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試し読み

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【4/10】

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

中山史花『美しい夜』試し読み【4/10】


 その日の記憶はよく晴れた日射しの中にある。
「はるや」
 母はいつになく上機嫌な声でぼくを呼び、ほっそりした手でぼくの肩に触れた。母の隣には、母よりひとまわり大きい青年が人のよい笑みを浮かべて立っていた。そのころ母は二十代後半だっただろうか、青年の年齢も、おそらくは母とそう遠くなかった。
「この人が、はるやのお父さんになってくれるのよ」
 仲良くしなさいね、と母は言った。その言葉を合図にしたかのように、母の隣に立っていた青年は笑顔のまま腰をかがめてぼくをまっすぐに見た。
「よろしくね、晴野くん」
 母とともに家に来た何人かの人たちを、けれど紹介されたことはなかったので、母以外の人間とまともに対面するのはそれがはじめてだった。よろしくと言われてぼくはなんと返せばいいのか見当がつかず、彼から目を逸らして床に視線を落とした。緊張してるのかな、と青年は笑ってぼくの髪をくしゃりと撫でた。
 母が連れてきた男はトウマといった。トウマが最初に家に来てからすぐ、三人でトウマの家に住むことになった。トウマの家は、母とぼくがそれまで住んでいたアパートとは違って部屋がいくつかあり、大きな窓からたっぷり光をとりこむからどの部屋にいてもあたたかかった。引っ越しの準備でせわしなく動く母とトウマをよそに、ぼくはあたためられた窓ぎわに座りこんで外を見た。するとトウマがぼくの隣にやってきて、「なに見てるの?」とその場にしゃがみこんだ。
「お、飛行機雲だね」
 一緒に窓の向こうを見て、トウマは空を指さした。ぼくがろくにしやべらなくてもトウマは気にした様子もなく、にこにこしながら何度もぼくに話しかけた。トウマの家、とぼくが思ったその部屋は、母とぼくと三人で暮らすためにトウマが新たに契約したマンションだったということを、ぼくは数年経ってから知った。

 トウマと住むようになってから、母は以前ほど外に出なくなった。「トウマくんはお仕事に行ったのよ」「お母さんとはるやのために、がんばって働いてくれてるんだよ」母は毎日、教え聞かせるように笑顔でくり返した。トウマが仕事に行っているあいだ、母は鼻歌を歌いながら洗濯物を干したり、腕によりをかけて料理を作ったりと、幸福そうに家事に精をだした。テーブルには毎日豪勢な食事が並ぶようになり、ぼくはいつも食べきれなくて、残った分をトウマが食べた。彼はその人のよさそうな笑顔でうまいうまいと言いながら、母の作った料理をぺろりと平らげた。
 トウマの仕事が早く終わった日や、彼が休みの日には、ぼくはよく散歩に連れだされた。トウマは大きな手でぼくの手をとって、元気よく歩いた。トウマは背が高かったし、ぼくは背が低かったので、手をつながれると腕をずっと上に伸ばしていなければならなくて腕がじんと痛んだ。
「こんにちはー」
 道でだれかとすれ違うたび、トウマは笑ってあいさつをした。するとたいていは向こうもにこやかにあいさつを返す。相手がお喋りな人なら、そのままそこで話しこんでしまうこともあった。トウマと話しながらぼくに話しかけてくる人も多くいたけれど、そのほとんどにぼくは返事ができなかった。トウマはぼくが黙っているのを、「ちょっと人見知りなんですよ~。そんなところもかわいいんですけど」などと言って、ぼくを抱きしめて場を和ませた。外に出るたびトウマは楽しげな顔でぼくの手を揺らしていたけれど、重い荷物を持って困っている人を見かければ、あわててそばに寄って助けに向かった。自然と手が離れ、ぼくはトウマのあとを追うでも、自由になった身でどこかに駆けていくでもなく、トウマの用が済むのを、うしろを歩いてぼうっと待っていた。
 トウマと外を歩くようになってやっと、ぼくは外にも世界があるということに気がついた。それまでぼくの世界はほとんどが家の中で、外出はせいぜい、母が「外で遊んでおいで」と言ったときにアパートの壁にもたれかかって空を眺める、そのぐらいだった。ブロック塀に覆われてほとんど空しか見えない景色が、ぼくの世界のせいいっぱいだった。
 だから、町を歩いてみるまで知らなかった。外には花の香りや葉擦れのささやかな音があって、気ままに歩く野良猫の姿や小麦の匂いを漂わせるパン屋があって、外は家の中より色彩豊かで、途方もなく広かった。トウマのマンションに引っ越したのは秋で、ぼくは紅葉というものをトウマに教わり、冬の寒さの中をあたたかい手のひらに導かれ、空から降る雪をはじめて手の上に載せてその冷たさに驚いた。コンビニに寄って、トウマがしようさんには内緒ねと言って買ってくれた肉まんは、ぼくの力でもつぶしてしまいそうにやわらかくて熱くて、摑むのが少しこわかった。

