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試し読み

【試し読み】「サマーウォーズ」TV放送記念! 小説版試し読み大公開!

細田守監督作品「サマーウォーズ」が日本テレビ「金曜ロードショー」にて本日21時より放送されます!
ちなみに本日、8月1日は「サマーウォーズの日」! 16年前のこの日に劇場公開があり、物語の重要人物の一人である栄おばあちゃんの誕生日でもあります。
番組の後半では11月21日に公開の細田守監督最新作「果てしなきスカーレット」のテレビ初公開映像の放送も! ぜひリアルタイムでお楽しみください!

TV放送を記念して、小説版の試し読みを大公開!!
ぜひ小説でも「サマーウォーズ」の世界をお楽しみください!!

世界を救うのは、家族の絆!? ひと夏の戦いの目撃者に、君はなる
数学しか取り柄がない高校生の健二は、憧れの先輩・夏希に、婚約者のふりをするバイトを依頼される。一緒に向かった先輩の実家は田舎の大家族で!? 新しい家族の絆を描く熱くてやさしい夏の物語。

岩井恭平『サマーウォーズ』(原作:細田 守)試し読み


序幕


 押し寄せるぞうひようらす、戦国武将の気分だった。
 時は現代。世は平穏。
 21世紀に突入して一段落した日本国に、刀を振りかざす兵馬がいるはずもなく。
 駆るは馬ならぬ、高校生活2年間プラス数カ月の登下校で苦楽をともにしたママチャリ。
 戦場である都会を取り囲むのは雑兵ではなく、あらゆる雑音ノイズ
 たった今、くぐり抜けた高架線からは中央線を走る快速列車の振動が響き、国道を走る自動車はエンジン音とクラクションをかき鳴らして渋滞を作っている。歩道を歩く通行人は携帯電話を相手におしやべりをして、アルバイトの若い男女が宣伝文句を口にしながら道行く人間にポケットティッシュを押しつけている。
 そびえ立つ高層ビルディングがきらめき、ママチャリを駆る彼女に向かって容赦なく反射光を浴びせかける。制服のワイシャツはよく風を通したが、背中は竹刀袋と密着しているせいで、じっとりと汗ばんでいた。ガタン、と車輪が段差を踏んだ衝撃で、自転車のカゴに斜めに放り込んでいたかばんが一瞬、浮き上がった。
「はっ……はっ……」
 やや前のめりの体勢で自転車をぐ、自分の息づかいが耳元で聞こえた。身体を傾けて角を曲がり、下り坂でスピードに乗る。
 クラクションのけんそうが遠のき、代わりにシャワシャワという蟬の鳴き声が降り注いだ。
 新宿中央公園に飛び込んで、ショートカット。たちこめる自然の匂いと、顔を上げれば大きな樹と高層ビルディングが重なってそびえ立つ光景は、嫌いではない。自分の名前に含まれていることもあって、彼女は一年間でこの時期が一番好きだ。
 マウンテンバイクのアクロバットや、ダンスの練習をしている水の広場を、一直線に横切る。“ナイアガラの滝”がみず飛沫しぶきを上げているせいか、ここだけ少し涼しい気がした。
「はあっ」
 公園を飛び出し、大きく息を吸い込む。交差点にさしかかって減速するが、タイミングよく青信号に変わったことで、身を乗り出して再加速。
 都会は、嫌いではない。目まぐるしく変わる日常にほんろうされるのも好きだし、にぎやかで忙しいのも性に合っている。一人よりも大勢のほうが楽しいし、一生懸命な人たちに囲まれると血が騒ぐ。――っと、「血が騒ぐ」なんて言ったら、ご先祖自慢ばかりしているしんせきのおじさんに似て、とまた両親に笑われるだろうか?
 ママチャリを漕ぎ続け、セミロングの髪が汗で額に張りついた頃、高層ビルの谷間に見慣れた空間が現れた。
 おん高等学校と銘打たれた二つの石柱に挟まれた正門を抜けると、広いキャンパスが眼前に拡がった。この学校には、学寮も含めて六棟が敷地内に散らばっている。
 正門から校舎につながる通りには、制服姿の生徒がまばらに歩いていた。両脇に並ぶ樹々からこぼれる日射しが、駆け抜ける自転車を点滅させる。そのまま自転車置き場に向かうと見せかけ、彼女はハンドルを左に切った。
 段差を乗り越え、グラウンドに進入すると、ソフトボール部の掛け声が聞こえた。ネット前でノックをする小気味良いバットの音が響き渡る。
「っと」
 部室棟に向かって進む彼女のスカートから、軽やかなメロディが響いた。ブレーキに人差し指と中指をかけて減速しながら、携帯電話を取り出す。ペダルを漕ぎながら二つ折りになったそれを開くと、液晶画面に黒い縁取りの円の中にかりを描いた家紋が表示された。
「わっ、大おばあちゃん?」
 ボタンを押すと、コンピューターグラフィックで描かれた家紋の中の雁が動き、クチバシで何かを投げつける動作をした。白い長方形が、画面の中で回転しながら拡大する。
『例の人、本当に連れてくるんだろうね?』
 メールだ。差出人はじんのうちさかえとある。
 返事を急かすようにクチバシを動かす雁のキャラクター――曾祖母のアバターを見て、自然となつかしい匂いを思い出す。
 濃い緑と山々に囲まれた、本家の屋敷。
「あっ、わっ! ゴメン!」
 危うくストレッチ中の陸上部員をきそうになってしまい、振り向いて謝る。バランスを崩しながらも、部室棟の前で自転車を停める。
「だ、い、じょ、う、ぶ、っと……」
 自転車の横で携帯電話を操作する彼女のそばを、「せいっ、おうっ」という掛け声とともに野球部の部員たちが駆け抜けていく。その中の何人かが、前髪を垂らして画面と向き合う彼女のことを振り向いたのが分かった。ぼうっとした顔でこちらを見つめる部員を、先輩がすぐに「よそ見してんな」と小突く。
「よし。送信!」
 携帯電話を掲げ、送信ボタンを押す。
「……もう後に引けないな」
 ぽつりとつぶやいて、彼女――しのはらなつは部室棟に向かって駆け出した。
 そんな夏希の手の中、携帯電話の液晶画面で、白い封筒をくわえた雁が羽ばたいた。画面の奥に浮かぶロゴマークに向かって飛び立つ。円形と台形が重なったかぎあなのようなデザインとともに描かれた、たった二文字。
OZオズ”と名付けられた巨大電子空間の中へと、雁の翼が吸い込まれていった。


