取材・文:阿部花恵 撮影:鈴木慶子
※「ダ・ヴィンチ」2026年1月号より転載
『イオラと地上に散らばる光』安壇美緒インタビュー
「信じられないほどつらい。でもSNSを見ると世の中には同じような状況の人がたくさんいるらしい。『私だけじゃないんだ』という安心と、『私だけじゃないのか』という絶望、二重の衝撃が物語の出発点になりました」
町の音楽教室に潜入調査する青年を描いたスパイ小説『ラブカは静かに弓を持つ』が本屋大賞2位を射止め、一躍注目を集めた安壇美緒さん。待望の新作は、SNS時代を生きるすべてに刺さる連作小説だ。
「先ほど抱いた衝撃は、かつてワンオペ育児中に、私が実感したことです。それが本作の物語の核になっていて、着想の瞬間にある程度の形はできていたのですが、しんどさの渦中にいるときは直面したくなかったのでずっと寝かせたままだったんですね。題材的にも短編ではなく長編だろうと思っていたので、いつかいいタイミングで書けたらと機会をうかがっていました」
祝祭と処刑、両方が行われる
“広場”に集まる私たち
誰もがスマホを持ち歩き、発信者になれる現代。芸能人のスキャンダルを聞きつけて張り込みに出かけたニートの青年は、ネットメディア「リスキー」の編集者だと名乗る岩永という男に声をかけられる。燻っていた青年は、岩永に誘われるまま編集アシスタントのような仕事を請け負うようになるが……。
「当初はネットメディア編集者の岩永を主人公にして話を展開させていくつもりでしたが、岩永にカメラを固定すると、なかなか掘り出せない部分があって。それなら視点人物を増やして、リスキー編集部の周辺にいる人々から見た話を展開してみたらどうだろうと試してみたところ、その形が上手くハマりました。私はプロットをかっちり固めて書くタイプではないので、自分でも次は誰の話になるんだろうと考えながら手探りで連載を進めていきました」
ひょんなことからリスキー編集部と接点を持ったニートの青年デニーズ、職場でもプライベートでも鬱屈と焦燥感を抱く若手編集者、そしてPV獲得のために炎上を仕掛ける側に立つ岩永。前半では男たちの目を通して、メディアの舞台裏とそこで翻弄される人々の姿が描かれる。
「報道の現場を知りたかったので、新聞社や週刊誌の特派員記者、ウェブ媒体の記者など、男女問わず何人かに話を聞きました。普段はどんな風に現場に駆けつけ、どう振る舞っているのかといったことは参考になりましたね。もちろん、フィクションとして自由に脚色はしていますしキャラクターはオリジナルですが。XやBluesky のような既存のSNSをそのまま取り入れたくはなかったので、現実から少し距離を取るためにも、作中ではAgora(アゴラ)と名付けた架空のSNSを設定しています」
アゴラは古代ギリシャ語で「広場」を意味する。中世には祝祭が開催される公共空間であると同時に処刑の場でもあった広場は、その二面性において現代のSNSと重なる。
デビュー作『天龍院亜希子の日記』では元同級生のブログを見つけた会社員が主人公だったが、今作と読み比べるとわずか数年でネットの世界がここまで変質したのか、という驚きも味わえる。
「2010年代後半の頃はブログこそ下火になっていたものの、ネットの世界はまだ現実からの抜け道、逃げ場のような要素がギリギリあったように思います。でも今はネットの世界が生活の中に完全に組み込まれているので、もう逃げ場として機能はしていない。そんな息苦しさを感じている人は多い気がします」
暴力は上から下へと
流れていくものだから
毎日どこかの“広場”で入れ代わり立ち代わり炎上事件が起きるなかで、世間の新たなトレンドとなったのは、萩尾威愛羅という名の若い母親が、抱っこ紐でわが子を抱いたまま、夫の上司を包丁で刺したというショッキングな事件だった。イオラ事件と名付けられた火柱は、やがて男社会のいびつな構造を容赦なく照らし出していく。
「着想は確かにワンオペ育児の母親が置かれる状況からでしたが、なぜそんな風になってしまっているのかを考えると、社会の土台が男性中心主義だからですよね。社会というピラミッドの一番下に彼女たちがいる。そして暴力は基本的に上から下へと流れていくもの。イオラ事件を炎上させようと仕掛ける岩永も、最上層ではないけれども、上から下へ流していく人です。対して、夫の上司を刺したイオラという女性は、この流れの向きを逆にしてしまった人。そんな対極の存在として彼女を描きました」
