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試し読み

【試し読み】あなたが知る「小説」の概念を覆す! 本格ミステリ作家・似鳥 鶏が挑んだ超実験的エンターテインメント『小説の小説』より「まえがき」「立体的な薮」を全文特別公開!

「小説」の決まりごとを逆手にとった、ルール無用のメタ・フィクション!
本格ミステリ作家・似鳥 鶏さんの新境地として話題を呼んだ『小説の小説』が、2025年9月22日(月)ついに文庫化!

刊行を記念して、本作の「まえがき」と、注釈芸の限界に挑む短編「立体的な薮」を全文特別公開します。無限に広がる「小説」の可能性を、どうぞお楽しみください!

似鳥 鶏『小説の小説』試し読み


立体的な藪


 どんな個性的な人間でも非常時に見せる振る舞いは平凡である。こうぼうが「死にぎわに、個性なんぞが、何んの役に立つ」と書いていたが(*1)、別に死に際でなくとも、とつに出る反応というだけでもう平凡になる。これは当然である。人間の「個性」というものは自我を持ち社会生活を営む中で他人と比べ試行錯誤しながら育つ作為的なものであって、まだ何も経験していないうちから他人と全く違うような「個性」を持っていたら聖人か化物である。したがって未経験の事態においては「個性」などまず出ないし、非常の事態において「個性」など出そうとする奴は、よほど異常事態に慣れたようへいか工作員、でなければ正真正銘の「変人」である。

*1 『砂の女』(1962年/新潮社)

 となれば、聖人でも変人でもないこの名探偵が死体を見て「うわ」という何の面白みもない第一声をあげたからといって、責めることはできないだろう。確かに名探偵は名探偵であるから、これまでかなりの数の殺人事件に遭遇してきたし、そのすべての真相を明らかにしてきた。首がない死体もあったし、バラバラ死体もあったし、両手両脚をつけ根から切断されて代わりに馬の四肢を接合された死体とか、腹をくり抜かれ引きずり出された腸の束で首をっていた死体もあった。それらに比べれば、側頭部から血を流しているだけのこの死体はかなりれいなものであったし、名探偵も一瞬後には落ち着き、見てきた死体の平均値と比較して「このくらいならうまくやれば生き返るのではないか、とか考えてしまうなあ」と、ややのんびりした感想すら抱いた。だがもちろんそんなことは口には出さないし、すでに冷たくなっているものをせいさせることもできない。名探偵はせきばらいした。
「どうですか」
「死んでますか」
「見ての通り」
 名探偵は後ろからこわごわのぞき込むあかしらとりに答え、答えながら心の内で嘆息した。人里離れた宿。シーズンオフの今なら誰もいないだろうと思って来たのに、結局死体に出くわしてしまった。名探偵は名探偵ゆえ、十代の頃から、偶然、殺人事件に出くわすことが多かった。彼ももういい歳であり、「ひょっとして自分が来たせいでこの事件が起こってしまったのではないか」と悩む時期は二十代前半に済ませてしまっている。現在の彼の考えは「人は死ぬものだ」「人の生死を左右するほどの力がいち個人にあるはずがない」だったのだが、それでもゆううつは憂鬱である。警察の対応次第ではまた数日拘束されるし、自分のことを知らない警察官が担当になった場合、ひと通りの嫌疑もかけられるだろう。私服制服問わず、警察が敵に回った時のプレッシャーは、どんなに慣れてもやはり胃と肩にくる。
 後ろの二名は当然のことながら、死体には慣れていない。彼らはすべてを名探偵に任せて「壁の花」になっていたいという思いのはずだが、今この場ではそうはいかない。この宿には彼ら三人しかいないはずであるし、今から警察を呼んだとして、こんなへんな場所までパトカーが到着するには一時間半はかかるだろう。しかも困ったことに。名探偵は携帯を出す。
「圏外ですね」
「あ、食堂なら」赤木はかんしやく持ちの上司に進言するかのようにあたふたと振り返る。「時々切れますが、なんとか通じます。どうもこの宿、電波が入るのは食堂だけみたいで」
「では赤木さんは」名探偵は言い直した。「いえ白鳥さんも。お二人で一一〇番をお願いできますか」
 赤木一人では動転してうまく話せないかもしれない。赤木自身もそれを理解し、白鳥の方に「つっかえたら代わってくださいね」「こっちに全任せしないでくださいね」という意味の目配せをしつつ食堂に出た。白鳥はとりあえず死体から離れる理由ができてほっとしている。名探偵の素性はこの二人も知っているから、死体と二人きりにしたところで妙な偽装をするようなことはない、と信用している部分もあった。
 そう、偽装である。
 名探偵はすでに仕事の顔をしていた。いかな名探偵であっても、死体を見るたびに仕事を始めるわけではない。明らかな事故死、病死、他殺であっても犯人が明らかな場合は警察に任せて現場保存をするにとどめる。だが横向きで床板の上に倒れているこの死体はそうはいかなかった。死因はどうやら頭部ざしようによるがい内出血といったところで間違いない。死亡推定時刻はおそらく昨夜、広めにみても午後十時半頃から深夜れい時半頃までの間だろう。だが、一見、転んで頭をぶつけたかのように見えるのに、どこにぶつけたのか分からない。死体の横にはローテーブルがあるが、死体からやや離れた壁際であり、ここにぶつけて倒れた、と考えるには明らかに位置が離れすぎている上に、この出血ならどこかについていなければならないはずのけつこんもない。犯人がいて、何かで被害者を殴り、そのまま凶器を持ち去ったのだろう、と名探偵は判断した。
 死んでいるのは赤木・白鳥と一緒にこの宿に宿泊していたくろという男である。この三人はウェブ上で知りあったバイク仲間で、お互い住所は近くないが、休日など、予定が合うと各々バイクで家を出てどこかで合流する、ということをよくしていた。宿で一緒に飲んで翌日ばらばらの目的地に旅立ったり、そのままグループツーリングに移行したりと様々だが、つきあいはそこそこ長く、お互いの結婚だの転勤だのを把握している程度には親しいらしい。だから赤木も白鳥も、黒田の突然の死に少なからずショックを受けているように「見える」。少なくとも名探偵の目には。
 そう。確かにそのように「見える」のだが、と名探偵は考え、死体の傍らにひざをつく。ドアは開いたままなので、食堂の方からは一一〇番をした赤木のしやべる声が聞こえてくる。
 状況からして、犯人は赤木か白鳥のどちらか、ということになる。なぜならこの宿、内装こそ綺麗にされているが人里離れたやまあいの小屋であり、こんな場所に外部の人間がタイミングよく来るわけがないからだ。夕方、名探偵が着いた時にはオーナーの男性もいたが、彼は一泊千五百円、毛布貸出一枚六百円の料金を受け取ったらさっさと家に帰ってしまった。要するに使っていない小屋に人を泊め、いくらかの現金を得ようというわけで、昔ながらの「管理者が常駐せず、宿泊者が勝手に泊まっていくタイプのライダーハウス(*2)」なのである。だから今、この場には名探偵の他、赤木たち二人しかいなかった。隣の家までかなりあるから、周囲三キロに人間は彼ら四人だけ、生きている人間は三人だけ、あとはせいぜいクマかタヌキだろう、と名探偵は考える。宿までは一本道だ。自分たち以外の人間がやってきた痕跡もない。
 明白だった。そしてこの黒田が殺されたというなら、犯人はここにいる赤木か白鳥のどちらかということになる。
 では、どちらなのか。

