、止めて、と言いたかったが、言葉にならない。
「歌って」
「ねえ歌お?」
「歌えよ」
 それらの声が、どうかつのような響きを帯びてくる。
「歌えって言ってんだろ」
「歌え!」
「歌えっ!!」
 わあああっっ!
 たまらず声を上げた。
 とたん、マイクがはじけ飛び、床にバラバラと落ちた。
 ソファの上で踊っていた女子たちが、ハッとしてこちらを見た。面食らったように静まりかえっている。
「どうしたの? 鈴ちゃん」
 マイクも、女子たちの影も、幻のように消えせていた。
「な、なんでもない。ごめん。ちょっと……」
 言い終わらないままに、カラオケボックスの扉を力任せに押し開け、うように外に出た。

 歌えない、ということを、誰かが聞きつけてみんなに言ったのかもしれない。
 バスを降りると、粉雪が舞っていた。
 停留所からの坂を下ると滑りそうになった。高知でも、市内はともかく山奥では、普通に雪が降る。
 沈下橋を渡ると、パキッ、と薄い氷が割れる音がした。コンクリートの橋の表面が凍っている。
 寒い。
 みんなと馴染めるほど器用じゃないし割り切れもしない。かといって、ひとりぼっちでいられるほど強くもなく、覚悟もなく、達観もない。
 私、勝手なことなんてしないよ。歌えないって噂、そんなの噓だよ。昔から少し、自分に自信がないだけ。みんなと仲良くしたいもん。ほんとだよ。わかっているよ。もちろん、わかっている。だから……。
「あ……あ……」
 橋の真ん中で、衝動的に、声を吐き出した。
「あああ……あ……ああああ」
 息を吸い込むと、冷たい空気がのどにしみた。それでも私は、川に向かって歌った。
「あ…………あ……ぁあああああ……あ…………」
 歌った?
 歌になんかなっていなかった。ただのうなりだ。カバンが肩から滑り落ちた。歌えば、許してくれるのだろうか。歌えば、みんなと仲良くできるのだろうか。こんなところでひとり歌ってもどうにもならない。押しつぶされる前の、断末魔の叫びみたいだ。それでも、母さんと一緒に歌ったあの曲を、声を絞り上げて歌った。あの頃は、幸せだった。今は違う。川の流れに粉雪が渦巻いていた。不意に、目の前が真っ暗になった。
 胃の奥から吐き気が込み上げ、とつに両手で口を押さえた。
「うううぅぅ……!!」
 ひざをついてうずくまった。が、逆流した胃液の勢いにこらえ切れなかった。橋の下の清流に向けて、体を前に出して、おうした。
 しや物がポタポタと水面に落下して、いくつもの波紋を作った。
 胃の中のものを全て吐き切ると、そのまま橋の上に倒れた。
 髪は乱れ、口は胃液にまみれて臭い。もう、つらい。何もかも、なしにしてしまいたい。震えながら、うなるように泣いた。涙のしずくが、冷えた頰にみて、ヒリヒリと痛かった。私なんかいなくなればいい。粉雪が折り重なり積もるわずかな音が、すぐそばで聞こえた。そこに、
 ブーン。
 カバンから滑り落ちたスマホに、通知が来た。ヒロちゃんからのメッセージだった。
《これ見て鈴。すごすぎてマジで笑うから》
 どこかへのリンクが貼られている。

『U』

 家に戻って、MacBook を開いた。
 寒さに震えながら、ヒロちゃんから送られたリンクをクリックした。
 ブウウウウン……、という波動のような音と共に、真っ暗な画面に、『U』の文字がゆっくりと浮かび上がる。
「……『U』?」
 吐瀉物にまみれたボロボロの私の顔が、モニタの光に照らされた。
 インビテーションページが立ち上がり、メッセージが表示される。

 『U』はもうひとつの現実
 「As」はもうひとりのあなた
 現実はやり直せない
 でも『U』ならやり直せる
 さあ、もうひとりのあなたを生きよう
 さあ、新しい人生を始めよう
 さあ、世界を変えよう――

