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試し読み

顧問の福地が、厄介な依頼をもってきた。 久坂部羊『砂の宮殿』試し読み#3

砂の宮殿』発売を記念して、大ボリュームで試し読みを掲載します。
(全4回・4月10日~13日まで4日連続更新)
本作は、エリート医師4人が経営する高級クリニックで起きた顧問の不審死事件にはじまる、金と疑惑と疑心暗鬼に満ちた医療サスペンスです。ぜひお楽しみください!



『砂の宮殿』試し読み#3



 福地正弥・元阪都大学総長の来訪は、木曜日の午後三時だった。
 この時間に来るということは、食事はいらないが、お茶とお菓子は念入りにということだろう。福地は酒は飲まない甘党だが、糖尿病を恐れるあまり年来の小食で、教授時代から風が吹けば飛ばされそうなくらいやせていた。
 三年前、福地が府立病院機構の理事長を勇退するときのパーティで、才所が会ったときも、ほとんど飲まず食わずでしゃべっていた。ちょうどクリニックが軌道にのりはじめたころで、福地は参加者の前で才所をおおに持ち上げた。
 ──これで才所君も世界のセレブの仲間入りだな。あまりもうけすぎて、国税庁に目をつけられんようにな。ワハハハ。
 小柄なそうしんを忘れさせるような、豪快な笑いだった。
 福地の大笑いは、コンプレックスの裏返しかもしれない。丸く禿げ上がった額に張り出した耳、深いほうれい線のある皮膚はなめし革のようで、貧相なあごに薄い唇はいかにも酷薄そうだった。
 才所は福地の姿を思い出しながら、約束の時間まで落ち着かない気分で待った。