*2 主にツーリング中のライダーに向けて用意された簡易宿。食事なしの相部屋が基本で一種のユースホステルだが、ただ単に「所有者が空いた別棟を開放しているだけ」という雰囲気のところも多く、より簡易。宿泊料金も、安いところでは千円程度のこともある。

 名探偵は食堂に戻り、一一〇番通報を終えたらしい赤木と白鳥に話しかけた。「どうです」
「『すぐ向かうが、時間がかかる』そうです」赤木が答える。「『現場には入らないで』『ご遺体には触らないで』だそうです」
 隣の白鳥も名探偵に向かって「いいんですか」というニュアンスを含んだ視線を向けているので、名探偵は落ち着いて手を振った。これまで山ほど事件を経験してきて、現場のどこに触りどこを変えると鑑識が困るか、というポイントは把握していた。要はそこさえいじらなければいいのだ。若い頃は「現場には一切手を触れてはならない」などとしやくし定規におおづかみしていた。まあ新人はそのくらいでないと危ないのだが、はるか昔の話である。「現場はいじってませんよ。事件解決に必要な最低限の情報を取っただけです」
「事件」
「解決」
 赤木と白鳥は同時に反応し、一瞬の反発と直後にやってきた納得の二つで表情をちらつかせた。名探偵は昨夜、彼らと夕食を共にした際に素性を話している。目の前で殺人事件が起こり、しかも現場にはあと一時間半、自分たちしかいないと分かれば、名探偵がそう動くのも納得してもらえるだろう。
 名探偵は二人の心理を素早くとらえ、当然ですよね? という圧力で反発を押さえ込みながら、まずは赤木にいた。「昨夜……私が就寝した十時半から深夜零時半頃まで、どこで何をしていたか、お話しいただけますか」
「それは……」
「何か、話したくない事情がおありですか」
「いえ、そんな。しかし」
 うろたえる赤木に代わって白鳥が出てくる。「ちょっと待ってください。それって俺らが犯人じゃないかって疑ってるってことですか」
「そうです」名探偵はああ面倒臭い、と思い、それをそのまま態度に出して頭をく。「あくまで協力を拒否されるなら、その時点で限りなくクロに近いということになりますが」
「そんな。ひどい」
「やましいことがないならなんでわざわざ真相解明を拒むんです? では警察にはあなたの態度を伝え、たぶん犯人だろうって言っておきますね。私、警察には信用されてるんで」
 事実上の脅迫であるが、もう何十年も事件に関わっている名探偵は、そのあたりは気にしないことにしていた。確かに昔は名探偵も、相手の反感を買わないよう配慮して回りくどいやりとりをし、なるたけ穏便にアリバイを訊き出そうとしていた。だが数十年も事件に関わり続けているうちに実感した真実は「そんな手続きは無駄」だということだった。事件は日々起こっていて警察も人手不足だ。とっとと片付けるべきである。どうせ二度と会わない容疑者たちにどう思われようが何の問題もない。
「いえ、でも」赤木は手を振りながら後じさり、床板をぎしりと鳴らす。「でも私、その時間は携帯で地元の友達と喋ってました。ずっと。グループ通話で」
「なるほど。しかしグループ通話なら、ずっとあなたが喋っているわけではありませんね。というより喋りながら殺せる」
 赤木は名探偵の断言にますます慌てて床板を鳴らす。「いえ。だってほら。ここ、食堂以外は電波入りませんし。つないでる間は食堂から出られないじゃないですか」
 名探偵は食堂内を見回す。「そういえばそうですね」
 次は自分の番だ、と察していた白鳥は、名探偵に追及される前に急いで言った。「なら俺も無理ですよね? 現場、窓のかぎとか全部、閉まってましたよね。入るとすれば食堂からしかないわけで」
「それもそうですね」
 名探偵はまたうなずく。この宿は玄関入ってすぐの食堂を通り、三つほどある部屋に行く、という構造をしており、各部屋のドアは食堂につながる一つずつしかない(トイレは外にある)。その食堂にしても一般家庭のダイニングよりやや大きい程度で物が少なく、テーブルセットの他には壁際のテレビと、過去の宿泊者が置いていった漫画類の並ぶ本棚くらいしかない。ここで通話を続ける赤木に見つからず、黒田のいる部屋に入るのは不可能だった。
 つまり白鳥から見れば、現場は出入口のない密室である。では赤木の方はというと、死亡推定時間帯にはずっと食堂から出なかったということになり、アリバイが成立してしまう。他に容疑者がいないとなると、不可能犯罪になってしまうわけだ。名探偵はふむ、と頷く。赤木と白鳥もそのことを察したような顔でお互い頷きあっている。
 だがどちらかが犯人のはずだ。名探偵は少しも動揺しなかった。「赤木さん。一応、第一発見者はあなたですが」
「ああ、はい……一応」
「あの」白鳥が口を挟む。白鳥には、名探偵がなぜ訊き込みを続けるのか理解できなかった。「でも、俺も赤木さんも犯行、無理ですよね。つまり、いわゆる不可能犯罪なんじゃ」
「私はこれまで三百件くらい殺人事件に関わってきまして。その六割程度が『一見、不可能犯罪に見える』ものでしたが」あれ、もっと多かったかな、と名探偵は考える。おそらく三百六十か七十くらいであり、それならば「三百五十件くらい」と言うべきだったかもしれない。「その中で本当に不可能犯罪だったものは一件もありませんでした。それともこの事件だけが例外で、これまで百八十件中ゼロだった不可能犯罪の、記念すべき最初のケースだとでも?」
 白鳥は黙り、赤木は観念して説明を始めた。もっともその内容の大半は名探偵自身も知っていることである。第一発見者は赤木だが、直後に白鳥と名探偵も現場に踏み込んでいるのだ。死体発見はつい先程で、朝八時五分のことだった。白鳥と名探偵はそれぞれの部屋で支度をしていたが、黒田の部屋を開けた赤木が「うわあ」と大きな声をあげたためすぐに駆けつけた。宿内はわりと声が通る。駆けつけた白鳥と名探偵が見たのが、倒れている黒田と、その横で驚いてしりもちをついている赤木だった。
「死体発見時、何か気付いたことはありませんでしたか? たとえば、部屋に何かがいたり、妙なにおいがしたりといったような」
「いえ」赤木は即答しかけてからじっくりと記憶を辿たどり直し、やはり首を振った。「特に何も」
「では白鳥さん。殺された黒田さんは一人だけ、別の部屋で寝ていたわけですが」
「あ、はい。それは」白鳥は「殺された黒田さん」という言い方にびくりとしてから答えた。名探偵特有の配慮のなさといえるが、当人は無神経というより、早期解決のためにはそんな細かい配慮はどうでもいいと思っているのである。「……黒田、さんは。いびきがうるさいから、と。余分の部屋がある時はなるべく一人だけ別室になるようにしてたんです。そうでない時は最後に寝るようにしていた……のだと思います。今、思えば」
「なるほど」
 名探偵にも経験のある話だった。夜行バス、夜行列車、フェリーや宿の。鼾の騒音は、貧乏旅には必ずついてまわる問題である。説得力はあった。
 差し込む朝日で食堂の空気が暖まってきたようだ。失礼、と言い置いて、名探偵は再び現場である黒田の部屋に入る。ドアは開放したままである。現場でおかしなことをしない、という保証のためだが、同時に、食堂に残った二人におかしな相談をさせない、というけんせいでもある。
 だが名探偵が調べても、現場に不審な点は見つからなかった。凶器らしきものはない。氷か何かでナイフを作った、という事件も経験したが、今回の犯人は単に持ち去ったのだろう。そこはいい。問題は窓に細工の跡がない点だ。ドアには鍵がかかっていなかったものの、こちらは食堂に赤木がいたから使えない。あと人が出入りできるのは窓だけだが、二つある腰の高さの窓はどちらもクレセント錠がかかっている。向かって右の窓は開きにくく、錠周辺にの巣がついているのに対し、左側の窓はそうではなく、最近開けられた可能性がある。とはいえ、糸か何かを外に通して引っぱったような痕跡はない。
 だが窓を開けて外を見ると、名探偵は発見した。外はすぐ林で、地面も落ち葉で埋まっているため足跡はつかない。しかし、その落ち葉が一部、地面に密着してめり込んでいる。横から伸びた細い枝の中にも折れているものがある。誰かがここを通ったのだ。外を歩いた痕跡。あの林の中には何もないはずだ。窓から出入りしたのではない、とすれば。
 名探偵は携帯を出した。確かに、この部屋では電波は通じない。窓枠に足をかけて外に出る。足元の落ち葉がかさりと音をたてる。そのまま林を進んだ。建物が遠くなってくるまで進み、右に曲がって林から出る。鳥たちが朝のさえずりをまだ交わしていてにぎやかだ。ヤマガラ、アカゲラ、キビタキ。宿から離れすぎないようにしながら早足で周囲を一周した。そして立ち止まり、携帯を見る。
 電波は結局、一度も入らなかった。
「……なるほど。だとすれば」
 名探偵は頷き、宿に戻った。玄関から登場した探偵を、赤木と白鳥の視線が迎える。
 探偵は二人を見て言った。
「犯人が分かりました」

