2023年9月22日(金)、長浦京さんによるミステリ巨編『アンダードッグス』(角川文庫)が刊行となります。直木賞候補作となるなど大きな話題を集めた本作の文庫化を記念し、冒頭部約50ページ分が読める豪華試し読みを掲載! 全6回の連載形式で毎日公開します。超スケールで綴られる極上のエンタテインメントの序章を、存分にお楽しみください。
長浦京『アンダードッグス』試し読み#1
一九九六年十二月二十四日 火曜日
この証券会社に勤めて二年、出張なんてはじめてだ。パーティションで仕切られた自分のブースに戻り、ボードに
「上得意の頼みだから、無下にはできなくてね」
謝罪を交えた笑顔で部長に懐柔され、拒否できなかった。問題や不手際があった場合を除いて、顧客とは直接顔を合わせないのが、入社するときの第一条件だったのに。
「
古葉は会社では母の旧姓を名乗っている。同僚たちの大半は本名を知っているようなので、あまり意味はないが、それでも自分への気休めにはなっている。古葉の顔と名前は三年前、週刊誌やテレビでくり返し報道され、まだ覚えている人間も少なくない。
だから今でも人混みに出るときは、どうしても伏し目がちになってしまう。
地下鉄を乗り継ぎ
十六番ホームから特急あさまに乗り込む。
出発して五分もしないうちに携帯電話が震えた。デッキに移り、通話ボタンを押す。これから会いに行く顧客の女性秘書、クラエス・アイマーロからだった。
「もうこちらに向かっていただいているそうで、いつも通りの早い行動に、シニョール・ジョルジアンニもお喜びです」
彼女の雇い主の名はマッシモ・ジョルジアンニ。
本業は輸入食品卸しで、香港ではワインに関税がかからないのを利用し、フランスを除くヨーロッパ・アフリカ産のワインと、クラテッロなどの高級食肉加工品を買い付け、アジア各国の中・高級レストランに卸していた。同時に投資家としても国際的な投資会社を持ち、香港だけでなくアジア圏全体に複数の企業を所有している。
古葉が今勤めている証券会社のマッシモ担当班に加わり一年半。
日本やオーストラリアの農産物関連株取引で成果を挙げ、彼に名を覚えられた。特に、今年春に起きたイギリスの狂牛病騒動が、世界規模の事件になることを古葉がいち早く察知し、有効な金融的予防策を知らせ、多大な損失を回避させたことを高く評価しているという。ただ、そうはいっても古葉など、彼の投資会社が契約している世界各国の株式トレーダーの中では、実績も知名度も、最下層のひとりでしかない。
「ホテルに着いたら、ラウンジで待たずに部屋へ直接来ていただけますか」
クラエスが話す部屋番号をメモした。
古葉はこれまでマッシモと直接会ったことはない。
商談はすべて英文の電子メールで、残りは秘書のクラエスを介した電話ミーティングが四回。当然、個人的交流など一切ないし、古葉のほうでも望んでいない。
だから今日突然呼び出されたことにも期待感などなく、むしろ警戒心のほうが強かった。
「念のためお伝えしておきますが、シニョール・ジョルジアンニはあなたの経歴を詳しく調べ、すべてをご存じです。だから何も心配せずにいらしてください」
電話を切る直前にクラエスがいった。
逆に不安が膨らんでゆく。以前の自分を知られているというだけで、先手を取られたような、弱みを握られてしまったような気持ちになる。
デッキから席に戻っても、胸に広がった不安を
古葉慶太は宮城県
実家は社長の父と経理役の母を含む社員六人の板金工場だが、バブル崩壊を受け、経営は厳しかった。
高校卒業まで仙台で過ごし、一橋大学入学を機に上京。志望は東大だったが
さらに、大学在学中の司法試験合格と、卒業後の通商産業省入省を目指したものの、どちらも実現できないまま、農林水産省に入省する。
研修を終えて担当部署に配属された初日、部長からこういわれた。
「郵政の次は日農だ」
郵政民営化の論調が強まりつつある中、アメリカからの圧力もあり、「日農」、日本農業生産者組合連合会が次の解体・再構築の標的にされる──そんな
実際日農は、農薬や農業機器の割当販売や農産物の買い上げを通じ、全国の農家を支配している。そして農水省は日農という組織を通じ、日本全国の農業生産者を間接的に統制している。
