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試し読み

がんの手術費、日本円にして約六千二百万円。高級クリニックの疑惑に迫る医療経済サスペンス! 久坂部羊『砂の宮殿』試し読み#1

砂の宮殿』発売を記念して、大ボリュームで試し読みを掲載します。
(全4回・4月10日~13日まで4日連続更新)
本作は、エリート医師4人が経営する高級クリニックで起きた顧問の不審死事件にはじまる、金と疑惑と疑心暗鬼に満ちた医療サスペンスです。ぜひお楽しみください!



『砂の宮殿』試し読み#1



 真珠色の膜を透かして見える血管は、細かく枝分かれし、蛇行して、うごめく小腸の表面を覆っている。
 本来なら暗闇のはずのふくくう内に、強烈なライトが差し込まれ、3Dのハイビジョン画像でモニターに映し出されている。脈打つ血管とつややかに光る臓器が、立体映像で拡大され、体温まで伝わってきそうだ。
 それを見るたび、さいしよじゆんいちは、自分が極小サイズのホムンクルスになって、人体の内部に入り込んだような錯覚を抱く。
 左手のかんで膜を広げ、右手の電気メスで切開する。わずかな飛沫が飛び散り、白い煙が立つ。毛細血管がしようしやくされ、膜の縁が凝固して、臓器の奥が開く。鉗子も電気メスも、才所の指の動きを正確に反映しているが、才所が座っているのは、手術台から五メートルほど離れた操作用のコックピットだ。
 ダヴィンチXiカスタム。ロボット手術システムの最新バージョンに、蛍光カメラと蛍光検出センサーを追加した特注品である。
 手術室には中央に手術台が置かれ、患者の頭側に麻酔科医、両サイドに助手の医師と看護師がいる。手術台の横には画像処理用のビジョン・カートが置かれ、外回りの看護師が操作している。そして手術台の上には、ペイシェント・カートが、四本のロボットアームで左右から患者を抱えるように覆いかぶさっている。
 才所が座る操作用のコックピットは、ゴーグル型のモニターと、フィンガーホルダーのついた操縦かんのようなコントローラーが二本、さらにアームの切り替えや、電気メスの通電をする五枚のフットスイッチが装備されている。
 モニターに拡大された腹腔は、生命の神秘を宿したしようにゆうどうのようでもあり、巨大な臓器が別の生き物さながらにうごめくグロテスクなSF空間のようでもある。
 細い鉗子で腹腔内に分け入ると、銀色に光る結合線維が糸を引くように行く手を阻む。まるでの巣か、よく練った納豆の糸引きのようだ。ここは電気メスを使わず、鉗子だけで隙間を広げる。ステンレス製の鉗子の爪は、長さ一○ミリ。基部は丸く膨れていて、くちばしの長い鳥の頭を思わせる。そこには七つの関節が組み込まれ、執刀医の手首と指の動きをそのままリアルに再現する。
 才所は慎重に血管を避け、きらめく糸状のとばりを左右に押し分けながら前に進む。横から黄色い脂肪の塊が迫り出し、反対側に押しのけられた小腸が、思い出したようにぜんどうでうねる。
 さらに鉗子を進めると、薄い被膜に包まれたすい臓が姿を現した。オートミールを固めたような凹凸のある表面。皮膚の色はちがっても、内臓の色はどの民族も同じだなと、才所はいつもながら感心する。
 手術台に横たわっているのは、シェイク・ファイサル・アル・カデル、五十六歳。ドバイのジュメイラ・ビーチに二棟のホテルと、巨大ショッピングモールを持ち、有力馬主としても知られる投資家だ。
 シェイク・ファイサルは、四カ月前にドバイの病院でステージⅣのすい臓がんと診断された。すぐさまアメリカに飛び、ミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックで診察を受けたあと、今度はドイツのハイデルベルクにある国立しゆよう医療センターを頼ったが、いずれも手術不能と判断された。それでも手術をあきらめきれず、才所が理事長を務める「カエサル・パレスクリニック」に助けを求めてきたのだった。
 鉗子をすい臓の表面に到達させた才所は、すい体部を左側から見るようにカメラを移動させる。右側にはくを進めると、がんの病変はすぐにわかった。
 事前のCTスキャンとMRIの所見では、腫瘍は長径五・七センチ、短径三・五センチ、不整形で、周囲への浸潤は「あり」だった。
 ハイビジョンの画像では、すい臓の表面を白く持ち上げているように見えるだけだが、腹膜転移があるということは、がん細胞はすい臓の被膜を破って、腹腔内に散らばっているということだ。
 才所がイメージング・システムを近赤外線に切り替えると、暗闇の視野に、蛍光プローブで標識されたがん細胞の塊が、すい臓の表面からあふれ出すように盛り上がり、腸間膜伝いに腹膜まで点々と光っているのが見えた。
 ──ドクター・サイショ。アメリカでもドイツでも、手術は無謀だと言われた。手術で体力を損ねると、散らばっているがん細胞が勢いを増して、急激に悪化する危険性があるからと。