「…………!!」
 私は、寒さも忘れ、見入っていた。
 横に置いたスマホが連動して、自動的にアプリが起動した。
 MacBook のモニタに、登録画面が現れた。「NAME」とある。
「名前……」
 ちゆうちよした。抵抗感があった。が、気持ちとは裏腹に、キーボードに手が伸びる。
「S」「u」「z」……。
 たどたどしく打ち込む。
「u」。
 その瞬間、強い不安が沸き起こった。私は衝動的にデリートキーを連打して消去し、開いたドアを閉めるように MacBook を閉じた。
「…………」
 身を丸め、震えながらため息をついた。

「わたし、ルカちゃんのとなり」
 中庭のベンチに、ルカちゃんを見つけた。
 女子たちが身を寄せ合って、ルカちゃんを囲んでいる。もうすぐ一年生も終わりだから、仲良しみんなで写真を撮ろうということのようだった。
「渡辺さんの横座ろー」
「えーずるいー」
「ルカちゃんのそばがいいー」
 ピロティの柱の陰から私は、輝くルカちゃんの姿をあこがれるように見た。ルカちゃんと一緒に写真に写ることのできる彼女たちが、うらやましかった。
「渡辺さんこっち向いて。撮るよ」
 と、カメラ役の女子が促して、ルカちゃんは前を見た。それから、ふと気づいたようにこちらに向かって大きく手を振った。
「あ。鈴ちゃーん!」
「え?」
 ぎょっとなる私に、ルカちゃんは手招きした。
「鈴ちゃんも入って!」
 女子たちが一斉に、私を見た。なぜ? と顔に書いてある。私は慌てて柱に隠れ、それから少しだけ顔を出して、手のひらを向けた。
「い、いいよ、私」
 でもルカちゃんは構わず、手招きを続けた。
「早く早く!」