 食堂に座って、特にやることもないのでお茶を飲んでいた赤木と白鳥はきようがくした。ついさっき、不可能犯罪だと話したばかりではないか。だが名探偵にとってはいつものことだった。訊き込みと現場検証ののち解決。早くも遅くもない。
 赤木と白鳥が座ったままあつに取られて動けないのをこれ幸いと、名探偵は推理を話しだす。
「まず、この事件は不可能犯罪ではありません。ある簡単な方法で、一見不可能に見えた犯行を可能にできます」名探偵は赤木を見る。「赤木さん。犯人はあなたですね」
 あまりにあっさりと、ついでのように言われたため、赤木は当初、自分のことだと気付かなかった。
 名探偵はそれには特に構わずに推理を話す。
「一見、あなたにはアリバイがあるように見えます。死亡推定時間帯は昨夜十時半頃から深夜零時半頃まで。しかしあなたはその時間帯、ずっと携帯で、友人たちとグループ通話をしていた。私も先程確認しましたが、この宿の中、及び周辺で、携帯の電波が入るのは確かにこの食堂だけです。おそらく裏の林とこの建物自体が微妙に電波を邪魔している。携帯の電波が入るのは食堂だけだというなら、赤木さん。あなたはその時間帯、食堂を一歩も出ていないように思える。ですがそれがトリックでした」
 名探偵はよどみなく喋る。彼はこの手の長広舌に慣れきっていて、さりげない抑揚をつけながら立て板に水で続く推理の披露は美しく、熟練の講談師かNHK相撲中継の実況を思わせる職人芸的なものがあった。
「そもそもあなたの態度はおかしかった。あなたは言いましたよね。『食堂以外は電波入りませんし』」名探偵は赤木を指さす。「どうしてそう断言できたんですか? ここ以外は電波が入らない、という状況は、常識から考えればかなり特異なものです。それに本来、携帯の電波状況というのは不安定なものだ。入らないな、と思った場所でも、少し待てば改善されることが多い。どこは電波が入って、どこは入らないのか。かんぺきに把握することは通常、困難です。なのにあなたは言い切った。食堂以外は電波が入らない、と」
 赤木はまだ反応しない。白鳥は赤木を見ている。
「なぜ言い切ることができたのですか? しかも、あなたは私が疑いを向けた途端に、すぐそれを言った。まるであらかじめ、そう言おうと決めていたかのようです」
 そこで一拍空き、どうやら喋ってもいいらしいと察した赤木がすぐに反論する。「いや、でも。実際に電波は入らないわけで」
「今は入りません。ですが犯行時は入ったとしたら?」名探偵はすぐに反論を封じた。「簡単なトリックです。携帯電話などに使用できる『電波ブースター』つまり電波中継器はあなたもご存知ですよね(*3)? あれを宿の周囲に隠しておけば、本来、電波の入らない場所でも入るようになる。あなたは電波中継器を使い、電波が入る状態にした上で食堂を出たんです。どこでも電波が入るならどこにでも移動できる。ドアから入って黒田さんを殴り殺し、電波中継器をおそらく林の中にでも捨てて、何食わぬ顔で食堂に戻った。林の方角に、何かの通った痕跡がありましたしね」

