2023年9月22日(金)、長浦京さんによるミステリ巨編『アンダードッグス』(角川文庫)が刊行となります。直木賞候補作となるなど大きな話題を集めた本作の文庫化を記念し、冒頭部約50ページ分が読める豪華試し読みを掲載! 全6回の連載形式で毎日公開します。超スケールで綴られる極上のエンタテインメントの序章を、存分にお楽しみください。
長浦京『アンダードッグス』試し読み#4
「そう責めるなよ。君を
「弱者に復讐と再起の機会を与えてやっているといいたいんですか」
「ちょっと違うな。まあいずれわかるよ。それから渡すものがある」
クラエスがリボンのかかった小袋を古葉の前に置いた。
「日本円で現金四百万円が入っている。税引後ですべて君のものだ。こちらでの生活を整理するのに使ってくれ。
「他人の信仰は尊重しますが、私はキリスト教徒じゃない」
古葉は小袋を受け取らず、マッシモを残したままリビングを出た。彼は追ってこない、グラスを片手にソファーに座り、微笑んでいる。
「香港でお待ちしています」
見送りにきたクラエスが閉まるドアの奥でいった。
帰りの特急の中でも、古葉の膝は震えていた。
それでもまだどこか半信半疑だった。老い先短い金持ちの、悪い冗談に巻き込まれたんじゃないか? いや、そんな生易しい話で終わるはずがない。
そう、すべては現実だ。
消えない怖さの中で、可能性を考えてみる。
返還が迫る香港では、中国本土からの進出を狙う
フロッピーと書類を奪うには好機かもしれない。
それでもやりたくなかった。
農水省の裏金作りに加わっていた自分を正当化するつもりはないし、罪に問われなかっただけで、あの作業も間違いなく窃盗だった。だが、ついさっき提示された犯罪は規模が違う。危険度もはるかに高い。
失敗すれば数年の懲役程度では済まないし、そもそもこんな素人にできるわけがない。万引きどころか、親の財布から金を抜き取ったこともないのに。
しかし、断ればたぶん命はない。マッシモは本気だった。
また手や膝が震え出した。
翌日、いつものように出社すると、部長が驚いた顔で古葉のブースに駆けてきた。
「出張はどうしたの?」
「どの出張の件ですか?」古葉はわかっていながら訊き返した。
「香港だよ。ジョルジアンニさんのところへの出向が決まったって上から聞かされて、もう事務手続きの指示も出しちゃったんだから」
「出発は来週です」
「その間に、得意先の引き継ぎをしておきたくて。お客様にはまだ何の連絡もしていませんから」
「いいよ、やらなくて。というか、やんないで。聞いてない? 君の次回出社は、来年七月二日」
香港の中国返還の翌日。
「それまでジョルジアンニさん専任ってことで、うちの業務とは切り離して考えるように社長と常務からいわれてるの。このパーティションの中も、午後には総務が来てかたされちゃうし、明日には後任が来るよ」
「じゃ、総務の担当者が来るまで私物を整理しています。昼には帰りますから」
部長は渋い顔をしながらも、最後には「気をつけて行ってきて」と残し去っていった。
予想通り会社にもマッシモの手が回っていた。
──明日から働く場所がなくなった。
デスクの中の私物はごくわずかで、それをカバンに詰め込んでいると、通りかかった何人かが「行ってらっしゃい」「頑張って」と声をかけてきた。
どう答えていいかわからず、
だが、ビルを出て歩道を歩き出したところで、「古葉さん」と呼ばれた。
この声のかけ方、記者だ。農水省退官前後にさんざん追い回されたので嫌でもわかる。思った通り、テープレコーダーを手にしたスーツの男が週刊誌名を連呼しながら横に並んだ。うしろにはカメラマンを連れている。
どの件だ? まさかもうマッシモに関することで? 一瞬混乱したものの、無視して歩き続けた。挑発するようにレコーダーを向け、シャッター音を鳴らしている。それでも古葉は表情を変えず片手を挙げ、タクシーを探した。
しかし、記者の一言に思わず足が止まり、訊き返した。
「
「どういうことですか」
「ご存じないんですね。どなたからの連絡もない? 三日前、二十二日日曜の夜です。一家心中で、奥様、中学生と小学生のお子さんたちもお亡くなりになりました」
農水省時代の課長で、直属の上司でもあった。日農裏金事件により古葉と同時期に退職したが、佐々井は逮捕され、執行猶予の判決を受けている。
家族を道連れにしての自殺なんてまったく知らなかった。テレビでも新聞でもそんなニュースは見ていない。
