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試し読み

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【3/10】

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

中山史花『美しい夜』試し読み【3/10】


 その日の記憶はよく晴れた日射しの中にある。
「はるや」
 母はいつになく上機嫌な声でぼくを呼び、ほっそりした手でぼくの肩に触れた。母の隣には、母よりひとまわり大きい青年が人のよい笑みを浮かべて立っていた。そのころ母は二十代後半だっただろうか、青年の年齢も、おそらくは母とそう遠くなかった。
「この人が、はるやのお父さんになってくれるのよ」
 仲良くしなさいね、と母は言った。その言葉を合図にしたかのように、母の隣に立っていた青年は笑顔のまま腰をかがめてぼくをまっすぐに見た。
「よろしくね、晴野くん」
 母とともに家に来た何人かの人たちを、けれど紹介されたことはなかったので、母以外の人間とまともに対面するのはそれがはじめてだった。よろしくと言われてぼくはなんと返せばいいのか見当がつかず、彼から目を逸らして床に視線を落とした。緊張してるのかな、と青年は笑ってぼくの髪をくしゃりと撫でた。
 母が連れてきた男はトウマといった。トウマが最初に家に来てからすぐ、三人でトウマの家に住むことになった。トウマの家は、母とぼくがそれまで住んでいたアパートとは違って部屋がいくつかあり、大きな窓からたっぷり光をとりこむからどの部屋にいてもあたたかかった。引っ越しの準備でせわしなく動く母とトウマをよそに、ぼくはあたためられた窓ぎわに座りこんで外を見た。するとトウマがぼくの隣にやってきて、「なに見てるの?」とその場にしゃがみこんだ。
「お、飛行機雲だね」
 一緒に窓の向こうを見て、トウマは空を指さした。ぼくがろくにしやべらなくてもトウマは気にした様子もなく、にこにこしながら何度もぼくに話しかけた。トウマの家、とぼくが思ったその部屋は、母とぼくと三人で暮らすためにトウマが新たに契約したマンションだったということを、ぼくは数年経ってから知った。

 トウマと住むようになってから、母は以前ほど外に出なくなった。「トウマくんはお仕事に行ったのよ」「お母さんとはるやのために、がんばって働いてくれてるんだよ」母は毎日、教え聞かせるように笑顔でくり返した。トウマが仕事に行っているあいだ、母は鼻歌を歌いながら洗濯物を干したり、腕によりをかけて料理を作ったりと、幸福そうに家事に精をだした。テーブルには毎日豪勢な食事が並ぶようになり、ぼくはいつも食べきれなくて、残った分をトウマが食べた。彼はその人のよさそうな笑顔でうまいうまいと言いながら、母の作った料理をぺろりと平らげた。
 トウマの仕事が早く終わった日や、彼が休みの日には、ぼくはよく散歩に連れだされた。トウマは大きな手でぼくの手をとって、元気よく歩いた。トウマは背が高かったし、ぼくは背が低かったので、手をつながれると腕をずっと上に伸ばしていなければならなくて腕がじんと痛んだ。
「こんにちはー」
 道でだれかとすれ違うたび、トウマは笑ってあいさつをした。するとたいていは向こうもにこやかにあいさつを返す。相手がお喋りな人なら、そのままそこで話しこんでしまうこともあった。トウマと話しながらぼくに話しかけてくる人も多くいたけれど、そのほとんどにぼくは返事ができなかった。トウマはぼくが黙っているのを、「ちょっと人見知りなんですよ~。そんなところもかわいいんですけど」などと言って、ぼくを抱きしめて場を和ませた。外に出るたびトウマは楽しげな顔でぼくの手を揺らしていたけれど、重い荷物を持って困っている人を見かければ、あわててそばに寄って助けに向かった。自然と手が離れ、ぼくはトウマのあとを追うでも、自由になった身でどこかに駆けていくでもなく、トウマの用が済むのを、うしろを歩いてぼうっと待っていた。
 トウマと外を歩くようになってやっと、ぼくは外にも世界があるということに気がついた。それまでぼくの世界はほとんどが家の中で、外出はせいぜい、母が「外で遊んでおいで」と言ったときにアパートの壁にもたれかかって空を眺める、そのぐらいだった。ブロック塀に覆われてほとんど空しか見えない景色が、ぼくの世界のせいいっぱいだった。
 だから、町を歩いてみるまで知らなかった。外には花の香りや葉擦れのささやかな音があって、気ままに歩く野良猫の姿や小麦の匂いを漂わせるパン屋があって、外は家の中より色彩豊かで、途方もなく広かった。トウマのマンションに引っ越したのは秋で、ぼくは紅葉というものをトウマに教わり、冬の寒さの中をあたたかい手のひらに導かれ、空から降る雪をはじめて手の上に載せてその冷たさに驚いた。コンビニに寄って、トウマがしようさんには内緒ねと言って買ってくれた肉まんは、ぼくの力でもつぶしてしまいそうにやわらかくて熱くて、摑むのが少しこわかった。