「お父さんって呼んでごらん」
 梅の花が咲くころ、ぼくは母に促されて、にこにこしながらぼくを見ているトウマ 彼女はどう美夜子といって、ぼくのクラスメイトであるらしかった。けれど入学した高校に最初の数日しか登校していなかったぼくは、彼女がクラスメイトなのだと聞いても、ちっともぴんとこなかった。
「鹿野くんは、どうしてこんな時間に?」
 須藤美夜子は公園の自動販売機で買ったペットボトルの炭酸を、よかったらとぼくに寄こした。川に流されるように受けとったものの、手が震えてふたもまともに開けられない。するとすらりとした手がふたたび伸びてきて、彼女はぼくがひるんだ数秒のあいだに、いとも簡単にキャップを外した。
「わたしはね。自分のできる範囲で、『悪いことをする』ことに挑戦しているんだけど」
 自分の炭酸水に口をつけた彼女は、しゅわしゅわする、と楽しそうにつぶやいた。かと思えば、はっとしたように、
「ごめん、悪い人間になるのに、夜中に出歩くことに理由なんかさがしたらだめだよねえ」
 と頭を垂れる。さっきぼくに、「どうしてこんな時間に」といたことを指して言っているみたいだった。
「意味なく歩くのだって、悪くて良いもんね」
 と彼女は言ったけれど、その言葉の意味は頭に入ってこなかった。膝の上に置いた冷たい炭酸水が、じわじわとズボンを湿らせる。炭酸飲める? と彼女が自動販売機で二本買ったうちの一本を、少しだけ口に含めば、火花がはじけるような液体が舌をしびれさせた。
「というか、さっきも、ごめんね。どうやって学校に来ないのって訊いたの、無神経だったかもしれない」
 彼女が話すたび、電気が走るみたいに肩がはねる。まだほとんど減っていない炭酸水が、揺れて飲み口からこぼれかけた。彼女の話す内容を不快に思ったわけではないけれど、ただ、人の声がそばにあることに、身体が無条件におびえた。
「悪い人間になりたいからって、ごめんねえ」
「……わ、」
 悪い人間になりたいって、どういうこと?
 思っていても、言葉がつづかない。
 人と極端に喋り慣れていない身体はいつも、せいぜい頭の中でなにか考えるだけだから、それは言葉として喉をすべってゆかず、やがて思考じたいが、靄がかかっておぼろになっていく。
「うーん、なんて言ったらいいのかな」
 でも、中途半端に漏れた言葉の先を察してか、彼女は考えながらゆっくり答えをとりだした。生あたたかい空気が足許をすり抜ける。ぽつんと立っている街灯が、サンダルを履いたぼくの足の先を青く光らせた。
「悪いことをするのって、勇気がいるでしょう」
 あいだを空けて座っている彼女にも、たぶん同じ光が射している。ずっと触れそうな距離に人の気配があることが、首をゆるく絞められるみたいな息苦しさを与えていた。彼女は言葉の合間に炭酸に口をつけて、こくり、と小さく喉を鳴らす。
「わたし、悪い人間になりたいんだけど、まだ、度胸がなくてね。家族が寝たあとに、ときどき、こっそり外に出るくらいしかできなくて」
 それは、悪いことなのか。未成年の深夜のはいかいは、なにか条例で取り締まられる対象ではあるようだけれど、それで言うならぼくもまた、補導の対象なのだった。
「本当は、もっと勇気をだして踏み外したいの」
 悪いことをするのに勇気がいる、なんて人間は、そもそも悪人に向いていないんじゃないだろうか。頭の隅で思う。尋常でない速度で動く心臓に手をあてて、乱れる息を飲みこみながらふり返れば、悪い人間になりたいなどと言うこの人は、ぼくが落とした荷物を拾ってくれたり、自分の発言を省みてぼくに頭を下げたりしていて、そのふるまいに、もう、言葉との矛盾がある気がした。