 院内のIP無線でスマホが振動し、受付が福地と草井の到着を告げた。
 才所はいつものスクラブではなく、きちんとネクタイを締め、上着も着用していた。ほかの理事たちにも、服装を整えるよう指示してある。
 エレベーターで一階に下りると、玉虫色のコートを片手にスーツ姿の福地が待っていた。才所に気づくと、「よう」と軽く右手を挙げる。
「ようこそお出でくださいました。お待ちしておりました」
 福地の後ろには大柄な草井が、ぼうようとした面持ちで立っていた。
「君も覚えとるだろ。解剖学教室の草井君」
「もちろんです。お久しぶりです」
 才所が一礼すると、草井は無言のまま頭を下げた。分厚いダッフルコートを抱えるように持ち、緊張しているのか、戸惑い気味の目はどことなくうつろだった。
「では、応接室へどうぞ」
 理事たちにも連絡するよう受付に伝えて、才所は二人をエレベーターに案内した。
「クリニックは順調のようで何よりだ。開業の前はいろいろあったからな」
「その節はたいへんお世話になりました。クリニックがスムーズにオープンできたのも、ひとえに福地先生のおかげです」
 かつての恩を思い出させるように話す福地に、才所は如才なく応じた。
 六階に着いて、応接室に招き入れる。
「ここはいい眺めだな。飛行機が下りてきた。ほら、あれはブリティッシュ・エアだ」
 福地は草井を全面窓の前に誘い、まるで幼児に説明するように言った。
 ノックが聞こえ、趙と小坂田が入ってきた。二人とも指示通りネクタイを締めている。
「ごしております。理事の趙です」
「同じく理事の小坂田です。学生時代にはお世話になりました」
 福地は二人の顔を交互に見て、ふと小坂田に目を留めた。
「君はもしかして、小坂田けんいちの息子か」
「はあ」
 あいまいに答えると、福地は表情を消して沈黙した。才所が気を利かせて言う。
「福地先生。どうぞこちらにおかけください。草井さんもごいっしょに」
 二人がソファに座るのを待って、趙と小坂田に訊ねた。
「イチコは?」
「体調を崩したようで、早退しました」
 趙が小声で答える。才所は軽く舌打ちをし、改めて福地に頭を下げた。
「申し訳ございません。もう一人の理事の有本は、体調が悪くなったらしく、失礼したようです」
「有本? ああ、女性の理事だな。かまわんよ、かまわん」
 福地はこだわりなく笑って見せたが、かすかに頰がこわっていた。
 有本が早退したのは、やはり福地と顔を合わせたくないからだろう。どんなセクハラがあったかはわからないが、万一のことがあっても、彼女なら泣き寝入りするはずはない。そう思いながら、しかし、もしも何か弱みを握られていたらと、不穏な考えが才所の脳裏をかすめた。
「失礼します」
 ノックが聞こえ、加藤が銀色のワゴンを押して入ってきた。
「ご紹介します。看護師長の加藤絵理奈です」
 加藤はていねいに会釈をして、チョコレートケーキとコーヒーを各自の前に供した。福地はまゆを下げて、加藤をじろじろ見ている。彼女はやや太めだが美人なので、興味をそそられたのだろう。
 加藤が一礼して下がろうとすると、福地がすかさず声をかけた。
「ザッハトルテだね。ボクは若いころウィーンに留学していてね。ホテル・ザッハーのカフェにもよく行ったもんだよ」
 どう応じたものかと目線で問う加藤に代わり、才所が答えた。
「前にうかがっておりましたので、デメル・ジャパンから取り寄せました。コーヒーもウィンナコーヒーがよいと思いまして」
「君ねぇ、ウィーンにはウィンナコーヒーはないんだよ。あるのは泡立てたミルクを入れたメランジェだ」
「それは存じませんでした」
 才所が相手をしている隙に、加藤は素早く出口に向かった。それを未練たらしく見送ると、福地は乱暴にフォークをケーキに突き刺して口に運んだ。
「福地先生が病院機構の理事長を勇退されたときには、かなり慰留されたのじゃありませんか」
「そうでもないよ」
 不機嫌な声で答える。
「来週の水曜日の夜、クリニックの忘年会をきたはまがいろうでやるんですけど、もしご都合がよろしければ、福地先生もいらっしゃいませんか」
 花外楼は大阪の老舗しにせ高級料亭である。福地の表情がわずかに動く。
「医者だけの忘年会か」
「看護師たちも来ます。よければ、きれいどころも呼びますよ」
「水曜日というと二十八日か。どうだったかな。ボクも忙しいからな。あとでスケジュールを見て返事するよ」
 もったいぶった言い方をしたが、機嫌はやや回復したようだった。代わりに趙と小坂田が顔を引きつらせている。
 福地が仕切り直しをするように才所に訊ねた。
「ところで、海外からのお客、いや患者は年間、どれくらい来るのかね」
「がんの治療に月十人として百二十人、小坂田のやってるゲノム未来ドックに九百人というところですかね」
「年間の売上げは?」
 露骨に聞かれ、才所は趙と小坂田に目線を移した。二人が仕方ないという表情を浮かべたので、才所も同じ顔で答えた。
「がんの治療部門では、手術、化学療法、BNCTの三部門で五十億前後、健診部門で十八億余りです。でも、負債は八十億を超えていますし、支払い利息から減価償却もバカになりませんから、損益差額は八億から十億というところですね」
「それを四人で山分けというわけだな」
「とんでもない。看護師や技師、医療コンシェルジュや事務のスタッフもいますし、予備費の積み立てもありますから」
「それでも大したもんだ。感心、感心」
 才所はしばらく福地の雑談に付き合っていたが、なかなか本題に入らないので、草井に話を振った。
「ところで、草井さんにお目にかかるのは、二十数年ぶりですね。お元気でいらっしゃいましたか」
 ケーキを食べ終えて、手持無沙汰にしていた草井が、目だけ横に動かして福地を見る。福地が本人の代わりに答える。
「元気にしとったよ。彼はボクが総長をやめたあとも、ずっと大学に残ってくれとってね。見かけは地味だが、実に頼りになるスタッフだ。解剖学教室の生き字引だな。ハハハ」
 空しい笑い声のあと、福地はひとつせきばらいをして言った。
「実は、今日来たのはこの草井君のことなんだ。彼をここで雇ってもらえないかと思ってね。彼は来年の三月で大学をやめるんだが、ボクも長年、彼には助けてもらったから、なんとかしてやりたくてな。草井君は事務能力が高いから、事務方で務まるだろう。病理解剖が必要になったときには、手伝いもできるし」
 才所は趙と小坂田に困惑の視線を向けた。福地はかまわず続ける。
「年俸はそこそこでいい。独り身だから、五、六百万もあれば十分だろう。どうかね。来年の四月から面倒を見てやってもらえないだろうか。この通りだ、頼む」
 福地に頭を下げられて、才所は慌てて制した。
「どうぞ頭を上げてください。ほかならぬ福地先生のお申し出ですから、もちろん前向きに検討させていただきます」
「そうか。引き受けてくれるか。ありがとう」
「いえ、この場で確約するわけにはまいりません。一応、理事会がございますから、そちらに諮りませんと」
「今、ここで諮ればいいじゃないか」
「そうしたいのは山々ですが、一人欠席しておりますし」
 福地の薄い唇が不満そうにうごめいた。小坂田が割って入る。
「欠席している有本は、長年のアメリカ生活で、ジェンダー関連にもうるさく、男だけで勝手に決めると、猛反発するんですよ」
 福地は小坂田を不愉快そうににらみつけたが、才所がなんとか取りなした。
「彼女抜きで決めてしまうと、うまくいくものもいかなくなるんです。少しお時間をいただけませんでしょうか。草井さんの退職はまだ先のようですし、今度の忘年会までにはお返事できると思いますが」
 福地は露骨に不満げなため息をつき、「じゃあ、よろしく頼む」と、席を立った。草井もそれに続く。
 才所がエレベーターに同乗しながら訊ねた。
「帰りはお車ですか」
「今日はJRで来た。草井がそうしたいと言うもんでな。それよりさっき横からでしゃばった小坂田という理事は気に食わんな。あんなヤツ、やめさせたらどうだ。健診部門くらい、だれでもできるだろ」
「はあ」
 曖昧に応じてから一階に下りると、福地は玄関の前で立ち止まり、不機嫌な顔はそのままで振り向いた。
「そうそう、言い忘れとったが顧問料の件、もう少し考えてもらえんかね。倍とは言わんが、せめてプラス五百万くらいでどうかね」
「年間一千五百万、ですか」
「なんだ。不服なのか。君には断れんはずだがね。草井のこともよろしく頼むよ」
 分厚いまぶたの隙間からにらむような視線に、才所は思わず目を伏せた。
「それじゃ、二十八日はいい返事を期待してるからな」
 あとでスケジュールを見ると言いながら、すでに忘年会への出席を決めたかのような口振りで福地が言った。
 やせた身体にコートを羽織り、玄関を出て行く。草井はやけに重そうなダッフルコートに袖を通してから、福地に従った。



