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試し読み

お金に換算できないものをやりとりしている 『勿忘草の咲く町で』試し読み#5

「神様のカルテ」シリーズで人気の夏川草介氏が最新作で取り上げたテーマは「高齢者医療」。患者の数だけある生と死の在り方に悩みながらも、まっすぐに進む若者の姿を描いた連作短編集の第一話を、まるまる公開します!
____________________
>>前話を読む

〈副院長室〉
 ドアの上に掛けられたプレートを見て、美琴はごくりとつばを飲んだ。
 そこは、多くの医者が出入りする総合医局の隣にある。
 医局は、常日頃から梓川病院の医師たちが出入りする部屋であるから、看護師の美琴にとっては無縁な場所だ。のみならず副院長にして内科部長の三島の部屋となると、頼まれても近付きたくない場所である。あの「謡」と称する奇妙な唸り声を遠くで聞いているくらいがちょうどいい。
 そんな場所に朝から呼び出された美琴の緊張は、並のものではない。しかし仕事である以上は逃げ出すわけにはいかないから、意を決してノックとともに入室した。
「ご苦労様です」
 そういう無感動な声は、正面の大きな机の向こうに座っていた三島のものだ。
 すぐ右手に主任看護師の大滝が立っていたことで、少しだけ美琴は安堵したが、三島の方はそんな美琴の様子に気づいた素振りもなく、鋭い視線を静かに手元の書類から持ち上げた。
「なぜ呼ばれたかわかりますか?」
「多分……」
 我ながら頼りない返事だと美琴は思う。
 つい四、五日前怒鳴りつけた男性から、なにか投書があったという話はすでに、大滝から聞かされていた。入院していた胆石の患者は、かつての議員時代に梓川病院の発展に様々に尽力してくれた人だということで、病院にとってはVIP中のVIPであったという知りたくもない情報も耳に入っている。
 ようするに美琴としては「やってしまった」という状態なのだが、今さら時計の針を戻してにこやかな対応でやり直せるわけでもない。仮にやり直せたとしても、やっぱり桂を起こすことはしないだろうと思う。だとすれば……。
 美琴はそっと腹を決めた。
 辞めろというなら、辞めるまでだ。
「では、月岡看護師、さっそく本題に入ります」
 社交辞令も前口上もない、いかにも三島らしい単刀直入の切り出し方だ。
「来年、あなたを病棟主任に引き上げる予定です。よいですか?」
 美琴は、二度瞬きし、用件を飲みこめぬまま、三度目の瞬きをした。
「聞こえましたか、月岡看護師」
「聞こえているつもりですが、おそらく聞き間違えました。もう一度お願いします」
「来年、あなたを主任にしたい、内科病棟の」
 三島は、右手の書類を卓上に置いて続ける。
「大滝主任が今年度で退職します。その後任です」
 え、と声をあげて傍らに立つ大先輩に目を向けた。
 大滝は大きな肩をすくめて答える。
「実家の母親の、認知症が進んでいてね。ひとり暮らしもだいぶ厳しくなってきたところに、ついこの前転んで、大けがをしたのよ。命に別状はないから慌てることはないんだけど、くたばる前にそろそろ帰ってこいってさ」
「じゃあ、宮城に?」
「帰らなきゃいけない。根無し草だと思っていたけど、やっぱり根っこはあったみたいでね、おまけに切れたと思っていた根がまだつながっていたってわかると、帰るしかないと思っちゃうのよ。人間、ひとりで生きてるわけじゃないから」
 大滝はいつもと変わらぬあけっぴろげな苦笑を浮かべた。
〝人間、ひとりで生きてるわけじゃない〟
 きっと多くの生と死を目にしてきた大滝だからこそ、実感を持って言える言葉なのだろう。
「今すぐ辞めるわけにはいかないから、三月までは責任を果たすわ。でもそれで退職よ」
 急な話である。しかし美琴にとっては急であっても、大滝にとっては以前から悩んでいたことに違いない。
「そんなに急がなくても……」と出かかった言葉を、美琴はしかし黙って飲みこんだ。
 人という生き物が、いかにはかない存在であるかということを、美琴はつい数日前に目にしたばかりだ。
