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晴香は午前中の講義を終え、約束通り昼過ぎに八雲の隠れ家を訪れた。
昼過ぎだというのに、八雲は相変わらずの寝ぼけ顔である。
「おはよう」
晴香は、声をかけながら、八雲の向かいの椅子に座った。
「それで?」
不機嫌そうに八雲が切り出す。
晴香は何度か和彦の携帯電話に連絡を入れたが、電源が入っていないらしく、連絡がとれなかったことを伝えた。
わかる範囲で和彦の知人に聞いてみたりもしたが、誰も知らなかった。
事件以来、消息不明ということになる──。
「話を整理してみよう」
八雲は、言いながら大口をあけてあくびをする。
「もう一度肝試しに行ったときの詳しい状況を話してくれ」
「整理?」
八雲の申し出を受け、晴香は記憶を手繰り寄せながら、三人が肝試しに行ったときの状況説明を始めた。
何か疑問点があって質問されても、答えられない。
祐一から聞いた話を、できるだけ正確に再現しているだけで、実際自分がその場所にいたわけではない。
確認したくても、当の祐一は死んでしまっている。
話を終えるのと同時に、八雲は寝グセだらけの髪を、ガリガリとかきまわし、腕組みをした。
「これから、どうするんですか?」
怒られることを承知で、訊いてみる。
「そうだな、まずは、君の友達に憑いている魂が誰なのか? それを調べる」
「心当たりは?」
「あると言えばあるかな?」
「いつも曖昧なんですね」
「世の中は曖昧なことばかりだよ」
八雲が、すっと立ち上がった。
※ ※ ※
晴香が、八雲に連れられて来たのは、A棟の地下にある資料室だった。
この部屋には、何度か入ったことがある。
五十坪ほどの広さがある白壁の部屋で、天井までの高さの移動式キャビネットが規則正しく並んでいる。
学生名簿や、授業の資料などが保管してある。
「こんな所で何を調べるんですか?」
「ぼくの勘では、君の友だちに憑いていた魂は、この大学の学生だった人間だと思う」
「まさか、手当たり次第探すつもりですか?」
「そのつもりだ」
八雲が、さも当たり前だという風に答える。
そんな原始的な方法で探していたら、
「この大学に入学した学生が、何人いると思っているんですか? ここで歳とっちゃいますよ」
晴香は部屋の奥に、三台並んでいるパソコンラックの前に座り、マウスをクリックする。
スクリーンセーバーが解除され、パスワードの入力を求める表示が出る。
「パソコンで検索するのはいいが、パスワードはどうするんだ?」
八雲が、腕組みをして鼻を鳴らす。
「去年、ここのデータ整理をやったんです。人手が足りなくて、何人か学生がアルバイトをしたんです」
「その中の一人が、君ってわけだ」
「はい」
「まさか、君はその時からパスワードが変わってないとでも思ってるのか?」
確かにそれは一理ある。
でも、試さないよりいい。あの時のパスワードは、学校の創立記念日の数字を羅列したものだった。
テンキーで数字を入力し、エンターキーを叩く。
モニターに画面が表示される。なんだか、勝った気がする。
「あきれたセキュリティーだ」
八雲がため息混じりに言った。
「これだけ膨大な資料を手当たり次第調べようとするのも、十分にあきれた行為ですけど」
晴香は、今までの恨みを込め、言ってやった。
八雲は珍しく何も言い返さないで黙っている。平静を装っているが、きっと内心は穏やかではないだろう。