 あとで、画像が送られてきた。
 ルカちゃんを中心に、かわいくVサインする女子たちの集合写真。
 そこに交じって、そばかすだらけの私の顔がある。ルカちゃんのすぐうしろの位置。背後霊のように、気まずくVサインしている。
 再度、『U』に登録しようとした時、顔写真を求められた。自分の顔写真なんて持っていない。カメラをわざわざ自分に向けることもない。
 なので、この時の画像を、登録用に使った。
 顔認識マーカーが全員に表示される。どれがあなたですか、とある。カーソルを動かして、ルカちゃんの背後のそばかす顔を、選択した。
《新規Asを、A・Iが自動生成しています……》
 と文字が出る。併せて、《Asとは》、と、注釈がある。《『U』におけるアバターの呼称であり、もうひとりのあなたです》
 もうひとりの、あなた。
 まもなく、レンダリングされたAsが表示された。
「あれ……?」
 そこには、私なんかとは遠くかけ離れた、恐ろしいほどに美人のAsがいた。私じゃなく、むしろルカちゃんにそっくりと言っていい。
「ルカちゃん? なんで……」
 A・Iは、私の画像のすぐそばに写っていたルカちゃんと混同したのだろうか? だとしたら、なんてそそっかしい人工知能だろう。間違いは正さねばならない。すぐに戻るボタンを連打した。
「違う。戻る戻る。キャンセル……」
 が、不意にボタンを押す手が止まった。
 Asの両頰に、赤いはんてんのような模様が、はっきりと描画された。
「そばかす……」
 思わず自分の頰に手をあてた。私のなのではないのか?
「ひょっとして、私……?」
 登録画面の「NAME」の欄に、ゆっくり一文字ずつ、打ち込んだ。今度は「Suzu」ではない。
「B」「e」「l」「l」。
「Bell」=「鈴」。
「……ベル」
 名前を決めると、目の前のAsが、急にいとおしく思えてくる。
 画面に「キャンセル」と「OK」のボタンが表示され、選択を迫っている。
「どうしよう……」
 この美人Asを私とするには、度胸がなく、気後れしてしまう。
 一方で、どんなに現実の私とかけ離れていようがいいじゃないか、とも思う。むしろかけ離れているのがネットの世界じゃないのか。SNSでは派手な名前やアイコンをつけている例はいくらでもある。『U』は仮想世界で、Asは仮想人格だ。プライバシーは厳格に守られ、匿名性は厳密に保障されるとうたってある。ならば誰にもとがめられるものではないはずだ。
 ならば、と思い、次の瞬間には、でも、と迷う。
 そもそも『U』のA・Iは、どうして私に向けて、こんな美人のAsを自動生成したのだろう? たまたま不確定性の生み出した偶然にすぎないのか? もしくは、私の心の奥にある本当の欲望を、見透かしているのだろうか? それとも……。
「キャンセルか、OKか」
 選択のときだ。
 デスクライトしかついていない深夜の勉強部屋。MacBook の画面の前で、私は決意してゆっくり息を吸い、整えた。
 ――さあ、もうひとりのあなたを生きよう――。
 頭の中で、『U』のメッセージがリフレインした。
「カチッ」
 私は、OKをクリックした。
 その瞬間、まるで準備していたかのように、スマホの『U』アプリが自動的に起動した。落ち着いたトーンの声のアナウンスが聞こえてくる。
「デバイスを装着して下さい」
 指示画面の通り、ケースからイヤフォン型のデバイスを取り出し、耳に装着した。
「あなたの生体情報を読み取っています……」
 デバイスにある『U』の文字が、青く揺らめくように光る。耳のデバイスたったひとつだけで、生物としての人間のあらゆる情報をスキャンできるらしい。しかもごくわずかな時間で。
「完了」と、アナウンスは告げた。
 それから、まるで確認をとるかのように続けた。
「ボディシェアリングを開始します」
 ブウウウン、と何かが高速で回転しているような音がする。頭の周囲を、密度の高い空気が覆っていくような感触があった。それはデバイスが展開する、強力な磁場がもたらしたものであるらしく、その影響なのか、まるで無重力空間にいるように髪がふわりと持ち上がってゆく。
「最初に、視覚が制御下に入ります」
 磁場の感触が、後頭部に集中してゆくように感じられた。
 ゆっくり、薄目を開けた。
「……あああ……!!」
 まぶしいほどの白い光が、目の中に飛び込んできた。
 布だ。
 十メーター以上はあろうかという白い布が重なり合い、バタバタと風をはらんで、はためいていた。
 自分の体を確かめるように見て、どきりとした。
 私の足が、宙に浮いている。
 まるで天国からのお告げのように、アナウンスが反響して聞こえる。
「その他の認知機能、および四肢の深部感覚が制御下に入ります」
 なんということだろう。その非現実的空間に、言葉も出なかった。全身から汗が噴き出し、心臓がドクドクと高鳴る。
「あなたの登録したAsへ、身体主体感と身体所有感が移動します」
 後方から、何かがゆっくりと近づいてくる。
 ピンク色の髪。さっき登録したAsの「影」だった。だが顔はのっぺらぼうで、まるで何も盛り付けしていないお皿のように白い。
「………!!」
 ただただぼうぜんとするしかない私と、そののっぺらぼう――Asの「影」が重なってゆく。自分の中に、別の身体が入り込んでくるような感覚が、気持ち悪い。Asの影は、まるでフォーカスを合わせるように、位置を前後に移動して微調整していたが、すぐにピッタリとフィットした。途端に、先程までの気持ち悪さはどこかへ消えせていた。
 はためく白い布の向こうに、大きな白い扉が見えてきた。
 私はゆっくりと近づきながら、両手を伸ばす。
 アナウンスが、告げた。
「ようこそ。『U』の世界へ」
 扉に両手を押し当て、勢いよく開いた。

