
単行本最新刊『心霊探偵八雲11 魂の代償』(3月30日発売)
文庫最新刊『心霊探偵八雲10 魂の道標』(3月23日発売)
の同時発売を記念して、
なんと第1巻の1話を丸ごと試し読み。
累計680万部突破の超人気スピリチュアル・ミステリーを体験せよ!
>>第1回はこちら
どこをどう走ったのかは思い出せない。
晴香は、気がついた時には、八雲の隠れ家である「映画研究同好会」の部屋にいた。
床に座って、呼吸をしているだけでも苦しかった。
額から汗がしたたり落ちる。
心臓の鼓動が、速く、激しく胸の内側を打っていた。
「痛っ……」
八雲が額を押さえて声を上げた。
「大丈夫?」
晴香は、さっき、八雲がスコップで殴られたことを思い出し、慌てて声をかけた。
「ああ」
八雲は頷きながらも、歯を食い縛るようにして、表情を歪めていた。
「見せてください」
晴香は、八雲の正面に回り、顔を覗き込んだ。
八雲が、押さえていた手をどける。
右の眉の少し上に、三センチほどの盛り上がった傷口があった。
肉がめくれたようになっている。血は、止まり始めているようだが、浅い傷ではない。
晴香はハンカチを取り出し、八雲の傷口に当てがう。
「大丈夫。自分でやるから」
八雲は晴香からハンカチを取り上げて、自分で傷口を押さえた。
その瞬間、晴香の頬を大粒の涙が伝った。
あれ? 何で涙なんか──。
意識すると逆に止まらなくなった。
何で? 何で泣くの?
「怖かったのか?」
八雲の掌が、晴香の肩にそっと触れる。
とても温かかった──。
張り詰めていた緊張の糸が、いっきにゆるむ。
そうだ、私は怖かったんだ。
スコップを持った影が目の前に立ちはだかった時は、本当に死ぬかと思った。
今までにこれほどの恐怖を味わったことはない。でも、八雲に助けられ、今こうして生きている──。
晴香は小さく頷くと、沸き上がる衝動に任せて、八雲のワイシャツの袖を掴み、声を上げて泣いた。
八雲は何も言わず、晴香が泣き止むまで、ただじっとしていた。
今まで人前でこんなにも泣いたことはなかった。
お姉ちゃんが死んで以来、泣かないと決めていた。それが八雲の前でもう二回も泣いている。
この不愛想な捻くれ者の前ではなぜか心がゆるんでしまう。晴香はそれが不思議でならなかった。
「ごめんなさい……」
晴香はひとしきり泣きじゃくった後に、掌で涙を拭いながら言った。
八雲は、何も言わなかった。それが、余計に気恥ずかしく感じた。
「もう一回、傷口を見せて」
晴香は、断る八雲から強引にハンカチを取り上げ、額の傷を覗き込んだ。
血は完全に止まっていた。
「ちゃんと病院で診てもらった方がいいよ」
「大丈夫だ」
八雲は相変わらずぶっきらぼうに言う。
「何が大丈夫よ。場所が場所だし、異状が出たりしたらどうするの」
「お節介が……」
やっぱりひと言多い。そのひと言で全部台無し。
「あのね、だいたいあなたは……」
言いかけた晴香だったが、八雲の左眼を見て言葉を失った。
蛍光灯の光に照らし出された八雲の左眼の瞳は、燃え盛る炎のように真っ赤だった。
晴香が今まで見たどんな赤より鮮やかで、深みのある色だった。
「生まれつきなんだ……」
八雲は晴香の視線の先にあるものに気づいたのか、面倒くさそうに言う。
「きれい……」
「は?」
「きれいな瞳」
八雲はしばらく鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていたが、やがて声を押し殺して笑い始めた。
次第にその笑いは大きくなり、しまいには腹を抱えて笑った。
いったい何がそんなにおかしいのだろう──。
「ねえ、何で笑うの?」
晴香が八雲の肩を叩く。
「だって……傑作だろ。きれいだなんて。君の感性はどうかしているよ」
「何、それ?」
八雲は深呼吸をして笑いを抑えてから言う。
「悲鳴を上げると思った。もしくは、気持ち悪いものでも見るような目で見るか、あるいは哀れみだな……」
「何で悲鳴を上げたりするの? きれいなものを見て悲鳴を上げる人はいないでしょ」
「だから君の感性がおかしいと言っているんだ。今まで、ぼくのこの赤い眼を見た人間は、まず悲鳴を上げるか気味悪がるかのどちらかだ。稀に哀れみの視線を投げかける奴もいたかな。きれいだなんてすっとぼけたことを言ったのは君が初めてだ」
すっとぼけたって──。ひどい言われようだ。
八雲は一呼吸おいてから、話を続けた。
「きっとさっき殴られた時にコンタクトを落としたんだな」
「コンタクト?」
「普段はコンタクトレンズで隠している。瞳の色を変えられるやつあるだろ、あれだ」
「さっき生まれつきだって言っていたけど……」
「そうだ。生まれた瞬間から赤かった。しかも、左眼だけ開いたまま生まれてきたそうだ。母親までぼくの赤い眼を見て悲鳴を上げたっていうんだから、笑えるよ」
全然笑えない。母親にその存在を気味悪がられるというのは、いったいどれほど深い傷を心に残すものだろうか?