 日本に来ても白いアラビア服をまとい、ゴトラと呼ばれる白い布を、黒い輪っかで頭に留めた誇り高いアラブ人であるシェイク・ファイサルは、深刻な顔で訴えた。才所はできるだけ相手を安心させるように、余裕の笑みを浮かべて答えた。
 ──大丈夫。体力を損ねない手術をすればいいのですから。
 それがこのダヴィンチXiカスタムによる「ていしんしゆうマイクロサージェリー」だ。
 才所はイメージング・システムを可視光線に替えて、すい臓の体尾部の剝離にかかった。
 被膜と結合組織の境界は、3Dハイビジョンで拡大されている。鉗子と電気メスは、まるで生き物のように滑らかに動く。カメラを近づけてズームすれば、微細な血管まで拡大されるから、余計な出血はいっさいない。
 むかしはこれを手探りでやっていたのだ、腹部を何十センチも切り開き、腹の中にゴム手袋の手を突っ込んで。そりゃあ体力も損ねるだろう。患者に大けがを負わせるのも同然なのだからと、才所は苦笑する。
 ロボット手術でも、メイヨー・クリニックやドイツの腫瘍医療センターが二の足を踏んだのは、手術操作ががんを刺激し、細胞レベルでのがんの活性化が起こり、一気に病勢が増すことをしたからだろう。
 ならば自分の手術では、がんを刺激することも、細胞レベルでの活性化も起こらないことを証明すればいい。患者の命を救うために、自分の能力のすべてをかけることは、才所にとって医師としてのきようであり、生きでもあった。
 手術では面倒なリンパ節かくせいは行わず、細かな腹膜転移にも手をつけない。別の方法で対処するからだ。それがこの「カエサル・パレスクリニック」独特の〝集学的先進治療〟だ。その内容をわかりやすく説明して、シェイク・ファイサルには手術を納得してもらった。もちろん、説明では治る可能性と、そうでない場合を話した。医療には想定外のことが付き物なのだから。
 ──治る可能性はどれくらいなのか。
 ──それは低くはない。詳しいデータを知りたいのかもしれないが、統計は個人には意味はありません。患者にとっては、結果は常に百かゼロだから。
 シェイク・ファイサルは数秒、まつ毛の濃い目で才所を見つめていたが、やがて大きくうなずいた。
 ──あなたにすべてお任せする。
 ──賢明な判断です。どうぞ、完治する希望を持ってください。
 医療において、才所がもっとも重要視するのは患者の希望だった。患者が希望を持ち続けることこそが最良の結果につながる。その信念のもとに、これまで多くの患者を救ってきた。そこからにじみ出る自信と誠意を、シェイク・ファイサルも感じ取ったのだろう。
 すい臓の切離には、特殊なふんごうを使う。患部の切断と、切断面の縫合を同時に行うステンレスの自動吻合器だ。開くと切断部の両側に、各三列、計六列のステープルがびっしりと並び、まるでサメの歯を持つワニが口を開いたように見える。
 テープで保持したすい臓に、吻合器を差し込み、しっかりと奥まで進めて閉じる。手術のクライマックスである患部の切り離しも、流れるように進む操作のひとつだ。
 吻合器を開くと、切断面はきれいにステープリングされている。断面からのすい液のろうしゆつがないかどうか、才所は慎重に観察する。その間も、周囲の臓器は心臓の拍動に合わせて脈打ち、小腸は蠕動を止めない。あたかも才所の手術を無言で見守るように。
 腫瘍を含むすい臓の体尾部は、サージカル・バッグに封入して、ヘソの横に開けた三センチほどの切開創から助手に取り出させる。袋に入れるのは、がん細胞の脱落を防ぐためだ。
 じゆつに出血のないことを確かめると、才所は連続縫合で腹膜を閉じ、念のため、すい臓の切断部に15Frフレンチのドレーン(排液管)を留置して、手術を終えた。
 ダヴィンチの離脱と皮膚の縫合は、助手のアルバイト医に任せればいい。
「お疲れさまです」
 操作用のコックピットを出ると、外回りの看護師が敬意と賞讃の眼差しを向けてきた。モデル並みの容姿に恵まれ、頭脳のめいせきさだけでなく、指先の器用さまで生まれ持った才所は、いわゆるギフティッドの自覚がある。その与えられた能力は、自分のためではなく、人のために生かさなければならない。それがギフティッドの義務だ。
 看護師のねぎらいに軽くうなずき、才所は助手同様アルバイトの麻酔科医に、手術中のバイタルを確かめる。
「血圧も脈拍も安定していました。尿量もOKです」
「ありがとう」
 白いゴトラの代わりにゴム付きの紙キャップをかぶせられ、両目をテープで閉じられているシェイク・ファイサルを見て、才所は思った。
 治療費は、手術とそのあとの抗がん剤治療、BNCT(ホウ素中性子捕捉療法)を含めて、二百万UEAディルハム。日本円にして約六千二百万円の前払いだ。アラブの大富豪にとって、命の値段としてはさして高くもないだろう。
「両目のテープをがすときは、まつ毛が抜けないように、ていねいにしてくれよ」
 麻酔科医に指示をして、才所は手術室を出た。これも自由診療のサービスの内だと微笑みながら──。



