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レビュー

【解説】最初から最後まで読者の価値観を揺るがす作品――『インドラネット』桐野夏生【文庫巻末解説:高野秀行】

桐野夏生『インドラネット』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



桐野夏生『インドラネット』文庫巻末解説

解説
たか ひでゆき(ノンフィクション作家)  

 きりなつさんはデビュー以来、一貫して人間のダークな側面を描いてきた。本書もそうであるが、冒頭からいつもの桐野作品とちがう異様な不安感が漂っている。
 主人公のやつあきらがどうしようもない人間だからだ。勉強も運動も苦手で、人間関係をうまく作れず、容姿も平凡。目先の利益にすぐ引き寄せられ、プライドだけは高い。
 希望ではなかった大学を卒業した後、流されるようにして入ったIT企業の子会社で契約社員として勤めているが、勤務評価が芳しくないどころか、女性社員への差別的な言動で糾弾されている。自分の劣等感を弱い者、特に女性にぶつける癖があるのだ。
 いっぽう、八目の高校時代の親友であるみやそらは彼とは真逆。背は高く、モデルのような顔立ちで、運動も学業も抜群。なぜか空知は八目と仲良くしてくれた。ただ、彼は大学時代に疎遠になり、いつの間にか日本から姿を消してしまった。八目は二十代半ばになった今でもかつて仲良くしてくれた空知を心の支えにしており、彼とその姉妹(こちらも美女)の自称“関係者”から「空知を捜してほしい」と依頼されて、女性差別問題で居づらくなった会社をやめ、その怪しい関係者から旅費をもらってカンボジアに出かける。
 私はこの主人公に本当に驚いた。小説の世界では「信頼できない語り手」というナラティブ(語り)の手法がある。カズオ・イシグロ著『日の名残り』などがその例とされる。主人公の執事がありし日の思い出を語るのだが、それは本当のことかどうか読者にはわからない。事実を意図的にねじ曲げたり、自分に都合の良い解釈を施したりしている可能性がある。だから読者はなにやらゆがんだ世界を旅していくような気分になる。
 本書は一人称小説ではないものの、やはり八目の目を通して世界を見ている。八目もまた「信頼できない語り手」であるが、その信頼できなさ加減は『日の名残り』の執事の比ではない。執事は観察力も記憶力も思考力も優れ、知識と経験が豊富なのは間違いない。ところが、八目の場合は、持っている能力のほぼすべてが基準値以下なのだ。見るべきものを見ず、くべきことを訊かず、やるべきことをやらず、考えるべきことを考えない。
 だから所持金をあつなく失ってしまうし、クレジットカードの暗証番号を覚えていないからキャッシングもできず、日本の両親に送金を頼めばいいものをなぜか八目自身が「怪しい」と思っている周囲の人間たちに頼ろうとする。判断がことごとく間違っているのだ。いわば「能力が信頼できない語り手」である。行ってはいけない方向に行ってしまい、物語は小説の定石を外れて転がっていく。
 こんな奴に付き合うのはご免なのだが、著者のストーリーテリングは抜群だから、途中で読むことをやめられない。空知とその姉妹は一体何者なのか、どこで何をしているのか知りたくてたまらない。私たち読者もダメな主人公のあとをついて、闇の世界に引きずり込まれていくしかないのである。