 バンッ、と外へ飛び出すと、視界を埋め尽くすほどの高層ビル群がそびえていた。
「あ……!」
 立体的に交差するにぎやかな大通りには、大勢の人々――人間ではなくAs――が宙に浮かびながら行き交っている。動物や昆虫、海洋生物を模したAs、花瓶や三角定規、自転車を模したAs、フィクションの中に出てきそうな半獣や女神、戦士を模したAs……、その他、想像力が及ぶ限りの、ありとあらゆる姿をしたAsたちが、大声でおしゃべりをしながら飛び交っている。
 夜空を見上げると、瞬く満天の星――ではなく、逆さにり下がった高層ビルが放つ、無数の窓の光が瞬く。
 もうひとつの現実。もうひとつの世界。
 ここが、『U』なのか。
 粉雪が舞っている。少し、肌寒い。
 わたしが粉雪を手のひらに取ろうと、両手を広げたとき、白い腕と、細く長い指が目に入った。
「………!」
 身体感覚の違いに驚き、自分の体を確かめるように見た。
 細い体と長い脚が、まるで生まれたてのような白いドレスに包まれている。
 これが、わたし?
 ――もうひとりのあなたを生きよう――。
 と、『U』のメッセージが、頭の中でリフレインした。
「…………!!」
 そこで、複数の目線に気づき、はっとして前を見た。
 雑踏の中の、幾人かのAsたちが、こちらを見ている。が、チラリと見た程度ですぐに行ってしまう。きみは確かに、まあちょっとは美しい部類かもしれないけれど、でもここは『U』だよ。その程度ならここでは何も珍しくないよ、とでも言わんばかりに。
 そのことは、好都合だった。誰も顧みない。なら、ずっとしてみたかったことができるかもしれない。
 わたしは顔を上げると、大きく息を吸って、試しに声を出してみた。
「――」
 声は、紛れもなく自分の声だった。思ったよりもずっと、のびやかに出る。そのままストレッチがわりにこうを共鳴させるようにハミングしてみた。想像したよりスムーズに鳴る。身体が仮想だから都合よく補正されているのか? でも自分の意識とかけ離れた音が出ている感覚は全くない。スキャンされた生体情報が正確なせいなのか?
 ともかく、
「歌えた……!」
 ということが信じられない。
 粉雪が幻想的に舞う中、わたしの声が、高層ビル群に、何重にも反響している。
 まともに歌ったのは、何年ぶりだろう? ブランクがあるのに、それも準備運動もしていないのに、すぐにイメージ通りの声が出せていることが、たまらなく不思議だった。すごい自由を手に入れた感覚もあり、同時に少し怖くもある。生体情報がどのように変換されてこのアウトプットになっているのだろう? Asとは何なのだろう?
 ともかく、
「ああ、やっと歌えた……!!」
 このことだけは、とてつもなくうれしかった。
 わたしは腰を据えて、ちゃんと歌詞のある歌を、しっかりと歌ってみることにした。もちろん伴奏はないが、構うものか。

歌よ 導いて
こんな小さなメロディが
貫いていく世界が見たいの

毎朝起きて 探してる
あなたのいない未来は
想像したくはない 嫌なの


 歌うわたしの周囲を、様々な言語に翻訳された歌詞が、いくつもの帯になって取り巻いている。ゲール語、タイ語、ペルシャ語……、あらゆる言語が重なり合う。歌を検知すると、設定もなしに自動的に表示されるのだろうか? さらに種類は限られるが、いくつかの言語で歌う合成音声も薄く聞こえる。そのおかげなのか、
「ん……?」
 無視していたはずのAsたちが、ふと振り返って、こちらを見ている。
「あ……?」
 ビル街のたくさんのAsたちが、次々と宙に止まって見ている。そんなつもりはなかった。ボディシェアリングと言われる技術の具合を確かめようとしたにすぎなかった。なのに、思ったよりたくさんのAsが集まって、聴いている様子だ。まるでヴァーチャルな世界のストリートミュージシャンみたいだと考えると、とても気恥ずかしい。しかし途中で止めるわけにもいかない。最後まで歌ってみよう、わたし自身のために。そう思って続けた。

