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【連載小説】今川義元の討ち死にを機に、松平元康は今川からの独立を伺う。後の天下人・徳川家康の下した決断は――。上田秀人「継ぐ者」#2

※本記事は連載小説です。

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   二

 数日後、駿府館の騒動は、俗に人質屋敷と呼ばれる松平家にも伝播した。いや、より強い衝撃を与えた。
「蔵人佐どのが、おかざきに籠もっただと」
 瀬名が顔色を変えた。
おおだか城の守備を任されておりながら、お指図もなしに岡崎へ帰り、そのまま……」
 念を押すように報告を繰り返した瀬名が絶句した。
「これを機に今川を離れるおつもりかも知れませぬ」
 輿入れのとき、瀬名に付けられた実家関口の家臣が述べた。
「なんということを……」
 瀬名が愕然とした。
 今川義元の討ち死に以来、栄華を誇った駿府は一変した。当主を失った譜代の臣の屋敷は火が消えたようであったし、駿府を捨てた者たちの屋敷はもぬけの殻となっている。
「あり得ぬ。あり得ぬ」
 瀬名が取り乱した。
「妾は治部大輔さまの姪ぞ。いわば、蔵人佐も一門じゃ。本家が危ないときこそ、一門が助けるべきであろう。幹が折れては枝葉は枯れるぞ」
「一門とは思っておられなかったのでしょう」
 家臣が首を横に振った。
「……それはっ」
「松平家は冷遇されておりました」
「当然であろう。独り立ちできず、今川に助けを求めたのだ。今川のために働いて当然であろう」
 家臣の言葉を瀬名は否定した。
「すり減らされるのは厳しいものでございまする」
 戦国乱世に生きる武士だけに、家臣は松平元康の思いを理解していた。
「その代わり、妾をめとられたではないか。治部大輔の血に連なる女を妻にと願う者は、家中だけでなく、遠くは京の公家、大名にも多い。そのなかから蔵人佐どのを選んだのは治部大輔さまじゃ。そのご恩をなんと思っておるのか」
 瀬名の憤りは収まらなかった。
「急ぎ使者を立てよ。今ならば、許されると。ただちに岡崎をち、駿府へ戻って参るようにと」
「はっ」
 命じられれば従わなければならない。それが家臣である。
 しかし、当然ながら使者は松平元康に会うこともできず、追い返された。
「なにをしている」
 最初は使者に怒りをぶつけていた瀬名だったが、すぐに夫の決意の固さを知る。
「屋敷より出ることまかりならぬ」
 松平家造反を知った今川氏真が、瀬名たちを禁足に処した。
「妾は養女とはいえ治部大輔さまの娘でございまする」
 瀬名の言葉も虚しく、屋敷の表戸は閉じられ、勝手門、脇門を含めて門番が立ち、出入りを見張った。
「なぜこのような……」
 駿府に集められている従属した国人、大名の人質のなかでも格別の配慮を受けていた瀬名が、罪人扱いになった。
「この子をなしたことはまちがっていたのか」
 瀬名が座敷で寝ている松平元康との間にできた嫡男、竹千代を見下ろした。
「子をなせ。松平が二度と今川から離れられぬようにの」
 松平元康のもとへ嫁げと言われたとき、今川義元から瀬名は命じられた。
「三河を末代まで今川の領土とするには、それしかない」
 今川義元はそう断じていた。
 松平家は三河の一国人でしかなかった。それが元康の高祖父ながちか、祖父きよやすと傑物が出たことで三河をほぼ統一、さらに尾張、遠江へと手を伸ばした。家臣による反逆などの不幸があったため、松平家の躍進は止まったが、いつまた傑物が出てくるかわからないのだ。
「元康には、その器量を感じる」
 今川義元は松平元康を警戒していた。
「あやつは辛抱を知っている。人質として扱われながら、目に反感さえ浮かべない。あれは犬の振りをしている狼じゃ」
 松平元康を今川義元は買っていた。
「そなたはその狼をつなぐ鎖になる。いや、重石を産むのじゃ。三河一国を今川のもとに留め続けるのならば、女一人惜しくはない」
 今川義元が瀬名に告げた。
 駿河、遠江、三河を領し、海道一の弓取りとたたえられる今川家と縁を結びたい大名や国人、家臣は多い。
 大名や国人にとっては、今川の脅威をなくすうえに、いざというときの援軍を頼めるという利点がある。今川に吞みこまれてしまうおそれがあるとはいえ、それでも生き残るほうが重要である。
 家臣は、一門への昇格が望める。一門になれば、家臣であったときよりも待遇がよくなり、よほどのことでもないかぎり潰されはしなくなる。そして、一門として代を重ねれば、本家に血筋が絶えたとき、その跡継ぎを出すこともできる。
 今川義元の妹を母とする瀬名は、まさに引く手あまたであった。
「三河の小僧」
 降伏したに等しい松平家の人質元康は、今川家中から侮られてきた。
「お館さまのお力なくば、滅んでいたくせに」
「駿府の町を歩くならば、端を通れ。真ん中などおこがましい」
 心ない今川の家臣は、松平元康を嘲笑した。
「その面見せるな」
 ひどい者になれば、唾を吐きかける者、蹴飛ばす者もいた。
 これは松平元康が駿府へ人質として入るまでの事情が大きくかかわっていた。
 完全とはいえないが、ほぼ尾張を制圧した織田のぶひでの圧力に耐えかねた松平元康の父ひろただは、今川家へ援助を求めた。
「嫡男を人質に寄こせ」
 乱世で無償の好意はない。織田信秀と対峙するには、相応の対価がなければ割に合わない。今川義元は、松平家の裏切りを防ぐためと、軍役を果たさせるために広忠の嫡男元康を差し出せと要求した。
「やむを得ぬ」
 拒めば今川の援助は受けられなくなる。どころか下手をすれば、弱っているときこそ好機とばかりに侵略されるかも知れない。松平広忠は今川義元の求めに応じ、嫡男元康を駿府へと送った。
 しかし、その道中、松平家と近しい一族で今川家の被官であったやすみつが裏切った。織田信秀の勧誘に応じた戸田康光は、駿府へ移送される最中の松平元康を奪い、尾張へと連れ去った。
「息子の命が惜しくば、織田に付け」
「今川には恩がある。それは息子一人の命とは引き換えにならぬほど大きい」
 織田信秀の脅しを松平広忠は一蹴した。
「なかなかよき返答である」
 松平広忠の虚勢を織田信秀は認め、元康を返しこそしなかったが、命を奪うことなく留め置いた。
「松平の忠節に応じてやらねばならぬ」
 そこまで言わせて何もしないわけにもいかない。
 今川義元は軍勢を出し、三河における織田の拠点あんじよう城を攻め、城主織田のぶひろを生け捕りにした。
「人質を交換いたす」
 織田信秀の長子であった信広を見捨てるわけにはいかない。今川方の申し出を織田信秀は承諾、信広と松平元康は交換された。
 このとき、今川家は安祥城を落とすのに、二度の出兵をしている。つまり一度目は失敗したことになる。そして二度目は織田信広を捕らえてはいるが、城を巡っての戦いはかなり激しいものとなった。
「おまえごときを取り返すに、多くの者が死んだわ。まったくの無駄死によ」
 今川家中にしてみれば、安祥城を落とすのにどれだけの将兵が命を落としたかが問題であった。ましてや、親兄弟や一族、譜代の家臣などを失った者にしてみれば、松平元康の姿は腹立たしいものになって当然である。
「顔を見たくもないわ」
 と家中に嫌われていた松平元康に、すいぜんの的というべき瀬名が嫁いだ。
「なぜ……」
 家中の者たちが愕然としたのも無理はなかった。
「今川に功績なく、頼るだけの小大名ごときに……」
 手柄代わりに、瀬名を望んでいた者もいる。
 松平元康の駿府での日々は、決して心地よいものではなかった。
「妾と竹千代を捨てた……」
 もちろん、瀬名も松平元康がどのような扱いを受けてきたかは知っている。いや、松平元康を痛めつける側であった。
ねやごと以外で、妾に近づくな」
 京の公家たちも多く住まいする駿府は雅で知られている。生まれてからずっと駿府で生活を送ってきた瀬名にとって、三河は田舎でしかなかった。その田舎で生まれた松平元康を瀬名は夫として認めていなかった。
「子を産むためじゃ」
 閨でも瀬名は、じっと寝ているだけで、目も開こうとしない。人形のような瀬名を、松平元康は毎日抱かなければならなかった。
 そして竹千代が生まれた。
「一人では足りぬ」
 七歳までは神のうちと言われるように、子供はちょっとしたことで死んでしまう。大名や公家が正室だけでなく、側室を儲けて子を数多く作るのは、一族を増やすという目的よりも、最初から何人かは死ぬものと考えているからであった。
 しかし、人質の松平元康に側室などは許されない。今川の血が入っていない子供など、なんの価値もないどころか、将来の禍根になる。
 隠れて他の女に手を出そうものならば、見せしめがおこなわれる。女はむごたらしく殺され、その死体を松平元康は見せつけられることになる。
「妾以外に、そなたの子を産む者はおらぬ」
 竹千代を産んですぐに、また瀬名は松平元康に閨ごとを命じた。
 妻としての務めには違いないが、それ以外一切の接触をしない女など、男にとって価値はないに等しい。
「子供もか」
 瀬名と松平元康の間に生まれた長男には違いないが、嫡子、跡取りになれるとは限らなかった。
 岡崎城へ戻り、今川家からの独立を果たしたのだ。血筋を継がせるため松平元康が新たな女を召し出すのは容易に想像できる。
「妾とこの子の価値は……」
 瀬名が蒼白になってあえいだ。

▶#3へつづく
◎全文は「小説 野性時代」2021年2月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第207号 2021年2月号


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