晴香は学生名簿の入っているファイルをクリックする。氏名、住所、生年月日、連絡先、所属学部などが配列された画面が出てくる。
「写真も取りこんであるのか?」
八雲が画面を見ながら感嘆の声をあげた。
「ここ十年分だけですけど」
「充分だ」
「それで、誰を調べるんですか?」
「ユリという名前。漢字は分からない」
晴香はフリガナの欄にユリと入力して検索をかける。対象者が二百人近く出てきた。
「これだけじゃ厳しいですね。ほかに何か情報はないんですか?」
「性別は女性」
「分かります」
「目の下に黒子がある」
「検索できません」
そこで、会話が止まってしまった。
いきなり手詰まりだ。晴香も、考えをめぐらせてみたが、何も思いつかない。
苛立たしげに髪をかき回していた八雲が、不意に顔を上げた。
「休学、もしくは退学になっている人間で検索できるか?」
そうか。それなら、対象者はぐっと絞られる。
「多分できます」
晴香は端末を操作する。対象者が三人に絞られた。
三人の女性の写真を、一人一人確認していく。
「彼女だ!」
二人目の女性の写真を見たところで、八雲が声を上げた。
篠原由利。文学部、教育学科。休学中。
長い髪を、後ろで束ね、度の強そうな眼鏡をかけている。八雲の言うように、目の下に黒子もあった。
全体的に、神経質そうな雰囲気がある。
私──。
「この人知っているわ」
隣に立つ八雲を見上げながら言った。
「友人か?」
「一年の時、同じゼミだったの。直接話したことはないけど、何度か姿を見たことある。先月の終わりくらいから、急に大学に来なくなったの」
「休学の理由は?」
「そこまでは……。でも、行方不明らしくて。ご両親が警察に捜索願を出したとかで、ちょっとした騒ぎになってました」
「行方不明ねぇ」
八雲が、シャープな顎先を撫でるようにしながら言った。
ここまでくると、単なる偶然として片付けられるものではない。
「そうだ! 高岡先生が何か知ってるかもしれない!」
晴香は興奮を抑えきれずに早口に言う。
しかし、八雲は冷静そのものである。人差し指を耳につっこんで、うるさいと言いたげな表情をしている。
「もう少し落ち着いて話してくれ。そもそも高岡先生とは誰だ?」
「忘れたの? 昨日、駅で会ったでしょ。あれが高岡先生。私たちのゼミの担任なんです」
「あんまりあてにならないね」
八雲が、あくびをしながら言った。
「誰にでも否定的なんですね」
「君は誰でも信じるのか?」
「あなた以外は」
「そりゃ光栄だ」
八雲は晴香の嫌みを気にする風もなく、ポケットから携帯電話を取り出すと、電話をかけはじめた。
「あ、後藤さん? ちょっと頼みたいことがあるんです……」
電話が繋がったらしく、八雲が話し始める。
相手の声は聞こえないが、話の内容はだいたい分かった。篠原由利に関することで何でもかまわないので調べてほしいというものだった。
八雲は用件だけ告げると一方的に電話を切ってしまった。
「今の、誰ですか?」
素性調査を依頼できるような人物の想像がつかず、訊いてみた。
「知り合いだ」
「その人は行方不明の人の消息なんて分かるんですか?」
「可能性がなきゃ、わざわざ電話なんてしない」
それはそうなのだが、電話一本で行方不明者の消息が調べられるなんて、いったいどういう知り合いを持っているのだ。
晴香が考えをめぐらせている間に八雲はドアを開けてさっさと出て行ってしまった。
「まただ」
本当に、自分勝手なんだから。うんざりしながらも八雲のあとを追って部屋を出た。