「ええ、出ていないんですよ。おかしいでしょう? だから古葉さんにお話を伺いに来たんです。うちや他誌が感づいたせいで、今日の夕方には警察発表と新聞報道がされるようですが、それでもこんなに発表を遅らせるなんて、何か裏を感じますよね?」
早口でまくし立てる。
佐々井は再就職に何度も失敗し、生活苦の末、妻とふたりの娘を刺殺し、自身は首を
「本当に何も知らないんです」古葉は声を絞り出した。
「当時の部下として、何も主張できなくなった佐々井さんに代わって、いいたいことはありませんか。同じ農水省を追われた者として、訴えたいことがあるんじゃないですか」
「とても残念です。心からお悔やみ申し上げます」
古葉は記者の言葉を遮るようにくり返し、歩道を駆け、タクシーに飛び乗った。
ヒーターの効いた車内でどっと汗が噴き出した。心音も大きく速いが、暑くはない。むしろ寒い。混乱する頭に、昨日のマッシモの言葉が浮かんできた。
『これは君を救うことでもある』
この事件のことをいっていた? 一家心中の情報を先に
材料のないまま考え続けていると、ふとため息が漏れ、そのすぐあとに悲しみがこみ上げてきた。佐々井が特別好きだったわけじゃない。だが、嫌いでもなかった。あの洗脳じみた状況の中で、佐々井も古葉も同じように裏金作りに邁進し、切り捨てられた。
役職がついていたか、いなかったか。逮捕された佐々井と、されなかった自分の違いはそれだけだ。立場が逆だったら、古葉のほうに前科がついていた。だが佐々井も、被害者とは到底いえないが、加害者でもない。日本の農業の将来のため、国益のため、国民の食の安全と安定のため。馬鹿で浅薄だが、本当にそれだけを考えていた。
ただ、やり方を間違えていた。
妄想することがある。もし今、外圧により本当に日本農業生産者組合連合会が解散させられていたら? 危機に
マンションの少し前でタクシーを降り、歩いていくと、やはり数人が路上で待っていた。
声をかけてきたが、無視して歩き続ける。腕も摑まれたが、どうにか自分を抑えてエントランスを入ると、さすがにオートロックのドアの内側までは入ってこなかった。騒ぎに気づいた年寄りの管理人も様子を見に出てきた。
しかし、七階の自分の部屋に入ると、すぐにインターフォンが鳴った。
マンション一階のオートロックからの呼び出しじゃない。取材陣が古葉の部屋の前まで来ている。
「不法侵入ですよ。警察に通報します」
インターフォンを通して伝える。
「そう思われるなら通報していただいて結構です。まずは出てきていただけませんか」
女の声で返された。
古葉は
中年の女と男が名刺を出した。女がテレビのニュース番組のディレクターで、男は大手出版社の週刊誌記者。少し離れて、このマンションの管理人も立っている。
「ちゃんと許可を取って入れていただきました」女がいった。
古葉が管理人を睨むと、目をそらしながら口を開いた。
「住民の皆さんが迷惑してるんですよ。一度しっかり話してもらえれば、マスコミの方々も帰るっておっしゃるので」
「私も迷惑している住人のひとりですが」強い声でいった。「商品券でも握らされたんですね」
管理人が顔を背けた。
「買収なんかしていませんよ」女がまた話し出す。
それからしばらくディレクターの女と記者の男は、ふたりがかりで佐々井の死に関して思いを話すよう懐柔を続けた。
聞き流していると、女がきつい口調でいった。
「それでいいんですか? 古葉さん。当時あなたと同じように退職させられた他の元同僚たちは、
自分はなぜ農水省を追われ、本名を明かせず、伏し目がちに今を生きなければならないのか? 会ったばかりの得体の知れない女に責められ、反省を求められる人生とは何なのか?
だが、記者は容赦なく続ける。
(つづく)
作品紹介
アンダードッグス
著者 長浦 京
発売日:2023年09月22日
世界に、牙を剥け。超弩級ミステリー巨編!
1996年、元官僚で証券マンの古葉慶太は顧客の大富豪・マッシモにある計画を強要される。
それは中国返還直前の香港から運び出される機密情報を奪取するというものだった。
かつて政争に巻き込まれ失脚した古葉は、自分を陥れた者たちへの復讐の機会と考え現地へ飛ぶ。
待っていたのは4人のチームメンバーと、計画を狙う米露英中の諜報機関だった。
策謀と銃弾飛び交う香港で“負け犬たち”は世界に牙を剥く!
直木賞候補作にもなった究極のエンタテインメント小説。
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