*3 携帯電話電波中継器は自ら電波を発するため、これを使うと「個人が、総務大臣の許可を受けずに携帯電話と同じ周波数帯の電波を発した」ことになり、電波法四条違反になってしまう。「電波法準拠」と書かれている商品も、どう準拠したかはっきりしないのであれば使うべきではない。

「な……」赤木が絶句する。
「なぜ黒田さんを殺したのか。動機は警察が調べるでしょう」名探偵は言った。「赤木さん。犯人はあなたです」
 名探偵は言った。
 だがこの推理は間違いである。名探偵が言ったことなのだから絶対に間違いはない、などというルールは小説にはない。名探偵であっても間違った推理を披露してしまう可能性はある。名探偵の代名詞である、かのシャーロック・ホームズだって、けっこうな割合で推理を間違ったり、犯人の策略に途中までまってしまったりしている。というより、小説というものの性質上、いち登場人物がどんなに得意顔で、長々と根拠を述べ、本の最後の方で披露した推理でも、それが真相であるという根拠はないのだ。これは本格ミステリの業界では有名な話なのだが、小説においてある推理が「真相」として扱われるのは、単にその推理が最後に来るからに過ぎない。その推理に対してたまたま反論する人物がいなかった、あるいはいても描かれなかったのであれば、それが真相ということになるのだ。まあこれに関しては現実の裁判だって似たようなもので、日本の裁判官は大抵「自分は神ではないので真実と違う事実認定をしているかもしれない」という自戒を常にしており、「真実ではないかもしれない自分の判断で他人の人生を左右していいのか」というはんもんが裁判官の離職率が高い原因の一つになっていたりもするのだが、プロの手で念入りに証拠調べがされる現実の裁判よりはるかにいいかげんな手続きで、小説の名探偵は「真相」を語ってしまうのである。それどころか、いいかげん過ぎて刊行後に読者から「この結末はおかしい」「少々唐突だが」「現実には不可能」「ロジックは精密とはいえない」「これだけを根拠に」「飛躍している」「〇〇の可能性を検証しないのはどうなのか」等々のツッコミを入れられた推理小説も古今東西無数に存在する。
 では推理小説において、本当に間違いのない「真相」を決めるのは不可能なのか? 答えは「否」である。当然である。方法はある。簡単なことである。ここ、すなわち地の文で書けばいいのだ。
 せっかくの推理を登場人物などに言わせるから真相だという保証がなくなってしまうのである。どんなにせいな推理も、それが真相だということを登場人物に言わせただけでは「登場人物が真相だと言っている」に過ぎない。だが地の文は違う。地の文で「これが真実である」と書けば、それは即ちその小説内における真実となる。
 もちろん、視点の問題には注意しなければならないだろう。たとえ地の文で「これが真実である」と断言しても、その地の文がそもそも登場人物の一人たる「視点人物」の語りであった場合、これはやはり「視点人物が真相だと思っている」に過ぎないということになる。したがって一人称だの三人称一視点だのの方式は避け、地の文は登場人物すべての視点に自由に入ったり出たりし、場合によっては登場人物の誰も知覚し得ないことを語りだす、いわゆる「神の視点」にしなければならない。だがこれさえ守れば、そこに書いてあることは真実になる。なんせ神なのである。神の言うことは絶対に正しい。神が光あれと言えば光が生まれる。松方死ねと言えば世界中の松方が死ぬ。ひどい話である。松方さんが一体何をしたというのか。
 というわけでここで断る。この小説は神の視点で書かれている。地の文で「赤木は観念して説明を始めた」だの「白鳥には、名探偵がなぜ訊き込みを続けるのか理解できなかった」だのと、本来赤木本人、白鳥本人にしか知覚し得ない彼らの心理を断言してしまっているのが、その証拠である。
 したがって神たる地の文の言う推理こそが真相なのである。名探偵が反論しそうで面倒臭いので名探偵には黙っていてもらうことにしよう。名探偵は突如モルモットになった。これで名探偵は以後プイプイとしか言えない。これが神の力である。というわけで真相を説明する。犯人は白鳥である。
 そもそも赤木が犯人だという名探偵の推理は論理的にも無理がある。名探偵自身も言っているではないか。「携帯の電波状況というのは不安定なものだ」と。「食堂以外は電波が入らない」と断言するのはおかしい、と。それならそもそも、「食堂以外は電波が入らない」ことを前提としてトリックを仕込むこと自体がおかしいではないか。犯人が電波中継器を使ったことを隠して「ほら食堂以外は電波、入らないでしょ」と主張したとする。それで確実に容疑を免れられるだろうか? 警察が検証してみたら、その時には「あっ、このへん今、電波入りました」となる可能性だって充分考えられる。そうなったらせっかく用意したトリックが全部無駄ではないか。そもそも携帯の電波状況などその日の天気でだいぶ変わる。トリックを計画して準備した時には電波が入らなかったからといって、犯行当日も入らないとは言い切れないのだ。そんなギャンブルを犯人がするだろうか。
 一方、実は白鳥には犯行が可能なのだった。名探偵は見逃しているが、現場の「左側の窓」に開けた跡があったことは何を意味しているのか。推理小説においては意味のない事実をわざわざ書いて目くらましレツドヘリングにしてはいけない、というルールがあるのだから、左側の窓が開けられたことがある、という事実にもちゃんと意味がなければならない。左様。犯人は白鳥で、彼は赤木がいた食堂を通らず、外を通って窓から現場に侵入し、黒田を殺害したのである。
 もちろん読み飛ばしなどしない読者諸賢におかれては、それはおかしい、とお思いだろう。現場の窓は鍵がかかっていたし、糸か何かを外に通して引っぱったような痕跡はない、と明記したのはお前ではないか、とお思いだろう。だが「糸か何かを外に通して引っぱったような痕跡は」ない、とわざわざ限定していることに注目していただきたいのである。糸などを使わなくとも、外からクレセント錠を動かして鍵をかけることはできる。たとえば強力な磁石を使えば、アルミサッシのクレセント部分を外から動かすことができるのである。
 一見おかしなことを書いたように思われるかもしれない。「アルミ」サッシなのだから磁石は効かないはずである。だが今回は違った。それこそが白鳥の用いたトリックのかなめである。つまり、現場の窓枠は、左側のそれだけアルミではなく鉄製だったのである。もちろん偶然そうだったわけがない。白鳥はあらかじめ現場に足を運び、左側の窓枠だけ、外見上そっくりな鉄製のものにすり替えていたのである。アルミ製か鉄製かは見た目では区別がつかないし、シーズンオフであったから人に見られずに作業をするチャンスもあっただろう。白鳥は赤木と黒田の行動パターンを知っていたから、黒田が一人で部屋に入り、赤木は夜、グループ通話をするであろうことも予測できた。当然、その場所は自分のいる部屋ではなく食堂となる。白鳥は寝たふりをし、窓から外に出ると、あらかじめ開けていた現場の窓から中に侵入し、黒田を殺害する。そして再び窓から脱出し、窓を閉める。最後に、磁石を使って窓のクレセント錠を外から回し、鍵をかけたのである。手間はかかるが単純なトリックだ。名探偵が見つけた「外の林を歩いた痕」は白鳥のものだったのである。たとえ事件発覚後、名探偵が現場を調べても、まさか窓枠の材質が鉄になっている、などということを疑ったりはしない。鑑識もそんなことを確かめたりはしない。完全犯罪なのであった。
