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試し読み

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【1/10】

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

中山史花『美しい夜』試し読み【1/10】

ending:

 波の音が永遠みたいにつづいていた。
 ライターでともした小さな火はみるみるうちに大きくなり、うねる生きもののように勢いを増して海沿いを照らした。ぜる火の粉はこまかに舞って、紙ふぶきみたいに砂浜に落ちていく。
はるくん」
 はいつものようにぼくを呼んだ。火を見つめていた顔がこちらを向いて、その顔の片がわだけが炎のあかるさにさらされる。光る頬の遠くに夜の暗さがあって、それはどこまでが空でどこからが海なのか、ほとんど彼女でいっぱいの視界では、区別ができなかった。
「ありがとうね」
 美夜子が少しだけ傾けた首の先で、鎖骨の下まである髪が肩からこぼれ落ちる。炎のだいだいが移ったみたいに、真っ黒であるはずの髪の先がまばゆくかがやいた。ぼくにお礼など言ったあと、美夜子はその目をきっぱりひらいてまた炎を見つめはじめた。夜の暗がりの中で火に照らしだされた横顔が、炎の揺らぎに合わせてまたたくのが月の満ち欠けみたいに美しかった。



 ずっと眠っているような、力の入らない身体を引きって外に出た。
 あたりを見まわして、ひとけのないことをたしかめて歩きだす。水からお湯に変わる手前のシャワーみたいな肌寒さに、少し身をすくめた。真夜中の住宅街にほとんど音はなく、どの家の明かりも消えている。切れかけた街灯が明滅しながら道路を薄く照らしていた。
 アパートからいちばん近いコンビニまで、歩いて十分ほど。目を刺すような白い光を視界にとらえると、ぎゅっと背すじが収縮した。速くなる鼓動をなるべく無視するようにつとめて近づいて、自動ドアをくぐり抜ける。
 店内はさらにあかるくて、外の暗さとの差に戸惑うみたいに視界がくらんだ。空調が効いていて、暑すぎることも寒すぎることもない温度が身体をなぞる。ほかにお客さんはおらず、アルバイトとおぼしき若い男性が検品をしながらいらっしゃいませと短く言った。おそらくは来店があればそう言うのだというマニュアルに沿って、吐きだされた声に背中があわつ。すべてふり払うように一度目を閉じて、足早に陳列棚に向かった。吟味はせず、インスタント食品やおにぎりやパンを、入れられるだけかごに入れていく。
 重くなった買いものかごをカウンターに置くと、商品棚の前にいた店員がレジに戻ってきた。目が合いそうになって、あわててらす。
「ありがとうございまーす」
 店員の手が商品をつかんだ。ひとつひとつのバーコードを手早く読みとっていく。お会計二千五百二十円です、と告げる声が、ぼやけて、近い距離にいるのに遠くから響いてくるみたいだった。手足が震えだす。うまく枚数を数えられない指で、財布からどうにか千円札を三枚抜きとってカウンターの上に置いた。
「四百八十円のお返しですー」
 揺れる手のひらを差しだして、小銭を置いてもらう。かすかに店員の指先が触れ、ほとんど反射のように手を引っこめた。財布を手に持っていたのに、勢いのままズボンのポケットに小銭を突っこんでしまう。商品の詰められたビニール袋のとつを握ると、店員の「またお越しくださいませ」の声を背中に浴びながら、ふり返らずにコンビニをあとにした。
 急いで光から離れて暗闇に戻る。手足の震えはコンビニから遠ざかると少しずつおさまっていって、ぼくは身体をなだめるように歩調をゆるめた。まだせわしなく動く心臓を落ち着かせながら、身体の輪郭を溶かしていくような肌ざわりの空気の中を歩く。足を動かすと硬貨のぶつかり合う音が鳴って、さっきとっさにポケットの中にしまった小銭のことを思いだした。
 手を伸ばして、ポケットの中に触れる。指先で硬貨をすくって、落とさないよう財布に戻した。数年前に買ってもらった二つ折りの財布は端がほつれて、チャックがんでときどきうまくひらかない。財布に小銭をしまったら、静かになった暗闇に靴の裏が砂利を踏む音が反響した。黒々とした空の端に、星がひとつ流れて消える。あっと思う間もないほど一瞬のできごとで、光の残像だけ眼裏でしばらく点滅した。
 アパートに着いてすぐ、力尽きるように荷物をフローリングに置く。片づけもそこそこにベッドに倒れこむと、自分の乱れた呼吸がシーツにくぐもって、ぬるい吐息がはね返ってきた。中途半端にひらいたカーテンから入りこむ、街灯の光が暗い室内の光景をわずかに浮かび上がらせる。床と垂直にかしいだ目線の先にある灰色の壁に、ハンガーにられたままの学生服が見えた。制服は亡霊のように薄闇に浮かんで、さらさらと無音を揺れていた。


 記憶のいちばん端に、泣いている女の人の姿がある。
 ぼくに背を向けて、薄暗い畳敷きの部屋で彼女は肩を震わせていた。ぼくは布団の中から、蛍光灯の明かりにおぼろげに照らされたその背中を見ていた。スカートから伸びた足を包むストッキングのかかとに、とり返しのつかない引っき傷のように伝線がある。彼女はぼくの視線に気づくことはなく、その場にへたりこんで知らないだれかの名前を呼んでいた。ぼくは彼女が泣く理由を知らないまま、噛み殺してもなおあふれてくるようなえつが壁の薄い部屋に響くのを聞いていた。