でももういない 正解がわからない
私以外 うまくいっているみたい
それでも 明日あしたはくるのでしょう? 歌よ導いて

嫌になる みんな幸せなの? 愛している人がいるの?
こうしてひとりでいると不安になる

歌よ 導いて
どんなことが 起きても

歌よ 傍にいて
愛よ 近づいて


 聴いていたAsたちから、コメントを表示するフキダシが、次々と出た。
《これなに?》《どこの誰が歌ってるの?》《不思議な曲》
 最初は様子を見ているような、慎重な内容だった。
 が、次第に遠慮がなくなっていった。
《うるさい》《変な曲》《気取ってんじゃねえ》
 などと騒いでいるのは、なぜか、そんなことを言いそうにないような、かわいい外見のAsばかりだった。フリフリのピンクのドレスを着ていたり、小さな動物だったり、クマのぬいぐるみを抱いた赤ちゃんだったり。
《ルックスは悪くないけど》《何そのソバカス面(笑)》
 様々なつぶやきが、歌っている間にも飛んでくる。気にしない。わたしはわたしのために歌っているんだ。が、流石に、投げつけられる言葉に、傷ついた。言ってくるのは決まったごく少数だというのが、こちらからも見える。つらかった。それが顔に出ていたのかもしれない。さらに言葉はエスカレートした。
《きもち悪い》《やめろ!》《やめちまえ!》
 気持ちがくじける前に、なんとか歌い終えた。
 騒いでいたAsたちは、やれやれとため息をつくと、ふんっ、と鼻息を残し、去っていった。
 わたしは落胆した気持ちのまま、見送るしかなかった。
 そこへ、
「ベル」
 名を呼ばれて、上方を見た。
「……あ」
 何かが滑り込むようにやってきて、
「え?……あ」
 キラキラ光るりんぷんを散らし、いつたん下へぐるりと回り込むと、わたしの手の上に、ゆっくりと止まった。
 白いようせいのような、天使のような、クリオネのような、不思議なAsだった。
 よく見ると、まるでわらびもちのような繊細さで、体が透けているのがわかる。両手の羽をゆらゆら動かしながら、ちょっとたどたどしい口調で言った。
「キミハ、ステキ。キミハ、キレイ」
 そう言ってくれて、わたしは救われた気がした。
「……フフフ。ありがとう」

 目が覚めたら、朝になっていた。
 いつの間にか、ベッドに突っ伏していた。
 昨夜のことは、夢だったのだろうか? それにしては生々しい実感が残っている。確かめるために手元のスマホを見た。
 自分で作ったベルのプロフィールページがある。
 夢じゃなかった。
 ベルのアイコンの下に目をやると、フォロワー数を示す欄がある。
《Bell 0 followers》
 その数字は、ゼロ。
「フォロワーは、なし……」
 画面を見つめながらつぶやいた。「世界なんて、何も変わらない」
 別に求めたわけじゃないのに、少しがっかりしたような気持ちになった。
 と思ったら、ピンッ、と通知音が鳴った。
 見ている目の前で、フォロワー数が「1」になった。あの天使Asだ。コメントのフキダシが出る。何も書かれていない空白だったが。
 私はスマホを置き、ベッドの上であおけになって、昨夜のことを思い返した。予定外のことはいろいろあった。が、
「でも、やっと、歌えた……」
 なにより、そのことに、胸がすっきりしていた。冬の朝の光が、いつもよりまぶしく見えた。こんなすがすがしい気持ちは、久しぶりだった。
 続いて、ふたつ目のフォロー通知があった。ヒロちゃんだった。丸い帽子をかぶった、鳥型のかわいいAsだ。
「Re:はじめてみました」のコメントには、
《ヒロです。鈴(Bell)最高。私何でもやるし》
 と、あった。