「晴香君」
資料室を出たところで声をかけられた。
ふり返ると、さっき話題にのぼったばかりの高岡が歩いてきた。
「先生──」
晴香は一瞬八雲を追うべきか迷ったが、結局立ち止まって、高岡の到着を待つことにした。
「昨日は大変だったね」
「いえ、そんなことは──。先生のほうが大変そうです」
高岡は昨日よりあきらかにやつれた顔をしている。自分の教え子が死んだのだから当然かもしれない。
逆に微笑みかけられたりしたらどう反応したらいいのか分からない。
「そうでもないさ。もちろん元気というわけではないがね」
高岡は表情をゆるめてみせたが、それがよけいに痛々しかった。
「とにかく、こういう時、無理は禁物だよ」
「先生も──」
「そうだな」
高岡は苦笑いを浮かべながら言うと、晴香に背を向けて歩き出した。
「あ、あの。先生」
晴香は歩き去ろうとする高岡を呼び止めた。
高岡は歩みを止めてふり返る。
「何だね」
「いや、あの……」
晴香は言葉に詰まってしまう。
由利のことを高岡に訊かなくてはという思いから呼び止めたまではよかったが、どう切り出したらいいのか分からない。
「どうした。気にせず言ってみるといい」
晴香の心情を察したのか、高岡が話の先をうながす。
その言葉に甘えて話を始める。
「先生、篠原由利さんて覚えていますか?」
「覚えてるよ。今、大学を休んでいる子だね」
「はい。行方不明になっています」
「そうだったかな……。しかし、なぜ突然篠原君のことを訊くんだい?」
高岡は怪訝な表情を浮かべる。
当然の反応だ。
「今は詳しく話せませんけど、もしかしたら今回の祐一君の件に関係があるかもしれないんです」
「市橋君の?」
「はい。何か、覚えていることはありませんか?」
「覚えていることねえ……」
高岡は顎をさすりながら記憶の糸をたぐり寄せているようだった。
「何でもいいんです。行方不明になる前の様子とか、仲のいい学生や、恋人とか……」
晴香は高岡が記憶を呼び覚ます手伝いをしようと考えられる事柄を羅列する。
「恋人か──」
高岡は何か思い出したのか、急激に口を開けてあっという表情をした。
「何か思い出したんですか?」
「ああ、篠原君には確か恋人がいたな。一学年上の相澤君ではなかったかな?」
「相澤ってオーケストラサークルの?」
「そう、そう、その相澤君だ」
晴香は驚きのあまりそれ以上言葉を発することができなかった。今、高岡が口にした人物の名前を晴香は知っている。
「ちょっと、用事を思い出したので失礼します」
この事実を、早く八雲に伝えなければ。
晴香は、その衝動に駆られて、高岡に一礼すると、廊下を走り出した。
廊下の最初の角を曲がったところで、急に八雲の姿が目に飛び込んできた。
「そんなにあわててどこに行く」
八雲が、あくびをしながら言った。
「あっ」
人間、急には止まれない。晴香は転びそうになりながら急停止して、あと戻りするはめになった。
「話はだいたい聞こえていたよ」
いったいどんな地獄耳だ。でも、聞いていたなら話は早い。
「由利って人の彼氏、相澤さん」
「聞こえていたと言っているだろ」
ならもっと驚け! 晴香は叫びたくなる気持ちをぐっとこらえた。
「相澤哲郎さんは、私に、あなたを紹介してくれた人物ですよ。これって、ただの偶然にしては怪しくないですか?」
「君の方が百万倍怪しい」
八雲は興味なさそうにすたすたと歩き出した。
本当に、なんて男だ!
