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試し読み

p.50まで読める! 超弩級ミステリ巨編 長浦京『アンダードッグス』試し読み#2

2023年9月22日(金)、長浦京さんによるミステリ巨編『アンダードッグス』(角川文庫)が刊行となります。直木賞候補作となるなど大きな話題を集めた本作の文庫化を記念し、冒頭部約50ページ分が読める豪華試し読みを掲載! 全6回の連載形式で毎日公開します。超スケールで綴られる極上のエンタテインメントの序章を、存分にお楽しみください。



長浦京『アンダードッグス』試し読み#2

オフシーズンに加え、年末に近い平日の軽井沢駅前は予想通り閑散としていた。会社が一斉に年末年始の休みに入る二十八日を過ぎれば、また年越しの客で混みはじめるのだろう。
 タクシーで十分、明治創業の老舗しにせホテルのロビーも人は少なく静かだった。
 教えられたルームナンバーに直行する。
 香港に移る前のマッシモ・ジョルジアンニは、イタリア本国で国内経営規模三位の海運を中心とする保険会社を経営していた。その後、経営を息子に委譲、相談役に退いた。しかし、湾岸戦争時の保険金支払増加により経営が急激に悪化したことが原因で、会社はアメリカに本社を置くユダヤ系資本の保険グループに買収されてしまう。
 だが、ばくだいな個人資産を所有していたマッシモは、香港を拠点に高級食品流通と投機で復活。今現在も十七億アメリカドルの資産を持ち、中国や日本、シンガポール、マレーシアなどの政財界人とも通じている。
 ドアの前に立ち、チャイムを押そうと手を伸ばしたとき、古葉は指先が軽く震えているのに気づいた。ひどく緊張している。マッシモという大物に会うせいなのか、初対面の相手に接することへの動揺なのか、自分でもわからない。
 一度息を吐き、首を振って、自分に染みついた負け犬の臭いと考えを振り払う。
 チャイムを鳴らすと、秘書のクラエスに招き入れられた。
 2ベッドルームのスイートで、広いリビングの奥の暖炉では炎が静かに揺れている。窓が開けられ、シニョール・ジョルジアンニはベランダでホテルを囲む森の緑を眺めていた。
 古葉もベランダに出ると、日本流に頭を下げた。
「よく来てくれた」マッシモが右手を差し出す。「君は思っていたより大きいな」
 古葉の身長は百七十八センチ、彼はそれより頭一つ分は小さい。グレーのシャツにネイビーのダブルジャケット。イタリア男らしい隙のない装いで、年齢ほどには老けていない。足腰もしっかりし、体調も万全のようだ。
「マッシモと呼んでくれ」と英語でいわれ、笑顔でうなずこうとしたが口元がこわばる。
くつろいでくれよ」彼が古葉の肩をたたく。
「軽井沢には以前もいらしたことがあるのですか」言葉を絞り出し、いた。
「四度目だよ。でも、残念ながらこれで最後だろう。国際イベントというものは、どんなたぐいのものでも国土を荒らし、景観を台無しにしてしまう」
 一年後に開かれる長野冬季オリンピックのことをいっている。
「十年経って、また静かな街に戻ったころに来てみたいが、もう私自身が生きていないだろう」
「いえ、きっと十年後もお元気なはずです」
「お世辞でないなら、何を根拠にそういうんだい?」
「見た目の若さに加え、体型や身のこなしからも健康に留意されているのが感じ取れます」
「それだけか? 遠慮しなくていい。もっと感じたままを正直にいってくれよ」
 少し迷ったあと、古葉はまた口を開いた。
「あなたの表情は過去や今の権力にしがみついている人間とは違う。未来に向けた野心を秘めている目をしています。ただ長く生きようとしているのではなく、目標を果たすまで死ねないという執念を持っている。私にはそう見えました」
「うん、悪くない」
 マッシモは笑った。
「まさにその通りだ、内に持つ欲を隠せないのが私の欠点なんだがね。その観察眼はいつ手に入れたんだい?」
「ごく最近です」
「手痛い失敗から学び、人を正しく見る目を手に入れたわけだ。優秀な人間の証拠だよ。他人への恐怖心を拭い去れないと聞いたが、だいぶよくなったようじゃないか」
 この男、本当に詳しく調べたようだ。自分を知られていることへのおびえからか、鼓動が速くなってゆく。それを悟られないよう、古葉は静かに言葉を続けた。
「必死なんです。遠回しな探り合いを一番嫌われるとお聞きしたので。会社からも、最重要のお客様に失礼のないよう、下手な追従や口先だけの褒め言葉で機嫌を損ねることのないよう強くいわれてきましたから」
「立ち話には寒すぎます」クラエスに呼ばれた。「もう中にお入りになってください」
 ベランダから室内に戻り、大きなソファーにマッシモと向かい合わせに座った。
 三人だけのリビング。
 だが、ベッドルームのひとつに通じるドアが少しだけ開いている。あの向こうには複数の警護役が控えていて、何かあればすぐに飛び出してくるのだろう。その見えない他人の気配が、また古葉を緊張させてゆく。
「ここにいるのは信頼できる人間ばかりだよ」
 古葉の表情を見たマッシモが先回りするようにいった。