 さて、以下はネタバレを含むので、ご注意願いたい。
 行く先が全然わからない小説ながら、私は半分ぐらいで「あ、これは『闇の奥』なんだ!」と気づいた。
 ポーランドに生まれ、のちにイギリス国籍を取得した作家ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』は1899年に発表され、文学史に残る名作とされている。舞台は当時ベルギー王の事実上の私有地だったアフリカのコンゴ。主人公はぞうを輸入する会社に雇われ、現地人が奴隷のように酷使され、あるいは殺されているコンゴ川をさかのぼっていく。すると、その奥地には象牙貿易の代理人だったクルツという白人が立てこもっており、現地人をしたがえて自分の王国のようなものをつくっていることを発見する。主人公の目の前でクルツは死ぬ。彼は狂気に冒されていたようだが、それが何なのかは示されない。「闇の奥」とは何なのか。圧倒的なコンゴの密林を指すのか、あるいはヨーロッパ帝国主義を指すのか、あるいはもっと人間そのものの邪悪さを指すのか。ひじょうに多義的な読み方ができる作品なのだ。
『闇の奥』はテーマのみならず、ストーリー構成やキャラクターも極めて優れていたため、多くの作家やクリエーターがインスパイアされている。中でも最も有名なのはフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』だろう。これはほとんど『闇の奥』の“翻案”である。ベトナム戦争時、米軍のカーツ大佐(「クルツ」の英語読みだ)は独断で自分の部隊を率いてベトナムのジャングルの奥地に入り込み、消息を絶つ。捜索に行った主人公たちは大佐が奥地で自分の王国を築いていたことを発見するという筋書きだ。
 他にも『闇の奥』リスペクトの作品は多い。あくまで私見だが、南アフリカのノーベル文学賞作家J・M・クッツェーの『恥辱』やフランスの人気作家ミシェル・ウエルベックの『服従』などもその要素を取り入れているように感じる。
 この『インドラネット』も『闇の奥』リスペクトの作品といっていいだろう。主人公が行方不明の人物を追って、得体の知れない闇の世界へだんだん深く入り込んでいっていること、空知も闇の組織を統率しながら、周囲の人間から崇拝の対象となっていること、「空知」は音読みすれば「クーチ」であり「クルツ」に近いことなど、いずれも偶然とは思えない。
『闇の奥』の魅力とは何なのだろうか。私は若い頃コンゴの奥地に通って、土地の様子や住んでいる人たちと親しんで来たし、また白人がどのようにここを支配してきたか、それどころか今も経済的にかなり支配していることを目の当たりにした。それゆえ思うのだが、『闇の奥』の魅力とは価値観の転倒ではないだろうか。コンゴ川を遡っていくと、都市部の常識がどんどん通じなくなり、現地の常識に従うしかなくなる。自然と人間の両方からそういう圧力を受けるのだ。環境が人を変えてしまう。
 一方で、カネと武力をもった人間が強いというグローバリズム的な論理は奥地の世界でも通用してしまうという矛盾した事実もあるし、「白人」という出自や個人のカリスマ性が神聖視されるという側面もある。二重三重にもねじれた現実に「何が正しいのか?」がわからなくなり、巻き込まれた人間は「自我」を見失うという状況が起きる。
 桐野版『闇の奥』でもそうだ。クズでダメな八目は、痛い目に遭いながら、彼は彼なりに少しずつ成長し、最後には空知と再会を果たす。一種のビルドゥングスロマンなのだが、彼が得たものは何だったのか。空知はもう彼が恋い焦がれ、アイデンティティとまで思っていた人間ではなくなっていた。でもそれは空知のせいではない。
 闇とは何なのか。カンボジアで独裁政治を行うフン・セン政権なのか。政権をカネで操る中国なのか。それともカネと欲にあらがえない人間の根源的な問題なのか。
 八目の苦難と成長は何だったのかとも思う。成長とは何が正しいのか明確な世界にしかないものだ。それでも彼が成長しているように見えるのはいったいなぜだろう。
 能力的に信頼できない語り手に導かれて、最後に闇の奥にたどりつく。最初から最後まで読者の価値観を揺るがす作品なのである。

作品紹介



書 名: インドラネット
著 者: 桐野夏生
発売日:2024年07月25日

おまえのために死んでもいい。危険な目に逢い続ける男が最後に見たものは。
平凡な顔、運動神経は鈍く、勉強も得意ではない――何の取り柄もないことに強いコンプレックスを抱いて生きてきた八目晃は、非正規雇用で給与も安く、ゲームしか夢中になれない無為な生活を送っていた。唯一の誇りは、高校の同級生で、カリスマ性を持つ野々宮空知と、美貌の姉妹と親しく付き合ったこと。だがその空知が、カンボジアで消息を絶ったという。空知の行方を追い、東南アジアの混沌の中に飛び込んだ晃。そこで待っていたのは、美貌の三きょうだいの凄絶な過去だった……

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322307000523/
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