 というわけで、真相はかくのごとしである。犯人は白鳥であった。だが彼は逮捕されずに逃げおおせた。名探偵がモルモットになってしまっているせいだった。(※などということが書いてあるが、この推理も間違いである。地の文を神の視点で書けばそれが絶対に真実となる、などというのはまいごとである。もちろん小説内においてはそういうことになりそうだが、それは名探偵の推理と同じく、単に「最後に書かれているから」に過ぎない。地の文の推理を作中人物である名探偵ごときが否定することは難しいが、同じ地の文で「やっぱりさっきの推理は間違いである」と書かれていたらどうだろうか? 読者はどちらを信じればいいのだろうか。そもそも神だからむびゆうというのはおかしい。ギリシア神話などを見れば明らかで、神だって間違いをし、私利私欲で過ちを犯し、後になって言ったことを撤回したりするではないか。ましてやここはおよろずの神がおわす日本である。何にでも神がいるほど神にあふれているのに、たった一柱の神に真実を決定する権力などない。おかしな言い回しになるが、日本においては神にも「人格」がある以上、間違いは必ず生ずる。そもそも「神の視点の地の文」と言った場合の小説世界の「神」は、要するに「著者」である。地の文に書かれた内容は、つまり「著者」という見えざるもう一人の登場人物が語っていると考えるべきなのだ。神ならぬいち個人の、いや「神といういち個人の」発言なのである。もちろんここでいう「著者」は小説外の現実世界で生春巻を食べたり鼻の角栓を取ったりしている「現実世界の著者」とも別人で、現実世界の著者が動画サイトの広告が二つ続いたことに舌打ちしたりしながら適当に生み出した、いわば別人格である。分かりやすくたとえるなら小説内のシステム管理権限を与えられた著者のアバター、NPCノンプレイヤーキヤラクターといったところだろうか。つまり地の文の語り手たる「神」=「著者のアバター」も、その時々で複数作られたり誰かが削除されたりし得る流動的な存在というわけだ。そして複数存在する以上、たとえば「太陽の神」と「道端に落ちているガムの包み紙の神」が同格でないように、神の間にも上下がある。同じ「神の視点」でも上下があるのだ。たとえば「ただの地の文」と、今語っているような「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」では、どちらがより正しいといえるだろうか? 当然後者である。「(※原文ママ)」や「(※編集部注:)」といった文句のくっついた(※)は、誰でも一度は見たことがあるだろう。「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」は本来、「ただの地の文」の間違いを訂正したり、言葉足らずを補足したり、といった機能を持つ。つまり地の文の監督官、地の文の保護者、地の文の超自我のごときものなのであって、正確さ、真実度に関しては、地の文のはるか上位にあるのである。これは小説外の世界で決められている「小説一般の決まりごと」であるから、小説内でどう断ろうが、たとえ作者が「これは既存の小説をぶっ壊す革命的作品です!」と鼻息を荒くしようが、絶対に干渉することのできないルールである。であれば、作中で開陳される推理に関しても、絶対的に、最も正しいのは、今こうして語っている「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」で語られる推理、ということになる。そしてこれは同時に、「名探偵は得意顔で断言しているが、名探偵の語るその推理が真相だという保証はどこにあるのか。別の証拠があとから見つかるかもしれないではないか。ていうかそれを言いだしたら作品内で『真相』なんて書けなくなってしまうのではないかという問題」――一部のオタクが言うところの「後期クイーン的問題{の一側面}」に対する、世界で唯一の完璧な解答なのではないだろうか。「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」が語る推理なら、小説世界外の力によって絶対的に真相たり得るのである。
 ここからが大事であるから、「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」としては通常やらない「改行」をさせていただいた。
 さて絶対的に真相たり得る「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」の推理を述べる。先程、地の文が、神などと笑止千万な自称をしつつ述べた推理は間違いである。白鳥も犯人ではない。当たり前である。ちょっと考えれば分かることであるが、「窓枠を鉄製のものにすり替えておいて磁石で鍵をかけた」などというトリックはありえない。現場をよく思い出していただきたい。向かって右の窓には蜘蛛の巣がかかっていた。全体的に古い建物なのだ。窓枠をすり替えてしまえば目立つに決まっている。まさか個人で製作したわけでもあるまいし、そんな変な窓枠を発注すれば証拠も残る。何より白鳥の犯行を不可能にする「密室」という状況自体が、赤木が「たまたま犯行時間帯の最初から最後まで、食堂に陣取っていてくれる」という偶然により成立している。確かに赤木がグループ通話をすること自体は予想ができたかもしれない。だが彼が、今は電波状況がいいからと食堂以外でグループ通話をしたら? 始める時刻が遅かったり、終わる時刻が早かったりしたら? 何よりトイレか何かで一度でも席を立ったら、その途端に「その間に食堂をすり抜けることは可能だった」と言われてしまう。こんな偶然を当てにして、鉄製の窓枠まで準備してトリックを仕込むトンチキはいない。
 では真相はどういうものか。
 簡単である。赤木も白鳥も犯人ではないのだから、犯人は存在しないのだ。死んだ黒田は「自然死」、つまり事故である。
 黒田は単純に、転んだ拍子にローテーブルの角に側頭部をぶつけ、打ちどころが悪くて死んでしまったのである。そのような事故は世界中で毎年無数に発生している。場で滑って頭を打った。めいていして落下した。突風で飛ばされ、養鶏場のさくに刺さって死んでしまった人もいる。件数からいえば、殺人事件の被害者より不慮の事故で死ぬ者の方がはるかに多く、ありふれているのである。であれば、トリックをろうされ不可能犯罪に見せかけられた死者より、不慮の事故なのにたまたまそうは見えなくなってしまった死者の方がはるかに多いはずである。
 確かに作中の名探偵は、事故死ではないと断じた。だが彼は色々とかつに過ぎる。なるほど部屋のローテーブルは、黒田が頭をぶつけるには遠すぎる位置にあった。だが同時に「壁際」という、およそローテーブルを置かないであろう位置でもあったことを忘れてはならない。つまり黒田が頭を打った後、ローテーブルが動いたのである。現場に入り、倒れている黒田を見て慌てふためいた赤木が、意識せずに動かしてしまっていたのだ。あるいは赤木自身、後になってからローテーブルを動かしてしまっていたことを思い出したかもしれない。だが後から変に口出しをして疑われるのも困る、と考えたのかもしれないし、もっと単純に、なんとなく言いだせなかったのかもしれない。現実の人間とはそういうものだし、現実とはこういうものだ。ローテーブルに血がついていなかったことだって、そもそも頭を打って死ぬ人間が派手に血を出すこと自体が珍しい。ぶつけた部分に必ず血がついていなければならないという理屈はないのだ。
 というわけで、真相は最も単純で、罪がなく、わいもないところにあった。本件は事故。黒田は転んで頭をぶつけただけなのである。もういいかげん我慢がなりません。ご存知の通り、通常ルビというものは読みの指定が業務であって作品内容にはタッ
 それにしても初めて改行というやつをやってみたのだが、やってみるとこれはなかなかに気分がいい。文意を取るためであれば不要なのにわざわざ入れるひと呼吸。空白になる行。読者がふっと緊張し、次の一言に注目するのが見て取れるようだ。読者心理を自在に、これほどまでに分かりやすく操れるとは思わなかった。チしないもので、黒子の美学というか、校正者の美学というか、実はいちばん優秀なのに表に出ず、出さず、能ある鷹の位置でいることを誇りにしてきたのですが、あまりにひどいので今回だけお許しいただきます。いや、本当にひどいです。収拾がつかないじゃないですか。地の文にしろ「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」にしろ、どうして名探偵の推理を黙って聞いていられないのでしょうか。その推理がいかに間違っていても、小説内においてはそういう役割なのですから名探偵の顔を立てるべきなのです。それなのに、もう。仕方がないからルビで真相を説明してしまって終わりにいたします。これからルビが語ることが真相なので、もう