一の陣


 * log in … *

『ようこそ、OZの世界へ』
 暗闇しかない空間に、女性の声でアナウンスが響いた。
 はるか前方に光る点が生まれた。それは輝くパネルとなり、回転しながら急接近する。パネルには前方後円墳、あるいは鍵穴のようなマークの上に“OZ”というスペルが描かれている。
『OZは世界中の人々が集い、楽しむことができる電子ネットワーク上の仮想世界です。アクセスはお手持ちのPC、携帯電話、TVなどから簡単に行えます』
 ロゴマークが点滅した。OZの“O”の文字が入り口となり、その向こうに拡がる世界へ飛び出す。
『それでは、これからOZの世界を体験してみましょう』
 現れたのは、パステルカラーに染まった大空。文字通りスカイブルーの青空に、触れればはじけそうな、表面がツルツルの白い雲が浮かぶ。
 視界が雲間をすり抜けていき、やがて巨大なオブジェを発見する。大きさの異なるボールをいくつも積み重ねたような、奇妙な塔だ。塔の中核にあるのは、耳と目がくっついた猫の頭で、上は空の彼方かなたまで、下は底の見えないらくまでトーテムポールのように球体が連なっている。また塔の周りにはドミノのように板状の建築物が浮かび、ミニチュア模型のような都市を形成していた。
『ここがOZの中心地です。中央にそびえているのはOZのシステムを統括する場所で、中央タワーといいます。可愛らしい猫のデザインをした管理センターが特徴的ですね』
 中央タワーの周辺には、土星の環のように小粒の何かが漂っていた。それらは魚群のように整然と列を組んで、こちらへと接近し――一つ一つがポップな姿形をしたキャラクターの群れだと分かる。何十本もの触手を動かすタコや、金属の筒を手足としたロボット狼。キャップ帽をかぶり、ケープをまとったうなぎ。紙切れのようにぺらぺらな猿。表面に目と鼻と口を描いたギヨー。多数のキャラクターを頭の上に載せたがいこつ。――その姿形は様々で、統一性がまったくない。
『OZを利用するにあたって、まずはあなた自身のアバターを設定しましょう』
 軽やかな電子音とともに、大きなパネルがアップに迫った。中央の枠組みに、コンピューターグラフィックの人形が登場する。人形の周りには小さな枠で、頭や手足など各部位にあたるパーツが揃っていた。
『アバターとは、OZでのあなたの分身です。ヘアスタイル、服、体型など、あなたの思うままに着せ替えできます』
 パーツが、次々と選択された。人形の頭がボール型になったり、たてがみが生えたり、きばを生やしたりと次々と移り変わる。
『かわいいアバターができましたね』
 完成したのは、テンガロンハットをかぶり、首にスカーフを巻いた二等身のウサギだった。元気にジャンプし、パネルの外へ躍り出る。
 テンガロンハットのウサギがOZの世界をしようする。中央タワーの外周には、高速道路のようなルートが浮かんでおり、そこに映し出された鍵穴から、次々とアバターがOZの世界へと飛び込んでくるのが見えた。
『あなたの個人情報は、高度なセキュリティによって厳重に守られます。リラックスして、この世界を楽しみましょう』
 ウサギが他のアバターとともに、中央タワーの上空を旋回する。
『ショッピングモールでは、世界中の音楽や本――』
 塔の周囲に浮かぶ都市へ、急降下。並び立つ建物の一つへ飛び込むと、広大な面積に本棚がズラリと並んでいた。果ての見えないフロアには無数のアバターが行き交い、本を抱え、CDを頭の上に掲げていた。『BUY!』というメッセージを浮かべ、大きな口からみ込んでいるアバターもいる。
『映画、家具』
 ウサギが飛翔し、建物から飛び出す。
 ピラミッドのような形をした建物をのぞくと、ミニサイズの車や建物が並んでいた。
『自動車、不動産』
 上昇し、おわんのような形をしたエリアを訪れる。企業名のロゴが描かれたお椀の上には、さらに小さなお椀がいくつも浮かんでいた。そのそれぞれに南国風のリゾート施設、ラクダが歩く砂漠、パウダースノーが積もった雪山など、別世界が拡がっている。
『旅行プランなど、ありとあらゆる買い物ができるのです』
 ウサギがショッピング街を抜け、タワーの反対側へグルリと旋回した。無数の球体が浮かんでおり、その中の一つに飛び込む。
 球体の内部は、大勢のアバターで混み合っていた。にぎわうアバターたちの頭上でクマが振り返り、口を開く。
『ところで、わたしたちになくてはならないもの』
 ウサギの頭上に現れたえんの中に、<外字>By the way, thing necessary for us<外字>という文字が浮かんだ。マンガに出てくるセリフ、いわゆるフキダシがクマの口から飛び出す。
『それはコミュニケーションです!』
 楕円形のフキダシがトゲトゲの形に変わり、<外字>It is communication!!<外字>と表示された。
 フロアにいるアバターの一人から、フキダシが飛び出した。たちまち英語、フランス語、日本語など、あらゆる言語に変換されたものへと分裂する。
『OZではあらゆる言語が一瞬で翻訳されるので、世界中の人々と楽しく会話することができます』
 首のスカーフをはためかせ、ウサギが旋回した。コミュニティエリアを離れ、近代的な高層ビルが立ち並ぶエリアに入る。
『OZでは、ビジネス環境のサポートも万全です。世界中の企業がOZに出店しており、利用者個人がオフィスを構えてビジネスを始めることも可能です』
 ビル群を飛び越え、一直線に雲間を抜ける。すると今度は、目まぐるしく文字や数字が躍る板が見えた。何十、何百という情報パネルの列である。
『さらに多くの行政機関や地方自治体が、ここ、OZに窓口を置いています。納税や各種手続きを全てこちらで簡単に行うことができるのです』
『最後に、OZの守り主を紹介しましょう』
 世界各国を模した島が浮かぶエリアの上空を見ると――島よりも大きな“何か”が、通り過ぎていくのが見えた。
『ジョンとヨーコです』
 水彩絵具で描いたような、二頭のクジラだ。宙に浮かぶ群島を一吞みにしてしまいそうな巨体を揺らし、水なき大空を泳いでいる。頭の上に円状のビルディング群をいただいた姿は、まさに王冠をかぶった王様である。
 OZ全体が、ビリビリと震えた。ジョンとヨーコが、強烈な発射音とともに背中から一条の潮を噴き出したのだ。潮はミサイルのように空に向かって飛び上がり――。
 赤、青、黄、紫、とまばゆい輝きを放ちながら、弾ける。
 すると後を追うように、OZ中から花火が上がった。ショッピングエリア、コミュニティエリア、ビジネスエリア、そして行政エリアと、あらゆる場所が花火の明かりと、アバターたちの歓声で包まれる。ウサギのアバターもうれしそうに、空中でクルクルと回った。
『さあ、あなたもOZでの快適な生活をはじめましょう――』
 アナウンスの声が、遠のいていく。
 歓声が小さくなっていき、楽しげに踊るウサギの姿が、プツンと消え、暗転した。
 暗闇が拡がる。
 光も音もない空白が訪れ、やがて小さな音が響いた。
 ピッ、ピッ、という小さな電子音が続き、ポーン、という甲高い音に変わる。
『――7月26日、月曜日。正午のニュースをお伝えします』
 真っ暗闇に包まれた世界に光が戻り、楕円形の地球儀が現れた。背景に世界中の標準時間が表示された空間に、大きく『12:00:00:00』という数字が浮かび上がる。
 ワールドクロックと名付けられた時刻表示から、瞬く間に無数の円が飛び出した。あらゆる国の映像を流すそれらの中で、日本語で語る画面がアップになる。
『小惑星探査機“あらわし”は今日午前、太陽周回軌道から地球の衛星軌道に乗りました』
 円形の枠の中で、スーツを着た男性アナウンサーがニュースを読み上げる。
『トラブル続きの“あらわし”でしたが、今後タイミングを計りながら――』
 ニュース映像が、急速に遠のいていく。
『小惑星マトガワで採取したサンプル入りのカプセルを射出する予定です。それでは、次のニュース……』
 ワールドクロックも頭上に小さくなっていき、その広い空間のぜんぼうが明るみになる。
 一本の巨大な支柱の周りに、枝のように板状のフロアが突き出した空間である。各フロアでは何十人というアバターが動き回っている。
「……」
 数あるフロアの一つでニュースを眺めていた彼は、肩を落として前に向き直った。卵型の頭に描かれたラクガキのようなまゆはハの字に下がり、皿のように大きな耳は力なく垂れ下がっている。コンソールと呼ばれる操作パネルに、手袋を装着した指を走らせる。
「おい、ちゃんと観たか? OZ初心者向けの案内用プロモーションビデオ、あんな感じでいいだろ?」
 コンソールをいじる彼に、となりにいたアバターが声をかけてきた。のっぺりとした胴体の上に、板チョコのような長方形の頭が乗っかっている。平べったい顔に描かれた二つの四角は、メガネのつもりらしい。キーボードと画面で構成されたこっちのコンソールとは異なり、板チョコメガネは車のハンドルのような操作パネルにカスタマイズしてある。
「ちょっと普通すぎたかな? 案内用のアナウンスをもっとこう、色気のある感じにしたほうが良かったかも……って、聞いてるのかよ?」
 板チョコメガネの頭が胴体から分離し、ふわりと彼のそばに接近した。彼はコンソールを操作しながら、ぽつりとつぶやく。
「あと少しで、日本代表になれたんだ」
「はあ、まだションボリしてんの? いい加減――」
 メガネが顔を下に傾け、ため息をついた。その背後を、作業着を着たペンギンが滑るように通り過ぎていく。
「おい、バイト! サボってんじゃねえぞ!」
『OZ管理センター主任』という胸章をつけたペンギンを振り返り、メガネが「あーい」と返す。
「あと少しでさ……」
「分かった、分かった。お前の無念さはよく理解したから、いい加減、新しいことに目を向けようぜ? 今年の夏のテーマを決めよう」
 無視して作業を続ける彼の周りを、メガネの頭がからかうように飛び交う。
「女! 女、どう? 夏といえば、スイカと花火と女だろ!」
 女。
 その単語を聞いて思い浮かぶのは、たった一人しかいなかった。しかしその顔を思い出すと、余計に気分が沈んでいくのが自分でも分かった。
「……スイカと花火で、充分だよ」
「薄い人生だな、オイ」
 板チョコに薄いなんて言われたくない。
「せっかくの青春を勉強だけして終わらせちゃうわけ?」
「大体、去年の夏休みだってさ、サクマがそんなこと言って暴走したせいで、恥かいたじゃんか。ナンパなんて、したこともないのに……」
「わーっ! 言うな、ケンジ! 去年のことは!」
「向いてないんだよ、そういうの。……そりゃボクだって、今年こそはと思ってさ」
「え? なんだって?」
「いや! な、なんでもない――」
 ケンジと呼ばれた卵頭が、慌てて誤魔化そうとした時だった。
「ん? なんだ?」
 板チョコメガネこと、サクマが首を傾げた。
 ケンジもすぐに異変に気づいた。バタバタと落ち着きのない音が、近づいてくるのだ。その音が足音だということに気づくと同時に、それは起きた。
 勢いよく扉が開く音がした。
 吹き込む新鮮な風の感触と、舞い上がるほこりの気配を感じる。
「!」
 ケンジとサクマが、同時に左を振り向いた。
 だが視線の先に見えるのは、部下をしつするペンギンの上司だけで――。

