「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。
中山史花『美しい夜』試し読み【2/10】
目を開けると夜だった。部屋の暗さで夜だと察する。布団からはみだしていた手がすぐそばの空を摑んだ。室内のどこを見ても暗闇で、眠りからさめたはずなのに自分の目がいまひらいているのかどうかわからなくなる。けれどそのなにも見えなさに安心もした。ベッドの上で寝返りをうつ。
そのまま眠っていてもよかったのだけど、おとといの夜からなにも食べていなかった。おととい、というのはぼくの時間の感覚がちゃんと機能していて、朝を通り過ぎた回数を数え間違えていなければ。身体を起こして、自分の後頭部に手を差し入れる。ずっと寝転んでばかりいて、髪がぐちゃぐちゃに絡まっているのが手ざわりで感じとれた。
水中にいるみたいなけだるい身体を無理やり動かして、シャワーを浴びにいく。汗ばんだ身体にシャツが引っかかって、脱ぐのに少し苦戦した。全身を洗って乱雑に水滴を
やがてコンビニの明かりが見えてきて、足どりが重くなった。
汗ばんだ首のうしろを意味もなく撫でつけたり、歩調をゆるめてみたりしても、まもなくたどり着いてしまう。自分の足で向かっているのにたどり着くことをおそれているなんて矛盾していた。だけど、店内を動きまわる店員の姿を捉えて、指先が勝手に震えてきてしまう。それをきつく握りこんで、動きたがらない足に力をこめて、前に踏みだした。
コンビニの中に入ると、弱冷房の涼しい空気がすぐに身体のまわりを覆った。汗ばんだところがゆっくりと冷やされていく。いらっしゃいませ、の声をなかば必死に聞き流して、食品の置かれた棚に急いで向かった。
多くの食品はスーパーで買うほうが安く済むのだろうけど、夜中にしか出歩かないから必要なものはいつも、二十四時間開いている近くのコンビニで買っていた。ネットで注文すればもっと楽で便利なのだろうけど、ぼくはオンライン決済ができる手段を持っていないから支払いのために結局外へ出なければいけないし、代引きにしても、部屋にやってきた配達員を前に、ちゃんとドアを開けて対応できるのか自信がない。そもそもネットで買いものをする方法も、ぼくはよく知らなかった。買い与えられた携帯はほとんど使うこともなくて、数週間前に電池が切れたきりそのままになっている。
──と、思いだして、もしかしたら、もうすぐ来るだろうとぼんやり予測している学校からの連絡は、もうすでに来ているのかもしれないと思った。
棚の向こうがわを、店員が通り過ぎていく。人影を目の端で捉えてしまって、その瞬間に全身が粟立った。指先が小刻みに揺れる。それはこのままここにいても、回復することはないともう知っていた。心の中でどんなに言い聞かせてもなだめても、身体は言うことを聞かずに震える。震えたまま、ぼくは空き巣に入った人間のような心持ちで手あたりしだいに食品を摑み、会計を済ませると逃げるようにしてコンビニを出た。
外に出ると、空調の効いた店内と、少し蒸し暑い外との温度差に息が漏れた。胸のあたりを押さえながら必死に歩く。逃げるように、というより、じっさい逃げているのだった。ひとけのない住宅街に踏みこんで、コンビニの光がすっかり見えなくなってようやく、震えがやわらいでくる。
手に提げたビニール袋の持ち手が、指に食いこんだ。ビニールの擦れる音が、ときどきぬるい風に泳ぐ。人類がもし本当に滅んでいれば、自分は生きやすくなるのだろうかと考えた。もちろん、そんなに都合よく、ぼくのためにほかの人たちが滅びる義理はまったくないし、そんな身勝手が通るとも思わない。世界じゅうの人々が滅んでいたとして、そのとき生き残っている人間がぼくであるはずもない。そもそもぼくは日中まともに家から出ることも、働いて自力でお金を稼ぐことも、農作物を育てたり動物を狩ったりして食べものを得ることもできないのだ。世界に自分ひとりになったところで、すぐに生きられなくなることは目に見えていた。
