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試し読み

「やつら、健康のためなら湯水のように金を注ぎ込んでくれますからね」 久坂部羊『砂の宮殿』試し読み#2

砂の宮殿』発売を記念して、大ボリュームで試し読みを掲載します。
(全4回・4月10日~13日まで4日連続更新)
本作は、エリート医師4人が経営する高級クリニックで起きた顧問の不審死事件にはじまる、金と疑惑と疑心暗鬼に満ちた医療サスペンスです。ぜひお楽しみください!



『砂の宮殿』試し読み#2



「ジュン。ミーティングの時間、すぎてるよ」
 理事長室の扉が開くと同時に、有本以知子が声をかけてきた。デスクの時計は16:05を表示している。
 有本は才所より四歳下だが、ジョンズ・ホプキンス大学病院で知り合ったときから、アメリカ式にファーストネームで呼び合っている。ただし、才所の「准一」は「ジュン」と略されたままだ。
 毎週金曜日の午後四時から、理事たちとミーティングをすることになっている。その週の診療報告と、連絡、予定の確認などだが、気心の知れた仲間なので、ともすれば単なる雑談になることも多い。
 ミーティングルームは応接室の反対側で、全面窓からは、海の代わりにこんごうさんが見渡せる。冬至まで一週間足らずとなったこの季節でも、まだ十分に明るさは残っている。
 有本とともに部屋に入ると、二十人掛けの長テーブルの真ん中に、すでに趙鳳在と小坂田卓が座っていた。
 才所が奥の席に着くと、椅子からずり落ちそうなかつこうで腹を突き出していた小坂田が、気楽な調子で聞いてきた。
「昨日のシェイク・ファイサルのオペ、二時間半でやっちゃったらしいですね。どうしてそんなに急いだんです」
「患者が手術の負担を気にしていたからな。時間がかかると体力を損ねると、メイヨー・クリニックで脅されたのを真に受けているんだ」
「アメリカ人のドクターは、すぐに患者を脅すからね。自分の責任回避のために」
「イチコはそんなことはしないよな。患者思いだから」
 才所の軽口には応えず、有本は持ち込んだiPadでシェイク・ファイサルのカルテを確認した。
 京都市の北のはずれ、きよういわくら生まれの有本は、子どものころから優秀で、小中学校では天才少女と言われ、高校では予備校や塾にも通わず、京洛大学の医学部にトップの成績で合格した。両親はともに小学校の教諭で、慎ましやかな家庭で育ったため、庶民的な感覚も失っていない。ただし、潔癖すぎる性格がわざわいして、周囲とあつれきを生むことも少なくなかった。
 大学では放射線科に入局し、BNCTの専門医としてキャリアをスタートした。BNCTとは、がん細胞に取り込ませた放射性同位元素のホウ素に中性子線を当て、核分裂を起こさせて、そのエネルギーでがん細胞を破壊する新しい治療法である。エネルギーの飛距離は十マイクロメートルほどなので、となり合った正常細胞は障害せず、がん細胞のみを破壊することができる。
 有本はこの分野で博士号を取得したあと、才所と同じくジョンズ・ホプキンス大学病院に留学し、治療医としても活躍していた。
 才所が彼女を創業メンバーに誘ったのは、その優秀さ故で、逆に有本が才所の招きに応じたのは、カエサル・パレスクリニックが、原子炉に依存せず、直線加速器を利用する中性子源でBNCTが可能と聞いたからだった。
「シェイク・ファイサルは、腹膜転移ありのステージⅣね。BNCTはオペから少し時間を置いたほうがいいから、三週間後、正月明けの木曜日からはじめるわ」
 有本が予定を口にすると、小坂田が皮肉っぽい表情で笑った。
「年末年始はお互いゆっくりしたいものな」
 有本が無視すると、自分のiPadを見ていた趙が口を開いた。
「ファイサルさんのすい臓がんは、BRCAブラカ遺伝子に変異がありますから、リムパーザが効くタイプです。BNCTの前に投与したほうがいいと思います」
 韓国の準財閥を縁戚に持つ趙は、学生時代から品がよく、同級生だった才所は、密かに彼を〝王朝の貴公子〟とあだ名していた。性格も温厚で礼儀正しく、編入学で一歳上の才所には、在学中からずっと丁寧語を使っている。