晴香が八雲に連れられてやって来たのは、校舎の裏手にあるプレハブの小屋のような建物だった。
大学の校務員の部屋として使われている場所だ。
なぜ、こんな場所に足を運んだのか? その理由をいくら問い質しても、八雲は答えようとはしなかった。
「こんにちは」
八雲は入り口のドアの前で声を上げる。
反応が無いと分かると、八雲は勝手にドアを開け、部屋の中に足を踏み入れた。
「ねぇ。勝手に入っちゃっていいの?」
晴香は、さすがに中に入る気にはなれず、八雲の背中越しに部屋の中を覗いた。
入り口からすぐのところに、長テーブルとパイプ椅子が置かれている。その奥には冷蔵庫と流し台。壁にはスコップやら鎌やら農機具が立てかけてあった。
「ねえ。マズイんじゃないの?」
八雲の背中に呼びかけるが、無視された。
晴香が、はぁっとため息を吐くのと同時に、部屋の奥にあった、裏口と思われるドアからぬうっと人影が現れた。
「きゃっ」
晴香は、反射的に飛び退いた。
「お、お、お前ら、な、な、なにをしている」
部屋に入って来たのは、グレイの作業服を着た中年の男だった。
細面で、皺が深い。日焼けして肌が浅黒く、何かの作業をしていたのか、額に汗がにじんでいた。
名前は知らないが、何度か学内で姿を見たことがある。
この大学の校務員をしている男で、いつもずるずる左足を引きずりながら歩いている。
本当かどうかは知らないが、かつては有名なマラソン選手だったらしい。
少し、身構えてしまう。
「突然すみません。実は裏手の廃屋の鍵を貸していただけないかと思いまして」
勝手に侵入したのを見つかったにもかかわらず、八雲は落ち着いた口調だった。
「あ、あ、あんな所に何しにい、い、く」
男はセミのように、耳に突き刺さる声で言う。
「実は、友だちがこの前、あの建物で肝試しをしたらしいんです」
「肝試し?」
「ええ。それで、その時に大事なものを落としてしまったらしくて、捜しに行きたいんです」
八雲は、予め考えていたかのように、すらすらと出任せを並べる。
校務員の男は、八雲のつくり話を疑っている様子はなかったが、太い眉の間に皺を寄せ、露骨にあきれた表情を浮かべる。
「お願いします。山根さん」
八雲が頭を下げた。
この校務員の男は山根というのか? 彼の名前を初めて知った。
山根は、足をずる、ずる、と引きずりながら、壁際のキーボックスまで進むと、中から鍵を取り出し八雲に向かって投げてよこした。
「か、か、鍵は今日中に返さなくていい。もう帰るから」
「ありがとうございます」
「き、き、肝試しなんてバ、バカなまねはもうするなよ」
「やっぱり出るんですか?」
八雲がおどけて幽霊のマネをする。
「そ、そうじゃないが……た、建物が古い。ら、来月には壊す……」
「なるほど、分かりました」
八雲は部屋を出ようとしたところで、はたと動きを止め、山根を振り返った。
「あの、あそこにダイヤル式の南京錠ってありますか?」
「さ、さあ。し、し、知らないね。あ、あそこには何の用事もないから、い、今まで一度も入っていない」
八雲はもう一度礼を言って部屋から出てきた。
「ねえ、なんであの校務員の人の名前知ってたの?」
疑問をぶつけてみる。
「作業服に名前が刺繍してあったろ。君はいったい何を見ている」
なるほど──。
※ ※ ※
晴香が、廃屋の前に立った時には、もうすっかり陽は暮れていた。
遠くに見える山の稜線に、かすかに青い色が残っているだけだった──。
静かだった。木の枝を揺らす風の音が、必要以上に大きく聞こえる。
建物の不気味さに加えて、祐一が死んだという事実が、晴香の胸に重くのしかかる。
意識を集中していないと、立っていられないほどに足がすくんでしまっていた。
友だちのためとはいえ、とんでもないことに首を突っこんでしまった。後悔の念を抱かずにはいられなかった。
ちらっと隣に立つ八雲に視線を向けた。
彼に動揺している様子はない。おおぐちをあけてあくびをすると、目に浮かんだ涙をゴシゴシと腕で拭っている。
「いざとなったら助けてよ」
掴みどころのない男だが、頼りになる人間はほかにいない。
「努力はするけど、保証はできない」
政治家の答弁みたいだ。
「訊いた私がバカだったわ」
一番の間違いは、この斉藤八雲という男に関わってしまったことなのではないか? そんな気さえしてくる。
「怖くなったのか?」
「別に。平気です」