 * log out … *

 練習試合中のソフトボール部が、ホームランを打ったのかもしれない。
 グラウンドから響いた小気味良いバットの音で、段ボール箱の上に積んであったマンガが一冊、床に転がり落ちた。
「……」
 ガラクタだらけの狭苦しい室内で、一人の少女と二人の少年が向き合った。
 少女はたった今、自分で開いたばかりの扉のノブに手をかけたまま、動かない。白いシャツと赤いネクタイ、短めのスカートという制服姿に加え、竹刀袋を背負っている。ここまで急いで走ってきたのか、息を切らしていた。
 一方、少年二人のほうも、ビックリした顔で振り向いたまま、動けずにいた。こちらも制服姿で、窓際の机に置かれたパソコンの前に座っている。パソコン以外にも、室内には卒業生が置いていったシンセサイザーやエレキギターが埃をかぶっていたり、机の上でびついた扇風機が首を振っていたりと、安っぽい電子機器には事欠かない。それ以外にも放置された空き缶の山や、誰が持ち込んだのかも分からない古いアニメのフィギュア、去年で日付が止まっているカレンダー、壁際の段ボール箱に詰め込んだでっかい三角定規や何に使うかも分からない紙の筒、床に転がった計算機など。
 冷房などがあるはずもなく、めいっぱい開いた窓や出力の低い扇風機では夏の蒸し暑さを緩和しきれるものではない。パソコンのファンもフル回転、キーボードの横に置いた飲みかけのジュースもすっかり温まってしまっている。
「ねえ、バイトしない!?」
 少女が、何の前置きもなく言った。セミロングの髪が快活に揺れる。
 あまりに突然すぎて、彼――いそけんは、とっさに言葉が出なかった。となりの友人、たかしと顔を見合わせる。佐久間の耳までかかる天然パーマの髪はともかく、四角を二つ並べた形の眼鏡は、モニターの中にいるアバターとそっくりだ。
 佐久間がモニター内の分身を指さし、少女に向かって言った。
「今、バイト中ですけど……」
 健二も少女に向かって、うなずく。モニターには自分のアバターである卵頭と、それにそっくりな自分の顔が反射して映っていた。ぼさぼさの髪と、少しだけ垂れ気味の目。コンプレックスでもあるせた体つき。自分でもえないとしか言いようがない容姿である。
「えっ?」
 少女が飛び込んで来た扉には、“物理部”という札が貼られていた。その下に“オタク部”、それを線で打ち消し、さらにその下に“PC部”というラクガキもある。
「なに、ソレ?」
 突然の訪問者、篠原夏希がきょとんとした。必死な顔で参上し、唐突にアルバイトをしないかと申し出たかと思うと、首を傾げる。その目まぐるしい表情の変化がいかにも夏希らしく、目を奪われてしまう。――実際、校内でも人気の高い彼女に見とれる男子は、彼以外にもいくらでもいるはずだ。
 健二は我に返り、答えようとして――。
「OZのシステムの保守点検ですよ。あと宣伝用のビデオの作成も」
 佐久間に、先を越されてしまう。こういう時だけは、ものじしない友人がうらやましい。
 健二たちの前にあるモニターには、仮想世界OZが映し出されていた。管理センターの内部にある部署の一つで働く卵頭と板チョコメガネは、それぞれ、健二と佐久間のアバターである。
「……へー、OZの? すごーい」
 一拍の間を置いて、夏希が言った。感心したような口調だが、“OZの点検って何するんだろ? よく分からないけどスゴイんだろうな。うん、スゴイに違いない”と書いてある。元々、剣道部に所属する夏希は、パソコン関係に疎い。それでも後学のためと操作を教わるため物理部に出入りするようになったのが、人気者の三年生である夏希と、冴えない後輩にすぎない健二たちの唯一の接点だった。
「いやいや、末端の末端の末端だから、楽チンですよ」
 またしても愛想良く言う、佐久間。
 まずい。まだ何もしやべってない――。
 なんだか、焦りのようなものを感じた。そわそわと次のチャンスを待つ。
「そっかあ……バイト中かー」
 夏希が、がっくりと肩を落とし、もう用はないとばかりに背を向けようとした。
「誰かいないかなあ。他にバイトしてくれる人……」
「あの……夏希先輩」
 身体が勝手に動いた。手を挙げ、立ち上がる。
「ボクで良ければ……」
 自分が持つ最大限の勇気を振り絞ったつもりだった。
 こういう時の気持ちを、なんていうんだっけ? ナントカ寺から飛び降りるとか……ああ、歴史はニガテなんだ。いや、そもそも歴史か? 物理なら得意なんだ。そうだ、こういう時はデュロン=プティの法則をエネルギー等配分の法則から導き出す計算を――。
「ホントっ?」
 振り返った夏希の笑顔を見て、健二は一世一代の決戦に打ち勝ったことを悟った。
 うん、物理法則なんてどうでもいいや。
「おいっ! こっち、どうすんだよっ!」
 だが佐久間にそでを引っ張られ、味気ない青春を思い出す。縮こまって椅子に座る。
「スミマセン……やっぱり無理です」
「ダメかあー」
 嘆息する夏希。こんな情けない自分は、物理法則を死ぬまで暗唱し続ければいいと思う。
「バイトって言っても、私といっしょに田舎に旅行してくれるだけなんだけどなあ」
「はいっ! オレ、やります!」
 元気よく手を挙げる佐久間。健二はぎょっとして、再び手を挙げる。
「えっ? なにそれ! じ、じゃあ……ボクも、はいっ!」
 何の取り柄もない自分だが、これまで清く正しく生きてきたつもりだった。それがアルバイトをすっぽかすなど、これまた一世一代の大勝負である。
「やった」
 挙手する二人の後輩を見て、夏希が両のこぶしを握る。
 ……先輩。してやったり、っていう顔に見えたのは、気のせいですよね?
「でも、二人じゃ多いかな」
「えっ?」
「募集人員一名なの」
 人差し指を立て、にっこりと笑う夏希。「……ということは」と顔を見合わせる健二と佐久間に向かって、おおな身振りで右手を水平に振り払う。
「いざ、勝負っ!」
「悪く思うなよ、健二」
 袖をまくり、肩を回して準備運動をする佐久間を見て、友人との決闘が避けられないことを悟った健二は――。
 過去、佐久間と交わした58回の真剣勝負の全てのパターンを思い出し、そこから予想される敵の初手で可能性が高いのはチョキであることを冷酷に導き出した。



