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【連載小説】織田信長を倒すべく、大軍を率いて駿府を発つ今川義元だったが――。歴史時代小説の名手が徳川家の謎に迫る、待望の長編連載スタート! 上田秀人「継ぐ者」#1

※本記事は連載小説です。

第一章 急転の日

   一

 駿すんは大いなる歓声で揺れていた。
ぶの大輔だゆうさまのご出陣じゃ」
「お輿こしのうえにおられるぞ」
「なんとしきお姿じゃ」
 駿府館を出た軍勢を取り囲むように集まっていた民衆が、いまがわ治部大輔よしもとの姿を拝み始めた。
「治部大輔さまが、わりのうつけを滅ぼされるためのご出陣である。皆の者、吉報を楽しみにしておれ」
 行列の先導役といった位置で騎乗していた部将が大声をあげた。
もんのすけさまじゃ」
 興奮した民衆が手を振った。
 いかに駿府が海道一の城下といえども、数万の軍勢が馬揃えできるほどではない。今、民衆の前を堂々と進んでいるのは、今川義元の本隊と先導役となる瀬名うじとしの軍、合わせて八千ほどであった。
 残りの一万数千は、城外で本隊と合流するか、役割を与えられて先発している。
 それでも八千という数は、戦などを見たこともない城下町の民衆にしてみれば、頼もしい限りであった。
「…………」
 そんな喧噪の間近にありながら、門を閉じてひっそりとした屋敷があった。
「奥方さま、お見送りをなさらずとも」
 女中が座敷に籠もっている若いによしようへと問いかけた。
「どの顔で養父にお目もじすると申すのかえ」
 若い女性が女中を見た。
「それは……」
 女中が詰まった。
わらわの夫は、本軍に加えられなかっただけでなく、戦う者としての扱いも受けておらぬのぞ。米を運ぶだけの役目なぞ、武者のすることではなかろう」
「奥方さま」
「お館さまの姪としてせきぐちの家に生まれながら、ご一門でもなく、ご譜代の衆でもない人質ごときに嫁がされ……この瀬名は情けのうてたまらぬぞ」
 瀬名と名乗った若い女性が袖を顔にあてた。
「せめてたびの戦で先陣を承るとか、本陣のお側に置いていただくとかにてあれば、まだ妾の面目も立ったろうが……お館さまもあまりじゃ。荷車を引くくらいならば、そのあたりのもので十分。そうであろうが」
「…………」
 愚痴をかれた女中が黙った。
「あな恥ずかしや」
 瀬名が崩れた。
「……たけ、そなたも哀れじゃの。父があれでは、今川で重きはなせまい」
 崩れた姿勢のまま、瀬名が手を伸ばして寝ている吾が子に触れた。
「……うっ」
 不意に瀬名が背筋を伸ばした。
「いかがなされました」
 女中が異変に気づいた。
「は、腹が痛むぞえ」
 瀬名が着物の上からでもわかる大きなお腹に手をそえた。
「お生まれに……」
「わからぬ。竹千代のときほどではないが……」
 問われた瀬名が眉間にしわを寄せた。
「産婆を呼んで参りまする」
「そうせよ」
 慌てた女中に瀬名がうなずいた。

 さいわい、産婆を呼んだ意味もなく、瀬名は落ち着いたが、駿府の城下は激しい動揺に見舞われた。
との戦いで、我が方敗北。お館さま、お討ち死に」
 永禄三年(一五六〇)五月十九日の昼過ぎ、馬を乗り潰さんばかりの必死さで伝令が城下へ駆けこんできた。
「馬鹿なっ」
「そのようなことはありえぬ。織田は出せて五千ぞ。それが二万の我が方にかなうわけなどなかろう」
 当初誰も信じなかった。
 だが、夕暮れに近づくにつれて、逃げ帰ってくる将と兵が増え、ついに真実だと信じるしかなくなった。
「……そのような」
 女中から敗戦を知らされた瀬名が愕然とした。
「まことにお館さまが……」
えないご最期であったと」
 確認する瀬名に女中が告げた。
「父は、父上さまはご無事か」
「まだしらせが参っておりませぬ」
 詰め寄る瀬名に、女中が首を左右に振った。
「……ああ」
 瀬名がうつむいた。
「……夫は、くらんどのすけはどうしておる」
 すっと顔をあげた瀬名が、険しい声で問うた。
「それも……」
 委細はわからないと、ふたたび女中が首を横に振った。
 わずか十日ほど前、きらびやかな軍装を輝かせて、西へと向かった今川軍の姿は記憶に新しい。
 日の光を浴びて輝く槍先、朱塗りで揃えられた見事な弓、精悍な将兵、いななく軍馬、どれもが必勝を約束していた。
 駿府館に届くのは、織田かずさのすけのぶながを討ち取り、尾張を手に入れたとの吉報のはずだったのが、考えてもみなかった悲報であった。
「なぜじゃ」
 すやすやと寝ている竹千代を見ながら、瀬名が呆然とした。
「こういうときに駆けつけてこその、夫であろうが。いったいなにをしておるのじゃ」
 瀬名がまつだいらもとやすを罵った。

