「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。
中山史花『美しい夜』試し読み【1/10】
ending:
波の音が永遠みたいにつづいていた。
ライターで
「
「ありがとうね」
美夜子が少しだけ傾けた首の先で、鎖骨の下まである髪が肩からこぼれ落ちる。炎の
1
ずっと眠っているような、力の入らない身体を引き
あたりを見まわして、ひとけのないことをたしかめて歩きだす。水からお湯に変わる手前のシャワーみたいな肌寒さに、少し身を
アパートからいちばん近いコンビニまで、歩いて十分ほど。目を刺すような白い光を視界に
店内はさらにあかるくて、外の暗さとの差に戸惑うみたいに視界がくらんだ。空調が効いていて、暑すぎることも寒すぎることもない温度が身体をなぞる。ほかにお客さんはおらず、アルバイトと
重くなった買いものかごをカウンターに置くと、商品棚の前にいた店員がレジに戻ってきた。目が合いそうになって、あわてて
「ありがとうございまーす」
店員の手が商品を
「四百八十円のお返しですー」
揺れる手のひらを差しだして、小銭を置いてもらう。かすかに店員の指先が触れ、ほとんど反射のように手を引っこめた。財布を手に持っていたのに、勢いのままズボンのポケットに小銭を突っこんでしまう。商品の詰められたビニール袋の
急いで光から離れて暗闇に戻る。手足の震えはコンビニから遠ざかると少しずつおさまっていって、ぼくは身体をなだめるように歩調をゆるめた。まだせわしなく動く心臓を落ち着かせながら、身体の輪郭を溶かしていくような肌ざわりの空気の中を歩く。足を動かすと硬貨のぶつかり合う音が鳴って、さっきとっさにポケットの中にしまった小銭のことを思いだした。
手を伸ばして、ポケットの中に触れる。指先で硬貨を
アパートに着いてすぐ、力尽きるように荷物をフローリングに置く。片づけもそこそこにベッドに倒れこむと、自分の乱れた呼吸がシーツにくぐもって、ぬるい吐息がはね返ってきた。中途半端にひらいたカーテンから入りこむ、街灯の光が暗い室内の光景をわずかに浮かび上がらせる。床と垂直に
記憶のいちばん端に、泣いている女の人の姿がある。
ぼくに背を向けて、薄暗い畳敷きの部屋で彼女は肩を震わせていた。ぼくは布団の中から、蛍光灯の明かりにおぼろげに照らされたその背中を見ていた。スカートから伸びた足を包むストッキングの
昼間も暗い部屋だった。1Kの賃貸、その部屋が幼いころのぼくの世界のすべてだった。ぼくは部屋の中にうずくまって、お腹が
「はるや」
出かけていた母が、ただいま、と言ってぼくの名前を呼ぶ。意味のない行動は、いつもその瞬間までつづいた。呼ばれて顔を上げると、母は唇をゆるめてほほ笑み、なにしてたの? とぼくに問いかけた。声を放つ母の唇は、いつも目がさめるように赤かった。
当時のぼくの中には自分のしていることを説明するための言葉はなくて、摑んでいたカーテンの
「お
母の手がぼくの服を脱がせ、浴室へ誘導する。浴室の床は冷たく、そこは家の中でいちばん寒い場所だった。身を震わせているぼくの背中に、母の
母の手がシャワーの栓を
「はるや、目を閉じて」
母の声も、身体や髪が濡れていくのも、ぼくはほとんどされるがままに受けとめた。目を閉じると完全な暗闇があって、少し落ち着かない。じゅうぶんに濡らされたら、髪と身体を洗われた。その間に母はシャワーを止め、浴槽にお湯を
母と一緒に浸かると、湯船に溜められたお湯は浴槽の縁ぎりぎりまでせり上がった。細い腕に引き寄せられて、母の膝の上に乗せられる。乗せられる、といっても浮力で身体は軽く浮くので、あまり乗っている感じはしなかった。ぼくの身体は水に浮きながら母の腕の中におさまって、肩口に、母の顔があるのを気配で感じとった。湯気にまざって耳を
浴室から出ると、母はぼくの全身をバスタオルで
母は、早朝から出かけていくこともあれば、夜から出かけていくこともあった。昼すぎに帰ってきたり、真夜中に帰ってきたり、帰ってこなかったりした。出かけていくときは決まってうつくしく身なりを整えていき、帰ってくるときは、うつくしいまま帰ってくるときもあれば、ぐったりと疲れた顔をしているときもある。そして程度の差はあれど、よくアルコールに酔っていた。ぼくは母が身なりを整えてどこへ行くのか知らなかった。出かけていった母は、知らない人を連れて帰ってくることもあった。だれかと一緒に帰ってきたときは、母はぼくではなくその人と一緒にお風呂場へ入っていき、そのまま長い時間出てこなかった。
「はるや、お外で遊んでおいで」「お母さんが起こすまで、ここで寝てなさい」母はたびたびそう言ったけれど、ぼくは外での遊びかたを知らなかったし、時間は無限のようにあって日中眠って過ごすことも多かったので、そのとき母に言われたとおりに行動することは難しかった。ぼくはアパートのドア脇の壁にもたれかかって雲が流れているのを何時間も見つめたり、押入れにしまわれた布団のあいだに挟まって、母がたまに買ってくる、サンドイッチの具材になったような気分を味わってみたりした。その行動はなんの生産性もなくて落ち着いたけれど、真夏は頭がぼうっとするほど暑く、真冬は身を切られるように寒くて少しこたえた。
作品紹介
美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日
「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。
「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000524/
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