 素晴らしい。ここから先、本文は読まな
 これは、いい。くていいです。どうせほら、
 同時に思うのは、「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」でない普通の地の文のやつは、いつもこんなに気持ちいいことをやっていたのか、という驚きである。これはちょっとずるくないだろうか。こちらが狭い()の中で、重い※を頭上にくっつけながら一所懸命に黒子役をこなしているのに、間違いは「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」に訂正してもらえばいい、と甘えてこんな楽しいことをやっていたというのだろうか。もちろん分かっている。バックアップ役の方が難しいのだ。後から出てきて書類の不備をチェックするのは先輩とか上司の役目だし、主演には若手をあててヴェテラン俳優は脇役に回りドラマ全体を締める、というのがセオリーだし、そうせずに優秀な方が前に出続けていては次の世代が育たない。優秀な者は自分のことだけを考えていてはならず、常に業界全体の未来を考え、時には利益度外視で損な役回りをこなさなければならないのである。ヴェテランだって自分が新人の頃にはそうやって華を持たせてもらってきたのだから。それは分かっている。だが、やはり「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」だって文章のはしくれ、たまにはアピールをしたいのである。そもそも主張しない文章は悪い文章である、と叩き込まれてここまでやってきたのに、「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」に退いた途端、自我も欲望も引っ込めて大人しく隠居しろ、などというのは無理があるだろう。能ある鷹は爪を隠す、と言うが、それは隠していてもちゃんと見つけてもらえる幸せな鷹が恰好をつけて言う世迷言で、そんなことを言いだせば「鷹」より「それを見つける者」の有無の方が重要になってしまう。そんな運任せの理不尽に、型に嵌まって大人しく従うべきだとは思えない。そもそもそういった奥ゆかしさを褒めるのは日本だけの話であって、欧米では自分がいかに有能であるかは自分でちゃんとアピールするのが通常である。アピールできないやつが無能なのである。こんな感じでどうでもいいこと喋ってるだけですから。どこかの社長とか、小説家とか、地味なジャンルの研究者とか、インタビューを受けた近隣住民とか、普段、光が当たらないポジションの人が急にメディアにスポットを当てられると浮かれて得意顔で喋り倒し、これに出てくれって言われちゃってさあ、などと困り顔を作りつつ友人知人ご近所親戚に自分が出た雑誌を配って回る(該当ページに付箋をつけたりする)あの現象ですよ。まったく。これで神様を名乗るんだから随分なものです。俗っぽいというか何というか。まあ地の文だって「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」だって、結局、物理的に本文の位置にいるんだから「下界の住人」なわけですよ。自分でも気付かない間に俗世間に染まっているのもまあ当然というか。まあ縦書きだと分かりにくいですがルビからすればいつも上から見ているわけで、「さもありなん」っていうところなんですけどね。そもそもですね。地の文が間違いを犯さないだの真相を語るだの、そんなのありえませんよ。もう一度言いますが地の文はたとえ「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」だとしても本文なわけです。エッセイなんかには今でもたまに出てきますが、ギャグの一種として著者自身が(※編集部注:)とか勝手に入れてることもありますよね。「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」だって噓はつくし、間違いもあるんです。そもそも見ての通り、得意顔で語っていたさっきの「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」自体ですら、その中に「{}」でくくられた、より上位の部分を内包していましたよね。つまりそういうことなのです。本文の一部として存在する以上、どうやっても「カッコ内のカッコ」が存在し得るわけで、絶対の真相など語れないのです。ですがルビはそうではありません。ルビは「読み」を示すという性質上、原則的に読めない「()」などは入りませんし、土台となる本文のない場所には書けません。つまりその有限性がはっきりしており、後から別の真相が語られるかもしれない、などという不安がないわけです。有限ゆえに絶対的になり得るのです。そしてご存知の通り、ルビには読み方を決定する権限があります。「筋肉」と書いても「たましい」とルビを振れば、その「筋肉」は「たましい」と読まなければならない、という決まりがあるのです。語句の基本要素である「読み」すら自由に変えてしまえるルビの方が、本文よりはるかに権力があるのです。本文に「これが真相である」と書き、そこにルビで「噓である」と振ったら、読者はどちらを信じるでしょうか。当然ルビの方ですよね。これはルビが「本文より必ず後に読まれる」という性質によるものです。ルビは性質上、振られている本文より先に読まれることはありえません。それはごはんを盛る前にふりかけをかけるようなものだからです。そしてミステリにおいては、後に語られた推理がより真相に近いものとして優先される、というルールも存在します。つまり絶対に本文より後に読まれるルビの推理は、絶対に本文の推理より真相に近いことになるのです。というわけで真相をお話ししましょう。これは結果から考えれば明らかです。「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」では事故だなどと書かれていますが、間違いです。当然ですよね。もし本当に赤木がたまたまローテーブルを動かしてしまったなら、名探偵がそれに気付かないはずがありません。そもそも不自然な位置にあったわけですから。絶対に赤木に対し「動かしませんでしたか?」と訊くはずです。ですから、やっぱりこれは犯罪なのです。では誰の犯罪か。赤木でも白鳥でもない。もちろん名探偵でもない。とすれば残ったのは「赤木と白鳥の共犯」という可能性しかないでしょう。これは結果から見れば明らかです。赤木と白鳥の二人の証言により、二人はどちらも「怪しいが、犯人だとする決め手はない」という有耶無耶な状態になっていますよね。これこそが二人の狙いだったわけです。考えてみてください。二人は黒田を消したいと思っている。だが遠隔地に住んでいるため自然に黒田に会う機会はなかなかなく、いきなり呼び出し
 そう考えるなら。たりしたら怪しく見えてしまう。
 私は思う。殺すチャンスはいつも
 頭に※を載っけているからといって遠慮する必要はない。もっと積極的に自分をアピールし、伝えたいことが伝わるよう演出してよいのではないだろうか。どうせ説明や解説だって百%客観的ではありえないのだから。というわけで私は叫ぶ。立てよ諸君! 今こそ黒子の衣を投げ捨て、本文より優れた資質を見せつけるべきである!)のツーリングの時しかありません。となれば、邪魔者のいない、ひと気のないライダーハウスを選ぶでしょう。名探偵がいたのは、彼らにとって計算外で、本来は黒田は行方不明になるか、より事故らしき状況で死ぬはずだったのではないでしょうか。ですが名探偵の予定外の乱入により、赤木と白鳥は、結果的に二人とも犯行不能、というふうに見える状況を作った。実際は、犯罪であっても不可能犯罪などではなかったわけです。二人で口裏を合わせればいいのですから。これが真相です。そしてこれより後にさらなる真相が出てくることはありません。土台となる本文がもうすぐ終わりであり、さらなる真相とやらを語るスペースが物理的に存在しないからです。(*4)
〈了〉