 翌日の午後二時。受付から来客の知らせを受けて、才所はクリニック最上階の自室から一階のロビーに下りた。院内では、特別の場合を除き、ネイビーブルーのスクラブ(はんそでVネックの手術着)ですごしている。
 吹き抜けの待合室で、パンツスーツの若い女性が、ひざを揃えてソファに座っていた。横でカメラマンらしき男が、機材のチェックをしている。
「理事長の才所です」
 近づいて声をかけると、女性は素早く立ち上がり、かばんから名刺を取り出した。
「『ワールド・ヘルス・クロニクル日本語版』のはやしと申します。本日はインタビューをご快諾いただき、ありがとうございました」
「インタビューは応接室でしましょう。どうぞ、こちらへ」
 才所は今下りてきたエレベーターに記者とカメラマンを案内した。移動する間に林がおもねるように言う。
「クリニックのデザインは素晴らしいですね。斬新かつ豪華で、まさにパレスクリニックの名称にぴったりです」
 カエサル・パレスクリニックの外観は、白を基調に鋭角的なデザインで、吹き抜けのロビーにはステンレスのシャンデリアが飾られ、アーチ状の窓には同じくステンレスの装飾が施されている。立地は大阪府いずみ市のりんくうタウン。地上六階、地下一階で、一階はロビーと診察室、二階は検査と健診のフロア、三階が手術室で、四階と五階が病室、六階には理事長と理事たちの部屋、ミーティングルームなどがある。五階に治療用のスイートルームが五室、四階に健診用のシングルルームが十室用意され、地下には放射線治療の設備がある。
 エレベーターが六階に着くと、才所は二人を海に面した応接室に通した。強化ガラスの全面窓から、左手に関西国際空港への連絡路が見え、正面には大阪湾が広がっている。
 林は吸い寄せられるように全面窓に近づき、感嘆の声をあげた。
「すごい眺めですね。目の前が水平線で、空港の滑走路も一望できますね。あ、飛行機が離陸していきました」
「治療用の病室はすべて海側なんです。窓から飛行機が飛び立つのが見えると、患者さんも病気を治して国に帰るぞと、励まされる気分になるでしょう」
 才所がソファを勧めると、林はさっそく取材ノートとICレコーダーを取り出し、録音をはじめた。カメラマンもレフ板で光線の具合を調整する。
「今日はお忙しいところ、インタビューに応じていただき、ありがとうございます。才所先生はめったに取材をお受けにならないとうかがっておりましたので、ご許可をいただいたときは飛び上がる思いでした」
「取材を受けないのは、クリニックのことがあまり広まると、患者さんに十分な対応ができなくなるからです。あなたのところは英語版もあるので、海外の患者さんのニーズにはこたえられるかなと思って」
「つまり、カエサル・パレスクリニックは、海外からの医療ツーリズムに特化した施設ということでしょうか」
「そんなことはありませんよ。国内の患者さんも受け入れます」
 林は言葉を切り、実質的に海外の富裕層御用達のこのクリニックに、おいそれと来られる日本人が、どれだけいるだろうかというように小首を傾げた。
「まず、才所先生のご経歴についてうかがわせていただけますでしょうか。お生まれは大阪でいらっしゃいますね」
「ええ。でも父の仕事の関係で、東京やこうさつぽろにもいました」
「お父さまもドクターですか」
「父は検事です。もう亡くなりましたが」
「それは、失礼いたしました」
 林は恐縮し、あらかじめ取材ノートに書いたメモを見ながらたずねた。
「Wikipedia によりますと、先生はとうてい大の法学部に入学されたあと、三年目にはん大学の医学部に編入学されたとあります。進路を変更されたのはなぜですか」
「法学部に入ってみると、官僚も法律家も自分には向いていないのがわかったので、以前から興味のあった医学の道に進もうと思ったのです」