「そしてこれから私は信用している相手にしか明かせない話をする。そのことを、どうか心にとどめておいてほしい。ここで聞いたことは、会社にも報告する必要はない」
 普通にしていようとしても、どうしても顔が引きつる。こんな前置きのあとに続く話が、手放しで喜べる内容であるはずがない。
 そんな古葉の胸の内を見透かしたように、またもマッシモが先制する。
「確かに楽しい話ではないし、簡単な事柄でもない。だが、決して悪いことばかりでもない。君にとって人生を大きく好転させられる提案になるはずだ」
 ──信じられない。
 莫大な金や権力を持つ連中からの「秘密の提案」が、安全なものであるはずがない。政治家や財界人、諸外国の官僚と少なからず関わってきた農水省時代の経験が、強くそう感じさせる。
 なのに席を立てなかった。今すぐ断り、ここから出て行くべきなのに。
 老練な商売人が、真っすぐな目でいった「人生を大きく好転させられる」の一言が、片足に絡みつき、引き止めている。
「今日、私は仕事の話のために呼ばれたのですよね」古葉は確かめた。
「そうだよ。ただ、株や先物取引とは、まったく違う種類の仕事だ。ごく簡単にいえば、私はヘッドハンティングをしたいんだよ。この先は、君が今所属している会社は一切介在しないし、その点については了承も得ている。君と私、対等の立場で、私の人生を懸けたものについて話したい。どうする? 聞く気になったかな?」
 自分の愚かさのせいで、これ以上失敗を重ねられない。だが、愚かな俺には、そもそもこれ以上失うものなど何もない。正反対の思いがせめぎ合い、ぶつかり合う。
 迷う古葉の前にグラスが運ばれてきた。
 マッシモ自身が立ち上がり、ピエモンテ産のワインボトルを開封し、コルクを抜いた。
「一杯だけ飲んでいってくれ。機嫌を損ねることのないようにといわれているんだろ?」
 濃い赤色がグラスに注がれてゆく。立ち上がり出てゆく機会を完全に奪われてしまった。
 気持ちが定まらないまま、香港からやってきた老いたイタリア人の目を見る。
アッラ・ミ友情にチーツィア乾杯(All'amicizia)」マッシモがいった。
 ふたりでグラスを手に取り、傾け、音のない乾杯をした。
 古葉自身もわかっている。自分を留まらせ、乾杯のグラスを掲げさせたのは、冒険心よりも負け犬のとおえに近い感情だということを──
 マッシモが本題に入る。
「来年七月一日の香港返還を控え、次の春節チユンジー(二月七日)に、香港ナンキン銀行グループ傘下の恒明ハンミン銀行本店、この表向きは中小法人への貸付と投資を主な業務としている香港の銀行から、大量のフロッピーディスクと書類が運び出される。行き先はバミューダ諸島の法律事務所とマルタ共和国の法人設立コンサルタント会社。フロッピーに何が記録されているかわかるね」
「要人の投資資産台帳ですか」
「その通り。ただ香港在住の要人じゃない。世界の主要十数ヵ国の要人たちの投資記録で、大半は著しく不適切か違法なものだ」
 発表前のインサイダー情報や、親族を経由しての未公開株の違法譲渡、明らかに贈賄に当たる不動産の異常な安値での売買契約など、そしてそれらを誰がどれだけの額、所謂いわゆるタックスヘイブン(租税回避地)の銀行に貯蓄しているかの記録なのだろう。
「書類のほうは、その連中のために設立された節税用のトンネル会社の登記台帳だよ。この中には日本の閣僚や財界人も含まれている。君に罪をなすりつけた上、家族を人質に今も縛りつけている自由民進党の議員たちの名もね。そのフロッピーと書類を、君に奪い取ってほしい」
「そっ──」驚きともあきれともつかない声が漏れた。
 マッシモがゆっくりと首を左右に振る。
「冗談ではないよ」
「できるわけがない、そんなこと。私はちようほう員でも窃盗団の一員でもありません」
「だからいいんだよ」
 マッシモはワインを一口飲んで続けた。
「どこの国の要注意人物のリストにも載っていなければ、犯罪の前科もなく国際手配もされていない。警察や軍関係の前歴もない。まったくのノーマークだ」
 この男の提案は常軌を逸している。古葉はぜんとしながらも言葉を探した。
「もう一度いう、これは冗談ではないよ」
 マッシモはグラスの中のワインを静かに揺らしている。

(つづく)

作品紹介



アンダードッグス
著者 長浦 京
発売日:2023年09月22日

世界に、牙を剥け。超弩級ミステリー巨編!
1996年、元官僚で証券マンの古葉慶太は顧客の大富豪・マッシモにある計画を強要される。
それは中国返還直前の香港から運び出される機密情報を奪取するというものだった。
かつて政争に巻き込まれ失脚した古葉は、自分を陥れた者たちへの復讐の機会と考え現地へ飛ぶ。
待っていたのは4人のチームメンバーと、計画を狙う米露英中の諜報機関だった。
策謀と銃弾飛び交う香港で“負け犬たち”は世界に牙を剥く!
直木賞候補作にもなった究極のエンタテインメント小説。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322301000216/
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