 東京駅の鈴。
 地下中央口にある、それの正式名称を健二は知らない。一抱えもある大きな鈴が、透明の囲いの中にぶら下がっているだけの光景は、やけに奇妙に映った。
 そんな違和感を吹き飛ばしてくれたのは、あこがれの先輩の私服姿だった。
「あ、健二くん。こっちこっち」
 鈴の前に立っていた篠原夏希が、こちらに向かって手を振った。
 健二は、小走りで夏希のもとへ駆け寄った。
「遅れて、スミマセン」
「ううん。時間ぴったり。佐久間くんじゃ、こうはいかないわね」
 笑顔で健二を迎えた夏希は、ノースリーブのシャツとホットパンツ、ステッチハットというラフな格好だった。すらりと伸びた長い手足と細い首は、学校で見かけた時よりもまぶしく見える。それだけに彼女と向かい合うと緊張も倍増しだ。安物のポロシャツにリュックサックという地味な姿の健二とは、向かい合っているだけで不釣り合いである。
「どうしたの?」
 ぼうっとしたまま動かない健二を見て、夏希が首を傾げた。
 健二は心中で親友に心から謝罪をする。
 ごめんよ、佐久間。夏と言えばスイカと花火と……って言った時、相手にしなくて。今ならお前の気持ちが分かるよ。あと、ジャンケンに負けてくれてありがとう。
「夏! ですね!」
「ひぇっ!? そうね……夏休みだもんね」
 ニコニコと笑う健二に対し、なぜか夏希が気味悪そうな顔で身構える。しかし夢見心地の健二は気にしない。
 篠原夏希と、私服姿で待ち合わせ。
 そんな事実が知られたら、彼の通う久遠寺高校はたちまち戦場と化すだろう。
「それで、アルバイトって何するんですか? 何でもやりますから、任せてください」
「なんか今日の健二くん、キモチ悪いくらい元気ね」
「はい! ……え?」
「でも、ありがとう。それじゃ、早速――」
 夏希が笑顔で、視線を下に落とす。さりげなく気持ち悪いと言われた気がしたが、きっと気のせいだろう。うん、気のせい、気のせい。
 夏希の視線を追うと、足元に置かれた荷物があった。大きなバッグだけなら旅行の荷物と言い切れるのだが、なぜかお面やウクレレ、花火らしきものが詰まった紙袋もある。
 その数、紙袋だけでざっと八つ。
「お願いできるかな?」
 満面の笑みとともに言われては、断ることができるはずもなく。
「――長野県上田市?」
 長野新幹線のホームには、健二らが乗る予定の新幹線がすでに停まっていた。
 健二は自分のリュックサックに加え、左右の肩にバッグのひもをかけ、右手に四つの紙袋、左手にも四つの紙袋という重装備で、一年先輩の雇い主を待つ。
「田舎で、大おばあちゃんのお誕生会があるの」
 売店で弁当と茶を受け取りながら、夏希が言う。
「あちこちからしんせき一同が集まるんだけど、全然人手が足りなくて」
 大おばあちゃん、ということは、そうということだろうか。親戚一同となると、よほどの人数が集まるのだろう。
「じゃあボクは、そのお誕生会のセッティングを手伝えばいいんですね。うん、それならボクにもできると思います」
「うん、そうなんだけど……ええと、それだけってわけでもなくて」
 弁当の袋をぶら下げて戻ってきた夏希が、なぜか健二から目をそらした。
「え? なんですか?」
「ううん、なんでもない。詳しいことは、現地で話すから」
 午前11時44分、あさま521号は東京駅から発車した。上野、おおみやを過ぎ、窓の外を流れる風景に緑が増え始めた頃、健二たちは昼食をとることにした。夏希が買ったのは30品目バランス弁当で、鶏肉、煮物、魚などが所狭しと詰め込んであった。
「ところでさ。何の日本代表になれなかったの?」
「えっ!?」
 炊き込みご飯を口に入れようとしていた健二は、ビックリしてとなりを見た。
 となりといっても、通路を挟んでのことだ。二人席は空いていなかったため、通路を挟んでとなりどうしの席に座ることになった。少々がっかりしたが、ひじが触れる緊張感に一時間以上悩まされるよりも、かえって良かったかもしれない。
 通路一本挟んで、となりどうし。
 うん。今のボクには、これくらいでちょうどいいんだ――。
「どうして……」
「佐久間くんが言ってた。あとちょっとだったのに惜しかったって」
 夏希が身を乗り出し、好奇心いっぱいの顔を近づける。
「ねね、何の日本代表なの? 健二くんって、スポーツとかしてたっけ?」
 佐久間のヤツ、余計なことを――心中で毒づく。日本代表になれたならともかく、落選という失敗談を知られるなんてカッコ悪いことこの上ない。
「スポーツじゃないです」
「だよね。健二くん、そういうのニガテそう」
 あっさり言われ、ちょっとショック。それに関しては、返す言葉もない。
「ええと……数学オリンピックって言って……」
 それだけ言うのが精一杯だった。ひじき入りの炊き込みご飯を口に入れる。
「オリンピック? 数学? なにそれ? どっち?」
「え? どっち? いや、どっちもです。計算力を競うオリンピックで……」
「へえー、そんなのあるんだ」
 はじめて聞いたとばかりに、感心する夏希。興味がない人々からしてみれば初耳だろうし、数学とオリンピックを結びつけるイメージすら湧かないのも当然だ。
「健二くんって数学、得意なの? あ、でも物理部だもんね。パソコンやるだけの部かと思ってたけど」
 お? 意外と好反応だぞ?
 てっきり夏希のように活発な体育会系からしたら、興味ゼロの話題かと思っていた。そう、“よほどのこと”がないかぎり。
 健二は割りばしをくわえたまま、ちらりと夏希の顔を見る。
「得意っていうか、他は何もできないっていうだけなんですけど……」
「へえー。ねえ、何かやってみせて!」
「ええっ?」
 期待に輝くひとみで見つめられては、「そんな、いきなり言われても」とは言えない。いまだかつて、夏希にこんなにも熱い視線を向けられたことがあっただろうか? いや、ここで退いては二度と期待のまなしで見られることはなくなる。
「ええと……ええと……あ、そうだ、夏希先輩の誕生日って、いつですか?」
「わたし? 7月19日。平成4年」
 健二の頭の中を、数字と記号の羅列が駆け巡った。鶏肉を箸でつかみ、それを口に運ぶまでの時間で、与えられた条件を満たす数値が割り出される。
「日曜日です」
「え?」
「1992年の7月19日は、日曜日です」
 夏希が、きょとんとした。だがやがて、ひきつった顔で少しだけ身を引く。
「そんなこと知ってるなんて……健二くんって、ストーカー?」
「ちっ! 違いますっ!」
 思わず大声を出してしまった。周りの乗客がまゆをひそめ、こちらをにらむ。
「わわっ! 冗談だってば!」
「だって……ひどいですよ」
「ゴメンゴメン。健二くんが良い人なのは知ってるから、ね?」
 両手を合わせながらそう言われると、健二としてもちょっとうれしくなる。夏希の中では少なくとも、良い人だと思われているようだ。……ん? 良い人って、誉め言葉だよね?
「ひょっとして、全部おぼえてるの? 日付と曜日」
「いえ、モジュロ演算っていうのを使って計算したんです。当たってました?」
 答えには自信があった。得意顔でたずねると、夏希がにっこりと微笑んだ。
「分かんない」
 そりゃそうだ。自分が生まれた日の曜日を知ってる人間なんていない。
「……夏希先輩も、剣道部で全国大会に出られそうだって聞きましたけど」
 これ以上、夏希の興味を引ける話題は無理そうだ。話題を変えることにする。
「うーん、私も惜しかった……のかな?」
 食べ終わった弁当を片づけながら、夏希が言った。
 夏希は剣道部の元主将で、つい先日、引退したそうだ。最後の大会では団体戦でインターハイ出場を惜しくも逃したという。また部活以外でも彼女は生徒会長を務めており、任期が残っているそちらでは夏休み中にキャンプを計画しているそうだ。
 容姿が良く、社交的で面倒見が良い。ちょっとばかりアクティブすぎる面があるところも、男子生徒から見れば魅力以外の何物でもない。
 そんなスーパー女子高生の篠原夏希は、恋愛方面でも大活躍――と言いたいところだが、なぜかそういった噂は一つも聞いたことがない。耳にするのは男子生徒の玉砕記録更新だけだ。その理由は不明で、久遠寺高校の七不思議の一つとなっている。
 夏希先輩って、彼氏いるんですか?
 さりげなく訊ねるのは、今をおいて他にない。
「あ、あのっ! 夏! な、夏!」
「そんでね、生徒会のキャンプには……って、何っ!? 急に、どうしたの? 夏よね、夏休みだし。あれ? 駅でもこんなことしなかったっけ?」
「夏、夏希先輩は! か、彼っ! 彼……カレーは好きですか?」
 夏希が「う、うん……フツーに好きだけど」と気味悪そうに身を引いた。
 それきり、二人の間でポツポツと話題が少なくなり、やがて完全に途切れてしまった。
 すると夏希は、何のちゆうちよもなく座席で寝入ってしまった。なんとか話題を探そうとしていた健二はがっくりとうなだれ、携帯電話を取り出す。
「……」
 二人揃って眠ってしまい、乗り過ごしてしまうわけにもいかない。暇つぶしになるものを探すべく、二つ折りになった携帯電話を開く。
 液晶画面に丸耳のアバター、ケンジが表示された。
「そうだ、今日は――」
 あることを思い出し、立ち上がってリュックサックに手をかける。中からイヤホンを取り出し、また座席に座って耳につける。
 顔を上げると、他の座席でも携帯電話をのぞき込んでいる姿がチラホラ見えた。
 健二はいそいそとボタンを操作し、自らのアバターをOZへと旅立たせた。

