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【連載小説】元康の嫡男・竹千代は、父の不在の理由を乳母に問いかける。後の天下人・徳川家康の嫡男が辿る運命は――。上田秀人「継ぐ者」#4

※本記事は連載小説です。

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   五

「……どうなるのであろう」
 瀬名が不安そうな顔で呟いた。いかに屋敷のうちに閉じこめられているとはいえ、うわさは耳に届く。屋敷に出入りしているもの売りや、所用で出かけた小者、女中が話を屋敷へと持ちこんでくる。
城陥落、いながき半六郎うじとしどのお討ち死に」
 永禄五年六月、今川氏真が一宮の砦を攻め切れずにあきらめてから四カ月、東三河の拠点の一つ、野田城が松平家に鞍替えした菅沼定盈によって攻略されてしまった。
「妾たちは……」
 瀬名が手元で夜具にくるまる幼子を見た。
 松平元康が桶狭間へ出陣する前にはらんでいた瀬名は、その直後女の子を出産していた。
かめという名前だけ寄こしおって」
 それを報せても、夫松平元康からはただ一文字書かれた手紙が届いただけで、瀬名の産後を気遣ったり、竹千代の成長ぶりを問う文言などはいっさいなかった。
「他の女が子を孕んだのではなかろうな」
 松平家康の側に別の女がはべっている姿を想い、瀬名が眉間にしわを寄せた。
 いまだ瀬名とその子供たちに命じられた禁足は解けていない。どころか、今川家の威勢が落ちるがほどに風当たりはますます強くなっていった。
 瀬名たちが駿府を捨て、岡崎へ逃げ出さないように見張りも厳重になり、人も増えている。屋敷に仕えている奉公人も入れ替わりが激しく、昔からの者は竹千代の乳母をはじめ、瀬名の実家である関口家から連れてきた連中だけになっていた。
「新しく来た者は、信用がおけぬ」
 長く仕えた者と入れ替わりに送りこまれてきた小者や女中は、いつも瀬名と竹千代、そして亀を見張っているように見える。とくに竹千代を気にしているようで、庭に降りただけでも、数人で取り囲むようにして屋敷へと戻している。
「逃げなどせぬものを」
 今川家が向けてくる疑念を瀬名は情けない思いで受け取っていた。だが、それも無理のないものだと理解はしていた。
「三河のほとんどは松平に靡いた」
「遠江の国人の一部が松平と誼を通じている」
 日々、駿府を駆ける風評は大きくなっている。
「人質を取り返そうと軍勢を出すというぞ」
「すでに人が駿府へ忍んでいるのではないか」
「そういえば、関口ぎようしようゆうどのも怪しい」
「娘婿を説得できぬのはおかしい」
「関口刑部少輔どのが娘と孫を連れて三河に走ると聞いた」
 疑心暗鬼になると、人というのは本質を見失う。
 瀬名の父関口刑部少輔ちかながは、今川の一門瀬名家の出で、駿河もちぶね城主で関口家の養子に入った。妻として今川義元の妹を与えられるほど信頼もされており、桶狭間の合戦以降傾きかけた今川の屋台骨を支えるために奔走している。まさに忠臣中の忠臣といえた。
 その関口親永が松平元康と通じているとの疑いを受けた。
「なにを馬鹿なことを」
 噂を聞いた瀬名があきれるほどの愚かなものであったが、落ち目になり猜疑心だけが募っていく今川氏真には真実に思えた。
「刑部少輔、弁明できるならばしてみせよ」
「ないものは、ないとしか申せませぬ」
 通じているとの証拠は出せる。手紙の遣り取りなどを出せばすむが、逆は難しい。なにもないだけに見せるものもない。そして、人はないことの証明を言葉以外ではできないのだ。
「ええい、刑部少輔め。はっきりとできぬとは」
 頭に血がのぼった今川氏真はついに決断を下した。
「切腹を命じる」
「なんとも無体なお仕打ち」
 今川氏真の裁断を受けた関口親永が落涙した。
「いや、お家が滅びるのを見ずにすむと思えば、今死ぬほうがましかも知れぬ。治部大輔に泉下で力及ばずを詫びようぞ」
 冤罪での切腹とはいえ、主命には従わなければならなかった。もちろん、今川氏真を見限って逐電するという手も使えるが、譜代の家臣としてはそれもしにくい。すれば、まちがいなく国人領主たちに雪崩を起こすことになる。
「あの関口刑部少輔どのまで逃げた。もう、今川は駄目だ」
 今川という名門にとどめを刺す。それだけはできないのが譜代であった。
「…………」
 関口刑部少輔は文句も言わず、妻を刺し殺したあと切腹した。
「蔵人佐などに妹をくれてやらねば……」
 長男、次男は松平元康への恨みを残して自害した。
「なぜじゃ、なぜじゃあ。関口は譜代のなかの譜代であろう。なぜ上総介さまはこのような酷い仕打ちを」
 家が断絶したことを知って瀬名が惑乱した。
「母上さま……」
 四歳になったばかりの竹千代には事情が飲みこめなかった。
「ええい、どこかへ連れて行きや。あの男の血を引く者の顔は見たくない」
 瀬名が手を振った。
「若君さま、こちらへ」
 乳母が亀姫を抱き、竹千代の手を引いて、瀬名のもとから離れた。
「どういうことじゃ」
 手を引かれて別室へ入った竹千代が乳母に訊いた。
「…………」
 乳母が黙った。
 今、宮ノ前の人質屋敷に松平家の者はいなかった。松平元康が駿府へ来るとき供をしてきた七人の家臣たちは、あの桶狭間へと出陣し、戻っては来ていない。さすがに小者の何人かは残っていたが、松平元康が今川と縁切りをしたときに暇を出されている。
 乳母を含めて宮ノ前の人質屋敷にいるのは皆、関口家から出された者ばかりであった。
せん
 竹千代が乳母を揺さぶった。
「まだ若君さまにはお早いお話でございまする」
 千と呼ばれた乳母が、ごまかそうとした。
「では、いつになったらよいのじゃ」
 竹千代が千に問うた。
「もう少し、大きくなられたら……」
「…………」
 千がごまかしているというのは、子供心にもわかる。竹千代はじっと千を見つめた。
「おわかりになり……」
 同じことを繰り返そうとした千が途中で口をつぐんだ。
「竹千代にはなぜ父上がおらぬ」
「それはっ……」
「ときどき、従者どもが竹千代に裏切り者の子と言う。裏切り者とはなんじゃ」
 詰まった千に竹千代が続けた。
「そなたが教えてくれぬならば、他の者に尋ねる」
 竹千代が千の手を振りほどいた。
「お待ちを」
 千が慌てて止めた。
 関口家から来ている者たちは、竹千代に複雑な想いを抱いていた。主家を滅ぼした原因である松平家康の血を引く竹千代は憎むべき相手であり、同時に主家の姫が産んだ血筋でもある。
 しかし、今川家から監視役として送りこまれた警固の武士や小者、女中は違う。少し前までならば竹千代は譜代の家臣関口家の一門と見られていた。だが、その関口家が謀叛を疑われて滅ぼされた今、竹千代に遠慮する意味はなくなっている。
 それこそ、まだ幼い竹千代にどれだけの悪意をぶつけてくるかわからない。
 なにせ、関口親永が切腹させられた今、瀬名と竹千代、亀の三人を庇護する者はいなくなった。
 三人が生かされているのは、ただ松平家康への牽制のためである。
「妻子がかわいければ、駿府へ来い」
 何度か今川氏真は松平家康へ要求を出しているが、返事さえまともに返って来ていない。
 つまりは人質としての価値を認めていないと、松平家康は暗に言っているのだ。
 だからといって、松平憎しと人質を殺せば、歯止めがなくなる。
「女子供を殺すとは、非道なり」
 確実に声高な非難を天下へ向けて発するであろうし、それを大義名分として遠江への侵略にも繫がる。
「非道な今川を討つ」
 こう旗印をあげられては、国人領主たちも抵抗しにくくなる。
「今川に与するとは、きさまも非道な者であるな」
 これが今川の勢いがあるときならば、無視できる。松平家康の大義名分などより、今川の力が重いからだ。
 しかし、今川の力が衰えたとなっては、それこそ遠江の国人たちが離れていく理由になりかねない。
「今川の非道、見過ごせぬ。ちゆうすべし」
 なによりまずいのが、武田家に今川侵略の口実を与えてしまうことであった。
 瀬名、そしてその子供二人に手を出せない。そこへ松平家の躍進の話が聞こえてくる。
 駿府にいる者は皆、松平家を嫌っていた。
 そんなところに竹千代が、感情を逆なでするような質問をするのはまずかった。
「わかりましてございまする」
 ため息を吐きながら、千が折れた。
 千とて松平家康に思うところは多々あった。もともと関口家から瀬名の輿入れに付いてきた千は、本来竹千代の乳母ではなかった。乳母というのは、産後の肥立ちで疲弊している奥方に代わって、乳を与えるのが役目になる。当然、乳が出なければ話にならず、竹千代本来の乳母は、瀬名の出産より少しだけ早く子を産んだ関口の家中から選ばれていた。
 その乳母は竹千代に乳が不要になった途端、関口へと帰ってしまった。
 そこで、瀬名の輿入れに付き添うほど信頼されていた千が、竹千代の扶育役に任じられ、早三年が経とうとしていた。
 三年という年月は短いようで長い。もともと松平家康との関係がよくなく、子供さえ産めばいいのだろうと考えていた瀬名は、竹千代の世話をしたがらない。大名の家中ではどこでも親は子の面倒を見ず、家臣に預けるのは当たり前の行為であり、非難されるほどのものではなかった。
 こうすることで大名の親子は情を交わさず、いつでも互いを切り捨てられるようになる。一所懸命との言い回しがあるように、武士にとっては領地こそなによりも大事なものであり、肉親はその次でしかないのだ。
 そのぶん、乳母や扶育役が、子供の世話を見る。
 なにより千は、立った、歩いた、しゃべったと竹千代の成長を目の当たりにしてきたのだ。
 千にとって竹千代はまさに吾が子であった。
「ことは今から二年前の永禄三年……」
 子供にもわかるように千が語った。
「…………」
 じっと瞬きさえせず、竹千代は聞いた。
「若さま……」
 話を終えても動こうとしない竹千代を千が気遣った。
「……父上さまのことはおぼろげじゃ。馬に乗って出ていった後ろ姿しか覚えておらぬ」
 四歳とは思えぬしっかりとした口調で、竹千代が述べた。
「さようでございました」
 千も思い出した。
 桶狭間の合戦に出陣する今川義元率いる本軍ではなく、松平家康はその前日に米を山のように積んだ荷車を率いて駿府を出た。
 華々しい見送りも歓声もなく、ただ黙々と進む松平勢の背中は、寂しいものであった。
「竹千代は、父上さまの顔を覚えておらぬ」
「…………」
 淋しそうに涙ぐむ竹千代を、千は黙って抱きしめた。

つづく

(このつづきは「小説 野性時代」2021年3月号でお楽しみください)


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