想像などできるはずもない。
「その目のせいかどうかは知らないが、ぼくの左眼は他人には見えないものが見える」
「他の人に見えないもの?」
「そう。前にも言ったが、死んだ者の魂だ。それが、自分にだけしか見えないものだって理解するまでに随分時間がかかったよ。それまでは変人扱い。本当に見えると言っても誰も信じやしない」
それはそうだろう。現に晴香も信じていなかった。
八雲が捻くれた態度を取り続ける意味を少しだけ理解した。
今まで誰一人として彼に正面から向き合った人物はいない。
怯え、奇異、哀れみ、八雲に接してきた人間たちはそれらの感情を前提に八雲にかかわってきた。母親でさえ──。
同情ではなく、せめて自分だけでも八雲に正面から接してみよう。
晴香の中に、そんな思いが芽生えていた。
「痛っ」
八雲がまた声を上げた。
断続的に痛みが襲ってくるようだ。
私を庇って負った傷。そう言えば、まだ八雲に助けてもらった礼を言っていなかった。
「さっきは、助けてくれてありがとう」
「礼なら君のお姉さんに言ってくれ」
「姉さん?」
八雲の言っている言葉の意味が分からず首を傾げた。
「あの時、君のお姉さんが危険を知らせてくれたんだ。もし、それがなければ君の脳みそは今頃あの部屋の床の上だ」
あの時、晴香も〈危ない〉と叫ぶ女の子の声を聞いた。
「あの声、姉さんだったの?」
「そうだ。ずっと君の後ろに憑いている。君を見守っているんだ」
「本当なの?」
周囲を見回したが、晴香の目には、何も映らなかった。
「信じるかどうかは君の勝手だ」
「お姉ちゃん……」
昨日までであれば、八雲の言葉など信じなかったかも知れない。
だけど、今は違う。
お姉ちゃんは、今までどんな思いで私を見て来たのだろう? 何を思い、何を考えているのだろう?
「私にも見えたらいいのに。羨ましい……」
視線を漂わせる晴香の瞳に、再び涙が浮かんだ。
翌日、昼過ぎに晴香は八雲の隠れ家に向かった。
鍵はかかっていなかった。
昨夜あんなことがあったのに不用心極まりない。
ドアを開けてすぐのところで、八雲が寝袋に包まって丸くなっていた。まるでイモ虫だ。晴香が爪先で軽く蹴ると、迷惑そうに薄く目を開けた。
「もう昼だよ」
八雲は、眼を擦りながらモゾモゾと動き出す。
「よく、こんな所で生活できるね」
晴香はパイプ椅子に座り、八雲の身支度を待った。
「時々は帰ってるよ」
「家、あるの?」
八雲は答えずに、冷蔵庫の中から歯ブラシを取り出し、歯を磨き始めた。
なんで冷蔵庫?