流転

 その後、『U』にベルを登録したことで、何か大きな変化があったかというと、何もなかった。フォロワーも特に増えなかった。何日かごとに、フォローされた通知を受け取ることがあったが、確認もせずそのまま放置していた。仮想世界のことを気にかける暇もないほど、何も悩ましいことが起こらない、穏やかな日常を楽しみ、私は満ち足りた気分でいた。
 春になった。
 朝、沈下橋を渡る。前みたいに下を向かずに、前を見てずんずん歩いていける。スクールバッグにつけた「ぐっとこらえ丸」のプレートも、跳ねるように揺れている。自分も跳ねながら歩けるのではないかと思うほどに、足が軽い。なんともいえないサバサバした、いい気分だ。『U』で歌えただけで、こんなにも気分が変わるものなのだ、と自分でも驚く。
 私はここにきて、やっと普通の高校生になれた気がした。
 新二年生になった。ちゃんと黒板を見て、前向きに授業を受けた。昼休みは、ヒロちゃんと待ち合わせて、購買へ急いだ。生徒でごった返すパン売り場で、たくさんの種類のそうざいパンを吟味した。教室に戻って食べながら、ヒロちゃんは最近読んだ本の感想をまくし立てる。人類史の概観といくつかの重要なターニングポイントについて。自由競争と平等の矛盾について。科学の発展と人間の精神のアンバランスさについて。等々。
 学校帰りに、好きなバンドの新譜をイヤフォンで聴きながら、ダラダラとひとりで寄り道をした。行ってみたかった甘味処でソフトクリームを食べた。教会の前のひなたに寝そべる白猫をしゃがんででた。夕方の空を見ながら川沿いの道を帰った。
 夜、ゆっくりとおかって、のんびりした。髪を乾かしてパジャマに着替え、今日の授業のノート整理と、明日の予習をした。
 何事もなく、日々は過ぎていった。
 いつの間にか、初夏になった。
 太陽の光が眩しいほどに反射するグラウンドを、ランニングした。体育の授業。みんなは、だるー、とか、あつー、とか、吐きそうー、とか言いつつ、気だるく走っている。ところが私は内心、楽しくて仕方がない。体育の時間はいつもゆううつだったのに、今は違う。気持ちが軽い。どこまでも走っていけそうだ。
 気持ちよく汗をかいて、教室に戻り、体育着から制服に着替えた。授業はこれで終わりだ。放課後、今日はどこを寄り道して帰ろうか。気持ちの良い風がカーテンを揺らしている。ネクタイを締め、体育着をバッグにしまい、それからスマホを見た。ベルがフォローされました、と通知がある。私はなにげに、『U』アプリを開いた。
《Bell 32460428 followers》
 と、ある。
「え……?」
 なにこれ?