 * log in … *

『さあさあさあさあさあ、レディース&ジェントルメン! ボーイズ&ガールズ! 上司に有給休暇の届けは出した? 学校に親の声マネで仮病を伝えた? ドタキャンした恋人にひっぱたかれた頰の具合はどうだい? トイレは済んだ? 今日の礼拝も? ハンバーガーとコークの準備は? ピザの配達が遅れているのはオレから謝っておくぜ! きっとそいつも今の君みたいに仕事のことなんて手がつかないのさ!』
 暗闇一面の世界に、ファッションブランドのロゴが浮かんだ。
 さらに米国のIT企業のロゴが現れ、たちまち世界中の有名企業の名前が先を競うように登場する。見慣れた日本の自動車企業やスポーツブランドの名前もある。
『いよいよ始まるぜ、エキシビションゲーム! タイムリミットは、2分30秒――』
 スポンサー企業のロゴの上に、“EXHIBITION GAME”と書かれた電光パネルが浮かび上がった。三つの丸――F1レースそっくりのスタートランプも現れる。
『もちろん主役は、コイツ――おいおい、これじゃ誰か分からないぜ? ずいぶん地味な格好だな』
 派手な電光パネルが、消えた。
 再び暗闇に包まれた世界で、一つの人影にスポットライトが注がれた。ニット帽とダウンジャケットというアイテムを身につけ、うつむいたまま顔を上げようとしない。両手もポケットに突っ込んだまま、その場に突っ立っている。
 明かりが射し、真っ白な壁に囲まれた空間のぜんぼうあらわになった。中央に立つダウンジャケットの人物を取り囲むように、床にマンホールのような穴が円状に連なっている。
 また電光パネルが表示され、スタートランプが点灯した。
『ようし、時間だ! エキシビションゲーム、スタートッ!』
 ダウンジャケットの周りに空いた穴から、異様な人影がせり上がった。胴体だけが逆三角形でごついわりに、手足はゴムホースのように細い。顔には白い仮面をかぶっている。
 三十近い数のそれらは、どれも大量生産品のようにそっくり同じ姿格好をしていた。
 ダウンジャケットの人物が、ちらりといちべつした。仮面人形たちを冷静に観察する。
 仮面人形たちが、カクリと腰を折っておじぎをした。スピードスケートの選手のような体勢で走り、いっせいにダウンジャケットの人物に襲いかかる。
『あらためて紹介するぜ! 今日のチャレンジャーは、コイツだ!』
 ダウンジャケットが動いた。
 早撃ちのガンマンのように一瞬でポケットから抜いたこぶしを、仮面の一つにたたき込む。さらに返す刀で、背後から襲いかかった仮面に後ろ回しりを放つ。回転する勢いを殺さず、体重の乗ったひじを右から襲いかかった仮面にめり込ませる。左のせいけんき、ひざ蹴り、アッパーパンチと、早送り映像のごとき圧倒的速度で、仮面人形たちを返り討ちにする。
 あっという間に、仮面人形たちが一人残らず吹っ飛んだ。
『キィィィィィング、カズマァァァァァッ!』
 人物がかぶっていた帽子が宙を舞い、その顔が露わになる。
 ツンと突き出した長い耳と、突き出た鼻。鋭くも赤く輝く眼、額にかけたゴーグル。白い体毛に覆われたダウンジャケットの内側には、チャンピオンベルトを巻いている。
 二本足で立つウサギ。
 キング・カズマと呼ばれたウサギフアイターが、倒れた仮面人形たちを飛び越え、広場の奥にある階段に向かった。ウサギ跳びならぬ二段跳びで白い階段を駆け昇る。
 二階に上ると、また大きな広場に出た。一階と変わらない構造だが、中央には場違いにれいな日本風のびようが立てられ、一具のかつちゆうが鎮座している。
『おやおやぁ? 一体、どこのどいつだ、こんなところにジャパニーズ・ヨロイを置き忘れたのは? 責任者を呼べ! ――っと、こいつは失礼!』
 甲冑のはんにや面に、青白い眼光がともった。おもむろに立ち上がり、光り輝くサーベルを抜き放つ。
『ショーグン・ノブナガだあっ! こいつはしょっぱなから強敵だぜ!』
 せんこうが走った。
 よろいしやが素早く接近し、ウサギ戦士に向かってサーベルを振り払ったのだ。あまりに速すぎる刀さばきのせいで、剣筋が光の残像でしか確認できない。ウサギ戦士が両耳をぱたりと折り畳み、紙一重で刃をかわす。
『さすがのキング・カズマも手も足も出ないかっ!?』
 ウサギ戦士は、ギリギリのところで身を引いて攻撃を避ける。さらに斜めにりかかったサーベルを、ブリッジをするようにのけぞってかわす。
 容赦ない連続攻撃に、ウサギ戦士は防戦一方だ。
 とうとうウサギ戦士を壁際まで追いつめた鎧武者が、トドメとばかりに斬りを放った。ウサギ戦士は、とっさに跳躍し、壁をる。
 サーベルが空を切った。鎧武者が標的の姿を見失い、きょろきょろと周囲を見回す。
 次の瞬間、鎧武者の背後に、ウサギ戦士が着地した。壁を使った三角跳びで、鎧武者の頭上を跳び越えたのだ。
 ハッとして振り返った般若面に、ウサギ戦士の裏拳がめり込んだ。面が割れ、かぶとがひしゃげた鎧武者が吹っ飛ぶ。
『キング・カズマ、こんしんの一撃がヒットォッ! 撃破だッ!』
 ウサギ戦士は地面を蹴り、再びフロアの奥にある昇り階段を上る。
 三階もまた、真っ白な広場だった。ただし壁にはラーメンの器に描かれていそうな渦巻きの模様とりゆうが描かれ、広場の真ん前に、いきなり巨漢が立ちふさがっている。
 相撲取りのような巨体は、ウサギ戦士の三倍はあろうかというボリュームだ。両手に反り返る鋭利な刀剣――青竜刀を握っている。
 巨漢がえ、二本の青竜刀を頭上で振り回した。その風圧に、ウサギ戦士の長い耳が真横になびく。
『さあ、今度の敵もごわいぜッ! ダンプカーみたいな見た目も伊達だてじゃない!』
 ウサギ戦士は黙したまま、たけびを上げる巨漢を見上げていた。だがやにわに長い耳を揺らして首を左右に傾け、コキコキと鳴らす。