 今川義元の死で駿府は意気消沈していた。
「…………」
 三々五々戻って来る出陣した将兵も、尾羽うち枯らした状態で顔をあげることもなく、そそくさとを避けるようにして、己の屋敷に消えていく。
「急げっ。たけが攻めてくるかも知れぬ」
 なかには駿府を捨てて、所領へ帰っていく者も出だした。
「父の弔い合戦をせねばならぬ」
 今川上総介うじざねが、一人気炎を吐いた。
「その時期ではございませぬ」
 側近が今川氏真を抑えた。
「当主の命が聞けぬと申すか」
 今川氏真が憤った。
 織田を滅ぼすと決めた今川義元は、当主の座を氏真に譲っていた。これは、本国というべき駿するとおとうみかわを息子に渡し、自身は織田信長を滅ぼした後の尾張を支配し、おうと手を伸ばして、京へいずれは旗を立てたいとの考えからであった。
 とはいえ、初陣もまだな今川氏真に、当主としての権威はなく、今回のことでも十分な対応を取れてはいなかった。
「そうではございませぬ。今は、まず国をまとめることを優先なさるべきかと」
 側近がなだめた。
 おけはざの合戦の痛手は、まだはっきりとはしていなかった。
 大軍になるほど、その動静の把握に手間がかかるうえ、今回は大将が討ち取られるという前代未聞の大失態である。
 もともと本陣へ敵がいきなり襲いかかることはできないはずであった。本陣よりも先に進む先鋒が絶えず見張りを出し、行軍経路の安全を確認する。万一、敵影を確認したら連絡と同時に、攻撃に入るか、本陣と合流しての迎撃にするか、適切な選択をおこなう。
 だが、今回はそうならなかった。
 織田の国境を守るわしまるなかじまとりでを撃破した今川軍の別働隊から届けられた敵方部将の首実検をかねたひるの休息を取っていた本陣へ、大きく迂回して先陣を避けた織田信長の軍勢が襲いかかり、混乱に陥った今川本陣は総大将義元を守りきれず、崩壊してしまった。
 先陣、後備え、別働隊と軍勢のほとんどは無事な状態でありながら、敗戦を迎えた。これが決戦などで、全軍によるものならば、負けは納得できる。目の前で総大将を討ち取られたならば、あきらめもつく。
 だが、織田方の砦を襲っている別働隊は、勝ち続けている。先鋒軍は戦いをすることなく無事、そして崩壊した本陣は恐慌に陥り、味方へ状況を報せる余裕さえない。結果、本隊の崩壊を知らずに、敵地に取り残された。今川は勝っていると信じ、前進を続ける別働隊もある。
 援軍なしで進んだ別働隊は、勝ちにのっている織田方の攻撃を受けて壊滅した。
 今川は前当主義元だけでなく、有力な部将のみまさかのかみまさのぶいちのみやむねこれまつ左衛門佐むねのぶしなののかみなおもりこんどうかげはるらが戦死、駿府へ戻ることなく逃散した将兵も多い。
 最盛期、三万以上の軍勢を用意できた今川は、現在一万も危うくなっていた。
「父を討たれたまま織田を放置していては、今川の武名に傷が付くであろうが」
 今川氏真は納得していなかった。
「落ち着かれませ」
 満身そうとまでは言わないが、全身に傷を負ったはら美作守もとまさの制止も今川氏真には通じなかった。
「なぜ、そなたは生きている。美作守」
 より怒りを強くした今川氏真が庵原元政をにらみつけた。
 駿河庵原城主、庵原元政はその名前からわかるように今川義元からへんを受けるほど信頼されていた。今回の進軍でも今川義元の本軍に参加していた。とはいえ、庵原城は武田との国境に近いさつとうげやくする要害であるため、あるていどの兵を残さざるをえず、庵原元政は、わずかな兵数しか伴えなかった。
「治部大輔さまをお救いできなかったこと、いえ、お守りできなかったこと、まことに無念で申しわけございませぬ」
 責められた庵原元政がこうべを垂れた。
「腹を切れ、恥を知るならば」
 今川氏真がげつこうした。
「お館さま」
 側近のはらぜんのかみしずざねが今川氏真をなだめた。
「黙れっ……肥前」
 今川氏真の怒りは収まらなかった。
「自ら死ねぬというならば、余が殺してくれるわ」
 ついに今川氏真が座を蹴って、太刀に手を伸ばした。
「お鎮まりを。美作守どの、今はお下がりなされ」
 小原鎮実が今川氏真の手を押さえながら、庵原元政を促した。
「……すまぬ」
 庵原元政が小原鎮実に謝して、座敷を出ていった。
「肥前、放せ。放さぬか」
「殿、今はまず兵をまとめるところから始めなければなりませぬ」
 その背中を追おうとする今川氏真だったが、小原鎮実によって止められた。
「…………」
 寵臣と二人きりになったことで、今川氏真が落ち着いた。
「勝敗は武家の倣い。治部大輔さまのことは無念でございまするが、それを家臣のせいにしてはなりませぬ」
「左衛門佐も許せというか。先陣を承っておりながら、織田の軍勢に気づかなかったのだぞ」
 今川氏真が、先陣の五千を率いていた瀬名左衛門佐氏俊に怒りをぶつけた。
「罪がないとは申しませぬが、すぐにとがめだてるべきではございませぬ。今は家中の動揺を抑え、今川揺るがじを見せつけるべきかと」
「…………」
 理のある小原鎮実の説得に、今川氏真が黙った。
「我慢か。父を殺されても仇さえ討てぬとは……」
「ご心中お察しいたしまする」
 うなだれた今川氏真を小原鎮実が慰めた。

▶#2へつづく
◎全文は「小説 野性時代」2021年2月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第207号 2021年2月号


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