5月11日(土)発売の「小説 野性時代」2019年6月号では、石田衣良「心心(シンシン) 東京の星、上海の月」の連載がスタート!
カドブンでは、この新連載の試し読みを公開します!
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声優学校の入学式で陽児が出会ったのは、上海からやってきた特別な声を持つ少女だった――。
7年ぶり、「小説 野性時代」登場の著者による、声優の卵たちの青春恋愛小説!
1
(ブラックスーツなんて、お葬式みたいだ)
石森陽児は東京メトロの地下道から、地上へあがる階段をのぼっていた。
(ネクタイは鮮やかなブルーだし、まあいいか)
タイル張りのステップにはサクラの淡い花びらが、踏みつけられ薄汚れて散っている。顔をあげるとハチ公前広場の奥に、満開のソメイヨシノが硬い雲のように浮いていた。
通勤客の多くがスクランブル交差点のほうへ流れていく。あちらのほうがオフィスやデパートのある渋谷の表だった。陽児は人の流れに逆行して、青山通りをめざした。再開発で工事中の歩道橋をわたる。こちらの裏渋谷の高架下には、ブルーシートのテントがちらほら見えた。渋谷でさえホームレスがいるのだ。都心も豊かな人たちばかりではない。首都高速の影に入った歩道橋を吹き抜ける風は、四月になっても氷水のように冷たい。
「いやだー、わたしたちクラス別々なんだ」
タイトスカートの黒いスーツでそろえた同世代の女子が数人、やけにおおきな声をあげていた。かなりの声量がある、よく響く声だった。ああこの子たちも、きっと同じ学校なんだな。歩道橋をわたり、桜坂の入口までくると、いつの間にかブラックスーツの行列ができている。陽児も弔問客のように静かに列の最後についた。
桜坂は二百メートルほど先の天辺まで、ずっと通りの両側にソメイヨシノが植樹されている。渋谷駅近くの花見の名所だった。頭上は坂のうえまで続く明るいトンネルだ。風が吹き寄せると、視界がピンクのカーテンで閉ざされたように一色に染まっていく。今年初めての花吹雪だった。陽児は、ざわざわと羽虫のように身を翻し散っていく花びらに酔ったような気分になる。このなんでもない映像をアニメーションに起こすのは、きっと地獄だろうな。ぼんやりそう考えていると、バシンッと強く肩をたたかれた。
「なんだよ、駅で待っててくれてもいいだろ。陽児は冷たいな」
振りむくとグレンチェックのスーツを着た手塚浩平が、にやにやしながら立っている。
「浩平は黒にしなかったんだ」
黒一色のなかでは灰色だって派手である。浩平のネクタイはサクラの花びらと同じ淡いピンクだった。
「おれたち声優めざしてるんだぞ。みんなと同じ黒のスーツなんて失格だろ。目立ってなんぼなんだからな」
浩平は陽児よりも七、八センチ背が低かった。人にきかれると一七〇といっているが、正確には四ミリだけ自称に足りない。
「まあ、陽児が声優科にきてくれて、おれとしてはうれしいよ。さあ、いこうぜ」
これから入学式が始まるエンターテインメント総合学園は、渋谷桜坂のうえに建つ専門学校だった。GENERAL ENTERTAINMENT ACADEMY、略してGEAと呼ばれる、渋谷でも有数の生徒数を誇る学校だ。声優科、アニメ科、ゲーム科、それに小説・シナリオ科の全四科がある。この順位は人気順で、生徒の数も比例していた。一番人気の声優科は一学年で三百人を超える生徒数だ。
浩平が目のまえを落ちていく花びらをつかみ、上機嫌でいった。
「声優科はきっとかわいい子がいっぱいいるぞ」
「ああ、おまえにはよかったな」
陽児は今のところ、あまり女子に興味はなかった。浩平に無理やり志望を変えさせられるまで、一番不人気な小説・シナリオ科にすすむつもりだったのだ。そちらは五十人ほどの少数精鋭だそうだ。子どものころから好きだったゲームやマンガのシナリオを学び、自分でも書いてみたかったのである。友人に誘われたくらいで志望を変えたのだから、それほど熱烈な願望というわけでもなかったのかもしれない。
同世代といきなり真剣勝負で創作力を競うのは、すこしばかり怖くもあった。声優科で演者の気持ちを勉強するのも、創作の役に立つんじゃないか。書くのはいくつになってからでもできるだろ。同じ高校だった浩平にそう誘われて、陽児は直前で志望学科を変えていた。