けた違いのパワーから繰り出される一撃は、戦車だって真っ二つさ! その名も――』
 腕をぐるぐると回し、膝を折って屈伸する。そうやって万端の準備運動を終えたところで、ブーツを履いた片脚を持ち上げた。
『あっ』
 ボスッと布団を力一杯叩いたような音とともに、雄叫びがピタリと止んだ。
 ウサギ戦士の前蹴りが、巨漢の腹にめり込んでいた。
『ちょっ、おいっ、紹介がまだ――』
 前のめりになった巨漢のあごに、跳び上がるようにして放ったウサギ戦士の膝蹴りが突き刺さる。
 巨漢がゆっくりと後ろに傾き――地響きとともに倒れ、動かなくなる。
『名もなき不幸なゲートキーパーめいふくを祈ってくれ……』
 ウサギ戦士が、また広場奥の昇り階段を駆け上がる。
 次の階に躍り出ようとしたウサギ戦士を、迫り来る砲弾が歓迎した。ごうおんと激しい振動によって、階段から顔を出したばかりのウサギ戦士が宙にはじき飛ばされる。
『ようし、いいぞッ! 不意打ちには不意打ちで返してやれっ! さしものキング・カズマも、ここでおしまいだッ!』
 ウサギ戦士がクルリと空中で一回転した。器用にバランスをとって着地する。
 爆発の煙をかき分け、真っ赤なロブスターが現れた。
 ただのロブスターではない。一対の大きなハサミには砲台を、脚の代わりには車輪を備えつけた戦車である。分厚い装甲に覆われた巨体は、先ほどの青竜刀使いの比ではない。
 ロブスターの口が光った。
 横っ飛びに回避したウサギ戦士の足元が、大爆発に包まれる。
『最近のロブスターは一味違うぜッ! おとなしく蒸されて皿に乗ってるだけじゃないっ! 口からレーザーだって出せるんだ!』
 たまらず、ウサギ戦士が逃げる。
 しかしロブスターの口から放つレーザー光線が、しつようにウサギ戦士を追いかける。
 風のように疾走するウサギ戦士が、急に進路を変えた。レーザー光線をかいくぐり、一直線にロブスターの懐に飛び込む。
 ウサギ戦士が拳を振りかぶり、渾身の一撃を放った。
 衝撃が振動となり、広場全体を揺るがした。
『ようし、いいぞっ!』
 ロブスターの大きなハサミが、ウサギ戦士の拳を受け止めていた。反撃とばかりに、もう一方のハサミが、ウサギ戦士を押しつぶそうと襲いかかる。
 攻撃が効かないならば、とハサミを避けたウサギ戦士がロブスターの真横に回り込んだ。自分の身長と同じくらい大きな車輪に手をかけ、力を込める。
『ああっ!』
 ロブスターの身体が傾いた。車輪を持ち上げられ、横倒しに転倒する。
 ウサギ戦士の反撃は、それだけにとどまらなかった。露わになったロブスターの腹に両手を突っ込み、関節部分をこじ開けて内部に飛び込む。
 金属がひしゃげる音、折れる音、爆発する音。それらが響くたびに、ロブスターの巨体が揺れる。
『レーザーを撃てても、結局ロブスターはロブスターでしかないのかッ!? 美味おいしくいただかれて――ごちそうさまだッ!』
 ロブスターの口から、ウサギ戦士が飛び出した。動かなくなったロブスターの前で身をかがめ、外見通り、兎のように跳躍してその場から離れる。
 戦車の大爆発を背に受け、ウサギ戦士が華麗に着地した。また階段を上っていく。
 またもや広場に出るかと思いきや、そこは屋外だった。
 ウサギ戦士が立っているのは、そびえ立つ塔の屋上。そこから伸びた細い通路の先に、赤いボタンがあるのが見える。
『ゴール地点が見えたぞッ! タイムには余裕がある! このまま記録更新か!?』
 ウサギ戦士が突き出た鼻を持ち上げ、空中を見上げる。そこにはカウントダウンを続けるタイマーが浮かんでいた。残り時間は50秒弱である。
 ブーツが勢いよく地面をった。
『そぉぉんなワケないだろ! こうなりゃ数で対抗だ!』
 細い通路の先から、仮面人形の大群が現れた。前のめりの体勢で通路を突き進むウサギ戦士に向かって、何百という数の大群がぞろぞろと押し寄せる。
 ウサギ戦士が真っ赤な眼をり上げた。大口を開けて吼えながら、両腕を振りかぶる。
『うああああっ! デタラメだ! 一体、何なんだ、コイツは!』
 走る勢いはそのままに、ウサギ戦士が両のこぶしを突き出した。力任せの連打にはじき飛ばされ、仮面人形の大群が次々と通路から放り出される。
 しかし物量作戦の前に、さすがのウサギ戦士も勢いが衰え――たかと思った、次の瞬間だった。
 ウサギ戦士が身を屈め、反動をつけて跳び上がった。
『出たァッ! キング・カズマ必殺のサマーソルトキックだァ!』
 身体を一回転させて放った蹴りが、仮面人形をとらえた。吹っ飛んだ仮面人形が後続を巻き込み、通路の出口まで埋め尽くしていた敵がれいに宙を舞う。
 ウサギ戦士はまた地面を蹴って跳び上がり――。
『――ゴォォォォォルッ!』
 一気にゴール地点に着地すると同時に、ボタンを押す。
 派手に噴き出すスモークと、バックに浮かぶ“NEW RECORD!”の文字。
 どこからともなく、爆発的な歓声が降り注いだ。
『参った、降参だ! 300万人を超える挑戦者の頂点は、揺るがず! しかも新記録のオマケつきだ! キングの名前は伊達じゃないぜッ!』
 ゆっくりと身を起こし、ウサギ戦士が空中に浮かぶスポンサーのロゴを見回す。
『OZ最大の公式コンテンツ、“OZマーシャルアーツチャンピオンシップ”は、いつでもキミの挑戦を待ってるぜッ! 以上、防衛チャンピオン、キング・カズマによるエキシビションゲームの映像は、35カ国語に自動翻訳されて動画配信され――』
 いっそう沸き上がる歓声をバックに、ウサギ戦士が顔を上げた。
 ――“誰の挑戦でも、受ける”。
 キング・カズマの堂々と輝くひとみに、挑発的な文字が重なった。