「お父さんって呼んでごらん」
 梅の花が咲くころ、ぼくは母に促されて、にこにこしながらぼくを見ているトウマと向き合った。
「お父さん」
 母の言葉に従ってそう呼ぶと、トウマはさらに顔をくしゃくしゃにして、「いやあ、晴野くんはかわいいなあ」と笑った。大きな手のひらが頭を何度も撫でて、それは窓から射しこむ陽光のようだった。お父さん、と言うことに戸惑いはあったけれど、それはトウマがどうとかではなく、それまでぼくの中に父親という概念が存在していなかったからだった。お父さん、というものがぼくにはどういう存在なのかわからず、その言葉は、どんなに考えても解けることのないなぞなぞを渡されているみたいに難解に響いた。
 でも、その謎が解けなくても、暮らしはおだやかに過ぎていった。やがて、ぼくのような子供は、春になったら小学校に通わねばならないことを知った。
「六年間通うのよ、楽しみね」
 母に言われて、けれど六年という時間がどれほどの長さなのか、数字の概念を知らなかったぼくには想像がつかなかった。小学校に通うというのは、楽しいことなのか。母の言葉をはんすうしながら、けれど自分が楽しみに思っているかどうかは判然としないまま、ぼくはあつらえられた入学式用の紺のブレザーに袖を通した。
 母とトウマに手を握られて訪れた小学校は、桜の木に囲まれた広い敷地の奥に建てられていた。校舎には等間隔に窓がまっていて、遠目に見るガラスの向こうは心許ない暗闇に見えた。吸いこまれればそのまま自分が闇の中へ消えてしまいそうな気がして、けれどもちろんそんなことはなく、ぼくはまず日のよくあたる教室へ連れていかれ、そのあと、今度は上級生に手を引かれて体育館に移動した。
 体育館にはパイプ椅子がずらりと並べられていて、そこに児童と保護者が隙間なく並んで座っていた。どこを見渡しても知らない人間ばかりで、逃れるように天井を見ると、蛍光灯の白いかがやきに視界が明滅した。はじめて着せられたブレザーの硬い布地の下で、背中から汗がにじみ出る。入学式がはじまり、偉い大人の人がたくさん話していた気がするけれど、なにひとつ耳に残らなかった。頭の中で地震が起きているかのような感覚に襲われて、それがなるべく早く過ぎ去るのを、唇を結んでじっと待っていた。

 小学校に入学してよかったことは、字を読めるようになったことと、数を数えられるようになったことだ。「意味のない行動」のバリエーションが広がって、退屈が少し楽しくなった。でもそれまで勉強なんてしたことがなかったから、学校で習ったことがちゃんと身に着くまでには時間を要した。多くの新一年生は、小学校で習う前からひらがなとカタカナ、数字の読み書きがすでにできていたけれど、保育園か幼稚園に通ったり、読み聞かせをしてもらったり習いごとをしたりという経験もなかったぼくは、たぶんスタートラインが違っていた。ぼくがいつまでも終わらない書きとりをやっているころ、同級生たちは連れ立ってグラウンドへ飛びだして行ったり、お喋りに花を咲かせたりして休み時間をおうしていた。
 書きとりは終わらなくても構わなかったけれど、体育の時間は苦手で、いつも早く終わってほしかった。暑い日も寒い日も体操服に着替えてグラウンドや体育館を走らなければならず、体力のないぼくはふらふらになって、しっかりしろと先生からしつせきを受けた。授業を通じて、人生ではじめてすることになった鬼ごっこでは、ルールがよくわからずタッチされても棒立ちになるばかりで、同級生たちからひんしゆくを買った。
「おまえルール知らないのかよ」
 言われてうなずくと、へんなやつ、と顔をしかめられた。教えて、と言えたらよかったのかもしれないけれど、言葉は出なかった。そもそもぼくは走るのに疲れていて、こんなことはもうやりたくないなとぼんやり考えていた。だけどみんな楽しそうに走りまわっている。ほかの人にとってはあたりまえのことの多くが、ぼくにはなじみがなかったり、理解できなかったりした。


 ──わたし、悪い人間になりたいの。
 意味がわからなくて、思わず顔を上げた。鎖骨にかかるあたりまで伸びた髪が、彼女の動くのに合わせてなびいている。ぼくが無言のままでいると、聞こえなかったとでも思ったのか、彼女はもう一度同じことを言った。
「わたし、悪い人間になりたいの」
 街灯の、心細くなるような光が足許を照らしている。指先はずっと震えたままで、うしろ手に持っていた袋を、結局落としてしまった。彼女はあっと声を上げ、ぼくの背後にまわると、ぼくの落とした荷物を拾い上げた。
「はい」
 と、ビニール袋を差しだされる、その顔は見なかったけど、やさしく笑っているような息づかいだった。口の中が急速に乾いていく。喉が引きって、唇もうまく動かない。どうにか受けとったビニール袋を、もう一度落としてしまいそうだった。
「鹿野くん。いま、少しだけ、時間ある?」
 時間? 立っていられなくなりそうなぬるい夜の中を、足に力をこめて踏んばる。夜道がうねる。早く、早く、帰りたい。でもどこへ? 一瞬わからなくなる。無為に過ごす時間は飽和するほどにあって、でも、その暗い平穏の中に、できるだけ長く身を潜めていたかった。
「よかったら、ちょっと座らない?」
 けれど誘われて断ることも逃げだすこともできず、困りはてながら、ぼくは気づくと帰路の向こうにある公園のベンチに座らされていた。

★つづき【4/10】はこちら

作品紹介



美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000524/
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