その点を強く批判され、日本国内からは政治と農業の癒着の温床、海外からも日本の保護貿易主義の象徴として、くり返し
将来的な日農の解体は不可避という予測のもと、再編後の新組織でも、資金力を背景に影響力を維持するための作業を、古葉が配属された農水省内の部署では日夜続けていた。もちろん表立っていえる作業ではない。はっきりいえば不正だった。
日農資産のロンダリングとプール、いわゆる裏金作りを一任されており、若い古葉も作業に加わることになった。
「これは国益に
部長のこの言葉が忘れられない。いや、忘れたいのに、頭にこびりつき、
部長自身も部下の自分たちも、そういい続け、聞かされ続けることで、無意識のうちに心に残る罪の意識を塗りつぶそうとしていた。取り返しのつかない方向へ突き進ませ、加速させる
慣例である公費での海外留学の二年間を除き、古葉自身も積極的に日本各地を回り、生産者の本音や嘆願、地方日農幹部からの生の声を聞き続けた。その中で、自分なりの正義を感じながら決して公表できない職務を続けていた。
しかし、入省から六年二ヵ月後、農水省の裏金作りが発覚する。
マスコミに大々的に報道され、古葉も責任の一端を負わされた。公文書偽造の疑いで地検特捜部の取り調べも受けたが、それに関しては証拠不十分で不起訴となった。ただ、不正に加担していた事実は変えられず、農水省を去ることを余儀なくされる。
もっとも、はじめに退職の勧告をしてきたのは省内の上司ではなく、地元宮城の母だった。
「辞めてもこっちは心配ないからね。だから変なことだけは考えないで」
母の
──家族を人質に取られた。
そう思った。
これは懐柔じゃない。古葉が退官を拒んだり、在任中に知り得た秘密をマスコミに暴露する素振りを見せれば、家族への便宜をすべて取り下げるという、代議士や農水省上層部からの
古葉は抵抗することなく農水省を去った。
マスコミの目を避けるためというのは、ただの言い訳でしかない。
第一志望の大学にも、就職先にも入れず、どうにか入省できた職場で何の警戒心も持たず、指示されるままに動いた結果、何もかも失った。自分が少しばかり勉強ができただけの、ただの無能に思えた。
気乗りしないまま電話で説明を聞くと、農畜産物の知識を先物取引や企業分析に
親会社が大手銀行で倒産や解散の心配がないこと。さらに毎日出勤する必要はあるが、上司とさえもほぼ顔を合わせず、メールのやり取りだけで業務を遂行できると聞いて、就職を決めた。古葉自身の中にも、この対人恐怖症と、自分に対する重度の失望をどうにかしなければならないという思いがあった。自殺する度胸も覚悟もなかったし、今死ねば、両親を悲しませることになる。
いや、正直にいえば意地があった。
誰かにいわれるままではなく、自分の意思で生き、そして見返したかった。
だが、見返すべき相手は誰か? それにはどうすればいいのか? まったくわからなかった。唯一気づけたのは、このまま部屋に閉じこもっていたら、何も変わらないどころか、ただ朽ちてゆくだけということだった。
未知の業種だった証券業界に再就職し、手探りで少しずつ実績を積み上げ二年。
まだ他人の視線が痛くて怖い。見知らぬ誰かの話し声が、
ただ、俺は敗北者だという思いは、拭い去れずにいる。
負け犬から
古葉の乗った特急電車は走り続ける。
車窓の風景から住宅地が消え、常緑樹の森が広がってゆく。
(つづく)
作品紹介
アンダードッグス
著者 長浦 京
発売日:2023年09月22日
世界に、牙を剥け。超弩級ミステリー巨編!
1996年、元官僚で証券マンの古葉慶太は顧客の大富豪・マッシモにある計画を強要される。
それは中国返還直前の香港から運び出される機密情報を奪取するというものだった。
かつて政争に巻き込まれ失脚した古葉は、自分を陥れた者たちへの復讐の機会と考え現地へ飛ぶ。
待っていたのは4人のチームメンバーと、計画を狙う米露英中の諜報機関だった。
策謀と銃弾飛び交う香港で“負け犬たち”は世界に牙を剥く!
直木賞候補作にもなった究極のエンタテインメント小説。
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