あまりに大仰で、おろかな想像だ。そんな世界を望んでいるわけでもない。黙々と足を交互に動かして、帰路をたどった。明かりの消えた家々の建ち並ぶそっけないような暗がりは、やっぱりぼくを安心させた。
だけど、安寧は、たぶん、つづかない。
──人がいる。
少し先の街灯の下に、前から歩いてくる人の形がうっすらと見えた。性別や顔の造形などまではわからなくて、わからないまま、人影はどんどんこちらに近づく。
どうしよう。
身体がまた震えはじめた。自分の歩いている道の先を、
街灯の下にあったはずの人影が迫って、身体が、すれ違う。見ていたくなくて、ぎゅっと目をつぶった。目を閉じる寸前、自分の腰より下しか見えない狭い視界に一瞬よぎった、黒い布地につつまれた足首がひどく細かった。
夜道に響いていた靴音が止まる。
「──
聴覚が捉えうるぎりぎりのところで聞こえたような声に、身体がはねた。けれど、耳に入った声はきっと、雨や風の音みたいに、自分とは関係なくそこに偶然流れたものだと思った。早く過ぎ去ることを祈って、ぼくはいっそうかたく目を閉じる。
けれど思考とはうらはらに、暗がりの向こうからもう一度声がした。
「鹿野くん」
今度はさっきよりも声がよく通って、ぼくの耳と意識にまっすぐにぶつかった。背すじが一気に冷たくなる。声から少し遅れて、一度止まった小さな靴音がさらに近づいてくる気配に、逃げなくてはと、視覚に頼りたがる心がうっかり目を開けてしまった。
薄暗がりの中に、学校の制服を着た女の子が立っている。
目を開けた瞬間に、視線がかち合った。すぐに下を向いて、目を背ける。でも手遅れで、暑さでにじんでいたのとは種類の違う汗が、結露した窓ガラスにくっついた滴のように身体じゅうから噴きだした。心臓がシャツを突き破るかと思うぐらいに、激しく脈うつ。
「鹿野くんだよね?」
声が鼓膜を
「あ、ごめんね」
視界に入れてしまった制服から、同じ高校の生徒であるらしいことがわかった。けれど彼女のことはわからない。そもそもぼくは高校で人のことをちゃんと見たことなんかなく、だれの顔も、ひとつも憶えていなかった。
──鹿野くんだよね?
声が、頭の中で反響する。
ビニール袋を持った指先から力が抜けそうになって、あわてて両手で袋の持ち手を握り直した。ぼくは彼女を知らないけれど、彼女のほうはぼくを知っている。
「あのね」
ささやきかけられて、身体がこわばった。ぼくはうつむいたけれど、彼女はまだこちらを見ているみたいだった。人の声や吐息や気配がすぐそばにあることに戸惑って、出口のない迷路の中にいるような
「鹿野くんが──学校に来ないのは、どうして?」
少し言い
「ん、違うな、えっと」
彼女は言葉をさがすように、また数秒間口を
「鹿野くんは、どうやって、学校に来ないの?」
これだ、と彼女は納得したような吐息をこぼしながら、ぼくへ問いかけた。
──どうやって、学校に来ないの?
軽い酸欠になりながら、学校へ行かないことに、どうやってもなにもあるんだろうかと思った。それは公式がわからないと解けない数学の問題とは違うのだから、方法を知らないと達成できないおこないではない。そもそも達成すべきでもない。学校へ行くことと行くのをやめることとでは、行くことのほうがずっとまっとうなのだって、それはぼくにももちろんわかっていた。思考をおぼろにめぐらせながら、けれどやっぱり、ひとつも声にはならない。
ぼくが黙っていると、彼女はまた、あのね、と言葉をつづけた。
「わたし、悪い人間になりたいの」
木琴をやさしく揺らしているような、なめらかな声が夜に言う。
作品紹介
美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日
「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。
「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000524/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら