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【連載小説】駿府に取り残された松平元康の正室と嫡子の運命は――。後の天下人・徳川家康は再び決断を下す!上田秀人「継ぐ者」#3

※本記事は連載小説です。

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   三

 何年振りになるか、岡崎城の本丸に入った松平元康は感慨のため息を吐いた。
「ようやくであるな」
「はっ」
 上座に胡座あぐらを搔いた松平元康に、側近のさかただつぐが同意した。
「いかがいたしましょう、これは」
 ともに駿府で人質生活を送ったいしかわすけろうかずまさが、ずっと本丸城主の間に置かれていた二つ引き両の旗印を指さした。もちろん、すでに床の間からおろされ、部屋の隅に放り出されている。
「送り返してやれ」
 松平元康が指図した。
「それはまた……痛切な」
 酒井忠次が口の端を吊り上げた。
 旗印は奪われただけで負け戦といわれるほど、大将の首に次ぐ、軍勢にとって重要なものである。それを今川家から岡崎城の城代として派遣されていたやまこんえのじようかげたかは忘れて駿府へと逃げ帰った。
 それを届けるというのは、山田景隆の失態を明らかにすることになる。
「なにを申すか、余は好意で忘れものを届けてやるだけぞ」
 松平元康が笑いながら、悪意はないと否定した。
「助四郎、行ってくれるか」
「承りまする」
 使者として駿府へ行けと言われた石川数正が首肯した。
 言うまでもないことだが、ただ旗印を届けるだけではない。それならば西三河を代表する一族の石川数正にさせずともよい。さすがに足軽小者に持たせれば、矜持の高い今川に喧嘩を売ることになるが、騎乗武者ならば問題はない。届けてくれた士分に無体を仕掛ければ、今川は礼儀を知らぬと天下の笑い物になるだけである。さすがに歓待はしないが、一日くらいの滞在ならば黙認するはずであった。
 その一日で駿府の現状を探ってこいと松平元康は石川数正に指図したのだ。
「奥方さまにお伝えすることは」
「不要である」
 石川数正の気遣いに、松平元康が会わずともよいと首を横に振った。
「去り状なども……」
「今は無用」
 酒井忠次の言葉にも松平元康はうなずかなかった。
「まだ岡崎の城へ戻れたばかりじゃ。瀬名を離縁してしまえば、人質としての価値はなくなるが……それをすれば、露骨に今川との縁切りを宣言することになる。もう少し、力を蓄えねばならぬ」
 松平元康が正室を駿府における人質にされるとわかっていながら、我慢すべきだと告げた。
「お心、お察しいたしまする」
「おいたわしい」
 酒井忠次と石川数正が頭を垂れた。
「三河を吾がものとするまでの辛抱じゃ」
 松平元康が怖い目つきで宣した。
 たしかに松平家は元康の祖父清康が横死したことで内紛を起こし、独立するだけの力を失った。それこそ今川の援助がなければ、尾張の虎と怖れられた織田信秀の餌食になっていたかも知れなかった。
「治部大輔さまに恩はある。が、同時にそれ以上の恨みがある」
「…………」
 つぶやいた松平元康に酒井忠次と石川数正の二人が無言で同意した。
「今川が後ろにいなければ、松平は織田に食い荒らされていただろう」
 織田信秀ほど戦国武将としてふさわしい人物も少ない。尾張守護の氏、その守護代である織田せのかみ家の代理で尾張在住の織田やまとのかみ家、その家老である織田家の出ながら、信秀は卓越した能力をもって、尾張一国をほぼ手中にした。さらに美濃、三河へと勢力を拡げようとしていた織田信秀の勢いはすさまじく、松平と縁戚になるみず家やあつ神宮の宮司を兼ねるせんしゆう家なども、その膝下に入っていた。
 近隣に力ある者が現れる。これほど怖ろしいことはない。戦国乱世、敵を討って領土を拡げ、大きくなっていく。そんな殺伐とした世で生き残るには、強くなるか、強い者に媚びてその庇護を受けるかになる。
 松平家も清康のときは強者であった。だが、一人の英傑によって大きくなった家は、その死とともに衰退していくことになる。ましてや、その死が早すぎたときは、後継者へ国を譲る用意もできておらず、外からだけでなく、なかからも争いが始まる。
 松平に見切りをつけて、織田にくみする者、今川に走る者が出た。ここを突かれては、松平は滅びる。清康の跡を継いだ広忠は、恥も外聞もなく、今川に泣きついた。さすがに長く争ってきた織田にくだる気にはならなかったのだ。
 しかし、その結果は酷いものであった。
 松平広忠が数年で、やはり家臣によって殺されたのもあるが、今川は遠慮なく、三河を支配した。
「幼子では、織田の圧力に耐えられまい」
 当主を失った松平家が、人質として駿府にいる元康の返還を求めたのに対し、今川は譜代の家臣を城代として岡崎に送りこんだ。
「吾を、城代を当主と思え」
 今川から押しつけられた城主が、松平を牛耳った。
「戦で先鋒を承れるのは、光栄である」
「駿府の元康どのに戦勝を報せたいだろう」
 代々の城主は、松平の家臣たちを今川の戦いに動員した。それももっとも損耗の激しい、先鋒としてである。とくに松平の譜代として忠誠を尽くしてきた家臣ほどすり潰された。
「松平の結束を弱めるため」
 もちろん、その意図するところはわかっている。とはいえ、当主たる元康が人質になっていては、どうしようもない。
「駿府の元康どのに送る」
 年貢や特産物なども、根こそぎ持っていかれた。
「みすぼらしい恰好では、元康どのが恥を搔くぞ」
 そう言われては拒めない。
 松平はずっと搾取されてきた。それもこれも松平元康が人質だったからである。
 それがなくなった。
 ずっと駿府に閉じこめていた松平元康を、今回今川義元は三河へと向かわせた。かつて初陣で三河まで来たことはあるが、あのときは今川家からの軍目付が同行していたし、岡崎城には山田景隆がいた。
 だが、今回は違った。嫡男も生まれたことで、松平元康の地位が変わったからかも知れないが、織田家との戦い、その前線へと送り出した。
 もっとも手柄の立てられない役目ではあったが、軍目付もなく三河と尾張の国境へと松平元康は出された。
 今川家が尾張に打ちこんだくさびの一つ、大高城への兵糧入れが松平元康に命じられた。
 そして松平元康は大高城へと入り、今川義元は桶狭間で討たれた。
 敵中孤立ではなかったが、敗戦で味方がいなくなり、そのうえ当分の間、今川家は軍勢を組む余裕がない。
 そうわかっていながら、大高城に踏ん張って織田家の侵攻を止める。こうするほどの忠誠心も恩義も松平元康にはなく、当然織田家の軍勢が大高城へ来る前に撤退、岡崎城へと戻った。
「さて……」
 あらためて松平元康が、譜代の家臣たちを見た。
「状況をどう見る、助四郎」
「……よろしくはございませぬ」
 石川数正が首を左右に振った。
「織田の脅威が増し、今川の威圧がなくなりましてございまする」
「ようは、余が人質として駿府へ出されたころに戻ったと考えればよいのだな」
 松平元康が述べた。
「いえ、より悪うございまする。織田は勝ちに乗っておりまする。おそらく尾張との国境に近い土豪たちは織田になびきましょう」
「勝ち目はないか」
「…………」
 確認した松平元康に石川数正が黙った。
「かといって、今川に頼っても……」
「無駄でございましょう」
 今度は酒井忠次が否定した。
 酒井家はその祖を松平家とともにする重要な譜代で、宿老を輩出している。酒井忠次も松平元康が駿府に囚われていた間、宿老として家中を取りまとめていた。
「今川は滅びまする」
 酒井忠次が断言した。
「治部大輔さま、いや治部大輔どのが討たれたとしても、今川の兵力はさほど減ってはおるまい」
 わざわざ今川義元の呼び方を変えて、松平元康が疑問を呈した。
「たしかに兵力としては数千ほどの被害でございましょう。ですが、上総介さまでは国持ちはかないますまい」
「ふむ」
 酒井忠次の意見に松平元康は反論しなかった。
 今川氏真と松平元康は何度も顔を合わせている。今川でなにか行事があるたびに松平元康も駿府館へ参上しなければならなかった。とはいえ、人質の扱いは悪く、廊下でないというだけの座敷隅で、最上段に今川義元と並ぶ氏真とはかなり離れていた。
まりの腕では海道一だぞ」
 皮肉げな笑みを松平元康が浮かべた。
「それに今川を頼むにも、当家と駿河の間には遠江がございまする」
 酒井忠次が付け加えた。
 今川が松平を助けて織田と戦う場合は、駿府から譜代の将が一人か二人、そこに遠江、三河の国人から召集した軍勢を加える。主力は遠江と三河からの抽出になる。
 三河はまだいい。松平家が滅ぼされたら、次は吾が身なのだ。力を合わせて織田に対抗しようとしてくれるが、遠江の国人は違う。
 他家のために貴重な戦力をすり減らすようなお人好しはいない。三河が織田のものになれば、いずれは遠江も、となるとわかっているが、そう簡単なものでもなく、数年はかかる。その間に守りを固めればそうそうやられはしないと考える。
「その辺も見てきてくれ」
 松平元康は石川数正に頼んだ。
「お任せを」
 石川数正が首を縦に振った。
「殿」
 酒井忠次が真剣な眼差しで松平元康を見つめた。
「なんじゃ」
「もし、奥方さまと御嫡男さまを取り返せるとなれば……」
 最後まで言わず、酒井忠次が問うた。
「今か」
 松平元康が確かめるように訊いた。
「はい。助四郎に手助けをつけていけば、なんとかなるのではございませぬか。おそらく治部大輔さまを失ったことで駿府は混乱しているはず」
 酒井忠次が今だからこそいけると説明した。
「…………」
 しばらく松平元康が悩んだ。
めておこう」
「なぜでございましょう。混乱から立ち直ってしまえば、連れ出すのはかなり難しくなりまする」
 首を横に振った松平元康に酒井忠次が尋ねた。
「誕生を迎えたばかりの赤子と懐妊している瀬名をどうやって連れ出すのだ。馬には乗れぬ。輿では目立ちすぎる。歩いてだとすぐに追いつかれよう」
「わたくしが若君を抱えて、瀬名さまは誰ぞと馬に同乗いただければ」
 無理だと述べた松平元康に石川数正が身を乗り出した。
「あの瀬名が、おとなしく従うと思うか」
「……それは」
 言われて石川数正が詰まった。
 松平元康の供として駿府へ行った石川数正は、同じみやまえの人質屋敷に住んでいる。当然、瀬名との接触も多い。瀬名の今川一族だという矜持の高さや、松平の者を小者扱いする傲慢さを十分に理解していた。
「連れ出そうとしたら、大声で騒ぎたてるぞ」
「……では、せめて若君だけでも」
「うれしい申し出ではあるが、許さぬ」
 石川数正の発言を松平元康は拒否した。
「なぜでございまする。若君さまだけならば……」
「今はまだ時期ではない。竹千代を奪えば、今川との手切れとなる」
 人質を奪い返すのは、立派な敵対行動であった。
「織田がどう動くのかを見極めてからでなければ、今川と手切れをするのはまずい。織田に松平が孤立したと知らせることになる。喜んで織田は攻めてこよう。今はまだ今川と表立って敵対はできぬ」
 松平元康が苦く頰をゆがめた。
「…………」
「たしかに」
 石川数正と酒井忠次も難しい顔をした。
「なにより、そなたを危険にさらすわけにはいかぬ」
 身動きさえままならない赤子を連れての逃避は、普段に比べて厳しいものになる。思いきり馬を駆けさせると身体が上下に跳ね、抱きかかえている赤子に大きな衝撃を与えてしまう。となれば、馬のはやさを抑えることになり、石川数正が追撃されることになりかねなかった。
「殿っ」
 石川数正が感極まった。
「では、任せる」
「はっ」
「御免」
 松平元康が二人を下がらせた。
「助四郎を使い潰せば、西三河が敵に回る。瀬名はもちろん、息子などと引き換えにはできぬ。それに人質というが、余とは違う。駿府に居たときの余には七人の家臣しか味方はいなかった。比して、瀬名は駿府が実家じゃ。親もおる、家付きの家臣、女中もな。竹千代もそうじゃ。治部大輔の血を引いている。言わば、親戚の家に預けているようなもの。あのような状況で、人質など、片腹痛いわ」
 一人になった松平元康が独りごちた。

   四

 正室と息子を切り捨てるとの決断も難しい。やれば、今川からの独立を天下に知らせられるが、同時に情のない武将として今後の同盟などに悪影響が出る。
 平気で人質を見捨てられる武将を信用できるはずはない。
 松平元康はじっとときを待った。もちろん、岡崎城に籠もっていただけではなかった。かつては松平の被官であったが、今川に鞍替えした者を説得したり、軍勢で囲んで降伏させたり、着々と足下を固めていた。
「水野しもつけのかみさまからのご使者でございまする」
「……水野どのからの……通せ」
 近習の意外な報告に松平元康が応じた。
 水野下野守のぶもとは知多半島を領する国人領主である。松平家と境界を接する関係も有り、古くからつきあいがあった。しかし、水野信元が今川家を見限り、織田家へ付いて以来、絶縁状態となっていた。
「ご無沙汰をいたしておりまする」
 使者が座敷の下座で手を突いた。
「ご苦労である。伯父御はご健勝か」
「かたじけないお言葉。主は壮健でおりまする」
 松平元康の気遣いに使者が感謝した。
 水野信元の妹だいが、松平元康の実母であり、つまり二人は血の繫がった伯父甥の関係であった。
「それはちようじようである」
 松平元康が喜んだ。
「で、本日は何用か」
「松平蔵人佐さまと織田上総介さまの仲立ちをいたしたいと主が申しておりまする」
 使者が告げた。
「余に織田へ降れと」
 聞いた松平元康が険しい顔になった。
「いいえ。これは上総介さまからもちかけられたお話だそうで、蔵人佐さまと同盟をとのことでございまする」
「織田家と対等の同盟……」
「なんでも上総介さまと蔵人佐さまはご面識がお有りとか」
 げんな顔をしている松平元康に使者が述べた。
「ある。童のころの話だが……」
 松平元康が認めた。
「……そうか。上総介どのが」
 懐かしむように松平元康が目をつむった。
「いかがでございましょう。蔵人佐さまのお身のことは、主下野守が保障いたしまする」
 使者が訊いた。
「わかった。上総介どのと会ってみよう。同盟を結ぶかどうかは、その結果とさせていただこう」
 松平元康が決断した。

 今川氏真は焦っていた。
 織田信長と松平元康が手を結んだとの報が、駿府に聞こえてきた。今までも松平元康の動きは不審であったが、決別の通告もなく、ただ今後をおもんぱかって様子を見ているととれなくもなかった。
 それが今川義元の仇と手を結んだ。これは今川家からの独立を表すだけではなく、あきらかな敵対行為と言えた。
「松平に続く者が出るのではないか」
 今まで配下だった者たちの去就を今川氏真は信じられなくなった。
「人質を出せ」
 すでに人質を取っているにもかかわらず、今川氏真はさらなる追加を三河の諸将に求めた。
「当主だけでなく、宿老もだ」
 今川家の要求はさらに酷くなった。
 国人でも大名でも、当主だけでなり立っているものではなく、家臣たちをまとめる宿老たちの手助けが要った。
 当然、宿老たちの力も強くなり、当主が命じようとも宿老が従わなければ、戦などはできなかった。
「ふざけたことを」
 だが、これは悪手であった。さらなる人質を求められた三河の領主たちは反発、今川家へはんを翻す者が出た。
「手ぎれいたす」
 永禄四年七月、今川から離反し、松平家の傘下に入ると東三河の国人すがぬまさだみつが宣言をした。
「従来の恩を忘れたきんじゆうめ」
 その報を聞いた今川氏真は激怒した。
「人質を成敗いたせ。他の者への見せしめとするのじゃ」
「……わかりましてございまする」
 今川氏真の命に小原鎮実がうなずいた。
 当主の言葉だというのもあるが、ここで甘い対応を見せることは菅沼定盈に続く者を生みだしかねなかった。
 小原鎮実は菅沼家から出されていた正室と弟を含む人質を殺した。
「おのれっ」
 それがより東三河の国人たちを頑なにしてしまった。そして、そのほとんどが織田と同盟し、背後の憂いを断った松平家へと鞍替えした。
 今や三河は松平家のものといっていいほど、今川の影響力は弱まった。
 当然、三河に近い西遠江の国人も靡き始める。
 寄らば大樹の陰。これこそ、戦国乱世で独立を維持できるほどの勢力を持たない国人、土豪、しようみようの座右の銘なのだ。
 落ち目の今川より、旭日とまではいかなくとも上り調子の松平。どちらを取るかなど自明の理ではあるが、松平には弱小の過去があり、今川には強者としての歴史がある。さすがに遠江すべてが松平を頼るほどではないが、将来を見こしての布石代わりにとよしみを通じる者は多い。
 さらに松平元康は今川氏真の神経を逆なでした。
「これより元康をあらため、いえやすと名乗る」
 織田との同盟が決まった後、松平元康が宣言した。
 松平元康は元服のとき、今川義元からもらったいみなを替えた。主君の名前の一文字をもらうことを偏諱といい、よほど家柄あるいは功績がなければ許されないほどの名誉であり、これを替えるというのは、今川家との絶縁を示す。
「無礼者めが。松平を滅ぼせ」
 今川氏真が怒りを爆発させた。
 とはいえ、今川、ほうじよう、武田の間で結ばれていた同盟も危なくなってきている。とくに領土に海を持たない武田家は、駿河湾という良海を懐に抱える駿河国を、喉から手が出るほどの思いで欲していた。
 しかし、劣えたとはいえ今川家の勢威もまだ強い。さらにこうしゆうから駿河への道は、険しい山越えになり、大軍を一気に送りこむのは難しい。それゆえに現実化していないだけで、駿府から兵が減れば武田は襲ってくる。
 やまあいに盆地があるだけで、耕作可能な土地は少なく、大雨などの天災も多い甲州は物成りが悪い。鉱山はあるが、いつれるかわからない。となれば、他の国から奪うしか生きていく方法はないのだ。
 甲州の兵が強いのは、徴兵される百姓でさえ、略奪をしないと飢えるとわかっているからであり、戦になれば今川に勝ち目はなかった。
「今はとても」
 小原鎮実が今川氏真を宥めた。
「蔵人佐をここへ連れて来い」
 今川氏真の怒りはより増した。それだけ松平元康のやったことは厳しいものであった。
「松平勢、襲来」
 そこに松平元康が東三河のうし城へ襲いかかった。
 牛久保城は、桶狭間の合戦以降も今川家に属しているまき党と呼ばれる国人の集団の居城である。何度か松平家康は攻略を試みたが、牧野党の団結ととよかわを守りの要としている牛久保城の堅さに失敗を重ねていた。
 その松平家康がまたも牛久保城を襲った。牛久保城を失えば、三河における今川の最重要拠点よし城も危うくなる。
「兵を出す」
 これ以上三河における影響力を落とすことはできない今川は、当主氏真みずからが軍勢を率いて救援に出向いた。
「松平の砦など、がいしゆう一触じゃ」
 駿府と遠江から集めた兵二万で、今川氏真は松平家が牛久保城への抑えとして造ったいちのみやの砦を囲んだ。
 一宮の砦は松平家康が駿府で人質になっているときに供をした一人のほんのぶとしが、五百の兵とともに籠もっていた。
「見殺しにはできぬ」
 松平家康は、ほぼ全軍に近い五千の兵をもって出陣、今川氏真本陣ではなく、その後詰めとして控えていた氏真の祖父である武田のぶとらを急襲、蹴散らした。
「後詰めが崩壊」
 砦を囲んでいる今川氏真にしてみれば、挟み撃ちを受けた形になる。前に砦の勢、後ろに松平家康の軍勢、これが初陣であった今川氏真は大いに慌てた。
「一度退けっ。態勢を整える」
 今川氏真は戦わずして撤退した。
「情けなし」
 これが今川の値打ちをさらに下げた。
 といったところで、松平もそれ以上の追撃をするだけの力はなかった。
 織田信長と対等な同盟をしたことで舞いあがった松平家康は、国内のいつこうしゆうに対し、強硬な態度に出ていたのだ。
「守護不介入である」
 一向宗が過去に得た寺域、その荘園に守護はなんの手出しもしないという特権を松平家康は破った。
「松平家に仏罰を」
 領地内の一向宗が不穏になっている。なかには一揆を起こしたところもあるため、あまり無理をするわけにもいかなかった。
 松平家康は敗走する今川軍を見送るしかなかった。
なにとぞ、ご家中にお加えいただきたく」
 しかし、松平と今川の直接対決に勝利したには違いない。
 少なくない遠江の国人たちが、岡崎へ伺候して、松平家の勢威は大いに上がった。

▶#4へつづく
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