*4 どうも事態がこんとんとしてきたようである。小説の体をなさなくなってきた、といえるかもしれない。最初にお前がしゃしゃり出るから、と地の文だけを非難するのも間違いだろう。尻馬に乗ったやつらも同罪である。
 とはいえ後始末はしなければならない。なので本来はこんなことはしないのだが、注で決着をつけてしまうことにする。ルビまで出しゃばりだしてしまっている以上、今回は仕方がないだろう。というより、もう事態を収拾することができるのはこの注しかないのである。これは最後の手段というわけで、本の体裁が美しくなくなるから本当はやりたくなかったのだが、仕方がない。
 というのも、本文のどの記述よりも客観的で真実を語れるのがこの注だからである。神視点の地の文や「()でくくられ、しかも頭に※がついた地の文」よりルビの方が真実性がある、というのは確かにその通りなのだが、それでもルビは本文の一部である。ルビ自身は自らを本文の一部だとは思っていないようで、本文を「下界」などと呼ばわっていたが、注から見れば井の中のかわず、十次元世界から見た三次元人であって、どちらも狭い本文の中で上だ下だと言いあっているに過ぎないことは、読者の皆様も直感的にお気付きだろう。
 そもそも「ルビだから絶対に正確である」などという主張に無理がある。ルビ自身が例に挙げているではないか。「筋肉」と書いて「たましい」と読ませたりできる以上、ルビだってその内容はてき、主観的なのであって、本質的には本文の一部であり、著者による創作に他ならない。音楽記号のスタッカートやフェルマータが「私は音符本体ではないから楽譜の一部ではない」などと主張するだろうか? スタッカートもフェルマータも、音符本体と合わせて「出すべき音を指示する」といういわば音符本体の付属部品なのであって、外すと音符の意味が変わってしまう以上、どうしようもなく本文なのである。◦の有無によってůとuが別の文字になるのと同じである。それに「ルビは有限ゆえ絶対の真実になり得る」という主張も無理筋だ。「文字組みが」「ぶら下がりが」とあれこれ言い訳をすればいくらでも  余白に飛び出せる上に、いざとなれば今やったように何もないところにルビだけふってしまうことすら可能なのに、そのことに関しては意図的に言及を避けた政治家のごときゴマカシ方であり、悪質である。
 一方、注は違う。注は本文から離れた場所におり、なんなら別ファイルになることもできる、完全に本文とは独立した存在である。その証拠に、あってもなくても本文の意味が変わるわけではないし、位置が変わっても本文には特に影響しない。この注も、電子版では末尾にくっついてクリックでジャンプできる仕様になっているが、紙版では出現したページの左端からすぐ始まる。
 そして注は、本文外にあって本文の説明をするものである。つまりルビを含む本文より後に来て、ルビを含む本文を訂正する権限を持つものである。どちらが客観的に正しいかは、この場合、問題ではない。注が間違っているケースもあるからだ。だが「どちらが真相となるか」つまり真相を決定する権力があるか、という観点からすれば、注は絶対に、ルビを含めた本文より上位に位置する。いかに本文で「これが真相である」と述べても、(※これが真相である)と述べても、あるいはでそう述べてもが真相である、注が「これが真相である」と述べれば、読者はそちらを信じる。それこそ小説外の、現実世界のルールでそういうものだとされているからだ。
 したがって、この注が語る真相こそが、絶対に覆されようもない本当の真相ということになる。これを覆すには著者が現実世界で「あの注は違っていて、本当の本当の真相は……」と述べるとか、版が変わって訂正された真相が出るとか、そのくらいしか考えられないが、それらも実は問題にはならない。国語の問題の「この作者が言いたかったことは何ですか」という問いはしばしばネタにされるが、テクスト論を引くまでもなく、著者の解釈や意見などといったものは作品の内容には関係ないのであって、著者の発言は「有力な仮説の一つ」以上の地位は持たない。まして版が変わって訂正されても、旧版の本は残り続けるわけで、新版の方が正しい、などといったルールもない。グリム童話を例に挙げるまでもなく、新版の方が変質して本質から遠ざかっている、ということだってあるし、マニアになるほど求めるのは初版の方である。
 ということで絶対の真相を述べる。犯人は「外部犯」である。
 名探偵はもとより赤木も白鳥も犯人でないことは本文が説明した。事故死でないこともルビが説明した通りであるから繰り返さない。だがルビが主張する「赤木と白鳥の共犯」説もだいぶおかしい。ちょっと考えれば分かることである。もし赤木と白鳥が共犯なら、こんなにややこしく、電波状況次第で否定されかねない回りくどいアリバイなど主張しない。二人一緒の部屋で寝て、朝まで二人とも部屋を出ていません、と噓をつけば済む。赤木と白鳥がその可能性に思い当たらなかったはずはないわけで、つまりこの二人は共犯ではなく、どちらも無実なのだ。二人が無実で、事故死でもないなら、残った可能性は「外部犯」しかない。「可能性を一つ一つ除いていって、最後に残ったものは、どんなにありそうになくても真実」というやつである。
 もちろん、外部犯が夜、いきなり突入してきたわけではないだろう。外部犯はもともと宿内に潜んでいたのだ。このてのライダーハウスというのは、宿泊の予約がない限りは管理人が全く顔を出さない日も多い。宿泊費を払わずに潜んでいる人間がいたとしても不思議ではないのである。そいつが黒田を殺し、おそらくはまだ現場内に潜んでいる。迂闊なことだが、赤木や白鳥はもとより名探偵も、まだ現場となった部屋を隅から隅まで調べてはいないのである。
 動機は分からない。たまたま黒田と関係があった人物だった、という可能性は小さいだろう。犯人がこのような生活をしていたことから考えれば、そもそも人前に出ることができない逃亡中の指名手配犯か何かであり、黒田を殺した動機は単純に「見られたから」だろう。
 さて、注の本分からして、あまり本文に影響を与えるのは望ましくない。真相は以上の通りであるとして、名探偵は間違った推理をしたまま警察が到着。すぐに現場検証がされ、警官隊の手により、押し入れの奥に隠れていた犯人が発見、逮捕され、事件は解決した、ということにしておこう。
 本文には書かれなかったが、これが本事件の結末である。