八雲に言われて強がってみたが、喉に意識を集中しないと、声が震えてしまう。
「じゃあ、行くか」
八雲はドアの前に立ち、借りてきた鍵の一つを鍵穴に差し込んだ。
だが、意味はなかった。鍵を回す前にドアは開いた。
無言のまま、二人並んでドアを押し開け、建物の中に足を踏み入れた。
懐中電灯の光が、室内を照らし出す。
外から迷い込んだ落ち葉が、床に散乱している。
それを踏む度に、バリッという音が響く。
部屋の奥へと通じる廊下を、慎重に進んで行く。
空気がこもっていて、黴臭い。息苦しささえ感じる。
八雲は懐中電灯を使い、左右にある小部屋を照らし、中の様子を観察していく。
どの部屋も同じ作りのようだ。正方形の部屋にベッドが一つ、窓が一つ。ここは、もしかしたら学生寮か何かに使われていたものかもしれない。
晴香は、暗闇で八雲とはぐれないように、彼のワイシャツの裾をつまみ、足元に注意しながら歩く。
──と、急に八雲が立ち止まった。
「君の友達が幽霊を見たのは、この廊下の突き当たりにある開かずの間だったな」
「はい」
「ダイヤル式の南京錠があって部屋の中には入れなかった」
「私も訊いた話だから確かじゃないですけど……」
「これ」
八雲が、屈み込むようにして、何かを手にとった。
じゃりじゃりっと小銭を擦り合わせたような音がする。
「何、それ」
八雲は、晴香にも分かるように懐中電灯で照らす。
そこにあったのは、地面まで垂れ下がった鎖と、ダイヤル式の南京錠だった。
「切断された跡はない。〈7483〉の数字が合わされている……誰かが開けたんだ」
晴香は、状況が飲みこめず、八雲の顔を見る。
「開かずの間のドアが、開いている──」
八雲は鎖を足元に置くと、目の前のドアに手をかける。
晴香の背筋に冷たいものが走る。祐一の話では、この部屋の中に何かがいたのだ。
「待ってください」
思わず声をかけた。
晴香の制止が八雲の耳に届く前に、錆びた金属の擦れる音がして、ドアが開いた──。
恐怖に身を硬くしたが、何も起きなかった。
目を閉じているのでは? と疑いたくなるほどの、深い闇が広がっている。
八雲は、懐中電灯を使って部屋の中を照らした。
部屋の中は、他の部屋と変わらない間取りになっている。ベッドが一つだけ置いてあり、ほかには何もない。
でも、何かが違う気がした。
すえたような臭いが鼻につく。
「何か不気味ですね」
晴香は、八雲の背中越しに部屋を見ながら言う。
「窓のせいだ」
「窓?」
懐中電灯の明かりを頼りに、部屋を見回してみる。
八雲の言うとおりだった。他の部屋には小さいながらも、窓が付いていた。しかし、この部屋には一つもない。
八雲は、ゆっくりとした足取りで部屋の中に入って行く。
晴香も、それに引き摺られるように、部屋に入った。
その瞬間、水中にいるように、急に空気が重くなったような気がした。
八雲は、黙って周囲に目を凝らす。
部屋の中には、特に目立ったものはないように思える。
「何かありました?」
晴香は、ワイシャツの裾を、ぎゅっと握り締めながら訊いた。
「何もない。でも、何かあるはずだ」
「それが分かれば、美樹は助かるの?」
「分からない。ただ、可能性はある。君の友だちに憑いていた魂は、この部屋にある何かに怯えていた」
八雲は、コンクリートの床に跪き、丹念に視線を這わせる。
晴香も、同じように屈んでみたが、何も見つからない。
「これか……」
不意に、八雲が呟いた。
「え? 何?」
「ここを見てくれ」
八雲が、ベッドの足の部分に懐中電灯の光を当てた。
目をこらして見るが、よく分からない。
「何です?」
「ここだ」
八雲が人差し指で、床の一点を指し示した。
そこには、何かを引き摺ったような跡が見てとれた。ベッドの位置を動かしたということだろう。
でも──。
「これがどうしたんですか?」
「なぜ、ここのベッドだけ動かしたんだ?」
八雲は呟きながら、ベッドの下を覗き込もうとした。
そのときだった──。
〈危ない! 後ろ!〉
突然女の子の叫び声が聞こえた。
晴香はビクッとして声のした方をふり返る。
そこには、人が立っていた。暗くて、顔はおろか、相手の性別すら分からない。
ただ、手に棒のようなものを持っていることだけは分かった。
それを大きくふりかぶる。スコップだ。それが、晴香の頭めがけてふり下ろされる。
恐怖に凍りつき、身じろぎ一つできなかった。
ごつっ!