「家があるなら帰ればいいのに。両親が心配してるよ」
「心配? それはないね」
八雲が歯ブラシをくわえながら、もごもごと答える。
まるで反抗期の中学生みたいな物言いだ。
「そんな、自分勝手なことがどうして言えるの? 少しは両親の気持ちを考えたら?」
八雲は、そんな話には興味がないという風に、のんきに口を漱いで、うがいをしている。
「ねえ、人の話、聞いてるの?」
「聞きたくないが耳に入ってくる」
八雲はタオルで顔を拭きながら向かいの椅子に腰を下ろした。
眠そうな目は相変わらずだ。
「聞こえてるなら答えてよ」
「もし、心配してたら、殺そうとしたりしないだろ?」
「え?」
「親の話だ」
「?」
ますます分からない。
「ぼくの赤い左眼。見えないものが見える。怖かったのか? それとも憎かったのか? それは分からないけど。ある日、母親はぼくを車で連れ出した」
八雲が、淡々とした口調で続ける。
「ごめんねって言いながらぼくの首に手をかけたんだ。だんだん力が強くなって、意識が薄れていった──」
八雲は、晴香の想像を超える悲劇を、まるで他人事のように語っている。
「そこをたまたま通りかかった警察官に助けられた。母親はその場から逃亡。それ以来、行方不明。父親に至っては、ぼくの記憶するかぎり存在していない」
「そんな……」
何かを言おうとしたけど、言葉が出て来なかった。
八雲の話したようなことは、ニュースやドラマなんかではよく見聞きするが、自分とはまったく離れた世界でしかないものと思っていたのに──。
「世の中には子を愛さない親もいるし、親を愛さない子もいるってことだ」
言い終わるのと同時に、八雲は髪をかきまわして大あくび。
他人を受け入れない態度の裏には、計り知れない大きな傷がある──。
「今は、叔父さんの家で世話になってる」
「そうなの?」
「叔父さんは遠慮しないようにとは言ってくれてるけど、あんまり迷惑はかけられないし、いろいろと事情もあるんだ」
八雲の左眼には、すでにコンタクトが填められていて、黒い瞳に変わっていた。
「私──」
晴香は、長い睫毛を伏せ、唇を噛んだ。
私は、事情も知らずに、好き勝手言ってしまった。なんだか恥ずかしくなる。
「そんなに気にするな」
八雲は、晴香の心情を察したのか口を開く。
「ごめんなさい」
晴香は頭を下げる。
「何で謝る?」
「だって……」
「君はぼくの目を見ても逃げなかった。それだけでいい」
八雲は自分で言っておきながら、自分の口から出たその言葉が意外だったらしく、急に苦虫を噛み潰したみたいな顔をした。
晴香はそれを見て少し笑ってしまった。
八雲が睨みつけてくる。晴香は、あわてて口を塞ぎ、笑うのを止めた。
「昨日、一つ分かったことがある」
八雲は、よっぽど気まずかったのか、急に話題をかえた。
「何?」
「昨日、ぼくらを襲ったあの影。間違いなくあれは生きた人間だ」
「何でそれが分かるの?」
「ぼくの目は便利にできていてね、右眼は実体のある物しか見えない。左眼は、死んだ人間の魂しか見えない」
八雲が、眉間に人差し指を当てながら言った。
「昨日私たちを襲った影は、右眼で見えて、左眼で見えなかったってこと?」
「そのとおり。昨日あの開かずの間が開いていたことも気になる」
「でも、いったい誰が?」
「さあね、候補者はたくさんいるよ」
「校務員の山根さん」
とっさにその顔が頭に浮かんだ。
「可能性はあるね。ぼくたちがあの廃屋に行くことを知ってたわけだし、鍵も持ってるから出入りも自由だ」
「相澤さんも関係あるのかも」
「相澤?」
八雲は首を傾げる。
「ほら、昨日、高岡先生が話していたじゃない。由利さんの彼氏だった人。私に斉藤さんのことを紹介してくれた」
「なきにしもあらずだ」
八雲は腕組みして天井を仰ぎながら言う。
「随分否定的ね」
「そういうわけじゃないが、どうも引っかかる」
「なら、直接訊きに行ってみようよ。それに高岡先生にも、もう一度話を訊いておいたほうが……」
「調べてみたければ、勝手にすればいい」
八雲が、言葉を途中で打ち切るように言った。
「それって、私一人でやれってこと?」
「役割分担と言ってくれ。ぼくは、他にも幾つか気になることがあるから、そっちを調べる」
確かにその方が効率がいい。
結局、八雲と晴香は夕方にもう一度落ち合う約束をして、別々に行動することになった。
別行動をするに当たって、晴香は八雲に三つの約束をさせられた。
人気のない所に行かないこと。
誰かに何か質問する時は、遠回しに訊くこと。
何か分かったらすぐに連絡すること。