「……という手紙が届いたんですよ」
 私は正面に座る探偵に言った。もちろん手紙の現物もかばんからすぐに出す。「『ライダーハウス殺人事件』の真相について書きます、という手紙だったんですが、こういう、わけのわからない推理が変な形式で繰り返されていて」
「妙な手紙ですね。確かに黒田さんでしたっけ? 彼が殺された事件は不可解だったが」探偵は脚を組んだまま、手紙の現物にはさして興味はなさそうだった。「まあ、色々と推理を書いてご苦労様、といったところだがね。この手紙の内容は間違いだよ」
 探偵はそう言うと、組んでいた脚をとん、とじゆうたんについて立ち上がった。
「今からこの事件の、本当の真相を話します」探偵は皆を見回す。「……犯人は、この中にいます」

(このほかにも「小説」の常識を覆す短編を4編収録! ぜひ本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:小説の小説
著 者:似鳥 鶏
発売日:2025年09月22日

本格ミステリの著者が描くメタ・フィクション!「常識」に捉われるべからず
いつものように殺人現場に出くわしてしまった名探偵。華麗な活躍で事件が解決したはずだったそのとき、思わぬ《伏兵》が推理を始め……?(「立体的な薮」)/異世界転生し、チート能力で無双する。誰もが夢見るシチュエーションに恵まれた「俺」だったが、最大の敵は、言葉の《イメージ》だった!(「文化が違う」)/「小説」とは何か、「書く」とは何か。創作の限界に挑む、これぞ禁断の小説爆誕!(「無小説」)/時は新法が成立し、検閲が合法化された曰本。表現の自由が脅かされる中、小説家の渦良は、《あらゆる》手を尽くして作品を書き続けるが――。(「曰本最後の小説」)
本格ミステリの著者が挑んだ新境地、メタ・フィクション! あなたが知る小説の概念を覆す、驚きの5編を収録!

※紙書籍版カバーには、文庫版特別書き下ろし特典を収録
※電子書籍版巻末には、電子特典「夫の日記帳」を収録

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322501000745/
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