 昼間も暗い部屋だった。1Kの賃貸、その部屋が幼いころのぼくの世界のすべてだった。ぼくは部屋の中にうずくまって、お腹がくと買い置きされていたパンをかじり、のどが渇いたら蛇口に顔を近づけてそこから直接水を飲んだ。パンはたいていぱさぱさに乾いていて味がわからず、口からあふれた水はあごをつたっていって、決まって首や服の襟をらした。あとの時間は、カーテンの布地に無数にある細かい縫い目を延々と追いつづけたり、子供の弱い力でしか締められなかった蛇口から、水が時間をかけて一滴ずつ落ちるのをぼうっと眺めたりした。それははてがなく、まるで意味のない行動だった。
「はるや」
 出かけていた母が、ただいま、と言ってぼくの名前を呼ぶ。意味のない行動は、いつもその瞬間までつづいた。呼ばれて顔を上げると、母は唇をゆるめてほほ笑み、なにしてたの? とぼくに問いかけた。声を放つ母の唇は、いつも目がさめるように赤かった。
 当時のぼくの中には自分のしていることを説明するための言葉はなくて、摑んでいたカーテンのすその縫い目を、指で軽く押してみせた。そうとしかできず、もちろんそれで伝わるわけがなかった。母はぼくがまともに返事をできなくてもとくに気に留めたふうでもなく、「いい子にしてた?」とにっこり笑った。そして二、三度ぼくの頭をでると、満足したように背を向けて、まとっていた服を脱ぎはじめた。身体に吸いつくようなぴたりとした服を、脱皮するさなぎのように、けれど蛹よりもきっと圧倒的にすみやかにとり去って、母はぼくの着ていた服にも手をかけた。
「おに入ろうね」
 母の手がぼくの服を脱がせ、浴室へ誘導する。浴室の床は冷たく、そこは家の中でいちばん寒い場所だった。身を震わせているぼくの背中に、母のきだしのひざがひたひたとぶつかった。くすんだ乳白色の浴槽は、照明を受けてもやのかかった硝子ガラスのように鈍く光った。
 母の手がシャワーの栓をひねる。ノズルから勢いよく放たれた冷水は、少し待つと急に熱くなって足の先を痺れさせた。母は指先で様子を見ながら、お湯をちょうどいい温度に調節していく。そしてぼくを風呂椅子に座らせて、人肌より少しあたたかいくらいの温度になったお湯をぼくの身体に注いだ。つま先、ふくらはぎ、もも、背中と身体の下から上に向かってお湯を浴びせられる。
「はるや、目を閉じて」
 母の声も、身体や髪が濡れていくのも、ぼくはほとんどされるがままに受けとめた。目を閉じると完全な暗闇があって、少し落ち着かない。じゅうぶんに濡らされたら、髪と身体を洗われた。その間に母はシャワーを止め、浴槽にお湯をめていく。泡を流したあと、浸かっておきなさいと言われて、湯船に身体を沈めた。母が髪と身体を洗い終わるのを、浴室のタイルの隙間を見つめながら待つ。タイルの隙間や浴室の隅には濁った黒色のかびが浮かんでいた。
 母と一緒に浸かると、湯船に溜められたお湯は浴槽の縁ぎりぎりまでせり上がった。細い腕に引き寄せられて、母の膝の上に乗せられる。乗せられる、といっても浮力で身体は軽く浮くので、あまり乗っている感じはしなかった。ぼくの身体は水に浮きながら母の腕の中におさまって、肩口に、母の顔があるのを気配で感じとった。湯気にまざって耳をかすめた母の呼吸は、熱いのに生ぬるかった。
 浴室から出ると、母はぼくの全身をバスタオルでいて、髪にドライヤーをあてた。温風とごうおんに頭が揺れる。あたたかい手が髪のあいだに差しこまれて、少し眠くなった。眠って、次に目を開けたとき、母はいなかった。
 母は、早朝から出かけていくこともあれば、夜から出かけていくこともあった。昼すぎに帰ってきたり、真夜中に帰ってきたり、帰ってこなかったりした。出かけていくときは決まってうつくしく身なりを整えていき、帰ってくるときは、うつくしいまま帰ってくるときもあれば、ぐったりと疲れた顔をしているときもある。そして程度の差はあれど、よくアルコールに酔っていた。ぼくは母が身なりを整えてどこへ行くのか知らなかった。出かけていった母は、知らない人を連れて帰ってくることもあった。だれかと一緒に帰ってきたときは、母はぼくではなくその人と一緒にお風呂場へ入っていき、そのまま長い時間出てこなかった。
「はるや、お外で遊んでおいで」「お母さんが起こすまで、ここで寝てなさい」母はたびたびそう言ったけれど、ぼくは外での遊びかたを知らなかったし、時間は無限のようにあって日中眠って過ごすことも多かったので、そのとき母に言われたとおりに行動することは難しかった。ぼくはアパートのドア脇の壁にもたれかかって雲が流れているのを何時間も見つめたり、押入れにしまわれた布団のあいだに挟まって、母がたまに買ってくる、サンドイッチの具材になったような気分を味わってみたりした。その行動はなんの生産性もなくて落ち着いたけれど、真夏は頭がぼうっとするほど暑く、真冬は身を切られるように寒くて少しこたえた。

★つづき【2/10】はこちら

作品紹介



美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000524/
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