坂道をのぼり切ると、白いタイル張りのおおきなビルが建っていた。アプローチの階段を十段ほどあがると両開きのガラス扉があり、黒いスーツの生徒が吸いこまれていく。
入口のうえにはぴかぴかに光るGEAの金属製ロゴマーク。陽児はすこし緊張しながら、友人と肩をならべ、これから二年間声優の技術を学ぶ学校のなかへ最初の一歩を踏みいれた。
2
学科別の入学式が開かれるホールは最上階だった。
さすがに三百人の新入生と父兄少々、さらに教員が顔をそろえると、フロアは満員で息苦しいほどになる。パイプ椅子の列のうしろに、無人の空間がすこし残るだけだ。壇上では学園長の式辞が続いていた。スタジオジブリの映画にでてくる初老の郵便局員のようなおっとりした風貌ととぼけた声をしている。
「アニメーションはいまや日本のエンターテインメント産業に残された最後の成長分野であります。二〇一〇年に一〇〇本ほどだった年間のアニメ制作本数は、昨年度には三倍程度にまで急拡大しました。年間三百本を超え、どんなマニアでも観切れないほどのボリュームになっています。そのひとタイトルごとに、二、三十名の声優が出演しているのです。アニメ関連市場の売上も年二兆円規模までふくらみ、新記録を更新しています。これは全盛期の半分に縮んでしまった他のエンターテインメントの分野である、出版や音楽の世界では想像もできないことです」
陽児は最後列の硬いパイプ椅子に座り、ぼんやりと挨拶をきいていた。ここなら入学式が終わったら、さっさとホールからでられる。陽児はあまりに人が多いところが苦手だった。となりでは浩平がかわいい女の子がいないか、席の周囲を見まわしている。
「この急成長は国内だけでなく、欧米やアジアを始めとして世界中で日本のアニメが高い評価を集めているためでもあります。アニメはこの国を代表する文化です。みなさんは新しい日本文化の担い手として、誇りを胸に抱きアニメーションの声優をめざしてください。これからの二年間……」
そのとき後方から、重い扉がたたきつけられる轟音が鳴った。壇上の学園長も、教師陣も、全新入生もいっせいに音のしたほうを振りむく。
真っ白いスーツを着て、肩から真っ赤なダッフルバッグをななめにかけた女の子だった。その場の全員の視線に射貫かれ硬直している。高速道路でトラックの直前に飛びだしたカモシカのようだ。
「すみません、道に迷って、遅刻しました」
ざわついていたホールが、そのひと声で静まった。こんな声は初めてきいた。陽児もパイプ椅子に座ったまま硬直した。声質、響き、発声、どこがいいのかわからないけれど、人の心に直接届く不思議な声だ。浩平はこの声に気づかないようだった。
「おお、あの子は合格。なかなかかわいいな」
白いスーツの女子はぺこりと頭をさげた。そのまま席につこうとやってきて、なにもないところでつまずき、空席のパイプ椅子に頭から突っこんでいった。ガシャガシャと金属音が鳴り椅子が飛ぶ。陽児は立ちあがって声をかけた。
「だいじょうぶ? どこかぶつけてないですか」
「だいじょうぶです。ご親切にありがとうございます」
なめらかな日本語だけれど、どこかイントネーションに違和感をおぼえた。乱れたパイプ椅子を白いスーツの女子といっしょに整え、席にもどった。耳まで赤くしながら、その女子は陽児のとなりに座った。学園長が最後のひと言をマイクに吹きこんだ。
「これからの二年間、一日も休まず精進して、プロ声優への狭き門を突破してください。本学園はみなさんのチャレンジを全力でサポートします」
陽児は拍手をしながら、隣に座る純白のスーツの女子に目をやった。なんだろう、まだ違和感がある。なぜか左右で肩の高さが違っているのだ。そうだ、バッグのストラップをかけていない左肩が妙にふくらんでいる。左の襟元からは黄色いタオルが、ちらりとのぞいていた。タオルはジャケットの背中をとおり抜け、尻尾のようにパイプ椅子の座面から垂れている。
(このつづきは「小説 野性時代」2019年6月号でお楽しみください)
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