そうすれば、昼間から襲ってきたりはしないだろうが、昨日の今日のことだし、十分に用心をするようにと言い含められた。
※ ※ ※
晴香はさんざん歩き回ったあげく、食堂で相澤をみつけることができた。
授業を途中でさぼったらしく、缶コーヒーを飲みながら求人案内誌を読んでいた。
ここなら人目もあるし、大丈夫だろう。
「相澤さん」
晴香が声をかけて向かいの席に座ると、相澤は顔をあげ人懐っこい笑顔を浮かべる。
背が低く、丸々と太っていて、ぬいぐるみ的なかわいさを持っている。
晴香は頭の中で、由利と相澤を並べてみたが、何となく不釣り合いな感じがする。
「どう? 何か分かった?」
晴香は相澤の問いに首を振る。
分かったというより、よけい混乱したという感じである。
「しかし、小沢も大変だね。あの斉藤八雲ってなかなかのクセ者だろ?」
「ええ、それはもう──。そういえば、彼、相澤さんのこと知らないって言ってましたよ」
相澤は吹き出し笑いをする。
「それはそうだろ。あいつにとってみれば俺なんて風景の一部だからな。前に友だちに付き合って、トランプの数字あてを見たことがあるだけだから」
それはインチキですよ、と突っこんでやりたかったが止めておいた。
それにしても、
「そういうことは、最初に言ってください」
「でも、困ってるみたいだったし、俺は友だちとは言ってないだろ」
確かに、サークルの友だちには相談をした。その時、たまたま近くにいた相澤が「斉藤八雲を訪ねてみれば」と言い出した。
改めて思い出してみると、知り合いだとは一言も言っていなかった。
「まあ、そうですけど……」
「大変だろうけど、がんばって」
相澤が席を立とうとする。
「あ、ちょっと待ってください」
晴香はあわてて相澤を呼び止めた。
「何?」
相澤は椅子に座り直す。
質問する時は遠回しに訊くこと──。
晴香は八雲の忠告を思い出しはしたが、どう切り出したらいいか分からず、結局ストレートな問いを投げかけた。
「相澤さん、篠原由利って人を知っていますか?」
「篠原由利ね──」
相澤はその名前を聞いた瞬間、頬をひくつかせ、露骨に嫌な顔をした。
この反応、何かある。晴香は臆せず話を続ける。
「相澤さんが篠原さんと付き合っていたって話を聞いたんですけど」
「付き合ってねえよ」
「え? でも……」
相澤は舌打ちをする。
「誰に聞いたか知らねえけど、付き合ってねえって」
「そうなんですか?」
「俺が篠原にコクってフラれただけ。だいたいそれが今回のことに関係あるの?」
相澤は、テーブルの下で貧乏揺すりをする。
「それは、本当ですか?」
「フラれたなんて話、嘘でするわけねぇだろ」
それは、そうだ。
そこで、会話は止まってしまった。
「俺、もう行くぜ」
晴香は何も言えずに、ただ歩き去る相澤の後ろ姿を見ているだけだった。
八雲は資料室の中にいた。
スライド式の書棚を動かし、整然と並んだファイルの背表紙を目で追っていく。
目的のものはすぐに見つかった。学生寮の竣工図面。
八雲は書棚の一番上にあるその資料を引っ張り出す。かなり古びたものだった。黄色く変色していて、カビ臭い。
竣工昭和三十年、と記載されている。
八雲は閲覧台まで移動し、ページをめくっていく。
境界線図や、完成予想図などが細かく記載されている。
十ページほど進んだところで、八雲は建物の平面図を見つけた。
平面図は二つ記載されていた。一つは例の廃屋の一階図面。そして、もう一つは、地下一階──。
八雲は指で慎重に図面をなぞる。
見つけた。開かずの間には、地下室に通じるドアの位置が記載されている。
八雲は、ポケットから昨日山根に借りた鍵を取り出す。
キーホルダーについた三つの鍵。
一つは入り口のドアの鍵。一つは各小部屋のマスターキー。
そして、もう一つは地下室の鍵だ。
開かずの間のベッドだけ違う位置に置いてあったのは、おそらく地下室へのドアを隠すためだろう。そこに何かあるにちがいない。
八雲はできるだけ目立たないよう、一度キャンパスを出て、林道から雑木林に入った。
道のない雑木林を進むのに、思いのほか時間がかかった。
靴の中には、落ち葉と土が大量に入り込んでいた。
考えが少し甘かったのかも知れない。額の汗の量に比例して後悔が増していく。
木の枝を掻き分けながら黙々と歩を進めた。
晴香が時計に目をやると、三時を少し回ったところだった。
八雲との待ち合わせの時間まで、あと一時間近くある。
あれ以上しつこく相澤を追及するわけにもいかなかった。晴香は、特にすることもないまま、ぼんやりと食堂で時間を潰すことになってしまった。
テーブルに突っ伏し、ため息を吐く。
八雲は何か分かったのだろうか?