 フォロワー数は、3000万以上。
 しかも見ている目の前で、すごい勢いで増加している。
 なぜ?
 粉雪の舞うあの夜、ベルがアカペラで歌った動画が、短時間の間に世界中で大量に再生されていた。なおかつ、それにひもけされて、いくつもの関連動画が上がっている。
「関連動画、って……?」
 ベルのシンプルなアカペラに、勝手に音が足され、コードが調整され、至極真っ当なポップスに仕上げられていた。誰? こんなことしたの? と思ったら、誰かが面白がって、ベルの声をボコーダーでロボットにへんぼうさせた。え? と言う間もなく、それとは真反対のとんでもなく上品なジャズバンドの伴奏に変わる。かと思えばすぐに、男臭いロックバンドの重厚なサウンドにすり替わった。何何? と目を丸くして見ていると、様々なジャンルのアレンジが、慌ただしく通り過ぎてゆく。ヒップホップ、弦楽四重奏、レゲエ、民謡、ボサノバ、EDM……、あらゆる音楽ジャンルを横断し、高度な楽器演奏技術を駆使してベルの歌を当てはめていた。それらが集合し、共同作のようなひとつのイメージに集約してゆく。さながらオーケストラによる壮大なオペラ組曲のようだった。
 それだけじゃない。
 シンプルな白のロングドレスを着ていたベルは、実に様々な衣装を着せられて、あちこちに拡散していた。着替えるたびに、ベルの印象が目まぐるしく変化した。ポップアイドル、オペラ歌手系、90年代グランジ、スポーティー、20年代フラッパー、マニッシュスタイル、パワードスーツ、サイバーゴス、ライダース系、ツナギ系、特攻服系、サイクリング系、UFC格闘系、ブレードランナー系ビニール、モダン着物、ベースボールユニフォーム……と、挙げ出せばきりがない。
『U』にむ無数のAsたちが、世界中からフキダシで発言している。
《なにこれすげー》《聴いたことない》《アレンジ遊びすぎだろ》《歌うめーよマジで》《個性的な美人》《この曲なんて曲?》《検索しても出てこないよ!》《衣装の世界観かなりイカれてる》《気になって仕方ない》《誰かベルについて教えて!》
 フキダシが増えるほどに、フォロワー数も刻々と増え続けた。
《Bell 38641027 followers》
 劇的に、と言っていいほど、ベルは拡散していた。
 するとそれを遮るように、『U』の人気As、ペギースーが、
「ベル? ああ、少し聴いたけど、あんな子全然たいしたことない。でしょ?」
 と高級そうなソファにもたれかかり、下級生を見下ろすような余裕ある表情で語った。
 このインタビュー動画に、ベルに批判的なAsたちが同調し、急に活気付いた。
《そうだそうだ!》《耳障り》《大げさな美人ってだけ》《セクシーを売りにしたいの?》《下品》
 ネットの典型的な悪口から始まり、フキダシが次々と湧き出て場は燃え上がった。
《作曲法の基本がなってない》《100パー編曲のおかげ》《曲と衣装が合っていない》《詞も個人的すぎる》
『U』に現れて間もないのに、早速批判的なAsたちはベルを徹底的にたたいた。
《作家性アピールしたいわけ?》《人任せで努力もしてないくせに》
 批判フキダシが画面を埋め尽くし、もはやベルの動画が見えなくなってしまうまで増殖した。
《音楽を軽く見るな!》
 批判者は、声を揃えて大声で叫んだ。
 が、結局それも、小さなごく一部での出来事でしかなかった。
『U』は、彼らが思っているより、広大だった。
《でも……》《なぜかこの歌、気になる》《どうして?》《なんで?》
『U』は、噓のニュース、悪意や偏見、わざと過激に見せる意見などにユーザーが左右されず公平に意見を見られるように、既存のSNSサービスにはない独自の強力な検証システムが実装されている。それを証明するように、最初「批判的」に見えたベルの評価は、時間が経つごとに「肯定的」へと逆転していった。
《僕のために歌ってくれている気がする》《私にだけ聴かせてくれているみたい》《いや俺のために》《ううんわたしだけのために》《なぜ?》《なんで?》《どうして?》
 ベルにまつわる、さまざまな言説、無数の画像、無数の動画がモザイク画のパーツのように寄り集まって、複数のウインドウが組み合わさり、一枚の大きな絵を描き出した。
 それは『U』に集う人々の意識が総体としてイメージしている「ベル」という存在そのものだ。
 背中には、白く大きな翼が広がっていた。
 まるで『U』に舞い降りた、光り輝く天使のように――。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

来週11月28日(金)は『時をかける少女』を放送予定! お楽しみに!
※放送日は予定のため、予告なく変更する場合があります。ご了承ください。

作品紹介



書名:『竜とそばかすの姫』(角川文庫)
著者:細田 守
発売日:2021年06月15日

もう、ひとりじゃない。細田守監督が自ら書き下ろした原作小説!
高知の田舎町で父と暮らす17歳の高校生・すずは、幼い頃に母を事故で亡くし、現実世界では心を閉ざしていた。ある日、親友に誘われたことをきっかけに“もうひとつの現実”と呼ばれるインターネット上の超巨大仮想空間〈U〉に「ベル」というアバターで参加することに。ずっと秘めてきた比類なき歌声で瞬く間に世界中から注目される歌姫となったすず(ベル)は、〈U〉の中で「竜」と呼ばれ恐れられている謎の存在に出逢う。凶暴ながらもどこか孤独な竜との出逢いをきっかけに、すずは自分の中にある迷いや弱さと向き合っていく――。歌が導く奇跡の出会いと成長の物語!

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映画『果てしなきスカーレット』情報

キャスト:
芦田愛菜
岡田将生
山路和弘 柄本時生 青木崇高 染谷将太 白山乃愛 / 白石加代子
吉田鋼太郎 / 斉藤由貴 / 松重豊 
市村正親
役所広司

監督・脚本・原作:細田守
企画・制作:スタジオ地図
公開日:2025年11月21日(金)
©2025 スタジオ地図

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