 趙は腫瘍内科の専門家として、抗がん剤の副作用の克服に頭を悩ませていたが、才所が考案したCCC法トリプルシー・メソツドで、副作用の問題が解決できると考え、クリニックの創業に参加した。
 彼はソウルで大手スーパーやホテルを営む「カエサルグループ」の長であるおおを説得して、クリニックの建設費を含む初期費用、二百四十億円のうち、約三分の二を出資させた。クリニック名の「カエサル」は、もちろんグループ名にっている。
「リムパーザの投与は本人も喜ぶだろう。病気を治すことなら何でも大歓迎だから」
 才所が言うと、小坂田がうすのように膨れた顔にだらしない笑みを浮かべた。
「今朝、シェイク・ファイサルの病室にご機嫌をうかがいに行ったら、私の〝ゲノム未来ドック〟にも興味津々で、さっそく会員になってくれましたよ。やつら、健康のためなら湯水のように金を注ぎ込んでくれますからね」
 シニカルかつドライな性格の小坂田は、代々医者の家系で、さしたる努力もなしに阪都大学の医学部に合格した秀才である。食べることが大好きで、四十一歳にして予防医学の専門家にあるまじき肥満体だが、人生は太く短くがモットーで、こめかみに食い込む銀縁眼鏡の奥の細い目には、ときにぞっとするほど冷酷な光が走る。
 彼によれば、これからの医療は、病人だけを相手にしているのでは先細りなので、いかにして健康人を患者に仕立てるかが重要課題だという。
 ──つまり、患者の養殖ですね。血圧やコレステロールの基準値を下げるのもそうだし、メタボリック症候群や生活習慣病で、国民を脅すのもそうです。だいたい、予防医学なんて、命が惜しい人間の弱みにつけこんで、余計な検査と治療で大衆から金を巻き上げるのが実態ですからね。
 そんな本音とは別に、小坂田が担当する会員制の「ゲノム未来ドック」は、ゲノムプロファイリングで受診者の遺伝情報を解析し、AIで将来起こり得る病気を予測するとうたう。通常の人間ドックは、その時点での健康状態しかわからないが、ゲノム未来ドックでは、翌年、翌々年、さらには十年後の健康状態を、高い確率で予測するというのが売り文句だった。決して妥当な予測とは言えないが、健康を守ることに必死のセレブ顧客は、パンフレットに書かれたバラ色の文言をそのまま信じて、惜しげもなく大金を支払ってくれる。入会金が五万米ドル、年会費が一万米ドルで、十年ごとの更新制でも文句は言わない。むしろ、高額であればあるほど、医療のレベルも高いと勝手に思い込む。
 現在、会員はアメリカ、中国、中近東、ヨーロッパなどから、九百人を超えている。ゲノム未来ドックは、がんの〝集学的先進治療〟とともに、カエサル・パレスクリニックの収益を支える二本柱である。
「そう言えば、ウーハンだっけ、食道がんで治療を求めていた中国人の社長、折り合いはついたのか」
 才所が聞くと、担当の趙がむずかしい顔で首を振った。
ヤンさんという食品メーカーの社長ですが、すべてこみで百万中国元と言うんです」
「日本円にして約一千八百万か。話にならんな。キンシヤンハイの患者は、軒並み三百万中国元以上払ってるぞ。言ってやったか」
「言いました。そしたらすごい剣幕で怒りだして、僕たちのクリニックを悪鬼のそうくつだとか、シユアタウより悪質だとかわめいていました。まだ転移が見つかっていないので、強気なんです」
「じゃあ、細胞レベルで転移がある可能性を教えてやれよ。検査で見つかるくらいの大きさになったら、金を惜しんでる間に、命の砂時計が尽きるってな」
「いくらからなら受けます?」
「最低でも倍の二百万元だな。それでも三千六百万だろ。払える者には払ってもらわなきゃな」
「往年のブラックジャックと同じってわけね」
 有本が軽くすると、小坂田はびるように続いた。
「手術のレベルも同じですからね。もちろんモグリ医者じゃないけど」
 それを無視して才所が問う。
「で、話はつきそうか」
 趙は苦笑いで首をひねる。才所も顔をしかめ、その件は用済みとばかりに手を振った。