 何気なく眼をそらしたすきに跡形もなく消えてしまう朝露のように、命は驚くほどあっけなく失われてしまう。よくあるテレビドラマのようなクライマックスはそこにはない。奇跡も感動も起きない。涙を流す妻を置いて、まだ小学生の子供を置いて、あっさりと消えていくのが命である。そして失われたら寄り添うことは二度とかなわない。
 美琴は束の間のしゆんじゆんののち、何も言わず頷いただけだった。
「それで大滝主任の後任は誰が良いかと以前から相談していましたが、主任からはあなたの名前があがりました」
 驚いて美琴は大滝に目を向けた。
 当の大滝は、涼しい顔で笑っている。
「あの……、いくらなんでも無理があると思うんですが。ほかにもできる先輩たちはたくさんいますし、なにより私まだ三年目です」
「来年になれば四年目よ」
 大滝は動じない。
 その横で、三島が口を開く。
「あなたの意見は当然です。私も反対でしたから。しかし……」
 と三島は一旦卓上に置いた書類を手に取って美琴に差し出した。
「このような投書が来て、気持ちが変わりました」
 受け取ったそれは、例の、VIP患者の知人という男性からの投書である。
 色々と細かい話が書いてあるが、要約すれば「無礼な看護師がいる、なんとかしろ」ということだ。ご丁寧なことに、美琴の発言の実に細かな部分まで再現されており、ボタンを押せば医者が転がり出てくるというものではない、などという口上まで書き記してある。
「ここには〝辞めさせろ〟と書いてあるように読めますが?」
「大事なのはそこではありません。病院では立派なネクタイより、具合の悪い人間の方が大事だと答えたくだりです」
 恥ずかしい台詞を、この冷ややかな口調で聞く羽目になるとはさすがに思わなかった。美琴は居心地悪く身じろぎをする。
「最近は、この業界も風当たりが強い。医療もサービス業だと平然と口にする人もいます。けれどもそんな馬鹿な話はない」
 三島の抑揚のない声に、心なしか熱がくわわったように思えた。
「サービス業というのは、お金が支払われた分だけ、それに値するサービスを提供する等価交換の産業です。けれども私たちは、お金に換算できないものをやりとりしている。医療をサービス業にしてしまったら……」
 三島が軽く目を細めた。
「患者に沢庵を切る医者はいなくなるでしょうね」
 あくまで淡々としたその口調はどこまで冗談なのか、どこにも冗談はないのか、それすらもはっきりしない。
 三島は、美琴の手から戻ってきた投書の紙を無造作にびりびりと破いてから視線を戻した。
「無条件に来院者の機嫌を取ることより、沢庵を切ることの方が大事だと、肌でわかっている看護師は、それほど多くはいないのですよ」
 呆然としたまま、美琴は傍らの先輩に目を向けた。
 にやりと笑って大滝は応じる。
「もちろんいきなり主任ってわけにはいかない。最初の一年間は主任代行ということでお試し期間。そこでもし、どうしてもできないと思ったなら辞めなさい。でも、簡単にできないなんて、言わせないけどね」
「ほかの先輩たちは?」
「了解は取ってあるわ。不穏分子はゼロじゃないけど、そんなことまで期待していないでしょ?」
 あっさりとしたもの言いに、美琴は答える言葉を持たない。
「だいたい主任になりたいなんて物好きな看護師は、ほとんどいないのよ。数千円月給が上がっただけで、何倍も仕事が増えるんだもの」
「色々な意味で、気がるんですが……」
 美琴は、懸命に頭の中を整理しつつ、言葉を選びながら続けた。
「少し考える時間をください。さすがに急な話で……。辞めさせられる覚悟で来たくらいなんです」
「かまいません。結論を急いでいる話ではありませんから。じっくりと考えてください」
 あっさりとしたその返答に、美琴はとりあえず大きく息を吐いて一礼した。
 去り際に、三島の静かな声が美琴を呼び止めた。
「そういえば、小糠漬けのおばあさんは、ちゃんと食べてくれるようになりましたか?」
 美琴は振り返って大きく頷いた。
「いい仕事をしていますね」
『小さな巨人』が、ほのかな微笑を浮かべた。
 三島が笑うところを見たのは、美琴にとっては初めてだった。ぎこちなくとも温かなその笑みは、美琴が驚いて瞬きをしたときにはすでに消えていた。
 戸惑う美琴を押し出すように、副院長室の扉が重々しく閉まった。