 * log out … *

 ――“誰の挑戦でも、受ける”。
 男なら一度は言ってみたい言葉、トップ10に入る名言だ。
「世界一、か……」
 新幹線のシートの上で、健二はポツリとつぶやいた。画面にはOZマーシャルアーツチャンピオンシップ、通称OMCという人気ゲームの画面が表示されている。
 OZでは自分の分身であるアバターを操作するが、OMCはOZ上の限定されたエリアで実際に自分のアバターを戦わせるという形式のバトルゲームだ。数あるOZのサービスの中でも最大の人気を誇っていて、現在ではゲームという枠を超えてスポーツとして認識されつつある。
 そんなOMCでも有名なのが、キング・カズマというアバターだった。これまでに何度も世界中の挑戦者を退けているチャンピオンで、スポンサーも多くついている。
 ちなみに健二もOMCに登録しているが、ランキングは下から数えたほうが断然早い。
「――ボクだって」
 イヤホンを外し、携帯電話を折り畳む。
「あと少しだったんだ……本当に……」
 世界一、イコール、カッコいい。
 誰にも覆されることのない、絶対の法則だ。学校で習うド・モルガンの法則なんかよりも、よっぽど簡単な真理。
 そう、たとえば。
 何の取り柄もない、えない高校生でも――世界一という称号さえ手に入れれば、周囲の見方も変わるはずだ。履歴書にだって書けるかも?
 だからこそ、自分は――。
「僕だって……もうちょっとで日本代表になれたのに……」
 そもそも上がり症で目立つことが嫌いな自分が、なぜ数学オリンピックというものに挑戦したのか。
 それには、深い理由があった。
 おいそれと口には出せない、それこそ地底人に会えそうなくらい深く深く地面を掘ってようやく辿たどり着けるような、超深い理由。
 その理由があってこそ、一大決心をしたのに――届かなかった。
「……」
 健二は、ちらりと熟睡している夏希を見た。
 あこがれの先輩が無防備によだれを垂らしかけるというショッキングな光景を、目的地を知らせる車内アナウンスが寸前で防いでくれた。
 上田駅は、長野駅から一つ前の駅にあたる。軽装の夏希と全身荷物だらけの健二が新幹線を降りると、駅のホームから大きなガスタンクが見えた。
「ところで大おばあさんは、おいくつなんですか?」
「今度のお誕生日で90歳になるの」
 改札を出るとすぐに、“平成22年 上田わっしょい”の文字が目に飛び込んだ。駅の構内に設置された液晶モニターに、法被姿で踊る人々の映像が流れている。この地域で催される夏祭りらしい。
「大正9年生まれかあ。お元気ですね」
「最近、少し疲れてるみたいだってしんせきの人は言ってたけど……本人はすっかり元気だって。今度、薙刀なぎなたの大会とか書道大会に審査員をやるとか、市長さんに頼まれて上田わっしょいの相談役みたいなこともやらされそうって、こないだOZのメールで言ってた」
「えっ? OZを使えるんですか?」
「わたしより詳しいくらいよ」
 コンピューター音痴の夏希と比べるのもどうか、という点は置いても大したものである。
 夏希が携帯電話を取り出した。健二に手招きをする。
 なんだろう、と深く考えずに夏希のそばに近づく健二。
「なんだか、すごい人みたいですね」
「今の市長さんだけじゃなくて、色んなところに知り合いがいるみたい。戦時中とか戦後に色んな連中の面倒を見てやったものさ、って大おばあちゃんは笑ってたけど」
 やにわに夏希が健二に身を寄せた。ビックリする健二と肩を並べて腕を伸ばし、自分たちに向かって携帯電話のカメラを向ける。電子音とともに、上田わっしょいの映像を背にした記念写真の出来上がり。夏希はまばゆい笑顔と、ピースサイン。一方の健二は夏希と肩が触れそうになって、耳を真っ赤にしたビックリ顔だ。やり直しを要求したい。
「なんとなくですけど、大おばあさんと夏希先輩って似てそうですね」
 元気で知り合いが多く、頼りにされているというあたりが似ていると言いたかったのだが、携帯電話を操作する夏希の手がピタリと止まったのを見てギクリとする。
 年寄りと似ていると言ったのが、気に障ったのだろうか? 健二の顔から、一気に血の気が引くが――。
「よく言われる!」
 顔を上げた夏希は、心からうれしそうだった。健二は胸をなで下ろすと同時に、彼女がそうをどれほど慕っているかを察する。
 上機嫌で、歩き出す夏希。思いがけないラッキーパンチが決まった今なら、さっきの記念写真をボクにも送ってくださいと言えそうだ。あくまでメールアドレス目的などというよこしまな考えではないことを強調しなければならない。
「あのっ、夏希先輩! メールアドレスを……!」
「え? メールアドレス?」
「ああああ、間違った! そうじゃなくて、ええと……!」
 駅構内の通路で頭を抱えてうずくまる健二に、思わぬところから助け船が入った。
「夏希ちゃん?」
 同時に声のしたほうを振り向く、健二と夏希。
 パーマをかけた髪を二つにしばった女性が、小走りにやって来る。その女性に少し遅れて、小さな男の子と女の子も駆け寄った。
「夏希ちゃん!」
のりおばさん!」
 夏希が笑顔を浮かべた。健二の前を通り過ぎ、パーマの女性が夏希と両手を合わせる。
「ひさしぶり!」
 五人に増えた旅の道連れは、上田駅の二階にある上田電鉄べつしよ線に乗り込んだ。二車両しかない車内の天井には、ゆっくりと回転する扇風機が設置されている。
 乗客は少なく、窓際のシートに五人並んで座る。荷物の山、健二、夏希、典子、そして典子の子供二人という並び順だ。
「大おばあちゃんはねえ、陣内家の現役16代当主なのよ」
 そう説明してくれる典子は、夏希の親戚だそうだ。9歳の長女、が母を盾にして見知らぬ健二を凝視し、6歳の弟であるしんは携帯型のゲーム機に夢中になっている。
「16代っ?」
「お墓が室町時代からあるからねー。明治になって始めた生糸商が成功して、おうちがすっごい大きくなるんだけど、亡くなった大おじいちゃんが、これがまたメチャクチャな浪費家で大変だったらしくてね」
 窓の外には、連なる山々を背にした田園が拡がっていた。視界を遮るビルや、せわしなく動く人間もいない。東京生まれの東京育ちである健二にとって、視界一杯の緑色が左から右へ流れていく光景は新鮮だった。
「大おばあちゃんも苦労したんでしょうけど、そこはホラ、あの大おばあちゃんのことだから……ふうん」
 説明に聞き入る健二を見て、ふいに典子が言葉を切った。
「えっ? なんですか?」
「あなたが夏希ちゃんの……へえー、なるほどお」
「はい?」
「あっ、典子おばさん! それは、あの、みんなの前であらためて紹介するから、ね?」
 なぜか慌てる夏希に対し、典子が意味ありげにクスリと笑った。健二は首をひねる。
「まあ何はともあれ、よろしくね」
「はあ。がんばります」
「がんばります?」
「あーっ! もう着くみたいね! このへん、全然変わってない! 懐かしいなあ!」
 電車を降りて、次はバスだ。豊里局前停留所からバスに乗り込むと、車内にいた先客を見て、夏希が声を上げた。
「あ、おばさん!」
「夏希ちゃーん!」
 白を基調としたじようでんバスは、どことなく懐かしい感じがした。シートは堅目で、カーブを曲がって身体が傾くたびに、クッションがきしんだ。
「――確かに古い家で、それなりにお金持ちだった時もあったらしいけどさ。今じゃもうスッカラカンなんだから! 山も問屋も工場も、もう何も残ってないの」
 そう言って、由美がけらけらと笑った。眼鏡をかけた丸顔で、笑うとお下げにした髪が左右に揺れる。ご近所にいるかつぷくの良いおばさん、といった感じだ。まだ0歳だという三男のきようへいを腕に抱いている。眼鏡をかけた7歳の次男、ゆうへいは真悟のそばで、やはり携帯ゲームに夢中になっていた。
「それでも毎年、おばあちゃんあての年賀状見ると、ビックリよ。有名な企業の社長さんとか政治家とか、そんなのばっかなんだから!」
 夏希も、似たようなことを言っていた。よほどの大人物らしい。
「だから財産とか目当てにしても、ムダよお?」
「財産?」
「あっ! 見て、健二くん! 蟬よ、蟬! わーっ、生まれてはじめて見た!」
「いや、蟬くらい学校にもいましたけど」
 なんだか夏希の様子がおかしい。視線を感じてチラリと横をみると、典子と由美が小声で何かをささやきあっていた。健二を見て、にやついている。
 陣内前という停留所で降りた一行の足を、三度目の呼び声が止めた。
「夏希ちゃーん!」
さーん!」
 夏希が、道路の反対側に向かって手を振った。見ると、停車したタクシーのそばに一組の母子がいた。こちらの一行を見つけて降りたようだ。
 かくして陣内家に向かうごしんせき一行に、奈々と2歳の娘、が加わった。典子や由美よりも、奈々は若く見える。彼女たち三人のおばは皆、陣内家に嫁いできた身で、義理の姉妹にあたるそうだ。後でちゃんと説明するけど、と夏希には言われた。
 陣内家は街から離れた小山のふもとにある。石垣のある坂道を歩く人数は、あれよあれよという間に総勢10人に増えていた。
「もとは武家の出だそうですね、陣内って。そのせいか、大おばあさまってたまに怖いことおっしゃるからビックリするんですよ」
 ベリーショートの髪形にした奈々の額には、玉の汗が浮かんでいた。小柄な身体に加奈を抱いた様は、慣れた様子で恭平を抱く由美とは違って初々しい。まだ新婚だそうだ。
「あはは、戦国時代の血が騒ぐのかしら。気をつけてね、健二くん」
「あ、そっか。がんばりますって、そのことね?」
「え? はあ……え?」
「あっ、見て、健二くん! 良い天気!」
「痛いっ」
 夏希によって力ずくで向きを変えられた首が、嫌な音を立てた。
 世間話をしながら歩く一同と、荷物の多い健二との距離が次第に大きくなった。追いつこうとして小走りに坂道を上がろうとした健二の足元が、急に平地に変わる。
 顔を上げて、目を見開く。
「うわあ……」
 整地された土の上に、かわら屋根の荘厳な門が構えていた。観音開きの扉は木造で、青々としたこけや細かい装飾を施された金具のさびを見ただけで歴史をうかがい知ることができる。石垣の壁が左右に連なった様相は、仏閣に近い威圧感を放っていた。
 平然と門をくぐっていく先行組についていき、さらに言葉を失う。
 たった今くぐり抜けた立派な門は、敷地の入り口でしかなかった。門の先にはさらに上り坂が続き、屋敷はその先、小高い山のふもとにある。今さらながら、とんでもなく場違いな場所に来てしまった気がする。
 すっかりしゆくしつつ、重い荷物を携えて坂道を上っていく。後ろを振り返ると、上田市の街並みを見下ろすことができた。
 体力を振り絞って坂を登り切ると、想像以上に大きな屋敷が健二を出迎えた。
 瓦屋根の平家造りは、いかにも由緒正しい日本家屋である。母屋らしき一際大きな屋根の奥に、離れの屋根がいくつか見える。広い庭には池があり、立派な桜の樹の向こうに駐車場と二つの蔵もあるようだ。
 太い柱によって支えられた玄関口も、さいせんばこが置いてあれば思わず手を合わせてしまいそうだ。おばらと子供たちが、着物姿の老女の出迎えに応じて屋敷内に入る。「遠いところ、大変だったわね。スイカ冷えてるわよ」という言葉に、子供たちが歓声を上げてドタバタと板敷きの廊下を走っていく。
 夏希に付き添われ、健二はおぼつかない足取りで玄関に向かった。子供たちの背中を見送った老女が振り向き、健二に気づいた。ふくよかな体つきやピンと伸びた背筋は、とても90歳とは思えない。
 いざ噂の人物を前にすると、何とあいさつをすればいいのか分からなくなった。とりあえずペコリと頭を下げるが、相手からはただの猫背にしか見えなかったかもしれない。
「あの、このたびは、90歳の誕生日、おめでとうございます」
 つっかえながらも挨拶をすると、「えっ」と夏希が顔をこわばらせた。どうかしたのだろうかと思いつつ、恐る恐る顔を上げると、老女がひきつった笑みを浮かべていた。
「……お祝いは、私の母に言ってあげてね」
 その言葉の意味を理解するまで、3秒86ほどの時間を要した。