自分だけ何も収穫がないのは癪にさわる。
「晴香君」
晴香は声をかけられて顔をあげる。
高岡だった。目が充血し、昨日よりさらに憔悴しているようにみえた。
「先生。ちょっと訊きたいことがあるんです」
いい機会だ。もう一度、由利のことを聞いてみよう。
「訊きたいこと?」
高岡は、首を傾げながらも、テーブルの向かいに腰を下ろした。
「あの、昨日話した篠原由利さんのことなんですけど……」
肝試し以来の美樹のことや、昨日廃屋で襲われたことなど、今まで自分の身の周りで起こった奇妙な出来事を信じてもらえるかどうかは分からなかった。ただ、少しでも情報がほしかった。
ただ、話を聞いて、何か思い出してくれれば──。
高岡は、両手で顔を覆い、大きく首を振った。
「変なこと言い出して、ごめんなさい……」
「いや、気にしなくていい。それより、君の話を聞いて、一つ重要なことを思い出したよ」
高岡が、顔を上げながら言った。
「え? 本当ですか?」
「ただ、ここで話すのも何だから、場所を変えよう」
高岡が、声のトーンを低くする。
晴香は、申し出に同意して、席を立った。
廃屋に辿り着いた八雲は、ドアのノブに手をかける。
鍵がかかっていた。
昨日、あの後に、誰かが閉めたことになる。
おそらくは、昨日、自分たちを襲った人間だろう──。
八雲は、鍵を開けて中に足を踏み入れた。
窓から差し込む光で、昨日よりはっきりと確認することができる。
廊下を進み、突き当たりの開かずの間の前まで足を運んだ。
ここもだ──。
鎖が巻きついていて、ダイヤル式の南京錠が施錠してある。八雲は、鍵の四桁のダイヤルを〈7483〉に合わせる。
昨夜、記憶しておいた数字だ。
カチッと音をたてて、ロックが外れた。
ドアの取っ手から鎖を外し、ドアの鍵を開け、慎重に中に入った。
室内は窓がないせいもあり、この部屋だけは、昼間なのに懐中電灯の光に頼らなければ、中を見渡すことができなかった。
部屋の隅にあるベッドを力いっぱい引きずって移動させる。
予想どおりベッドの真下から、一メートル四方の金属製の床が現れた。
正確にはドアだ。取っ手が付いている。
鍵穴のついた南京錠で、閉じられている。
三本目の鍵を差し込むと、ピッタリ形が合った。取っ手を掴み、力いっぱいドアを持ち上げた。
金属の軋む音がして、埃が舞い上がる。
黒く塗り潰されたみたいに、四角い穴がぽっかりと空いている。
懐中電灯を使って地下室を覗いてみるが、ほとんど何も見えない。
八雲は意を決して、垂直に伸びた木製の梯子に足をかける。
ぎぃ、と音を立てて足場になる木の板が歪む。
あっ! と思った時には、もう遅かった。
足を滑らせ、一気に地下室に転がり落ちた。
床に腰を打ちつけた痛みに顔を歪めるが、すぐにそれを忘れるくらいの、強烈な腐臭に襲われ、むせ返りながら、あわてて鼻と口を押さえた。
八雲は臭いの元を探ろうと、落とした懐中電灯を拾い上げ、室内を照らしてみる。
壁に、黒い線のようなものが見える。
ゆっくりと壁に近づき、目を凝らす──。
「何てことだ……」
八雲は思わず声を漏らした。
それは、壁についた瑕だった。
一ヶ所や二ヶ所ではない。壁のいたるところに、無数の瑕がつけられている。
しかも、その瑕は、自然に出来たものでもなければ、工具で引っ掻いたものでもない。
手をかざして比較してみる。
大きさからして、多分、人間だ──。
誰かが、壁に爪を立てたのだ。