「卒業後、消化器外科に入局されたあと、二十九歳で渡米され、ジョンズ・ホプキンス大学病院のていしんしゆう外科に勤務なさいます。これはどういった経緯で?」
「低侵襲外科、すなわちロボット手術には、医学生のころから注目していたので、ダヴィンチの本家であるアメリカでトレーニングを受けようと思ったんです。ジョンズ・ホプキンス大学病院には、低侵襲外科のトレーニングセンターがありますから」
「そのあと、三十三歳でシンガポールに移られます。これは何かきっかけが?」
「ジョンズ・ホプキンス大学病院で着手したがん細胞の分子生物学的な研究を完成させるためです。あるラボに優れた研究者がいたので、彼と共同研究をするのが目的でした」
「それで四年間、研究された後、帰国されたわけですね。カエサル・パレスクリニックを開設されたのが二年後の四月。今から五年前のことで、先生は現在、四十四歳でいらっしゃる」
 才所がうなずくと、林は取材ノートのページを繰って話を進めた。
「クリニックの設立については、才所先生のほかに三人の先生方が協力されていますね」
「理事のドクターたちです。クリニックでは院長とか副院長という肩書はやめて、四人で理事会を運営しているんです。私が理事長になっていますが、言い出しっぺなのでやっているだけで、何の権限もありませんよ」
「それはまたごけんそんを。理事の先生方は、クリニックのホームページで拝見しました」
 林はクリアファイルからプリントアウトした医師紹介のページを取り出した。
「才所先生は外科担当ですね。ほかのお三方はそれぞれ専門領域がちがうようですが」
「私の大学時代の同級生のチヨボンジエは、抗がん剤と免疫療法を担当しています。ありもとは放射線科医で、ジョンズ・ホプキンス大学病院で知り合った医師です。そして、さかすぐるは大学の二年後輩で、予防医学が専門です」
「すると、みなさん、阪都大学のご出身ですか」
「有本はちがいます。彼女はきようらく大学を出ています」
「いずれにせよ、優秀な方ばかりですね。ホームページでは、一人の患者さんにそれぞれの専門性を生かしてアプローチする〝集学的先進治療〟が、このクリニックの特徴だとありましたが」
「集学的治療というのは、一つの病気にいろいろな科の治療を集める方法です。私たちはそこに新しい手段を組み込んだので、『先進』の文字を入れさせてもらいました。次世代型高速シークエンサーを用いたがん遺伝子のゲノムプロファイリングで、変異したがん遺伝子を同定し、がん細胞そのものを治療しているのです」
 才所の口調が熱を帯び、早口になった。この治療法には、彼のアイデアが根本から生かされているからだ。
「これまでのがん治療で、最大の問題点は何だったと思いますか」
 問いながら、答えを待たずに続ける。
「それは腫瘍は見えても、ということです。だから手術でも細胞レベルでの取り残しがあったり、逆に、取る必要のない臓器まで切除したりしていたのです」
「細胞レベルで、がんを見分けることができるのですか」
 おずおず訊ねた林に、才所はいい質問だとばかりにうなずく。
「変異したがん遺伝子は、それぞれ固有のタンパクを作ります。そのタンパクに特異的に結合するリガンドという物質を作れば、がん細胞は同定できます。このリガンドに、蛍光プローブを組み込めば、特定の波長の光を当てることで蛍光を発します。蛍光検出センサーを用いれば、細胞レベルで見えるようになる。つまり、です」
 林はメモを取るのも忘れ、才所の説明を懸命に理解しようとしていた。それでもわかりにくそうな顔をしているので、才所は言い足した。
「簡単に言えば、がん細胞だけにあるタンパクを標的にして、蛍光物質を送り込むことで、がん細胞を光らせるということです」
「身体の外からでも見えるのですか」
 突拍子もない質問に、才所は苦笑する。