 雲ひとつない秋晴れである。
 陽射しはどこまでも暖かで、風はかすかに冷気をはらみつつも穏やかに吹き抜けていく。まもなく訪れる厳しい冬を前にして、過ぎゆく秋はなお、どこまでも伸びやかだ。
「暖かいねえ……」
 小さくつぶやいたのは、車椅子に乗っていた新村さんだ。しわくちゃの顔を一層しわだらけにして、まぶしそうに駐車場脇の花壇に目を向けている。
「もう少し、散歩しますか?」
 美琴の声に、車椅子のおばあさんはこくりとうなずいた。
 ほとんどベッド上で寝たきりに近かった新村さんは、今はもう車椅子で院外まで散歩に出かけられるくらいに回復しているのである。
 あの日、桂の持ってきた生大根の小糠漬けを見た瘦せたおばあさんは、しばしじっと目の前の容器を眺めてのち、おもむろにやせ細った手をスプーンに伸ばした。スプーンを手に取ったこと自体が、数週間ぶりであった。
 まず沢庵を食べ、それから少しずつ粥をすするようになり、最近では豆腐やしるといった副菜も口に運ぶようになっている。ときおり誤嚥と思われる絡むようなせきが見られるのが唯一の心配事だが、桂に報告すると、
「咳が出るだけの反射が残っているのなら、なんとか食べられるようになるかもしれませんね。期待しましょう」
 素直に嬉しそうな笑顔を浮かべる青年の姿は、医者というより花屋のイメージの方がよほど似合う、と美琴は笑いを嚙み殺してしまう。もう少しどっしり構えてくれた方が心強いのにと思う反面、これはこれで悪くないと感じる美琴の心情には、やはりずいぶんと私情が混じっている。
 美琴は病院裏手の駐車場を、花壇の方に向かってゆっくりと車椅子を押していく。生垣沿いに整備された花壇は、薄紅色の花に染められて、あでやかな秋の装いだ。
 そんな心地よい陽射しの中を歩みながら、美琴の頭の中を「主任」という二字がふらふらと低徊している。できるだろうか、という問いは、ここ数日何十回となく繰り返しているが、無論答えなど出るはずもない。
 まとまらない問答を抱えたまま美琴は、満開の花に埋もれた花壇まで来て、車椅子を止めた。
 一面を染めるれんな花が秋海棠だと気付いたのは、つい先日のことであった。別の患者さんを車椅子に乗せてきた時だ。
 美女の涙が変じたというその花は、今、見事なまでに盛りを迎えている。少しうつむき加減の断腸花は、秋風の下でゆったりと考えを巡らすように首をふり、またじっと沈思する。その姿が今の自分に重なるようで、なんとなくここ数日、美琴の足はこの場所へと向いてしまうのだ。
「医者を動かす看護師、か……」
 そっとついたため息に重なるように、遠くからサイレンの音が近づいてきた。本日何台目の救急車なのか。今日も救急部は盛況のようだ。
 何気なく外来棟の方へ目を向けると、病棟からの渡り廊下を足早に通り過ぎていく桂の姿が見えた。遠目に見ても、あいかわらずのくたびれた様子がよくわかる。
 なぜともなく、美琴は小さく苦笑していた。
 できるかどうかはわからない……。
 わからないなら、やってみるしかないのだろう。大滝主任や島崎師長のようになれるとは思わない。けれども楽をしたくて看護師になったわけでないことは確かだ。
 美琴は肩の力を抜くように大きく息を吐いた。
 やろう。
 自分にできることを。
 車椅子のハンドルをぎゅっと握って、美琴は抜けるような青空を見上げた。
「とりあえず、今度コーヒーでも淹れてみるかな……」
 笑みを含んだその呟きは、たちまち空の彼方に溶け去った。
「行くかね?」
 新村さんの小さな声に、美琴は笑顔で頷き返し、やがてゆっくりと車椅子を押し始めた。
 満開の秋海棠が美琴の背中を押すように、大きくひとつ揺れ動いた。

 〈このつづきは製品版でお楽しみください!〉

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