 うつむいた先のコンクリートに、ふたつの人影が浮かんでいる。
 そのうちの片方が、ふいに形を変えた。言葉を切った彼女が、身体ごと横を向いてぼくに向き直る。彼女の足を覆っているスカートのひだがぼくの膝下をわずかに掠めた。風の感触と変わらないようなわずかな接触に、全身がさあっと縮むような思いがする。たまらず目を伏せた。暗闇と、一瞬の静寂のあと、楽しげな声が鳴る。
「真夜中にこうして並んで座っているの、ちょっと、い引きみたいだね」
 耳うちするような吐息の近さに、閉じた視界をこじ開けられた。
 視線がまじわる。彼女の頬に射す街灯の、光のりようせんが月の影のように波うった。大きな目がゆっくり細められる。ほほ笑んだのだとわかるのに一拍遅れた。
 ほんのりとした暑気の中で、全身が冷たくなっていく。
 ぼくはぶんぶんと首を横にふった。逢い引きというのは、愛し合っている者同士が人目を忍んでひそかに会うことを言うのではないか。だけど初対面も同然のぼくと彼女のあいだに、愛なんてあるはずなかった。ずっと動くことのできなかったベンチから、転がり落ちるように身体を離す。炭酸水も一緒に転げて、まだ中身のほとんど残ったペットボトルはぼとりと音を立ててコンクリートに落下した。荷物を引っ摑み、よろけながら、ぼくは一歩、二歩と後退する。
「わあ、そんなにいやなんて。ごめんね」
 謝りながらも、彼女はほがらかに笑っていた。ぼくは、もうこれ以上彼女と目が合うことがないように、深く視線を落として自分の青白い足許だけを見た。手足が震えている。止めようとどれだけ意識しても意識しないようにしても、自力では止められなくて参った。笑いんだ彼女がもう一度言う。
「ごめんね」
 静かな声を聞いたのと同時に、ぼくは彼女に背を向けて駆けだした。
 筋力のない脚に力をこめて、静かな住宅街をひた走る。日ごろ運動をしていない身体はすぐに悲鳴を上げはじめ、脚が震えているのが、走りだす前からなのか運動不足の身体にむちっているせいなのかわからなくなった。サンダルなのもあって余計に走りにくい。それでも自分のアパートに着くまで足を動かすのをやめないで、身体にまとわりついてくるものを追い払うように走りつづけた。
 アパートの、二階の部屋の前でついに力尽きて、ドアにもたれかかるように倒れこむ。酸素を吸いたいのに、吸っても吸っても足りなくて喉がひゅっと変な音を立てた。口の中がどろっと熱くて、砂を飲んだみたいにいがいがする。汗がまたあふれだして、シャツが肌にはりついた。生ぬるい夜の空気は汗ばんだ身体を乾かしも冷ましもせず、背中に触れるドアの無機質な冷たさだけが気持ちよかった。
 暗い町をまばらに照らす街灯の白さが、疲弊しきったまぶたを刺す。
「……暑い」
 もう人の姿は見あたらない。だれの声もしない。部屋の中に入って、よりいっそう無人を感じて安心したかった。でも体力を使いはたした身体はまだ重くて言うことを聞きそうにない。学校指定のブレザーに覆われた彼女の肩の薄さが、その残像が、消えかかる煙のように瞼の裏でくすぶった。
 もう彼女の姿はどこにも見えない。
 それでも、笑った声、ごめんねと言った木琴のようななめらかな声が、雨の滴のように耳殻をつたって、なかなか乾かなかった。

★つづき【5/10】はこちら

作品紹介



美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000524/
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