 ミーティングが一通り終わると、才所は自分のiPadを終了し、改めて三人に顔を向けた。
「みんな、ちょっと聞いてくれ。ア・リトル・バッド・ニュースだ」
 おどけたように言いながら、内心、かなり厄介な思いを抱いている。
「昨夜、メールがあって、来週の木曜日、ふく先生がクリニックに来たいとおっしゃっている」
「げっ、あの強欲じじいが来るのか」
 小坂田が反射的に顔をゆがめた。
 福地まさは、元阪都大学の総長で、その後、「大阪府立病院機構」のトップになり、大阪府の医療行政に隠然たる力を持っていた人物である。今は名誉職以外の肩書はないが、元々は阪都大学医学部の解剖学の教授で、才所たちも二十数年前、その講義を受けている。
「福地先生には毎年、一千万円の顧問料を払ってるんだろ。あれ、どうにかならないんですか」
 小坂田が苦い顔を見せると、有本も、「わたしも顧問料には反対。だって、何もしてないじゃない」と同調した。横で趙も黙ったままうなずいている。
 福地への顧問料は才所が決めたことで、有本の言う通り、顧問らしいことは何もしていない。事実上の献金である。
「まあ、そう言うなよ。みんなも知ってる通り、福地先生にはクリニック開設のときにいろいろ世話になったんだから」
 カエサル・パレスクリニックを開くとき、いちばん問題になったのは、BNCTに使う中性子線を発生させる直線加速器の使用許可だった。管轄は原子力委員会だが、医療用のリニアックとターゲット・システムを合わせたものは、これまで研究施設以外では使用例のないものだった。
 クリニックをりんくうタウンに開くと決めたときから、才所は大阪府立病院機構のトップだった福地に相談しており、原子力委員会への申請許可も、福地の人脈を通じて、原子力規制庁に働きかけてもらった。
 さらには開業直前に、泉佐野保健所の立入検査でトラブルがあったときも、福地の助力に頼った。非常口と避難路の位置関係に問題があると、指摘されたのだ。
 保健所は医師会とつながりが深いので、医師会に加入していない医師や、自由診療のクリニックには簡単にゴー・サインを出してくれない。なかなか診療許可がおりず、あわや変更工事の追加を求められそうになったとき、福地に頼んで、保健所長を説得してもらったのだった。
「福地さんが、加速器の使用許可に尽力してくれたのはいいけど、おかげでわたしはひどい目に遭ったんだからね」
 直接、講義を受けていない有本が、福地をさん付けで呼び、露骨に不愉快な顔を見せた。
「ひどい目ってセクハラだろ」
「そうよ。でも、それ以上聞くのもセクハラだからね」
 しつけに聞く小坂田に、有本は即、釘を刺した。
 原子力委員会からの許可が届いたあと、有本が福地に呼び出され、問題になる行為があったことは才所も聞いていた。単なる会食のはずが、とてつもなく不愉快なことがあったらしい。もちろん、有本は詳しく語らない。
「あの先生は、むかしから女好きだったからな。そう言や、一年上で皮膚科の女性が自殺したんじゃなかったかな。あれも福地先生のセクハラが原因だという噂でしたよね」
 小坂田が話をずらすと、趙が暗い表情で顔を伏せた。
「僕もいやな記憶しかありませんよ」
 才所も覚えていたが、解剖実習のとき、趙が在日韓国人だと知ると、福地は冗談半分にこう言ったのだ。
 ──どうもニンニク臭いと思ったら、やっぱり君か。
 横にいた学生が、「先生。それは差別発言です」と抗議すると、福地はとぼけた顔で、「ワハハ。すまん、すまん」と、何事もなかったかのように笑い飛ばした。
「才所先生は福地先生のお気に入りだからいいかもしれませんが、私らはできるだけ近寄りたくないですね。あの人は独自の情報網で、他人の弱みを握るのが大好きみたいだし」
 才所と趙の二年あとで講義を受けた小坂田が、陰にこもった調子で言った。才所が福地のお気に入りというのは、学生時代からの噂だった。