晴香は大きな石が地面に落下したような音を聞いた。
腰の力が抜けて崩れ落ちる。痛みはなかった。
「ぐぅ……」
晴香はうめき声を聞いて目を開く。
「!」
目の前に、八雲がうつ伏せに倒れていた。
両足をふんばって起き上がろうとしている。思うように体が動かない様子で、四つんばいの姿勢になるのがやっとだった。
ポタポタと顔から血が流れ出している──。
私をかばったの? 混乱の極みの中で晴香はそれだけを感じ取った。
「だ、大丈夫……」
「に……逃げろ……」
八雲は額を押さえながら掠れた声で言う。逃げろと言われても、置き去りにするわけにはいかない。
「……いいから! 早く逃げろ!」
八雲が吼えた。晴香は、反射的に立ち上がった。
「早くしろ! バカ!」
八雲がふたたび吼える。
晴香は正直まだ迷っていた。
「でも……」
「いいから行け!」
八雲の迫力に圧されて、晴香はドアに向かって走り出した。
しかし、ドアの前には、黒い影が待っていた。
どん! と肩を押され、部屋の奥まで突き飛ばされた。
黒い影がゆっくりと近づいて来る。
逃げたくても背中は壁に密着している。これ以上退がりようがない。
影がふたたびスコップをふり上げる。
胸の前で、ぎゅっと拳を握り締めることしかできなかった。
もう駄目だ──。
その瞬間、猛然と、何かがその影に体当たりした。
縺れ合うようにして倒れる二つの影。
ゴツ、ゴツと何度もぶつかりあうような音がする。
晴香はただ、硬直して成り行きをみているしかできなかった。
不意に影のうちの一つが立ち上がった。
「逃げるぞ!」
聞き覚えのある声。八雲だ。
無事だった。
〈伏せて〉
また、女の子の声がした。意味が分からないでいる晴香に対して、八雲が素早く反応した。
八雲は、晴香の頭を抱え込むようにして床に伏せる。
ブンと風を切る音とともに、頭上をスコップが水平に通過する。
ガツッと壁にぶつかり火花を散らした。
八雲は、混乱の収まらない晴香の腕を引っ張り部屋を飛び出した。
「おぉ!」
咆哮と共に、後ろから影がスコップをふりかざして追って来る。八雲は体当たりをしてドアを閉じる。ゴンッと鈍い音がした。
八雲はすぐさま床に落ちていた鎖を拾い上げ、ドアに巻きつける。
ガチャ、ガチャ。
ドン、ドン。
向こう側から執拗にドアをこじ開けようと、ドアノブを回したり、ドアをたたいたりしているようだ。
不意に音が止んだ。あきらめたのだろうか? 晴香が思った瞬間、
ガン!
一際大きな音がした。
部屋の内側から、ドアに体当たりしているようだ。
晴香は驚きで肩を震わせる。見ると、ドアに少しすき間ができていた。そこから軍手をはめた手が、ぬうっと出てきた。
晴香は、再び八雲に腕を掴まれ、ぐいっと引っぱられた。
もはや悲鳴も出ない。
「行くぞ!」
晴香は、そのまま八雲に引きずられるようにして走り出した。
木の枝の跳ね返りが晴香の頬や腕を打った。
不思議と痛みはなかった。ただ、八雲に腕をひかれて夢中で走った──。
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書誌情報>>『心霊探偵八雲1 赤い瞳は知っている』
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