 外から見た時も圧倒されたが、屋敷内も健二にとってはじめて見るものばかりだった。
 ひさしのある縁側を歩いていくと、いきなり大きな和室が現れた。手前、中程、そして奥と三つの和室が連なり、それぞれふすまを開放しているせいで、ひたすら向こうまで畳が連なっている。テレビで見た時代劇みたいだと考えていたら、奥の壁際にかつちゆうが置いてあるのを見つけてギクリと立ち止まる。そんな彼を見て、夏希も足を止めた。
「スゴイでしょ、この大広間。二百畳あるんだって」
「二百畳!」
 つまり百坪で、約330㎡で、物理部の部室の27・5倍で、健二の自宅の3・8372(以下省略)倍の広さで――と無意識に計算してしまう。
「大おばあちゃんは、書斎にいるって。挨拶しとかないとね」
 健二と夏希は、日よけのすだれがかかった縁側を歩いていく。庭には池があり、息継ぎをする鯉が見えた。鹿ししおどしのしりが石をたたき、涼しげな音が響く。
「あのね、今頃になって言うのもアレなんだけど」
「はい?」
 前を歩く夏希が、チラリと健二を振り向いた。
「大おばあちゃんの前では、何をかれても、わたしに話を合わせてくれる?」
「話を合わせる……? どういうことですか?」
「いいから! それ以上は何も言わないで!」
 健二は「はあ」とあいまいうなずく。
 数寄すき造りの屋敷を縁側伝いにグルリと半周し、西側の屋敷へ到着する。縁側には鉢がいくつも置かれており、つるが伸びた朝顔が並んでいる。
 障子が開かれた一室の前に着いたところで、夏希が「ここよ」と言った。いよいよ噂のそうとの対面を前にして、緊張してしまう。
「大おばあちゃん」
 開いた障子の一歩前で夏希が声をかけると、部屋の中からパチンという音がした。続いて、「お入り」というはっきりした返答がある。
「大おばあちゃん!」
「来たかい」
 十畳ほどの書斎に、着物を着た老女が座っていた。老眼鏡を下にずらし、やや上目遣いにした目を細め、夏希を迎える。白髪や深いしわ、細いあごや猫背程度に曲がった腰などは高齢を感じさせるものの、目つきや声はしっかりとしていて力強い。座布団に座る姿も、書棚に並ぶ擦り切れた古書と合わせて絵になっている。先ほどのパチンという音の正体は、座布団の前に置かれた碁盤だと分かった。詰碁をしていたようだ。
いたかった! 身体の調子は、どう?」
「見ての通りだ」
 まっすぐに夏希の目を見て、わずかに口元をゆるませる老女。その落ち着いた物腰を見て、映画に出てくる老女役の名女優のようだと健二は感想を抱く。
「最近、元気ないって聞いたから」
「ふふ、ただの夏バテなのに、みんなおおなのさ。心配いらないよ」
「ホント? よかった!」
 再会を喜ぶ二人を邪魔しないよう、健二は入り口の近くでじっとしていた。
「ん?」
 夏希と談笑していた老女が、こちらを見た。ギクリと肩を震わせる健二。夏希に手招きをされ、夏希のとなりに座る。
「この人は、陣内栄。わたしの大おばあちゃん」
「あ……はじめまして。お誕生日、おめ、おめでとうございます」
「おやおや、ありがとう」
 ペコリと頭を下げる健二を見て微笑み、栄が夏希を見る。
「この人が?」
「小磯健二くん。約束通り、ちゃんと連れてきたからね」
「ええと、夏希先輩とは高校の物理部で――」
「わたしの彼氏」
 夏希が平然と、言い放った。そのあまりに自然な口調に、健二は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「……へっ?」
 間の抜けた声が、口から漏れた。夏希を見ると、ニコニコと笑っている。
 栄が健二の顔を凝視して、つぶやく。
「彼氏」
「えっ?」
「そ。わたしのお婿さんになる人」
「おむっ……!」
 栄が「お婿さん」と確認するように呟き、まじまじと健二を見つめた。
「そうかい、この人が」
「ね? ちゃんと連れてきたでしょ?」
 どこかぼうぜんとした栄と、笑顔満面の夏希。しばしの沈黙が書斎を包んだ。
 二人に見つめられ、事態がみ込めない健二は、頭をかいてうつむく。ボクが夏希先輩の彼氏で、お婿さん? そうだったっけ? 意外とやるなあ、ボク。――いやいや、そんな、まさか。なんか、おかしいぞ。
「夏希先輩? ええと、これは、どういう……」
「健二さん」
「はいっ!」
 夏希に事情を聞こうと腰を浮かせかけたが、栄の低い声によって姿勢を正す。
「この子は世間知らずでワガママなところもあるけれど、本当に良い子なんだ」
 先ほどまでの穏和な表情から一変し、ジロリと厳しい目つきで栄が健二をにらんだ。書斎が緊張感に包まれ、気温が三度は下がった気がする。鹿威しの音や蟬の鳴き声が、やけに大きく聞こえた。
「ちゃんと幸せにしてくれるかい?」
「しっ、幸せに……?」
 夏希を見ると、こっそりとウィンクをされた。小さく片手を持ち上げて、「お願い」というようなジェスチャーをされる。
 お願い? 何をお願いされているんだろう? いや、でも、この状況からすると――。
「覚悟はあるかい、と訊いているんだ」
 ひざの上で握りしめた健二のこぶしが、かすかに震えた。胸から首、首から顔、耳と体温が上がっていくのを感じる。その様子を見て、夏希が顔をこわばらせた。
「け、健二くん? 大丈夫?」
 もしかして、健二の気持ちが夏希に気づかれていたのだろうか? その上で、このような席を設けて、本気かどうか試されているのかもしれない。
「は……い……」
「本当に? 命に代えても?」
 栄に睨みつけられ、健二は奥歯をんだ。真っ赤な顔で、叫ぶ。
「はいぃっ! 必ず夏希さんを幸せにしますぅっ!」
 あまりの大声に、一瞬、蟬の鳴き声が止まった。我に返って二人を見ると、どちらもビックリした様子で凍りついている。夏希の頰が、かすかに朱に染まったように見えた。
「そうかい……よかった」
 そう言う栄の顔には、晴れ晴れとした笑みが浮かんでいた。厳しい陣内家当主としてではない、ひ孫の幸せを願う年老いた曾祖母のそれだった。
「健二さん、どうぞひ孫をよろしくお願い致します」
 畳に手をついて深々と頭を下げる栄に対し、健二も慌てて彼女に倣う。
「あっ、こっ、こちらこそ、よろしくお願いします!」
 そんな調子で栄との面会を終えて、すぐ。
 健二は夏希によって、屋敷の裏に連れ出された。
 夏希に真剣な顔で見つめられ、健二の胸が最高潮に高まる。
「ごめんっ!」
 夏希が、勢いよく頭を下げた。
「あらためてアルバイトの内容を説明するね。といっても、もう分かってると思うけど」
 高鳴っていた健二の心臓が、一気にしぼんでいくのが分かった。普段は計算式しか思いつかないか、誤作動で空回りしかしない脳ミソが、こういう時だけフル回転してくれる。
「大おばあちゃんやしんせきの前で、わたしの恋人のフリをしてほしいの」
 恋人のフリ。つまりは演技で、芝居で、ウソということ。
「事情があって、どうしても彼氏役が必要なの! お誕生会が終わるまで!」
 健二はハッと現実に返り、勢いよく首を左右に振る。
「むっ、無理ですっ!」
「さっきみたいな感じでいいから! 健二くん、すごく演技うまいよ!」
「いや、あの、あれは……」
 演技じゃありませんでした、とは口が裂けても言えない。不器用な上に上がり症の自分に演技をしろだなんて、地球が上下逆さまになっても有り得ない。
「とにかく、無理です! 無理、無理、無理! 無理無理無理無理!」
「お願い、お願い、お願い! お願いお願いお願いお願い!」
「ボク、女の子と付き合ったことないですし!」
「大丈夫、わたしもそうだから!」
「夏希先輩が女の子と付き合ったことないなんて、当たり前じゃないですか!」
「へっ? そういう意味じゃないけど……とにかく、大おばあちゃんをがっかりさせたくないの! 勢いで言っちゃったんだもん!」
 必死の表情で、夏希が健二の手を握った。不意を突かれ、ぎょっとする健二。
「本人は元気だって言うけど、家の人からは最近、具合が悪いみたいだって聞いてたから……私の彼氏、連れてくまで死んじゃダメよ、って思わず約束しちゃったの」
 夏希の手が、自分の手を握っている。その感触はひんやりとしていて、やっぱり温かくて、細くて、柔らかくて、全神経が指先に集中して何も考えられなくなる。一気に体温が上がり、自分の目にも手首から腕へと真っ赤になっていくのが分かった。
「大おばあちゃん、私に彼氏ができるか、ずっと前から心配してたの。自分のせいだって気にしてるみたいで……」
 心臓が破裂しそうだった。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:サマーウォーズ(角川文庫)
著 者:岩井 恭平
原 作:細田 守
発売日:2009年07月25日

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/200904000102/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら

細田守監督最新作「果てしなきスカーレット」について

細田守監督最新作「果てしなきスカーレット」は、2025年11月21日全国ロードショー。
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