 福地たちを見送ったあと、才所が六階に上がると、ちょうど応接室から小坂田が出てくるところだった。
「ご苦労さん」
 才所が声をかけると、「ご苦労さんじゃないですよ」と顔をしかめる。
「何なんですか、福地先生の依頼。まるでお荷物の押しつけじゃないですか」
「まあ、そう言うなよ。趙は?」
「五階の患者を診にいくって下りて行きました」
 このままでは小坂田の気が収まりそうにないので、才所は彼を自室に招き入れた。
「どうするつもりなんです、さっきの話」
 小坂田はソファに腰を下ろすなり荒っぽく脚を組んだ。
「俺も困ってるんだよ。クリニックの開設ではいろいろ世話になったからな」
「それはもうすんだ話でしょ。顧問料で合計五千万円も払ったんだから、もう十分じゃないですか」
「まあな」
「何が年俸五、六百万もあればだ。厚かましいにもほどがある。福地先生も隠し子なら自分が秘書にでもして養えばいいじゃないですか。高い顧問料を取ってるんだから」
「たしかに」
 小坂田がさらに言い募る。
「それにしても、どうして福地先生を忘年会に誘ったんです。せっかく楽しくやろうと思ってたのに」
「ああでも言わなきゃ、あの場は収まらなかっただろう。それにまだ忘年会にも来ると決まったわけじゃなし」
 才所は話の流れを変えようと、有本の名前を出した。
「イチコはどう言うかな、草井さんのこと」
「反対に決まってるでしょ。もし福地先生が忘年会に来たら、有本先生だって怒りますよ。今日の体調不良だって、あの好色な顔を思い浮かべただけで気分が悪くなったと言って、帰ったんですから」
 有本に触れたのはやぶ蛇だったと才所は悔やむ。小坂田は逆に勢いづいて言った。
「福地先生が忘年会に来たら、その場で草井さんは雇えない、顧問料も今年かぎりと、ダブルパンチを食らわせてやりましょうよ。そういうことなら、有本先生も喜んで参加するんじゃないかな」
「そんな過激な」
「何が過激なんですか。それくらいしなきゃ福地先生の厚かましさは直りませんよ。だいたい、才所先生が甘い顔をするから」
「そうかな」
「そうですよ。先生は気づいてないんですか、福地先生が才所先生に向ける視線。獲物を狙う蛇みたいな目になってましたよ」
「やめてくれよ」
 才所は顔を背けて自分の席にもどった。小坂田がさらに愚痴るのを聞いていると、IP無線のスマホが振動した。通話にすると同時に受付の焦った声が飛び出した。
「先ほどの方が、福地さんを背負ってもどってこられました」

(つづく)

作品紹介



砂の宮殿
著者 久坂部 羊
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2023年03月17日

「6,000万円ぐらい、命の値段としては高くもないだろう」
外科医の才所准一は、大阪で海外富裕層向けの自由診療クリニックを運営している。
抗がん剤・免疫療法の趙鳳在、放射線科の有本以知子、予防医学の小坂田卓という優秀な三人の理事とともに最先端のがん治療を提供し、順調に実績を重ねていたところ、久しぶりに訪ねてきた顧問が不審死を遂げる。
これは病死か事故か、それとも――。
高額な治療費への批判も止まず、クリニックに吹き荒れる逆風に、才所はどう立ち向かうのか。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322201000353/
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