その瑕の一つひとつに赤黒い染みが付着している。
おそらくは、ここを抜け出ようとして、無駄だと分かっていながら何度も何度も、この壁を引っ掻いたのだろう。
剥がれた爪が、壁に刺さっているのを見つけた。
血が滲み、指の肉が剥がれてもなお、壁を引っ掻き続けたのだ。
八雲はその瑕を指先でそっと撫でる。
「ここが、本当の開かずの間だ──」
ふと、八雲の首筋に冷たいものが落ちる。
懐中電灯で照らしながら見上げると、天井を二本のパイプが走っていた。
水道管か何かだろう。その繋ぎ目から水が滴り落ちていた。
この場所に閉じ込められていたあの女性は、この水を頼りに何日か生き延びたのだろう。
もし、ここに水道管がなければ、彼女の苦しんだ時間も、少しは短くてすんだのかも知れない。
この水は、彼女に希望を与え、そして苦しめた──。
彼女は、この部屋にある何かに怯えていたのではなく、この部屋自体から逃げ出そうとしていたのだ。
問題は、誰が何のために彼女をここに閉じ込めたかだ──。
地下室から這い出した八雲は、そのまま足早に廊下を抜け、廃屋を出た。
冷たい風にさらされ、生き返った心地がした。
あの場所に由利が閉じ込められていたってことは分かったが、決定的な証拠がない。
死体だ──。
おそらくは、由利を閉じ込めた人間が移動させたのだ。
「こ、こ、こんなところで何をやっているんだ?」
背後から声をかけられた。八雲の思考は一瞬、硬直する。聞き覚えのある嗄れた声。
鍵を持っていて、いつでもこの廃屋に出入りできる人物、校務員の山根だった。
山根は相変わらずの酒に酔ったような赤い顔をして、首からはタオルをぶら下げ、錆びついたスコップを持っていた。
「お、お、お前さんが捜していた物はこれだろ?」
山根は、作業ズボンのポケットからデジタルカメラを取り出し、八雲に渡した。
「あ、あ、あそこに落ちてた」
山根は廃屋から十メートルほど離れた林の中を指さす。
八雲は礼を言ってそれを受け取る。
これはおそらく祐一が記念撮影をしたカメラだ。
電池はまだ生きている。
八雲はカメラの電源を入れ、カメラ内蔵のモニターに画像を映し出す。
居酒屋かどこかだろう。何人かがバカ騒ぎをしながら酒を飲んでいる。
しばらく、同じような写真が続く。写真をどんどん飛ばしていく。
十枚ほど先送りした後に、廃屋を背景にした写真が出てきた。
最初は祐一、次に和彦と美樹。その次は怯えた美樹の横顔のアップだった。
そして、その奥に部屋の隅に隠れるようにしている一人の男の姿が映っていた。何かを引きずっている。
暗くてよく見えないが、おそらくは由利の死体──。
「何てこった……」
八雲の表情は一瞬で凍りつき、次の瞬間には脱兎の如く、地面を蹴って走り出した。
背後で山根が何か怒鳴ったが、もう、そんなことにかまっている余裕はない。
八雲は走りながら、晴香の携帯に電話を入れる。
しかし、コール音が鳴り響くばかりだった──。
「どこに行った」
八雲は、地面を蹴りながら呟く。
〈こっちだよ〉
どこからともなく、女の子の声が届いた──。
>>第5回へ
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書誌情報>>『心霊探偵八雲1 赤い瞳は知っている』
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