「いくら何でもそれは見えません。PET検査を応用します。このクリニックでは、先ほど申し上げたリガンドに、陽電子を放出する物質を組み込むことで、よりクリアな検出が可能になっています。うちの技師には画像処理のエキスパートがいますので、細胞レベルで体内のどこにがん細胞があるかを判定することができるのです」
「なるほど。これまではがん細胞というテロリストが、どこに潜んでいるかわからなかったから、上から爆撃するみたいに、の市民とも言える正常細胞を巻き添えにしていたけれど、リガンドという特殊部隊ががん細胞を見つけ出せば、ピンポイントでせんめつできるということですね」
「面白いだね。今のところ、このテクニックはカエサル・パレスクリニックでしか実用化されていません。私はこの方法を、がん細胞捕捉法、キャンサー・セル・キャプチャーの頭文字を取って、『CCC法トリプルシー・メソツド』と呼んでいます」
「素晴らしいです。この治療法が広まれば、がんは克服できたも同然ですね」
 話の流れのまま、林が無邪気に言った。才所はその一言に、異物をみ込まされたように沈黙した。
 ──この治療法が広まれば、がんは克服できたも同然だと? 簡単に言ってくれる。俺がこのCCC法を開発するのに、どれほど苦労をしたと思っているのか。
 才所は無言のまま、せつの怒りにとらわれた。この新治療法を開発するために、試行錯誤を繰り返し、休暇も取らず、私生活まで犠牲にして研究に没頭した。すべてはがんで苦しむ患者を救うためだ。しかし、アメリカ人の妻はそれを理解せず、シンガポールまではついてきたものの、離婚訴訟を起こして、多額の慰謝料とともに去って行った。それだけじゃない。離婚以上の痛恨事は、共同研究者のマシュー・ハンを死なせてしまったことだ。優秀で常に研究者の良心を口にしていたマシュー・ハン。彼のことを思うと、才所は悔恨の思いに沈まざるを得ない。しかし、それは乗り越えなければならない障壁だったのだ。
 インタビュー中から右に左に動いて撮影していたカメラマンが、シャッターを切る手を止めた。才所の表情に気づいたのかもしれない。
 林はとんちやくなまま、取材ノートに何か書き付けながら聞いた。
「あと、差し支えなければ、病室を見せていただけますでしょうか。このクリニックの病室は五つ星のホテル並みだとうかがっていますので」
「空いている部屋がありますから、看護師長に案内させますよ」
 才所は院内のIP無線で看護師長のとうを呼んだ。
 五階のフロアから加藤が上がってくると、そっけなく伝えた。
「記者さんに、空いている病室を見せてあげてくれ」
「承知しました」
 加藤は無表情に答え、林とカメラマンを出口に誘った。
「才所先生。今日はありがとうございました。これからまたいっそうのご活躍を期待しています」
 明るく言う林は、深々と頭を下げながら、最後まで才所の感情の変化には気づかないようだった。

(つづく)

作品紹介



砂の宮殿
著者 久坂部 羊
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2023年03月17日

「6,000万円ぐらい、命の値段としては高くもないだろう」
外科医の才所准一は、大阪で海外富裕層向けの自由診療クリニックを運営している。
抗がん剤・免疫療法の趙鳳在、放射線科の有本以知子、予防医学の小坂田卓という優秀な三人の理事とともに最先端のがん治療を提供し、順調に実績を重ねていたところ、久しぶりに訪ねてきた顧問が不審死を遂げる。
これは病死か事故か、それとも――。
高額な治療費への批判も止まず、クリニックに吹き荒れる逆風に、才所はどう立ち向かうのか。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322201000353/
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