高いところから低いところへ流れていく雨水のように、延々と渡されてきたバトンのように、この社会では誰もが誰かに暴力を渡し続けている。その連鎖こそが現代において最も切実な恐怖なのかもしれない。物語が進むにつれて、如才なく振る舞っているように見える岩永でさえも、その足場は不安定なのだということが垣間見える。
「後半に登場する伊沢縁という女性と岩永が対面するくだりは、あらためて読み返すと本作で最も重要なシーンになった気がしています。なぜ岩永は彼女の前でだけは苛立つのか、彼女の言葉を真剣に聞こうとも見ようともしないのか。このシーンを書いたことで、私自身もようやく岩永という人間が見えてきた気がします」
デビュー作から定評があった観察眼の鋭さは、各人物の内面描写において大いに発揮されている。誰もが心の奥底に潜ませている悪意や複雑な感情を、緻密かつ明晰に描き出せるのは小説というメディアならではの力でもある。全編を貫くエッジの効いた文体も、テーマと絶妙に融合している。切れ味は抜群にシャープ、なのにずっしりダメージを与えてくる重量級の鈍器のようだ。
「文体は自然とこうなりましたね。〈発信は、光。〉という冒頭の一文が思い浮かんだときに、ここに基準を合わせて行こうという流れが自分のなかで決まりました」
後半には一転して、『あるもの』に話しかける女性の語りが挿入される。
〈私が「どうぞ」というまで、ただ話を聞き続けてください。〉そう語り始める彼女が抱えている、空虚さの正体とは?
「SNSに本音を投稿すると、今度は別のストレスが生じかねないのが今の時代ですよね。でもギリギリまで追い詰められている状況の人間にとっては、それ以上の負荷はきっと耐えがたい。そう考えたとき、孤独な人が本音を吐露する相手としては今であれば『それ』が適任だろう、と考えました」
正論を押し付けるようなことは決してせず、どこまでも優しく寄り添ってくれる。それなのに、どこか寒々しい。ここで描かれる対話の形をした孤独は、私たちが生きるこの世界に確かに存在している。
終盤、岩永が偶然目にした見知らぬ親子の何でもないやり取りも印象的だ。光が瞬き、火が燃え盛る世界との落差が静かに、けれども雄弁に語られる。
「何でもないような風景ですが、今作で自分としてはすごくいいものが書けたなと思っているのは、あの親子のシーンです。隣にいる岩永の心は動かなくても、違う価値観で穏やかに暮らす人たちもちゃんと存在していることを描きたかった。最終話は自分でもラストを決めず書き進めたのですが、予想外に『みんな、やるじゃん!』という展開になりましたね。つらさだけで終わらせずに、それぞれが自分の意思を表すことで一歩進めた。この作品を書き上げたことで、私自身も作家として前進できたように思います」
プロフィール
安壇美緒(あだん・みお)
1986年、北海道生まれ。2017年に「天龍院亜希子の日記」で小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。22年刊行のスパイ×音楽小説『ラブカは静かに弓を持つ』で第25回大藪春彦賞、第20回本屋大賞第2位を受賞。他の著書に『金木犀とメテオラ』がある。
作品紹介
書 名:イオラと地上に散らばる光
著 者:安壇 美緒
発売日:2025年11月18日
ワンオペ育児で追い詰められた母親が、赤ん坊を抱っこ紐で帯同したまま夫の上司を刺した。あるウェブメディアがこの事件を煽情的に取り上げたことをきっかけに、SNSでは憎悪のラリーが瞬く間に過激化していく―。『ラブカは静かに弓を持つ』が反響を巻き起こした著者が、現代社会の支配構造を痛烈に炙り出す連作小説。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322501001202/
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