 法学部から医学部に移ったときから、才所は将来、がん治療のスペシャリストになろうと考えていた。だから、古い学問である解剖学など学ぶだけ時間の無駄だと思っていた。ところが、福地が次の総長選の有力候補だと知った才所は、ときどき福地の研究室に顔を出すようになった。学生からかつのごとく嫌われていた福地も、珍しく近寄ってくる才所をかわいがるようになったのだった。
「ところで、福地先生は何の用で来るんです」
「わからない。メールにはくささんを連れていくと書いてあったが」
 才所が答えると、小坂田がまた「げっ」とうめくような声を出した。
「草井さんて、解剖学教室の助手だったあの草井さんですか」
 趙が確認すると、有本が「だれ、それ」と、三人の阪都大出身者に聞いた。
 小坂田が説明する。
「解剖学の実習で学生を指導する助手がいたんだよ。たしか、草井いくとかいったな。いろいろ噂のあった人で、医学部志望だったんだけど、どこにも合格できず、仕方なく解剖学の助手になったとか、何を考えているのかわからないところがあって、ちょっと性格に問題があるんじゃないかとか」
「そうでしたね。草井さんは実習室をうろついているだけで、質問するとボソボソと答えて、聞き返すとすぐ不機嫌になるから、学生も質問しなくなったんですよ」
 趙が続くと、有本が不審そうに訊ねた。
「そんな人が、どうして助手でいられたの」
「確証はないんだけど、草井さんは福地先生の隠し子だという噂があってね」
「それは禁句だろ」
 才所が顔をしかめると、話が見えないという顔の有本に、趙が説明した。
「僕たちの少し上の学生が、どこかからその話を聞きつけて、口にしたとたん、福地先生に退学させられたんです。大麻所持か何かのえんざいをでっち上げられて」
「恐ろしい。あの先生ならやりかねないかも」
「いや、噂だよ、噂」
 才所は取り繕うように言ったが、趙も小坂田も口を開かなかった。
「で、なんで今ごろ、福地さんはその草井という人をここに連れてくるの」
「わからない」
 才所が首を振ると、趙が補足した。
「草井さんは我々が卒業したあとも、ずっと解剖学教室の助手だったと思いますよ」
「万年助手で飼い殺しか。うへぇ、かわいそうに。今、いくつなんだ」
「俺より四歳上だったから、四十八か」
 才所が答えると、小坂田が素早く計算した。
「福地先生はたしか七十七だから、隠し子だとすると、二十九のときの子ということになるな。若気の至りか。カッコりぃ」
「同い年の娘さんもいたはずですよ。奥さんが妊娠中に、浮気してできたといういちばん卑劣なパターンじゃないですか」
 珍しく趙までが憶測を口にした。有本が小坂田に聞く。
「母親はわかってるの」
「知らない。どうせロクな女じゃないよ。福地先生は認知したらしいけど、奥さんと離婚する気はなかったって話だから」
「それも噂だろ。いずれにせよ、来週いらっしゃるみたいだから、みんなあいさつだけはしてくれよな」
 才所はこれ以上、ややこしい話はごめんだとばかりに席を立った。

(つづく)

作品紹介



砂の宮殿
著者 久坂部 羊
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2023年03月17日

「6,000万円ぐらい、命の値段としては高くもないだろう」
外科医の才所准一は、大阪で海外富裕層向けの自由診療クリニックを運営している。
抗がん剤・免疫療法の趙鳳在、放射線科の有本以知子、予防医学の小坂田卓という優秀な三人の理事とともに最先端のがん治療を提供し、順調に実績を重ねていたところ、久しぶりに訪ねてきた顧問が不審死を遂げる。
これは病死か事故か、それとも――。
高額な治療費への批判も止まず、クリニックに吹き荒れる逆風に、才所はどう立ち向かうのか。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322201000353/
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